ムッシュ・ド・パリは迷わない(1-1)
その一 グッバイ私の初恋
1
坂本晴樹は家から歩いて二十分の神社で剣道の自主練をしていた。深夜三時、心が妙にざわついて目が覚めた。眠りなおすことも出来なくて、兄にも父にも断らずジャージに着替えて家を抜け出した。五分ランニングの後、集中して素振りを始める。正面、跳躍、左右面。普段なら部活が始まる前、早朝に行う練習だった。身体を動かせば迷いも浮き立ちも醒めるだろう。
百三十も越えたところで、ふと誰かの視線に勘づいた。林の奥に祀ってある小さな稲荷。そこに女の子がしゃがみこんで、じっとこちらを見ている。
髪は短い。大きな澄んだ瞳は水溜まりのようだ。細くて、小さい。肌はつややかだが、病弱なほど白い。服装は黒地のセーラー服。どう見たって年下だ。中学生くらいだろうか。
晴樹は手を止めて、少女に向き合った。夜も更けている。この年頃の女の子が、こんな神社に一人で居ていいわけはない。臆すこともなく、呼びかける。
「どうしたんだ」
少女は不思議そうに晴樹を見つめ返し、答えた。
「あなたを見てた」
「……それは分かってる。家に帰れないのか?」
少女は黙って首をふる。晴樹はそれ以上詮索しない。少女の視線は静かで、邪魔にもならない。ひとしきり練習を終え、汗を拭って竹刀をしまった。帰るついでに、再び少女を呼ぶ。
「俺は戻る。もう遅いだろ。家まで送るから付いてこい」
少女は意外そうに首をかしげたが、晴樹の言葉に従った。さっさと歩き出す晴樹の後ろから、少しためらって鳥居をくぐる。丑三つ時ののち一時間ほどメニューをこなすと、空は白みはじめていた。神社を出て、晴樹は少女に尋ねる。
「家はどっちなんだ」
「……あなたと同じ方向」
「どこかで会ってたっけか」
「いつも、あそこで鍛練してる」
「ああ……まあ、自主練は好きだからな」
晴樹は簡単に納得して、自宅へと歩きはじめた。少女も大人しく付いてくる。辛いことでもあったのか、それとも何か事情があるのか。推測もよぎったが、聞かなかった。途中の角にある自販機で、スポーツドリンクとホットのコーンポタージュを買った。熱い缶を少女に渡す。
「おごりだ。飲んだら帰れよ」
熱すぎるのか開封に苦戦している。晴樹は代わりに開けてやり、自分もスポーツドリンクを煽った。少女もおずおずと口をつけて、小さくつぶやく。
「美味しい」
「ん、それなら良かった」
空き缶を捨てて、帰り道を歩く。初春、まだ明け方は寒い。つっかけた上着のジッパーを上げ、晴樹は曲がり角を曲がる。青白い街燈の光も、明るくなりはじめた空の下では不気味ではない。突然、少女が強く晴樹の袖を引いた。
「……? どうした」
「駄目、それ以上は」
「何かあったのか」
「……回り道して」
まごついている間に、前方から悲鳴がした。向こうは駅前だ。ひったくりだとか、何か事件でもあったのだろうか。少女を見下ろす。硬い表情で一心にこちらを見上げていた。
「逃げて」
晴樹はもう一度騒ぎのあった方角を見る。途端、疾風のような衝撃。少女を背中でかばい、とっさに目を開く。迷彩服の男が立っていた。顔は血まみれ、まなじりが裂けている右手に真剣をたずさえて、左手にはいくつかの……生首。 刃にも血がしたたっている。 そんな醜悪な光景を実際に見たのは初めてだ。晴樹は本能的に身構えた。男がゆらりと刀を構える。背後から少女が飛びだし、男の前に躍り出る。
「……この人を害さないで」
男はうつろに笑う。晴樹はとっさに少女の手を引き、逆方向に走り出した。全速力だったはずなのに、男は弾丸のように回り込む。大仰に振りかぶり、晴樹に襲いかかった。正面から嵐のような袈裟切り。
「くっ……!」
まがりなりにも後ろには女の子がいる、よもや自分が避けられまい。腕で額をかばう。刃の痛みは強烈だったが、じゅうっと湯気を立てて食い込み、、腕の肉は断たれなかった。刀の男が力をこめる、しかし、なまくらにでもなったかのように、刀はそれ以上晴樹を傷つけない。くらくらと眩暈がした。
男は次の瞬間、パチンコ玉か何かのように強力に弾かれた。カラン、と刀が地に落ちる。腕の傷から血は出ていたが、 逃げなければ、という意思に肉体はついていかなかった。傷よりも鉛のように全身が重い。 晴樹はよろよろと武器を拾った。男は電柱に身をしたたかに打ち、すぐに四つん這いで復活する。まるでけだもののようだ。
男は豹のように跳躍し、晴樹と少女を狙う。筋肉の筋だけが残った腕が奇形のように伸びて迫る。晴樹はめくらめっぽうに刀を横凪ぎにした。分銅のようだった化け物の腕がすぱりとなくなる。化け物。そうだ、男はすでに人間じゃなかった。髪もなく、肌も緑、昆虫のような面に、牙だけがぎらぎらと白く泡を吹いている。晴樹は刀に操られるように、甲殻の面に刃を叩きつけた。ぐしゃり、中で骨のひしゃげる手ごたえ。鳴き声も呻きもない。間髪いれず背から生えた三本目の腕がメキメキと生え、晴樹の手元を目がけた。青黒い鬼のぬらりとした手が、奪いとるようにぐっと刀身を握る。戦車ばりのとんでもない馬力だ。晴樹は歯を食いしばって押し返す。押し返すことが、出来てしまっていた。腹の底から不快な胆力が湧いてきて、何やらひどく内臓が熱い。強引に弾きかえして、無我夢中で横一閃。青黒い腕は宙に舞った。ひるんだ隙に目いっぱい唐竹割り。何万回も繰り返した打ちの動作は身体にとうに染みついていた。異形がすぱりと縦にえぐられる。
晴樹は低く息を吐き、重い肉を最後まで断ち斬る。ねばったいやらしい血が顔に飛びかかる。晴樹はまばたきすらしなかった。なぜだか、そんな暴力ををふるうのは、化け物を倒すのは、ごく当たり前のことのように思えた。
化け物は土砂くずれのように瓦解し、晴樹は後ろを振り返った。黒いセーラー服の小柄な少女が駆けてくる。晴樹の背にしがみつき、口早に伝える。
「……私は新條。あの神社の古い白狐。その刀はあなたに災いしか生まない。その刀、今すぐ棄てて」
「稲荷神社の?」
「そう、ヒトに化けたけれども、私は人間じゃない。今日はあなたの厄日。その刀を……」
言いかける言葉をさえぎるように、幌を張ったジープが乗り付けた。迷彩を着た覆面の男がわらわらと出てくる。晴樹と少女……新條を取り囲み、ライフルを構える。新條はふたたび両手を広げ、晴樹をかばう。
「抵抗するな! 武器を捨てろ!」
有無を言わせぬ命令だった。晴樹は指示通り、刀をアスファルトに投げ捨てる。「意識正常、抵抗の意思なし!」報告が上がり、兵士たちの列の後ろから、軍服の男が歩み出た。白髪まじりの短髪、広い肩はば、背は高く、思慮深そうな顔つきだ。男は聞いた。
「名前は?」
晴樹は素直に答えた。
「坂本晴樹」
「年はいくつだ」
「……十七」
晴樹は高校生だ。男はひるみもせず続ける。
「君にはこれからただちに移動してもらう。家族にはこちらから連絡する。私は陸上自衛隊・特殊作戦群超現象対策班、天川二等陸佐だ。ついてきてくれるね」
兵士たちが晴樹の身柄を確保しようと動きはじめる。天川は目配せだけで押しとどめた。晴樹は大人しく足を踏み出した。新條が晴樹の上着をひっぱり、留めようとする。天川は微笑んだ。
「恋人かな。……何にしろ、共に来てもらう。私の車に乗りたまえ」
広島・呉、午前四時。坂本晴樹はその時を最後に、故郷を捨てることとなった。
☆
晴樹は海自呉駐屯地に収容され、何日か抑留の後、兵庫県伊丹の陸自駐屯地へと移送された。家族と連絡をとることも許されず、言葉少なに寄りそってくれていた新條とは陸自駐屯地に入ると引き離された。その数日のうちに、物事を受けとめるだけの余裕もないまま、事態の詳細が教えられる。鬼という存在がいること。心の弱味につけ込み、人を異形へと変じさせ、見境なく市民を襲わせる。一般民への混乱を避けるため、秘密裏に処理しなくてはならないが、警察の武力でも対抗できず、かえって暴走して被害は甚大化する。その手のフリークスに有効な武器として、鬼斬の名刀・童子切安綱が強力であるが、平安から千年以上の時を経て呪力は増し、扱える者はきわめて少ない。
晴樹たちを襲った自衛官は、かねてからの刀剣好きで、熱烈に安綱使いの役を志願した者だったらしい。一カ月はなんとか振るえていたが、しだいにその魔力に浸され、正常な判断力を失い、最後には辻斬りへと走ってしまった。しかし晴樹にとってそれよりも重大なのはもちろん、自身の今後だった。
――君は、あの辻斬りに襲われて死亡したことになっている。鬼の存在は一般市民には秘密なんだ。家族とは離れてもらう。呉に居残ることは出来ない。別人として、私と一緒に千葉県で暮らすことになる。もちろん、勉強をしたいならこちらで大学までの学費はもとう。そして……頼みにくいことだが。
鬼と闘ってはくれまいか。天川はなぜかその要請だけ、沈んだ調子で口にした。晴樹にしてみれば、その前段のほうがよほど辛い仕打ちだ。晴樹の家は三人兄弟。社会人二年目の兄も、今年高校受験の弟も、父親だって病気がちな母親だって、暖かな人々だ。学校だって何も問題はない。一ヶ月後には剣道の試合もあった。しかも晴樹は大将だ、部の仲間の顔が浮かぶ。日常のいきなりの中断に、まだ実感もついてこない。……返事はしなかった。
そのまま数日間、個室に閉じ込められた。カレーだとか丼だとか、雑だが量だけはたっぷりある食事が出され、追い立てられるようにシャワー。服も迷彩服を与えられた。
晴樹が口を開いたのは七週間後だ。何も出来ない、施錠された部屋で読む文字もなく、ラジオもテレビも音楽もなく、用足しにすら監視がつき、飼い殺しにされる日々にとうとう耐えられなくなった。それに一つのことが気にかかっていた。様子を見に来た天川に、晴樹は頼んだ。
「あの子はどうなったのか、教えて欲しい」
「あの子? ああ……セーラー服の女の子か」
天川は全てを了承しているようだった。
「あの娘は人間でない。だが『鬼』のような悪しきものでもない。妖怪……とでも形容すれば足りるかな。君に会いたいと主張している。ヒトでないのだから、会わせてもいいと私は思っている」
ちらりと晴樹を見て、真面目な顔でもう一度説得を始めた。
「……鬼を退治するのは、筋目にかなったことだ。変じてしまえば、被害は大きい。無辜の市民の一生まで見境なく奪ってしまう。守れるのは君だけだ。望めば英雄にだってなれる。我々も全力でサポートする」
晴樹は拗ねた様子もなく疲れたようにうなずいた。天川は複雑に笑った。嬉しいとも辛いとも取れない表情だった。
「彼女に逢わせよう。習志野に移る。君はしばらく特群の者に仕込んでもらう。パートナーも紹介する。そして……」
天川は晴樹に突然ふかぶかと礼をした。晴樹は動じずに様子をうかがう。やがて頭を上げると、厳しい瞳で天川が命じた。
「今日から君の名は、本中春樹だ。了解したな」
「……はい」
手のひらほどの通信機で、天川が何事か外に通達する。すぐに新條が扉から引き立てられてくる。春樹の姿を認めると、つかつかと歩いてきた。何も言わずに寄りそい、無垢な瞳で見上げる。
「私はあなたについてく」
少女は笑いを見せない。それでも顔には強い決意があった。
春樹も少女を見つめた。そして、溜息まじりに告げた。
「……正直、ありがたい」
2
梅雨がようやく通り過ぎた。大学病院の駐車場に黄色の軽自動車が滑りこむ。神経質に位置調整して停車すると、長身の男、本中春樹が一番で降りてきた。薄汚れた竹刀袋を背負っている。陽の光が浅緑の葉を透かす。春樹は眩しげに瞬きした。鷲のような鋭い一重だ。ぞんざいに切った短髪、表情に愛想はない。
「絶好の海日和だってのに、仕事かよ。上も容赦ないねぇ」
助手席からもう一人、夜のご職業ですかとお伺いを立てたいような成りのチャラ男が出てきた。サングラスに紅いシャツ、この暑いのに黒のロングコートだ。口笛を吹いて軽口をたたく。
「病院なんてめったに来ねぇし、ナースさんにでも声かけようぜ」
竹刀の男は返事をしない。チャラ男がもう一度呼びかける。
「ハル、聞いてるか?」
春樹の今の通称は「ハル」。うなずいて一直線に病院正面玄関へと歩き出す。チャラ男があきれてつぶやく。
「……ったく、仕事熱心すぎるだろ。せっかく夏が来るってのに」
チャラ男はそう言いつつも嬉しそうに後を追いかける。
無口無愛想体育会系とグラムロック系チャラ男が院内に足を踏み入れる。中には警察官が何人も詰めている。二人の姿を認めると、若い警官が気さくに挨拶した。
「本中春樹さん、お疲れ様です。今夜の練習は参加されますか」
「今夜はちょっとな」
断ったハルに、警官は残念そうに肩を落とした。
「今夜こそせめて本中さんから有効を取りたいと意気ごんでいたのですが……」
「すまない」
それ以上事情も問わず、竹刀男は話を切った。チャラ男が面倒そうにつっこむ。
「ハル……そりゃねーだろ。相手してやったらどうだよ。なんならここで」
「無理だ」
「……一般市民の迷惑になりますから、自分も遠慮します」
警官と竹刀男の両方が冷ややかな視線を投げる。チャラ男は気が抜けたように笑った。
「あー、もう……ハル、仕事。仕事するぞ。クソ暑いしさっさと帰ってワインでも飲もうぜ」
「水の方がいい」
「……だから話を一瞬で止めるなよ! おい、お前、係長かなんかはどこだ?」
チャラ男が急に真面目になって警官に問いかけた。警官が不審そうに聞き返す。
「本中さんはともかくとして……貴方は一体何者ですか」
「話にならねぇな。自衛官だよ」
「は?」
警官はあからさまに引いた。じろじろとチャラ男を眺めまわす。銀のロザリオ、紅いシャツ、背丈こそ十分だが、髪はパーマがかかっているし姿勢も悪いし、何よりサングラスにだめなロックンローラーのような黒ロンコ。冗談にしては威力がないし、本当のわけもない。ハルがぼそりと言った。
「同僚だ」
「……は?! それでは陸自の……!?」
「そういうこと♪ 吾朗でいいぜ。陸自きってのエースってことで、素顔を見られてラッキーだな」
警官がハルに無言で不快感を訴える。ハルは無表情のまま答える。
「すまん。誰か責任者呼んでくれるか」
若い警官はうさんくさそうに持ち場を離れた。
そのまま、待合いの椅子に座って30分が経過した。ハルは文句も言わずに薄い文庫本を読んでいる。竹刀袋は床に置いている。ジーンズにTシャツという、飾らないというよりは飾り方すらわかっていない格好のせいで、どこぞの大学生に見える。体格がやたら立派ではあるが、それだって「剣道やってるんだ」で終了する話である。吾朗がしびれをきらす。
「ハル、あいつ本当に上司に話つけてんのかよ」
「頷いたからやってるだろう」
「呑気に何言ってんだ……なぁ、看護婦さんでもナンパしようぜ? 暇すぎる」
「遠慮する」
吾朗は舌うちして立ち上がった。振り返らずにひらひらと手を振る。
「なんかあったらすぐ呼べよ。誰か口説いてなけりゃあすぐに行くから」
「ああ」
ハルは文庫本から目を放さない。しばらく読書を続けたが、やがて本を閉じ、尻のポケットにしまった。竹刀袋を持って立ち上がる。袋の中身がガチャッと金属音をたてた。会計待ちの患者や車いすに寄りそうヘルパーでごった返すエントランスホールを抜けていく。
ハルはそのまま患者病棟の売店に入った。入院患者用の売店らしく、パジャマから雑誌、お菓子や歯ブラシに至るまで、生活用品がこまごまと置いてある。コンビニというよりは商店街の雑貨屋に近い。ハルは新聞通りを一瞥し、150mlペットボトルの水を取った。レジはどこかと売り場を見渡す。すると、無愛想な瞳が注意深くまたたかれた。視線の先には、紺色の制服を着た女子高生がいる。ヘアゴム売り場の前できょろきょろと余所見をし、ピンク色のシュシュをカバンに入れた。
「……」
ハルは少し目をひそめ、そのまま見ていた。おばさん店員が女子高生の傍に何気なく寄っていった。挙動に落ち着きがなかったため、あらかじめ監視していたのだろう。小さなもめごとが始まる。女子高生はうなだれている。肩より少し伸ばした黒髪で、いかにも真面目そうな女の子だ。眼鏡をかけている。スカートも短くないし、万引きをしそうな風貌ではない。おばさん店員が小言を言っても黙っているだけだ。ハルはつかつかと歩み寄った。前置きなしに二人に割り込む。
「それはいくらするんだ?」
「……え?」
女子高生が怪訝そうにハルを見た。ハルはおばさんに告げる。
「俺の知り合いだ。買うから、見逃してくれ」
「困るよお兄さん、こういうのは盗みで犯罪なんだから。ちゃんと言い聞かせてくれなきゃ……」
「すまない」
「すまないじゃないよ」
おばさんは文句たらたらでハルと女子高生を睨む。女子高生は一言も口をきかない。ハルはジーンズのポケットからくしゃくしゃの千円札を三枚出して、おばさんに握らせた。
「釣りはとっといてくれ」
「お兄さん、そういうのは困るんだって……レジの都合があるんだからさ」
「行くぞ」
おばさんのお小言を苦にもせず、というかほとんど無視して、ハルは女子高生の背中を押した。そのまま売店を出る。女子高生は肩を丸めて小さくなっている。蚊の鳴くような声で言った。
「すみません……あれ、300円もしないんです……戻ってお釣りもらったほうが」
「別にいい」
「でも……」
ハルは答えずにエントランスホールに戻った。女子高生はすまなそうに後を追いかけ、勇気を振り絞るようにハルの腕をとった。
「三千円、返します!」
「別にいい。金がなかったんだろ」
「お金は……四千円持ってます。払えるから……」
「じゃあどうして盗んだんだ」
振り返り、責める調子もなく淡々とハルが聞く。女子高生は泣きそうだ。
「どうしてだか……自分もわからないんです。ただ、さっと手が出てしまって……とくに欲しくもなかったんですけど……」
ハルが眉をしかめると、誠実そうな声が後ろから挨拶した。
「ハルさん、こちらでしたか。遅れてすみません」
そこにいたのはまだ十代とおぼしき少年だった。栗色の髪と、大きく素直そうな目をしている。小柄で、着ている服はいかにも育ちのよさそうな上質かつベーシックな装いだ。ハルにも女子高生にも折り目正しく会釈をする。そしてぼやく。
「吾朗さんは……まあ居ないですよね。院内ですが呼び出しましょう」
少年はスマートフォンをするりとなぞった。「ボーン・トゥ・ビー・ワイルド」がけたたましく受付方面から聞こえた。ありがちな趣味を着メロでみなさんに披露してしまった吾朗が小走りで寄ってくる。
「おい! カイ! どうして病院で携帯使ってんだよ!」
小柄青年は苦笑する。そして相変わらず感じよく答えた。
「携帯電話使用可能エリアです。吾朗さんは受付の女性に注意でもされたんですか?」
「人のアバンチュールの邪魔すんなよ!」
「どうせ一夜限りのでしょう? それに仕事中です」
真面目小柄青年はカイと言うらしい。二人の軽妙なやりとりにハルは口を挟むそぶりもない。話しかける機会をうかがっていた女子高生が小さく繰り返した。
「本当にお金返させてください、反省してます……!」
吾朗が訳知りがおに腕を組む。
「何だ、ハルまでナンパかよ? 女子高生か。今のより千倍いいじゃねーか」
ハルはじろりと吾朗を睨んだ。吾朗も大上段に構えてにらみ返す。カイが呆れて口をはさんだ。
「ハルさん、こちらは一体」
「売店でおごっただけだ」
「また中学生みたいの引っかけやがって……」
吾朗がニヤニヤ笑いながら女子高生を見る。
「……ま、磨けば光るな。なぁ、実を言うと、このゴツイのは女がいるんだよ。こんな奴やめて、いっそのことこの場所で俺と将来を誓い合っておかないか?」
吾朗がさっそく口説きに入る。人を食ったような表情だが、ハルよりも背が高い。大きく野性的な瞳に、整った鼻梁。ゆるくパーマをかけた短髪もあかぬけている。要するに、チャラさを全部評価から抜けば、色男と言ってよかった。女子高生はぱっと赤くなった。
「あの……でも、まずはこの人にお金を返さないと……」
吾朗が楽しげに尋ねる。
「ハルは何でおごったんだよ?」
「答えたくない」
「なぁ、どうだ? 年の差っちゃ年の差だけど……大人の恋を教えてやるぜ」
吾朗は流し目までつかって女子高生を口説き始めた。ハルは仏頂面、というか動じないままだ。女子高生は居心地が悪そうに目をそらした。カイがにこやかに助け舟を出す。
「気にしないでいいですよ。吾朗さんのナンパは単なるゲイの偽装ですから」
「……お前、何を言うんだよ!?」
吾朗が焦ってカイの背をはたく。顔は紅い。斜め上を行く冗談に、女子高生は沈黙してしまった。ハルが尋ねる。
「名前はなんて言うんだ?」
「鮎沢……ひばりです」
女子高生がなかば怯えながら答えた。吾朗とカイの眼の色が変わる。カイはにっこりと笑って礼儀正しく挨拶した。
「そうですね……僕も吾朗さんの治療への付き添いは終わりましたし、一旦お暇します」
「……ご、御病気だったんですか?」
鮎沢ひばりは心配そうに吾朗を見た。吾朗は怪訝そうだ。カイはぬけぬけと言う。
「ええ、頭のほうがちょっと悪くてですね……難病なんですよ」
「は? おい、カイ……!」
「失礼します、鮎沢さん。また会う機会もおそらくあると思います」
カイは吾朗の腕をひっぱりいそいそと退場した。吾朗が精いっぱいの笑顔で投げキッスをしている。二人の姿が見えなくなると、ハルの携帯が暴れた。カイからのメールだ。
『ハルさん、さすがです。最有力容疑者ですよ。僕らは天川さんからの指示を待ちますが、とりあえず見張っていてください』
ハルは無言でフリップを閉じた。鮎沢ひばりとまだ離れるわけにはいかない。
病院の地下カフェテリア。ハルと鮎沢ひばりは向かい合ってチョコパフェとアイスミルクティーを注文していた。鮎沢ひばりは嬉しそうだ。
「ここのお勘定、私が払います」
「そうだな。それで帳消しにしよう」
「三千円にはとっても届きませんけど……」
苦い顔でひばりが笑う。ハルはチョコパフェをぺろりと完食してからお冷のおかわりばかりだ。ハルの背中の袋を見て、ひばりは尋ねた。
「それ、竹刀か何かですか、剣道やってらっしゃるんですか?」
「そんなところだ」
「いいなぁ……私も部活で弓道とかやりたかったんですけど、勉強があるし……」
「大変か」
「で、でも、万引きの言い訳にはとてもならないです! 受験勉強と妹の看病で、最近ちょっと……きつかったのは確かですけど」
ひばりの笑顔が硬くこわばる。小作りな顔はおとなしそうで、地味ではあるが可愛らしかった。ただ年にくらべて覇気がない。ハルはぞんざいになぐさめる。
「盗んではないだろう。俺がおごったんだ」
「……ありがとうございます」
ひばりがカラカラとアイスミルクティーをかきまわした。気をとりなおし、話題を変えている。
「あのお二人、楽しいですね。お友達なんですか?」
「そんなところだ」
「背の高いほうの人……頭の病気って、とてもそんな風には見えなかったですけど……」
「俺にもややこしくてよくわからない」
ハルはごまかした。
「難病って、大変そうですね。あの……あなたも、あの方の付き添いだったんですか」
「そんなとこだ」
「お名前、聞いていいですか」
「本中春樹。ハルでいい」
ハルがじっとひばりを見つめる。ひばりは微笑んだ。
「ハル……さんですか。あの人が難病っていうことなら、きっとまた逢えますね」
「どうしてだ」
「私も入院してる妹がいるんです。母はちょっと都合が悪くて……また会ったら、挨拶します」
「そうだな、会うたびにおごってくれ」
ハルも少し笑った。ひばりが顔を輝かせ、勘定を持って席を立つ。
「今日は五百二十五円です。がんばって全部ちゃんと返します!」
「ん」
ハルもお冷を飲み干して立ち上がった。
☆
ハルはそのまま警戒態勢のエントランス・ホールを出て、車に戻った。車には先ほどのススキダ・カイとシノサキ・ゴローが乗っていた。後部座席のカイは眼鏡をかけて、赤い薄い端末を操作している。ハルはカイのとなりに腰掛けた。
「お帰りなさい、ターゲットは確保しておかなかったんですか?」
「あまり追い詰めてもな。本当に容疑者なのか」
前髪を払って、カイが告げる。
「ええ、最有力容疑者ということになってはいます。いまだマークしておくだけという状況ですが……」
「俺があのまま口説いたほうが良かったんじゃねーか? まんざらでもなさそうだったし」
吾朗が助手席からカイのほうをのぞきこむ。カイが尋ねる。
「様子はどうでした。何か不穏な感じなど、ありましたか」
「……あるにはあったが、『鬼』になるほどかと言われるとな。別れ際は明るい顔だった」
ハルの答えに、カイは座席に沈み込んだ。
「天川さんに相談しなくてもよさそうですね」
「でも病室一個駄目になったらしいじゃねぇか。たとえ耳鼻科病棟っつっても、被害者は脚がオジャンなんだろ?」
吾朗の反論に、カイは眼鏡をはずして肩を回す。
「その後三日間暴走がありませんし……張りこみしかないですね」
「こんな辛気臭いところに当てもなく張りこみかよ。デカい奴がこねーとやってらんねーな」
吾朗がげんなりと肩を落とした。カイがカチッとキーボードを叩く。
「天川さんからメールです。ターゲットの四日前の行動記録ですね……病院に来た形跡はないようです。指示は……『とりあえず習志野に戻れ』」
「ったく……先にファミレスだよ。腹減った」
吾朗が助手席から運転席に乗り移る。黄色の軽は病院の駐車場を躍り出た。
☆
自衛隊習志野駐屯地、特殊作戦群本部の一室。自衛官の制服に身を包んだ初老の男の元に、ハル以下三名が集合していた。男は資料が山と積んである机に座っている。天川二等陸佐の個室だ。エリート自衛官の聖域たるこの本部に、私服の三人は限りなく場違いである。見学に来たデコボコトリオに見える。カイが車でまとめた私見を読みあげる。
「今回のターゲットは双子の少女。最有力容疑者は姉のほうですね。鮎沢ひばりさん……僕としては、彼女が『鬼』だなどとは今のところ思えないですが……被害者は妹の鮎沢つぐみさんです。六月に入院して、一カ月たたないうちに耳鼻科病棟から外科病棟へ移送。理由は『鬼』と見られる霊力爆発による右足骨折で、全治二カ月……」
天川が満足げにうなずき、付け足す。
「沢見くんの分析結果が出たが、先月の病室での爆発はやはり『鬼』の呪力としか考えられないそうだ。ただ、警察も限界だな。その後何も起こらない。明日からは警戒態勢を解くらしい」
カイは渋い顔でぼやく。
「事が起こってからでは遅いのに。病院という場所もよくないです。患者、医師、看護師、付き添いの方々……巻き込まれる人も多そうです」
「被害者っつってもたった一人だからな。容疑者をいきなり収容するわけにはいかねーし」
吾朗は興味もなさそうにカイの不満を流してしまった。天川は話を進める。
「ターゲットはどうだった」
「万引きしそうだったが、止めました」
今までだんまりだったハルが間髪いれず答えた。カイと吾朗がいぶかしげにハルを見やる。ハルは続ける。
「だが、その後は笑顔も見せていた。恥じているようだったし……『鬼』の目じゃなかった」
「万引き、ね……ターゲットは優等生とのことじゃないか。優等生が万引き。良い徴候とは言えん」
ハルのフォローを天川は切り捨てた。カイと吾朗も付け足す。
「俺が声かけたら赤くなってやがったし、ふつーのいい子ちゃんって感じだったぜ? テストで点でも悪かったんじゃねーのか?」
「行動履歴を見ると彼女は当時現場にいません。完全にシロとも言い切れないとは思いますけど、僕もそこまでの危うさは……」
男は三人を見回した。そして有無を言わせず指示した。
「黒であろうが白であろうが、取り入っておくのは悪くない。情報を探れ。やり方は任せるが……しかし、女子高校生か」
天川はじろりと吾朗を睨んだ。吾朗は瞬間的に目をそらす。
「条例にひっかかるような真似は慎んでくれ」
「僕ら三人で取りいったらどうでしょう。被害者とターゲットは双子ですし、より深く事情が探れるかもしれません」
「……若い少女ということなら、三人のうちどれかは気にいるかもしれないな」
天川は投げやりに告げ、ハルに目をとめた。
「新條さんは元気かい」
「変わりないです」
端的すぎるハルの答えに、天川は笑った。
「まだセーラー服しか着んのか?」
ハルがうなずくと、天川は苦笑する。椅子にかけ直し、冗談めかして言った。
「新條さんにも手伝ってもらったらどうだ。見た目はターゲットと同じくらいだ。男三人で近づくんじゃあ……女子高校生は警戒するだろう」
ハルが返事をする前に、吾朗が天川の机にドンと両手をついた。前のめりになり、目が据わっている。
「いらねぇよ」
「シノサキ……仕事に私情をはさむな」
「あんな女狐の出番なんかねーよ。俺の男のミリョクで取り入るんでいいだろ? ターゲットが無理でも……被害者だって同い年だろ。小娘なんかものの三分で落としてやるよ」
ふざけた台詞を吐きつつも、吾朗は天川を強く睨んでいる。ハルはやはり黙っていた。天川はひるむこともなく繰り返す。
「単に提案しただけだ。お前に任せると条例に引っ掛かるおそれがあるから言ってるんだ」
「あんなモンが俺の傍をうろつくと思うと寒気がする。いくらなんでも仕事の時まではごめんだぜ。鼻が曲がる」
「……」
ハルは口を引きむすんだ。険悪な雰囲気を、カイがまとめる。
「では、まずは僕ら三人で。新條さんはやはり部外者ですし……危険もあるでしょう。それに別に惚れてもらわなくても、仲良くなって情報を取れればいいだけです」
天川が溜息をついてうなずいた。カイは吾朗を冷たく見やる。
「吾朗さんはあの病院の患者だという設定ですからね」
「しょうがねーだろ……そうでもなきゃ行く名目がねーしな。ギプスでもするか?」
「躁鬱病ということで。もっと深刻な難病にします?」
「……」
吾朗はげんなりとふてくされた。天川が吹き出す。そしてハルを見た。
「今回も、頼むぞ。辛い結果にならないといい」
ハルは無言でうなずいた。天川は腕組みして三人を見据える。
「チーム・エクスキューショナー、出動だな」
3
習志野駐屯地にある自衛隊特殊作戦群は、外国の特殊部隊に倣ったものだ。諜報、対テロ、対ゲリラを想定した精鋭部隊である。公の場においても素顔をさらすことはない。一般隊員からはSと称されるエリート集団だ。その特戦の中に、名簿に載ってはいるが実体はない三名がいる。それが「ホンナカ・ハルキ 二十一歳」、「シノサキ・ゴロー 三十一歳」、および「ススキダ・カイ 十九歳」。学歴、経歴はすべて抹消。特殊作戦群の中でもきわめてうさんくさい存在だ。しかし組織の性格上、おおっぴらに話題にされることもない。特戦のメンバーにも、諜報活動などの際に名乗るためのただのダミー名だと思われている。
しかし、このように立派に実体はある。ハルもゴローもカイも、一応は自衛官だ。ただし、訓練に参加するのはハルくらいのもので、カイなどは大学に通っていたりする。所属自体はあくまで防衛大だが、近所の大学で英語や教養を学んでいることもしばしばだ。この三名は自衛隊で飼われている。ある特殊な性質の事件に対応できるのが、現状ではこの三名だけ、とされているからで、チーム名は「エクスキューショナー」。
このチームが狩るモノがすなわち『鬼』である。人間の負の感情を肥やしとし、取りつく悪魔。取りついた生贄には超人的な力を与えるが、最終的には理性を失い、姿かたちも人ではなくなってしまう。『鬼』となり果てた人を斬っても、魔の発現自体は根絶できない。対応といっても、エクソシズム専門の吾朗と悪霊祓いもできるカイがターゲットを事前に確定し、心理療法家や精神科医に任せる程度であるのが辛い所だ。ただ悪鬼を祓っても、根本を解決しなければ同じことの繰り返しになってしまう。
天川二等陸佐のもとから去り、本日は解散となった。ハルは愛用のボロい自転車で習志野駐屯地を出る。国道を走り、小学校を抜け、団地に入り込み、防衛庁官舎を通り過ぎた。そして安アパートに戻る。まだ木の扉を開けると、少女が待っていた。新條だ。彼女は晴樹がハルになって以来四年間、彼のそばを離れずにいるのだった。
「ハル、お帰りなさい」
「ああ。帰った」
「今日はもう終わったの」
「終わった。飯でも作るか」
「練習はいいの」
「飯が終わったらだ」
新條はいまだに黒い襟に黒地のセーラー服を着て、白いソックスをはいていた。瞳はつややかに黒く、華やぐような輝きは薄い。灰褐色の髪は顎のあたりで切りそろえたウルフカット。そして肌は不吉なほど白い。近寄りがたいほどの麗しさはなく、顔つきの愛らしさも、平たい表情と落ち付き払った静けさで打ち消されていた。手足は細身で、身長は150センチもない。声も高く、小さい。百合というにははかなすぎて、野に咲く菊というにはもろすぎる。ハルの大きさと並ぶと頼りなさがさらに強調され、中学生くらいに見える。テーブルにはすでに味噌汁と白飯が乗っていた。ハルは目を見張る。
「作ってくれたのか」
少女はこくりとうなずいた。ハルは微笑む。向かい合って座って、味噌汁をすすった。
「大根と油揚げか」
「好きかと思って」
「お前が好きなんだろ? 食べたらどうだ」
「……ううん。あなたが食べるのを見届けてから」
照れずに、静かに、新條は言った。ハルは少し冷たくなった味噌汁で白飯を平らげた。少女は表情を変えずに、ハルが食べる姿をじっと見ていた。二人とも無言だったが、安アパートの中にはくつろいだ雰囲気があった。食べ終わり、ハルがそのまま立って食器を洗う。一人分だったから時間はかからない。少女に呼びかけた。
「今日はもう寝るか」
少女はふたたび、こくりとうなずく。
翌朝になった。かぼそいけれど、しなやかで熱く、骨と重みがたしかにある。そんな新條を抱いたまま、うとうとと残りの眠気をむさぼっていると、携帯電話が鳴った。布団から腕を伸ばして履歴を確認する。吾朗からの呼び出しだった。電話をかけなおす。
「ハル、今日は出て来られるか?」
「可能ではある」
「今日も病院に行けだとさ。ターゲットと被害者両方目星つけておけだそうだ。カイは大学だから途中で拾ってく。迎えに行ってやるよ」
「ありがたい」
それだけ答えて、切った。すぐに吾朗からメールが入る。あと五分で出てこい、だそうだ。すでにハルの家のそばに来ていたと見える。新條もとっくに起きていて、寒そうにハルから離れる。艶のある無地のキャミソールと下着だけ。眠る時はいつもそうだ。ハルは服を着ながら尋ねた。
「寝巻きでも買ったらどうだ?」
「考えておく」
「そうか。欲しいのがあったら言えよ」
「あなたは、どんなのがいいの」
新條は動物のような大きな瞳でハルに聞き返す。ハルは少し考える。
「今のままじゃ寒いだろう」
「うん」
「なら、暖かいのがいいんじゃないか」
「わかった。目星をつけて報告する」
自分そっくりの物言いに、ハルは笑った。寝癖もひどいまま、竹刀袋を持って立ち上がる。新條は布団にくるまったまま、座ってそれを見届けている。
「行ってくる」
二人の間に世間話などはないようだ。ハルの背中が扉の向こうに消えるまで、新條は一心に見つめ、きゅっと再び布団に丸まった。
鮮やかな初夏の光がまぶしい。古い和室十畳の部屋から出ると、爽やかで心地いい風がハルを撫でた。二階から一階へと鉄の階段を下りる。吾朗がタバコ片手に待ち受けていた。くん、とハルを一嗅ぎしてからいらいらとタバコをふかす。
「臭う。消臭剤やるから振っておけ」
「……嫌だ。我慢しろ」
「せっかく禁煙してたのにふざけるなよ。っていうか、そんなにアレがいいか? 胸もねーしちんちくりんだし」
ハルは吾朗のオープンカーの助手席に座る。そしてじっと不快感をにじませた。吾朗も負けてはいない。明らかに不機嫌にドアを閉め、オープンカーの天井を開放する。そしてぞんざいに消臭スプレーを放ってくる。
「それが終わったら香水つけてくれ。プールオムあるから」
「嫌だ」
「他の女、いくらでも紹介するぜ? 二人で探したっていいしな」
「遠慮する」
「……ったく。あんな女狐追い出せよ」
ハルは答えずに、ギアキーを勝手に回した。吾朗は憤然としたままハンドルを取る。
「シートベルトしろよ。臭い消しにちょっと飛ばすからな?」
黒のくたびれたオープンカーがアパート前の坂道を滑り出る。
☆
鮎沢ひばりは、病院のロビーで肩を叩かれて振り返った。カイとハルが、そこにはいた。ハルは昨日とあまり変わらない、飾り気のないジーンズ姿だ。それでも背が高く、厳しいが男らしい顔立ちをしている。カイのほうは、自分とあまり年がかわらないようだ。栗色の髪が軽く、頭が良さそうで、落ち付いている。もう一人の男は今日はいない。素直にほっとした。
「こ、こんにちは。今日もいらっしゃったんですか……?」
「吾朗さんの状態が思いのほか、悪くなってしまって。昨日はご迷惑をおかけしました」
カイが涼しい顔で嘘をつく。そして、とっつきやすく微笑んだ。童顔だが、誠実そうな美形で通る。ひばりは少し気後れする。自分みたいに地味な娘には、まぶしい人だ。
「治療まで待ち時間が長いですし、暇で……鮎沢さんはお見舞いですか?」
「は、はい……双子の妹が入院しているので」
「そうなんですか? 大変ですね」
カイは自然に話を続けていく。ナンパ、というわけではないのだろう。昨日、ロングコートの男にどぎつく誘われた時は、はっきり言って驚いた。この三人はどういう関係なんだろう、と思う。友達だろうか? それにしては年がばらばらだ。
「あの……お二人はお友達なんですか?」
「自衛隊の売店でバイトしているんです。その仲間です。吾朗さんは身よりがないので」
「そうなんですか」
「可哀そうな人なんですよ」
カイは作り話をにこやかに説明する。ハルは何も口を挟まない。ひばりは緊張する。こっちの大きい人、モテるだろうな、と思う。背が高くて、がっしりしていて、一見怖そうだけれど、優しい。魔がさした窮地を救ってくれた。そのハルが口を開く。
「双子なのか?」
「は、はい」
来た、と思った。つぐみの存在を、この人には知られたくなかった。きっと、つぐみにばかり話しかけるようになるだろう。男の人はいつもそうだ。私は眼鏡で、黒髪で、体格と顔立ちだけは同じだけれど、自分に自信がなくて、勉強しか取り柄がない。今日だって明日からテストだけれど、自分が妹の世話をしてやるしかない。嘘もつけず、ひばりは肯定の返事をした。カイが目を見張る。
「双子ですか。珍しいですね、似ていらっしゃるんでしょうか」
「一応、一卵性なんですけど……似ているかどうかは」
もごもごと言い訳をはじめると、後ろから声がかかった。
「お姉ちゃん! そこにいたの?」
明るい華やいだ声。うわっついた軽い声。双子の妹、つぐみだ。いま最も会いたくなかった人物。
「つぐみ……ごめん」
ひばりは反射的に謝った。車いすを動かして、ピンクのTシャツと白いジャージ姿のつぐみが一生懸命追いついてくる。
「この人たちは? まさか……ナンパされてたの?」
「連れが昨日ご迷惑をおかけしたので、挨拶していただけですよ。そうですよね、ハルさん」
「ああ」
カイは心外そうに説明した。つぐみはハルとカイを見ている。そして嬉しそうにはしゃいだ。
「お姉ちゃん、凄いじゃん。モテモテじゃん」
「……そ、そんなんじゃないよ」
「いいな! 私に一人ちょうだい」
「そんなんじゃないよ……つぐみ、病室にいなくて平気なの?」
「平気! 身体の他は元気だもん。暇で仕方なくって……ロビーに出てきたらお姉ちゃんいるんだもん、良かった」
つぐみはカラ元気で、ひばりの腕をとって笑っている。自分と比べさせているのだ、とひばりは思う。つぐみは髪をこっくりした茶色に染めて、ふわふわとしたパーマをかけて、病院でも軽くメイクまでしている。明るくて、伸びやかで、自分よりももっと細くて、あかぬけていて愛らしい。自分は黒髪のまま。ストレートで、化粧もしたくないし、地味でやぼったい。カイが腕時計を見る。
「……吾朗さん、遅いですね。僕たち、お騒がせしているでしょうし、一旦探しに行ってきます」
「あ……は、はい」
「えーっ、行っちゃうんですか?」
つぐみがいかにも残念そうに告げた。カイは困ったように微笑む。
「ええと……ご入院なさってるんですっけ」
「そうです! 外科病棟に。時間有り余っちゃってるから、お時間あるならお話したいな。毎日お姉ちゃんとしか話してないし……」
つぐみは可愛らしい声でカイを誘っている。どうしてそんなに素直に、会ったばかりの人に良い顔できるんだろう、と思う。でもいいのだ。つぐみはそっちが得意なのだから。自分たちは、分担したのだから。カイは苦笑している。真面目そうな人だし、ついていけないのかも。ひばりはちらりとハルを見る。目が合った。とくに面白そうでもない。やっぱり年上の男の人は、可愛い子とそうじゃない子ですぐに態度を変えたりしないんだろうか。ハルはふっと顔をあげた。振り向くと後ろから、もう一人の男の人がやってきた。吾朗さん、とかいう。
「ったく……やってらんねーぜ。2時間待って三分診療だよ」
その姿を見た瞬間、つぐみのテンションが二段階くらい上がったのを感じた。いつもの余裕がなくなり、大人しく車いすに縮こまる。別段不思議でもない態度だ。このコートの人、パッと見て一番格好いいもの。吾朗も車いすの少女に気づき、ふっと笑って声をかける。
「なんだ、一人追加か? こっちも中々だな。カイが引っかけたのかよ」
「そんなわけないでしょう……双子の妹さんだそうです。帰りますよ」
「ふーん」
楽しげに、吾朗はじろじろとつぐみを見る。つぐみは面白いほど肩をすくめて、それでも最大限の計算をして、年上の男を上目づかいで見つめている。その唇は薄くリップで光って、肌はふんわりと白い。ひばりから見ても、つぐみは可愛い女の子だと思う。ひばりは諦める。聞きたくない言葉を、きっとこの人は言うんだ。
「よく見ると似てるな? お嬢さんたち」
「嘘! 似てないですよ」
「いや、そっくりじゃねーか。若いんだし化粧なんかしねーで、女子高生らしくしろよ。ねーちゃんみたいに」
「吾朗さん……」
カイがたしなめた。ひばりは驚く。つぐみもむっと黙っている。てっきり、この人も言うと思ってた。「似てないな」って。つぐみはすねたように吾朗を責めた。
「だって、入院してると暇なんですよ。睫毛上げるくらいしかやることがないもん」
「ま、化け方を学ぶのもまた勉強だよな」
ふふんと笑って、吾朗は受け流す。ひどーい、とつぐみがますます機嫌を損ねる。この娘の軽薄さはすべて演技だけども。それでも、ロングコートの男は助け舟のようなことを提案してくれた。
「待たされ切って俺も疲れたから、どっかで食事でもしようぜ? 食堂でいいだろ」
「あ……私、おごります」
つぐみが怪訝な顔でこちらを見る。でも、きちんと借りの三千円を返さないといけない。ハルが首をふる。
「それは今度にしろ。懐が痛むだろ」
有無を言わせないような断言に、ひばりは縮こまる。吾朗がつぐみの車いすを押す。カイがつぐみに申し訳なさそうに謝っている。男の人はあっちに集まる。いつもの光景だ。
それでもハルは、ひばりの隣を歩いてくれた。
☆
最上階、面会者用の食堂はちょっとしたレストランになっている。さっそく吾朗の調子こいた会話が始まった。
「真面目ちゃんがひばりで、化粧大好きがつぐみか。二人とも高校生だよな」
「はい! 吾朗さんみたいな大人の人って憧れます」
つぐみも調子よく答える。吾朗は当然、とばかりに得意げだ。しかし、彼が次に話を振ったのはひばりだった。
「ひばりちゃんは、お勉強が得意なのか? ぱっと見そんな感じだよな」
「は……はい。得意かどうかっていうと、凄い人には到底及ばないんですけど」
カイが口をはさむ、
「でもそれって、船吉高校の制服ですよね。わりと頭のいい高校じゃないですか」
面喰ったひばりは、それでも自慢のような気がして、うなずけない。吾朗が軽いノリで励ます。
「いいじゃねーか。このカイって男も変人だから、お勉強大好きだしな。カテキョでもさせてもらったらどうだよ。女子高生と二人っきりってわくわくするよな」
「吾朗さんの妄言は気にしないでくださいね。ホモの偽装ですからね」
ギリギリのやりとり。ひばりはとても笑えない。つぐみははしゃいで笑い、嬉しそうに話に乗る。
「カテキョぜひぜひお願いしまーす! もー毎日ヒマでヒマで、勉強でいいからやりたーい」
カイは少々驚いて、それでも人あたりよく綺麗に笑った。
「構いませんよ。初めの二回はお金もいらないです。……つぐみさんは勉強、お好きなんですか?」
つぐみは気だるそうにテーブルにつっぷし、頬をふくらませた。
「そんなわけないじゃないですか~。お姉ちゃんは勉強、私は愛嬌! でもカイさんみたいな人に教えてもらえるなら、私もちょっとはアタマ良くなるかも、なんて」
「ひばりさんはどうしますか? 二人きりだと吾朗さんが勘違いしますし……」
カイが姉・ひばりを伺う。ひばりは緊張しつつ答える。
「じゅ、塾があるので……」
「負担でしょうか? 塾の課題をしてて貰って平気ですけど」
「お姉ちゃんも見てもらおうよ、そのほうが得じゃん! それにうちら今年大学受験でしょ~」
カイの面差しがとたんに真剣になった。ポケットから手帳を取り出し、二人に質問を始める。
「志望校は? 苦手教科は何でしょう。模試の偏差値などもあれば教えていただけると……」
吾朗が呆れて茶々を入れる。
「……何でそんな本気に……」
「お金をいただくんですから当然です。つぐみさんが私立、ひばりさんが首都圏国公立、しかも医学部ですか、ふむ……」
カツカレーをかきこむばかりで蚊帳の外だったハルも尋ねる。
「それって……やっぱり難しいのか」
「……相当頑張らないといけませんね。つぐみさんの場合、センター利用もききますからそんなに難しくもないですけど、入院でブランクがありますし、夏を利用して基礎がためをしておいても良いと思います。まずはお二人の現在の学力を見ないと……さっそく、来週用意してきますね。ご都合は?」
パタンと手帳を閉じて、カイが双子を凝視する。すっかり「先生」の顔だった……つぐみがひばりにこれ見よがしにささやく。
「すごい、本格的~。ちゃんとやらないと怖いかも」
「う、うん……」
ハルも珍しく吾朗に話しかけた。
「お前も教えてもらったらどうだ」
吾朗はひらひらと手を振ってほくそ笑む。
「カイはイタリア語も話せねーしラテン語もわかんねーしエレミヤ哀歌も暗唱できねーだろ? 必要ないね」
「専門が違うんです。アイロンのかけ方もしらない人に馬鹿にされる言われはありません」
涼しい顔でカイがやりこめる。つぐみが色めきたち、アイロンのかけ方で吾朗は集中砲火を受ける。ハルはいつの間にかハンバーグをおかわりし、カイは紅茶に角砂糖を四個も入れた。ひばりはひさしぶりに悩みを忘れて笑う。受験前で憂鬱な夏がはじまると思っていたけれど……楽しくなりそうな予感がする。
☆
小テストの結果を見て、カイが渋い顔をする。前回の英単語の宿題のテストである。カイ先生の家庭教師は超がつくほどクソ真面目だった。まず、実力判定テストがお手製。英数国語でセンター試験過去問が八割と、オリジナル問題が二割という凝り具合だった。何冊もの参考書のストックから適正レベルのものが選ばれ、つぐみには講義、ひばりには応用題一題と塾の予習。さらに英単語・古文単語・歴史年号の小テストが毎回毎回ある。授業は三日に一度。勉強嫌いにとっては端的に言って地獄であった。
鮎沢家ではつぐみの入院もあり、まとめて勉強を見てもらえるなら大歓迎ということで、カイは正式に家庭教師バイトの身となった。お金をもらうということで「責任はまっとうせねば」とカイは毎回の授業の準備に余念がない。なさすぎると言ってもよい。吾朗は呆れかえり、ハルも緊張の面持ちで自分もカイに質問したりしていた。
……容疑者たちとの接触が開始してからすでに三週間あまりが経過している。あまりにも異変が起こらないので、家庭教師付き添いはハルと吾朗が交代になっていた。今日の付き添いは吾朗。つぐみはホールの机につっぷして、はなから授業を受ける姿勢ではない。カイ先生は溜息をつく。
「つぐみさん、白紙提出はさすがにひどいです」
「ひばりは満点だな。凄いじゃねーか」
褒められているのに、姉のひばりはなぜか気まずそうだ。つぐみは頬をふくらませて文句を言う。
「だって……勉強はお姉ちゃんのほうが出来るに決まってるじゃん」
カイはぴしゃりと釘をさす。
「これは『勉強』じゃありません。単なる暗記です、基本単語を十個、しかも和訳だけ。たったの十分予習すればいいだけでしょう?」
「……まあ、嫌いな奴は嫌いだしよ、こういうのって……ラテン語の人称活用とか投げ出したくなるじゃねーか、誰もが通る道だろ」
吾朗がフォローにまわり、つぐみは活気づく。
「そうですよねっ! こんなもの世の中に出たら何の役にも立たないもん! 女の子は可愛いほうが得だし……だいたい日本人だしっ」
きゃいきゃいはしゃぎながら、つぐみは吾朗に甘え始める。付き添いのハルか吾朗に対しては毎回この調子で、カイの堪忍袋の尾はもう切れそうだ。ひばりが小声でカイに謝る。
「先生……すみません」
「ひばりさんが謝ることはありませんよ、自習を続けて」
「あーまた贔屓だもん、やんなっちゃうよ~。ねー吾朗さん、吾朗さんってラテン語しゃべれるの? しゃべってみてください!」
「え? あれはしゃべるもんでもねーんだけどな……」
「じゃあイタリア語! 愛してるって言ってみて!」
目下仕事中の看護師たちも苦笑ぎみで四人を見守っている。授業二回目からこのかた、つぐみはずっとこの調子で、カイよりも付き添いの吾朗やハルにばかり付きまとう。吾朗も悪乗りし、Ti amo,Tsugumiと甘く囁けば、黄色い悲鳴。ついにカイがとげとげしく注意した。
「……お二人とも、授業中です。私語くらい慎めないんですか」
いつになくきついカイの視線に、吾朗も口をつぐむ。空気が悪くなり、ひばりも無関係なふりをして参考書にマーカーを引いている。つぐみは不機嫌になり、ショッキングピンクの大きなペンケースを音までたてて閉めた。嵐の予兆である。
「……だって先生、贔屓するんだもん」
「贔屓じゃありません。授業中だけでも真面目にやれと言ってるだけです。当たり前のことです」
「勉強なんかしたってさー、何の役にもたたないよ。ガリ勉してたって地味でダサけりゃどうしようもないじゃん?」
「頭が悪くても外見だけで人気があるなんてせいぜい十代までですけどね」
吐き捨てるようにカイが反論する。育ちが良さそうな顔立ちだけに、皮肉が痛烈に響く。つぐみは負けじとカイを睨みつけた。
「どうせ馬鹿だもん」
教育ドラマのようなもめごとが始まってしまい、吾朗がとりなす。
「ストップストップ、もういいだろ……邪魔して悪かった。つぐみは俺とちょっと気晴らしな。終わったら仕切り直すぜ。先生、いいでしょうか」
「ご勝手に大人のお勉強でもしていてください」
カイは怒っている。吾朗は苦笑して、つぐみの車いすを押した。ホールを抜け、エレベーターに乗り、最上階までたどりつく。そこには小さなカフェも入っており、手馴れた様子で注文がなされた。タンブラーを傾ける吾朗に、つぐみがこぼす。
「カイ先生厳しいんだもん」
「まあ……あいつは真面目くんだし。でも、ねーちゃんが勉強してんのにくっちゃべってるのはいけなかったな」
「謝れば許してくれるよね?」
「大丈夫だろ。飲んだら帰るぞ」
吾朗の今日のいで立ちは、黒いシャツにいつもの銀のロザリオ。ボタンは二つ開け、ボトムは細身のジーンズだ。外国人でもないと似合わない決め過ぎの格好だが、なんなく着こなすのが憎らしい。つぐみはタンブラーをかかえて、楽しげにしゃべり始めた。
「吾朗さんってなんていうか、大人の男ってかんじですよね……すっごい憧れる」
「三十路に大人は褒め言葉でもねーよ」
いつもの軽い調子はどこへやら、心なしか面倒そうだ。つぐみはさらに押していく。
「もっとお話ししたいです。恋愛相談とか、ためになりそう」
「……何だ、お前にも恋の悩みなんかあるんだな?」
「ありますよ! 当たり前じゃないですか、お姉ちゃんじゃあるまいし!」
ふくれたつぐみは、自分の恋模様を語りだした。男子が外見だけで告白してきてウザいこと。それなのに好きな子にはフラれてしまったこと。マネージャーをやっているバスケ部のリーダー格で、女子には一番人気。ゴールデンウィークに告白して玉砕した。
「私……クラスでも多分カワイイ子のグループだし、ギャルじゃないのに。どうしてダメだったんでしょうか? 気も使ってたし、その子だけにお弁当作っていったりもしたし、カラオケのとき絶対隣に座ったし……彼女もいないって聞いてたのに」
吾朗はつまらなそうに聞き流していたが、吹き出すように笑った。
「要はお前の考えが浅かったからだろ? もう少しカイ先生について勉強しろ」
「えーっ、何ですかそれ。そんなんで恋が上手くいくはずないですもん」
「ま、お前を一旦振るんだから……喜べよ、つぐみ。お前は男を見る目だけはあるのかもしれねーぞ」
楽しそうににやけながら、吾朗がつぐみをからかう。見当違いの答えがきて、つぐみはつまらなそうだ。
「……まぁいいや。吾朗さん……じゃあ、私とお姉ちゃんだったら、どっちと付き合いたい?」
吾朗はしれっと即答した。
「姉さんだな」
「えっ、嘘でしょ!?」
つぐみはタンブラーの底をガタリとテーブルに打ちつける。愛くるしい顔がきしむようにこわばっている。周りの客がそれとなくこちらをうかがう。吾朗は何かに気づいたように目の色を妖しく変えるが、疑惑のそぶりはすぐにかきけし、つぐみをなだめる。
「……理由はいろいろあるけどな、ちょっとは自分で考えてみろ。俺と付き合いたいんなら……とりあえず勉強頑張れよな? 美少女」
吾朗はいけしゃあしゃあとのたまって、車いすを押して店を出る。その後授業に復帰しても、つぐみの表情は硬いままだった。