ムッシュ・ド・パリは迷わない(2-2)

その二 この頃はやりのおとこのこ(2)

 煙草臭い1LDK十二畳の新築マンションに足を踏み入れた瞬間、ハルは忌憚なく評した。

「相変わらず汚いな」
「男一人ならこんなもんだろ」

 毒づいたものの、ハルの刺すような視線で吾朗は黙った。リビングに抜けるまでのキッチンとユニットバスまではかろうじて足の踏み場があるが、そこから先は本と資料と脱ぎ散らかした服でごちゃごちゃだ。

「部屋のスペースがもったいない。洗濯しろ」
「お前みたいな安物ばっかり着てるわけじゃねーしな、クリーニングに出してんだよ」
「いい身分だな」
「シャツの洗濯なんかに精出すくらいなら銃の手入れしてたほうがマシだろ」

 わかるような気もするが、と納得しつつも、ハルはずかずかと部屋の奥まで踏み込み、派手なジャケットやスラックスを足でぞんざいにのけてカーテンを開けた。オレンジ色の夕暮れが窓いっぱいに入ってくる。

「西向きだと夕焼けがすごいな」

 ハルの横顔は精悍で、睫毛と鼻筋の陰が濃く肌に落ちる。真っ黒な瞳も西日に透けて輝いた。筋トレだの訓練だのはごく真面目にこなすから、骨も伸び、がっしりと肉がついて、初めて逢ったころより随分と大人びた。仏頂面は相変わらずだし、人懐っこく微笑むこともほとんどない。服装がちょいとダサいままだが、脱がしてしまえば関係ない。吾朗はだるい身体をベッドに倒し、部屋に誰かを招き入れた時の手順どおりにハルを呼んだ。

「……こっち来いよ」
「嫌だ。男と寝る趣味はない」
「別に掘ったりしねーからさ……寂しいんだろ? 添い寝してやるって。一瞬で忘れさせてやるよ」

 浮ついた台詞は無視された。ハルは部屋を突っ切って、冷蔵庫を物色する。

「賞味期限切れだらけだな。捨てとくぞ。野菜も肉もないが食事はどうしてるんだ」
「料理する気にならねーんだよ……」
「宿舎にでも入ったほうがいいんじゃないか。カイと暮らすとか」
「冗談言うな。あんなマニュアル人間と一緒に暮らせるわけないだろ」

 お前とならともかく。それ以上口にすると嫌われそうなので吾朗は口をつぐんだ。つとめて軽薄に誘ってみる。

「なぁ、酒はまだあるだろ。カクテル造ってやるよ。理性飛ばすほど酔っていいから」 「女に言うならまだしも、情けなくないのか」

 ハルは見事に一刀両断してくる。何度カマをかけてもけんもほろろだが、それでも吾朗を避けないのがハルの凄いところだ。馬鹿にしたように笑ってやった。

「女ね……ガキじゃあるまいし、いい加減セックスだけじゃ間を持たせられないんだよ。すぐ結婚だの改宗だの煩いしな。アラサー独り身はシンドイの」

 今度こそ、軽蔑の視線が浴びせられる。惨めになったが、ハルはまだ吾朗を見捨てず、冷蔵庫にあった炭酸水をたずさえて、隣に座ってきた。男二人分の重量で、ただでさえ酷使ぎみのベッドがきしむ。ハルはごくまじめに諭してくる。

「そんなんだと鬼に憑かれるぞ」
「マリア様には愛されてるから平気だよ。色男で良かったぜ」

 言い返して、ペットボトルをハルから奪った。そのまま一気飲みする。冷えた炭酸水は喉越しがよく、眠気はまだあったが、汗も出ないような疲れからは復活してきていた。寝床をもう一度盛大にきしませて、再度迫ってみる。

「ハルもあんなちんちくりんとじゃろくに解消も出来なくて溜まってるだろ? スッキリさせてやるから……なあ」

 滑稽だと思いながらもハルの腰に手を廻し、ベルトのバックルを思わせぶりにカチャリと鳴らした。ハルは嫌悪丸出しの溜息をついて睨んできた。

「間に合ってる。溜まってるのはお前だろ? どうせ誰だっていいんだろうが……何度言えば分かるんだ。俺はもう帰る」
「超ショックだぜ。変態なんか用なしですってか……マジでグールになっちゃいそう」 「ふざけるな。俺に欲情するなんてどうかしてる……」

 しょげて見せて、悪態をつく唇を狙った。ひりつくようにぶつかっただけで、ハルは肩をはたくように吾朗を振り払い、感触すら覚えさせてはくれなかった。腐ったものにでも触れたように、ごしごしと拳で口を擦っている。さすがに面白くない。吾朗も興が覚めた。

「そんなに嫌かよ」
「ああ」

 完膚なきまでに否定して、ハルは忙しげに立ち上がり、振り返りもせず部屋を出ていく。さよならも罵声もない。吾朗はベッドに突っ伏して、浅はかな口説きを後悔した。たまには誰かと飯でも食いたいとだだをこね、定食屋で中華丼をかっ食らった後、せっかく部屋まで送ってもらったのにこのざまだ。ぼんやりとハルの忠告を思い返す。

(鬼に憑かれる、ねえ……)

 『鬼』の種である魑はすさんだ者に憑きやすい。肥太った憎しみと不満を食べて、魂をだめにする。そして人外の鬼へと姿を変える。吾朗は自分が鬼憑きになる可能性を思った。ハルに斬られるならそれでいいのかもしれない。だが、魑は誰にでも憑くわけでもなく、皆がすさんでいる戦場ではかえって何も起こらない。血と土と硝煙のいりまじった臭気をわずかに嗅いだような気がした。兵士たちの限りない愚痴と、従軍神父からの叱責。眼鏡をかけた静謐な男はよく吾朗をこのように評したものだ。“You might have inappropriate character to this devine role. You are so cynical about other people’s weakness…..” 紺に染まった空を見あげて起き上がる。身体も幾分か軽い。このまま眠るのは最低すぎるから、ふらふらと外へ出た。黄昏の暗さが膚になじみ、駅へと歩き始めると、公園に不快なものを見つけた。

 灰褐色のシャギーカット。小ぢんまりとした背丈に、不吉なほど薄い体躯を包むのは、長袖黒地のセーラー服。新庄だった。中学生ぐらいの女に見えるが、正体はどうせ卑しいケダモノ、神が造りし人間でも動物でもないグール風情。目が汚れると思って無視しようとしたが、誰かと話している。女の子だ。こっちもセーラー服で、新庄よか大分上背がある。白地に紺サージの襟が眩しい夏服が印象的だった。肩までの流れるような黒髪が爽やかだ。またぞろハルに横恋慕した学生かね、と推理して、公園向かいにある自販機を物色するふりをしながら、いけすかない女狐を見はった。女狐もこちらに勘付いたが、無表情に相手に向き直った。夏服少女はぺこりとお辞儀をして、頬を赤らめて公園から駆けだしていく。瞳は大きいが甘さはなく、きりりと筋の通った美少女だ。新庄もこちらに歩いてきた。鼻から息を吸い込まないようにしながら声をかける。

「よう、女狐」
「……私は新庄。女狐じゃない。何か用」
「ハルのヤツ、どこ行ったか知ってるか」
「胴着を買いに行った」
「相変わらず熱心なこった……今のかわいこちゃんは誰だよ」
「名前は知らない。最近よく話しかけられる人」
「へえ? ハルに恋しちゃったJKとかか?」
「あの人とハルは関係ない」

 バッサリ否定されて、場が白ける。吾朗はポケットから煙草を探って火をつけた。内臓を冷やすようなかすかな妖しの臭いが不快だ。硝子のような瞳。さらりとした髪。傷ひとつない白墨のような肌。機械仕掛けの少女人形のような見た目ではあるが、ハルもカイもよくこの臭気に耐えられるものだ。こいつには温かい血なんか流れてないってのに。新庄は子どものような目で吾朗を見上げた。

「それより……あなたこそハルに手を出さないで」
「は? 何の話だよ」
「嫌な感じがして、ハルのことを探してた。見つけたらあなたの匂いがした」
「余計なお世話だ。お前の予感は当たっちゃいねーよ」

 新庄は憎まれ口も気にせず、じっと立ち止まっている。いつもならば吾朗とは必要最低限の会話すらしたがらず(それはこっちだって同じなのだが)用が済めばすぐに離れるので、違和感を覚えた。直後、自転車に乗った男子生徒が狂気じみた速さで吾朗と新庄のすぐそばを通り過ぎていった。ぶつかるぐらいの勢いだったので、吾朗は眉をひそめた。いくらなんでも歩道で出す速度ではない。後ろ姿は真っ黒の長袖学ランだ。

「ったく、危ないだろうが……いくら千葉の片田舎っつったって年寄りも多いんだぞ」

 文句をこぼした吾朗に答えるつもりなのか、新庄がぽつりと口を開く。

「自らの窮地を把握できない人間ほど、厄介なものはない。あなたも気を付けて」
「ふん……偉そうに」

 吾朗はベルトにつけた携帯灰皿で煙草をもみ消して新庄を置き去りにした。ケチのついた気分を晴らすために、駅に向かって二十分ほど歩く。例のカフェバーにしけこもうと思ったが、花屋の店先にさっきの夏服少女を見つけた。しゃれた造りの一軒家を利用した花屋で、いかにも女性向けだ。もう店じまいの時間で、花を眺める少女をよそに、店員が鉢やプランターを片付けている。その細面に見覚えがあった。吾朗はさっそく口笛を吹いて呼びかけた。

「花屋さんか。絵になるね……弥栄子さん」
「あら……いらっしゃいませ。名前、もう覚えられてるのね」
「当然だろ。あんたは一度の逢瀬で忘れられるような女性じゃない」

 さすがに仕事中で、カフェバーで同席した時とは違い、化粧も服装もカジュアルダウンしていた。ゴム長を履いて髪も色気なくひとつにくくっているが、持ち前の上品さは失われていない。セーラー服の少女がこちらを注視したが、吾朗は構わず挨拶を続けた。

「こんなとこで働いてたのか。盲点だったな」
「あの店の常連だもの、ご近所さんでも不思議はないわね」

 夏服少女が気にしていた赤のひなげしをちらりと見る。ブリキのバケツにラフに投げ入れられて、新入荷の札が貼ってある。薄く鮮やかな花びらが可憐だ。ポップが貼ってあって、取扱いの説明と、別名が書きそえてある。虞美人草。

「ひなげしなんてもう咲くのか。秋の花だと思ってたが」
「もうとっくに暦は秋よ。最近は初売りが早いの。売れ筋はピンクと赤」
「一本いくらだ」
「消費税コミで610円。ブーケにするなら……少しお時間頂きますけど」

 吾朗は躊躇なく赤を選んで弥栄子に渡した。

「一本でいい。美人の花だ……一人で充分」
「そういう話はここではやめて」

 弥栄子はひなげしを持ってつれなく店内に引っ込んだ。吾朗は笑みを消して追う。千円札を支払って、声ひそやかに謝った。

「……迷惑だったか? 通りかかったのは偶然だった」
「閉店だからそうでもないけど。職場ではやめて」
「分かった。今夜もあの店に来るだろ?」

 乗り出す吾朗に苦笑して、弥栄子がひなげしと釣りを返してくる。

「今夜はダメ。先約があるの」
「……年寄りばっかの町だと思ってたが、皆美人には食いつき早いんだな」

 買い取った花の香りを確かめながらも、吾朗は渋い顔をした。弥栄子はおかしそうに笑う。そして店先にむかって声を張った。

「そう、先約があるのよね……真!」
「ん?」

 寄せ植えコンテナやプランター、そしてラティスに絡まった緑の中から、さっきの夏服少女がこわごわ覗いている。弥栄子は少女を呼びよせて微笑む。少女は弥栄子の背に隠れるように店内に入って来た。吾朗に対しては思い切り不審の目を向けている。

「今、私の心を独占してるのはこの子。世界で一番、守ってあげなきゃいけない人だから」 「はぁ~……」

 吾朗はつくづく感心して親子を見つめた。肌は白く、髪は細くさらりとして、腕も足も細くしなやかで、背が高い。涼しげな雰囲気は親子共通だ。弥栄子は目じりが切れこんでクールな印象だが、娘は猫のようにコケティッシュな瞳をしている。二人とも浮世離れしたような透明感があって、吾朗は芸のない感想を口にした。

「美人親子ここに極まれり、だな……こんなに立派な娘さんがいるとは思わなかった」

 弥栄子は真の頭を愛おしそうに撫でた。真、と呼ばれた娘のほうは、褒め言葉に反応すらしない。

「立派だって。真」

 その母親らしい仕草に、吾朗は恋の駆け引きも忘れた。自然とリラックスした会話が生まれる。

「さっき、話してたの見かけたんだが、真ちゃんはあのメギツネ……いや、黒セーラー服と友達なのか?」
「友達? 女の子の?」

 弥栄子が疑わしげな顔をする。吾朗は冗談めかして茶化してみた。

「それとも、恋敵とかか? あの女、無愛想なくせして彼氏のこととなると目の色変えるからな~。真ちゃんのことは俺が応援してやるよ」

 真は下を向く。まずいこと言ったかな、と察知して、あわててとりつくろった。

「……弥栄子さんもハルのことは知ってるだろ? さっき真ちゃんが立ち話してた女の子がハルの彼女でね。ハルの奴、あれでいてモテるからさ……とくに世慣れしてないお嬢ちゃんには」

 弥栄子は吾朗の話に耳を貸さず、深刻な表情をしてしゃがみこみ、真を見上げながら問いかけはじめた。真は棒立ちして黙っている。

「女の子の友達が出来たの? 嫌がらせとかはされてない?」
「嫌がらせって……おい。あいつには嫌がらせするほどの生気はねーよ」

 フォローするのも本意ではなかったが、不安げな様子を放っておけず、吾朗は口をはさんだ。弥栄子の表情が目に見えて和らぐ。

「そうなの……安心した」

 吾朗は真を観察した。髪はあごで切りそろえた芸のないボブスタイルだが、髪質と整った顔立ちのおかげで、澄んだ美しさがある。可愛らしさというよりは、端正さが勝っていた。それなのに、年相応の朗らかさのほうはまったく欠けていた。訳ありってことは初めから判り切っていたが、内情は存外にデリケートなようだ。吾朗は真に弥栄子が包んだひなげしを差しだした。真は無言を通して吾朗を警戒する。

「この花、欲しかったんだろ。真ちゃんにやるから、家に飾りな」
「真、お礼言いなさい」

 母親らしく娘の背を押す弥栄子に、吾朗は首を振った。

「好みじゃない男からの花には礼なんか必要ねーだろ」
「また、そんな……」

 たしなめる弥栄子に構わず、吾朗は説得するような声色で真に語りかけた。

「真ちゃんの母さんが真ちゃんのために頑張って売った花だ。俺じゃ枯らしちまうだけだから……受け取ってくれると助かる」

 真はおずおずとひなげしを受け取り、赤い薄い花びらに触れた。そしてぴょこんと頭だけ下げて、店から駆けだしていった。ずいぶんと足が速い。

「ごめんなさい。いろいろと事情があって」
「三十年以上生きてれば、誰にだって事情はあるだろ。俺だって同じだよ」
「……ありがとう。もう閉めなくちゃいけないから、またあのお店で」

 弥栄子は疲れたように微笑んだ。隠しきれないこわばった表情は、たしかに真のものと似ていた。

 男女の縁なんてものは、大体が序盤の一、二手で決まってしまうものだ。大人同士ならなおさら進展は速い。カフェバーで閉店まで飲んで、深夜の道すがらキスした。ジンの辛い味が残る口づけ。踏みとどまることもできたが、弥栄子も野暮を許さなかった。ホテルは嫌だったから、部屋に招いて関係を持った。どちらが本気なのか、どちらが追いかけているのかは、いつも覆い隠して身体を重ねた。事情を知っているのはあの日同席したハルとカフェバーのマスターだけだ。どちらも内情を詮索するような悪趣味な男ではなく、火遊びのスリルは保たれ続けた。昼間のデートは一度もなく、二時三時の深夜に待ちあわせることが多かった。事後は明け方になる前に弥栄子のアパートまで送る。虚と実の入り混じり具合が丁度いい相手だった。

 真のことや、前夫のことについて、吾朗は何となく興味があった。年齢がそう離れていないというのが大きかったろう。同級生も親戚もない吾朗は、日本人の一般的人生、みたいなものについて知りたかったのだ。女というのは自らについて語りたがるものだが、弥栄子は違っていて、逆に吾朗から質問しないと何も知らせてはくれない。結婚までの人生については、懐かしそうに語ってくれることが多く、それからのことについては口を閉ざすのが常だった。吾朗のことを今後のパートナー候補として考えてはいないのだろう。彼女の話から友人や家族の固有名が出ることはほとんどなかった。

 いつものように弥栄子をアパートまで送り届けて、別れ際に口づけを交わす。下ろしたロングヘアをかきあげ、焦げつかせるような仕上げのキス。ゆっくりと離れて、含み笑いをしながら女が聞いた。

「ハル君はもういいの?」
「ハルなんかもともと俺に本気にはならないだろ」
「私も本気のつもりはないけど」

 軽くいなされてしまい、吾朗は身体を離してシートに沈んだ。薄情と責めることはできまい。こちらとて話せる過去ばかりではないし、職業からして「自衛隊の銃撃インストラクター」という大嘘をついている。弥栄子は珍しく饒舌に語った。

「あなたに相談しても何にも解決しないのは判ってるけど……知っててほしいことがあるの」
「そのくらいは見込まれたんだな、光栄だぜ」
「真のことなんだけど」
「……ああ」

 訳ありなのは察していたが、いよいよとなって吾朗は歯切れ悪く答えた。弥栄子も口どり重く続ける。

「あの子、中学校に通ってないの。不登校児って言うか……」
「そうなのか? 何か心当たりとかは……」

 カイがよく愚痴をこぼす「日本の教育現場の退廃」なるものぐらいは吾朗も耳にはしている。アメリカもアメリカでひどいものだったが、吾朗の経験は特殊例だ。父親役はまっぴらごめんだが、ハルやカイのお節介につられているのだろうか、何となく真のことが気にかかった。弥栄子は険しい顔で片頬を押さえている。「二人の将来」みたいな束縛に繋がっていく話題にもかかわらず、吾朗はその仕草に訳もなく惹かれて、しばらくその横顔を眺めていた。母親ってものに縁がなかったからかもしれない。

「吾朗さんはバイなんでしょう?」

 やぶからぼうな質問に吾朗は面喰った。肯定しようか否定しようか迷ったが、弥栄子は真剣そうだ。仕方がないので、経歴を話す。

「十五年前のアメリカ南部、しかも神学校っていうのはまだアレな場所だったからな。アジア人は幼く見えるし……俺は養子だったから、処世術というか……カトリックだと婚前交渉なんてとんでもねーし、ええと……」
「それでも立ち直った」

 弥栄子は短くさえぎる。立ち直るとかいう考えがそもそも吾朗の常識にはなかったから、何ともコメントは出来ない。ただ生きてきただけだ、それなりに、やり過ごして。弥栄子は別人のように熱っぽく続ける。

「あの子の相談に乗ってあげてほしいの。あなたに形式を求めてるわけじゃない。ただ、私は結婚するまでとりたてて生きづらさなんて感じていなかったから……何をやっても、声が届かないし……たぶんみんな私が悪い、のだけど」
「弥栄子が悪いっていうのはないだろ」

 吾朗は驚いて返した。思春期に両親が離婚するなんてそりゃショックだろうが、アメリカではよくあることだし、こんな美人で働き者でクールな母親が味方なら、人生どうにだってなるじゃないかと呆れてしまう。ハルは十七で誘拐されても立派に鬼斬りマシーンだし、カイも十八で売られてきて、そのくせ一人で自活して大学受験まで突破している。『鬼』の事件に関わるうち、吾朗も日本社会ってものを知り始めてはいたが、こんな箱庭でよくもここまで狂えるもんだと共感はできない。

 弥栄子は思わぬ反論に眼を丸くして吾朗を見つめた。三十路を過ぎているのに、どこかあどけなく見えた。

「ありがとう。本当を言うと……あなたが『そういう人』だから近付いたの。ごめんなさい」
「娘さんのためってか。驚いたぜ……俺に出来ることなんか少ないけど、協力はするよ」

 ハル以外の男がそこまで好きというわけでもないのだが、くどくど説明しても仕方がない。弥栄子が愛だとか再婚だとか吾朗の過去だとかを話題に持ちだしてこないのは好ましかったが、勝手なもので物足りなさも感じていた。まさか、娘の更生の相談をしたいから恋仲になったとは。予想外だが、内心では唸っていた。まともな女だ。かなわない。

 弥栄子は安心したようにはにかむ。てれ隠しのようにショルダーバッグからバレッタを取り出し、そそくさと髪をまとめなおした。関係をもってからひと月以上もたつと言うのに、打ち解けた親密さをはじめて感じた。初めの旦那と結婚した時も、弥栄子はこんな風に初々しかったんだろうか。吾朗はふとそんなことを思った。

「じゃあまた今度。私から連絡するから……お願い、逃げないでね」
「娘さんの人生に参考になるかは自信がないけどな。あんまり期待はしないでくれ」
「娘さん……ね。もうそれでいいのかもしれない」

 車のドアからアスファルトに降り立った弥栄子は、早くも母親の顔に戻っていた。帰宅するところまで見届けて、吾朗は車を走らせる。マンションに着いて、煙草が切れていたのでコンビニまで早朝を歩いた。マラソンランナーや犬散歩のオバサンとすれ違う。朝帰りした大学生や、早出勤のサラリーマンもちらほら見える。まともな生活、ってやつのはこうでなくちゃな、と実感する。そして、弥栄子の存在を通じて、そういうものへの憧れを見ている自分にも思い至る。季節も巡り、残暑はすっかりやわらいで、空気も肌寒くなってきている。街路樹は暖かく色づいて、コートを堂々と着られる冬も近いだろう。コンビニでセブンスターを買って、歩きタバコって条例違反だよな、と思いだしながら、姿勢を正して歩いてみたりもした。

 マンションへの一本道、公園通りに入ると、前から学ランの少年が自転車を走らせてきた。半身がぶつかるのも辞さないというくらいに、猛烈な速度だ。ちらとその姿を認めた瞬間、太い銀色の刃がひらめいた。吾朗はとっさに身をひるがえす。ダブルのジャケットの裾がきれいに裂けて、一瞬呆然とした。追おうとしても、後ろ姿は遥か遠くだ。カイの忠告が耳に蘇る。

『それと連絡です。通り魔はハサミで通行人の服を無差別に切るとのこと。犯人は小柄な少年だそうですよ。成人男性まで被害にあってるそうですから、吾朗さんもお気を付けて。あちこちで恨みだけは買ってそうですし』……。

 吾朗は少年が過ぎ去った方を振り返り、ひとりごちる。

「よりによってこの吾朗様が標的かよ。感傷に浸ってる暇なんてねーな。色々と立て込んでることだし……さっさと撃ちまくってズタボロにしてやるぜ」

 切り裂かれたジャケットを見て、吾朗は好戦的にほくそ笑んだ。カイの報告によると、犯人は『鬼』かもしれない。そうだとしたらストレス解消にもちょうどいい。静けさがほどけていく朝の町を、吾朗はひときわ軽快に歩きだした。

「何? シノサキまで狙われた? 犯人も恐いもの知らずだな」

 陸上自衛隊特殊作戦群情報科先進技術研究隊超現象対策班ミーティングルーム。舌を噛みそうな正式名称の部屋に陣取った天川は報告を受けると投げやりに答えた。吾朗はにやにや笑いながら切り裂かれたジャケットを見せびらかす。

「このジャケット、六万もしたのにな。最近ハンパ丈しか売ってねーから、いちいちヴィンテージで取り寄せたんだよ。やってられるかっての」
「私には服飾の流行はわからん」

 制服姿の天川は興味がなさそうに受け流し、カイに目配せした。いつもの澄ました声でレポートが読み上げられる。

「被害に遭うのはほとんどが成人男性か高校生以下の女性です。はじめは無差別だったんですが、だんだん傾向が定まってきました」
「高校生以下の女性、というのは判るんだが、成人男性というのが変わっているな。私も他人事ではない」
「天川二佐は平気だろ? 犯人はロリコンとゲイを併発してる変態で、俺みたいな色男を狙ってんだよ」

 カイは笑いをこらえてここぞとばかりに反撃してきた。

「……被害に合ってる成人男性はほとんど三十代から四十代のサラリーマンです。管理職で、写真を見ると頭髪が寂しいタイプが多いですね」
「頭髪が寂しい!? おい、ふざけるなよ」

 吾朗は資料をひったくり、被害者リストをぺらぺらとめくった。男性陣はたしかにカイの言ったとおりのスペックばかりで、足元がぐらつく。ハルは生真面目に助け舟を出す。

「お前はハゲるにしてもあと十年くらいはかかるだろうから、安心しろ」
「慰めどころがズレてるだろうが! 俺の色男キャラに関わる大問題だぞ!?」
「吾朗さんもそろそろ中年に片足突っ込んでるってことですよ。事実を受け入れて、そのろくでもない肩書きもいい加減返上したらどうですか」
「……騒ぐな」

 カイまで乱入して収集がつかなくなりそうだったが、天川は一言で三人を黙らせた。咳払いをし、わざわざ厳かな口調で吾朗に質問する。

「篠埼上級曹長。被害にあった経緯を説明しろ」
「アイ、サー……本日○五二三、千葉県習志野市××路上にて、容疑者に遭遇。自転車走行中に刃物で当方衣服を切り裂き、逃亡。容疑者は黒の学生服を着用した少年と視認」 「追いかけなかったのか」
「不意打ちだったしな。『鬼』かどうか判らないから銃撃するわけにもいかない。それに俺は警察官じゃない。何をやってただの思い当たる人物はだの、お巡りごときにアレコレ聞かれるのは勘弁だぜ」
「いつものことだが、自衛官としての自覚に欠けている。それで、お前は一体何をしてたんだ。恨みを買ってるような人物はいるのか」

 毒づいた吾朗に、天川は情もなく畳みかけて来た。詰まってハルを見るが、かえって先を促すような目つきで威嚇された。カイははなから高見の見物をきめこんでいる。吾朗はしぶしぶ話しだした。

「恨みを買ってる心当たりは、最近はないね。バチカンの狂信者連中だとしても、やり口がちゃち過ぎる。何をしてたのかについては回答義務はない。勤務時間外における隊員のプライバシーに必要以上の介入をするのはパワーハラスメントだ」
「篠埼上級曹長。回答義務については上官である私が定める」

 天川の当たりはがぜん厳しくなった。吾朗はいやいやながらも打ち明ける。

「恋人と逢ってた。家に送った帰りだよ」
「その『恋人』というのは定期的な関係にあるのか。男か、それとも女性か」
「……ここ一カ月くらいは続いてるよ。女だ」
「既婚だったりしないだろうな」
「……ノー、とだけ報告しとく。これ以上の詮索には黙秘するからな」
「シノサキ。バチカンに引き渡されたいのか」

 天川が腕組みして注意する。吾朗はじろりとにらみ返した。

「聖遺物もノシ付けて返すんだな。今までの特殊案件も陸自の犯罪行為も全部、司教に告白してやる」

 剣呑になってきた雰囲気の中、カイが手を上げた。

「……天川二佐、よろしいでしょうか。上級曹長にもプライベートはあるでしょうから、僕らは退室します」
「許可する。尋問が終わったら呼ぶ」
「ハルさん、行きますよ」

 二人が消えると、天川は態度を軟化させた。

「嫌なんだろうが、話してくれないと困る。この場合、報告書を書くのは私なんだ」
「俺にしてはマトモな付き合いしてるほうだよ。相手の実名まで言わなきゃダメか?」 「年齢、性別、職業、既婚未婚だけでいい」
「性別は女。職業はフラワーショップ店員。バツイチで今はフリー、年齢は……はっきり聞いてないが、三十は越えてるんじゃないのか?」
「年齢も知らない相手との交際を世間では『まとも』と言わない。離婚歴ありか……前夫に恨まれてるんじゃないのか」
「……夫との話なんか聞いたこともねーよ。素行調査もいい加減にしろ」

 イライラしてきて、吾朗はふんぞり返った。天川が諭してくる。

「プライバシー干渉と云うが、機密保持の観点からも、群の性質上も、任務の特殊性においても……君たちへの素行調査は特別に許されると考えている。さらに理屈から言えば、婚姻、交際等に関しては特群服務規定に相手の素性を提出することとあったと記憶している」
「とんでもない人権侵害だな、今に始まったことじゃないがな」
「国際指名手配の犯罪者を匿って、罰金まで肩替りしてるんだ。お前に関して酌量はない」

 言いきって、天川は身を乗り出してきた。

「この規定は交際相手の安全も考慮してのことだぞ。お前自身は無頼な生き方でいいんだろうが、彼女が堅気であればあるほど、こちらの責任も増す」
「水商売の女ならどうでもいいってか。俺はアンタのそういう所が嫌いなんだよ」

 天川は無言で立ちあがり、表情を殺して言い渡した。

「篠埼上級曹長。私がなぜ君を階級付きで呼んだか判るか」
「……自覚を促すとかだろ、今さら白々しい」
「君ももとは軍役に服していた身だろう。君には『上級曹長』の肩書があるが、これは叩き上げの下士官が最終的になれるかなれないかという名誉ある階級だ。無論、従軍経験、特殊技能、戦闘能力、学歴、任務内容……すべてを加味して私が与えた待遇だから、こちらにも一旦の責任はある。ただし、夏の事件といい……従来からの素行不良に加え、上官への反抗、命令拒否……最近の職務怠慢は目に余るものがある。同僚からも不興を買ってる。だからこそ、私自身の責任において、篠埼上級曹長、君の階級を一時剥奪する。反論はあるか、起立したまえ」

 吾朗は椅子から立ち上がり、自衛隊式に拳を握って気をつけした。そして苛立たしげに言い返した。

「LTC would take the right measures to discipline a foolish sinner. Actually what you said is logically correct, But I supposed that you and your organization would totally disregard of the morality as I do.(天川中佐のおっしゃる処分は当然で、論理としてもまったく正しいんだが……モラルに関しては、アンタも陸自も俺とどっこいどっこいだよな)」

 嫌味たらしい英語の挑発を聞きながして、天川は溜息まじりに繰り返す。

「言い分は理解できないが、お前の不服は了解した。処分に関しては先ほどの通達通りだ。通り魔については『鬼』だという確証がないし、情報局からその他案件も上がっていない。今は危急体勢ではない……したがって、懲罰措置として、陸自の入隊プログラムを受け直してもらう。無論、特群守秘義務に関しては遵守、私からの召集には応じること。手配しておくから、明後日より宿舎に入れ。受講期間中は駐屯地外での許可なき活動を禁じる」
「Roger.」

 感慨なく了承した吾朗に、天川は言い足した。

「入所前にはその女性と連絡をとっておくように。本当に『まともな付き合い』をしていたのなら……心配させてしまうからな」
「命令ですか」
「従う義務はない。理解したなら下がりたまえ」

 吾朗はわざとらしく敬礼して、ひとりミーティングルームを後にした。くさすのも愚かしいほどの茶番だ。ちらりと脳裏を弥栄子の姿がかすめ、首を振って打ち消した。

 同じころ、電算処理室にて、カイは警視庁専用の住民情報基盤データベースを検索していた。ハルは隣で画面を見ているだけだったが、そのうち我慢できない様子で切りだした。

「自業自得とは言え、仲間の私生活を密告するのはまずかったんじゃないか」 「ハルさんこそ、気色悪く言い寄られて迷惑だったんでしょう。処分が下るにせよ訓戒どまりにせよ、吾朗さんにはいい薬ですよ」

 吾朗の最近の所業に関して天川に逐一報告したのはカイだった。彼が今何をしているのかというと、吾朗が口にした『恋人』こと甲野弥栄子の経歴調査だ。プライバシーに配慮して退室したはずなのに、如才なくハルから詳細を聞きだしてはさっそくガサ入れを始めている。まさに血も涙もデリカシーもない。

「短大出ですぐ結婚ですか……離婚したご主人は、ほう、九州のご出身……典型的男尊女卑風土の片田舎ですね。子どもは男の子が一人。年齢からするとおめでた婚ってやつなんでしょうか」
「どうでもいいだろ、そこまで調査するのは悪趣味だぞ」

 注意したハルに、カイは不敵に笑った。

「僕、この手の『若くして不幸に陥る美しい女性』のフェチなんです。吾朗さんはせいぜい禁慾、謹慎するべきなんですよ」
「おい」
「息子さんはどんな子なんでしょうね。美人の母親って結構ゾクゾクするもんですから、きっとめちゃくちゃ歪んでますよ、ふふ……」

 あきらかに公私混同の際どい台詞が連発されて、ハルは冷や汗をかいた。品行方正、いまどき珍しい真面目大学生を地でいくカイが言うこととは思えない。童顔で男くささのないジャニ系の美形という大人しめな外見もアンモラルを加速している。人は見かけに寄らないものだ。ハルは自分の思いこみを反省し、今さら認識を改めた。カイは気の向くままにクエリを入力して、他人の半生を楽しそうに覗き見ていく。

「それに、実際危険でしょう。吾朗さんはただでさえ自分の身分にガード甘いし……特戦の家族ってばれただけでも人質になる確立って上がるんですよ、把握だけはしておかないと。前回の女子高生事件も、さっさとこうして素性調査しておけばよかったんです」

 とうとうと理論武装しながら、カイはアクセスキーを軽やかに打ち込み、遠慮なく個人情報を読み上げていく。

「離婚して姓が変わったのも最近ですね。息子さんの名前は甲野真くん、十五歳ですか。あれ、でも……年からすると学年が合わない」
「ん? どういうことだ」
「十五歳なら、中二のわけがないですよね。一学年上です。留学でもしてたのかな……そこまでは判らないか。単なるデータ入力ミスですかね」

 カイは顎に手を宛てて、転校先の中学の在校生リストにアクセスした。そこでも、生年と学年は釣りあわない。首をかしげ、中座した。

「うーん……ちょっと電話してきます。ハルさん、ログアウトしておいてください」

 ハルは言われた通りにログアウトし、プリントアウトされた資料を読み流した。内容はカイが要約したとおりだったから、つけくわえる感想もなかったが、自分もかつてはこのように経歴を箇条書きすることができたのだ。だからやりきれない想いがした。生年、小学校、中学校……高卒認定資格だけは取得したが、学歴自体はそこでストップしてしまったし、名前も本籍も何もかもが変わってしまった。家族はどうしているのだろうか。母親のことが真っ先に頭に浮かんだ。まだ若かったのに子宮がんになって、薬物治療で病院通いだ。父は足しげく母の通院に付き添っていたし、兄だって社会人足がけで大変そうなのに、一手に家事を引き受けていた。弟も高校受験で、予備校通いの必要がないよう、かなり根詰めて進学校を狙っていた。そんなシリアスな状況下で、一番負担のなかった晴樹が、辻斬りにまきこまれて死亡扱いになった。自衛官の錯乱による犯行、という説明で、実家には慰謝料が支払われたらしいが、額面は知らない。ハルは逡巡し、もう一度住民情報基盤データベースにシステムログインした。さかもと、と打ち込んだところで、カイが戻ってきた。入力フォームを見て、容赦なくクエリを削除し、駄目押しでにっこり笑った。

「何やってるんですか? システムログイン権限は僕だけに許可されたものですよ」
「……出来ごころだ」
「パスワードは後で変更しておかないといけませんね」

 カイはパソコンの前に座りなおし、差し入れのいちごオレを渡してきた。ハルは潔く謝る。

「すまない。くにの家族が気になった」
「ハルさんの立場からしたら当たり前ですよ。チクったりしないですから安心して」

 さらりと前置きするカイを信じられず、ハルはうつむいた。勇気を出して尋ねてみる。

「お前は……その、十八で俺たちのチームに加わったが、故郷のことは気にならないのか」
「どういった意味でしょう」
「迷惑かけたとか……何と言うか」

 自分の境遇が境遇なので、ハルは今までずっとカイの事情を訊けないでいた。一年前のカイ加入時には、礼儀正しく挨拶をした年下の高校生を見て、その健気っぷりに驚き、ひそかに胸を痛めたものだ。吾朗はそもそも他人の事情に深入りしたがらないから、話題になることもなく、死線を共に越えているというのに過去を知らずにきてしまった。ハルとしては決死の斬り込みだったのだが、カイはストローをくわえながらおそろしく自然に答えた。

「僕、実家からここに売られてきたので」
「……理解がついてこないんだが」
「だから、実家は僕が殺人犯になることも、戸籍上まったくの別人になってしまうことも、死ぬかもしれない任務につくことも、すべて了承済みですので」
「嘘だろ」
「とんだ肩すかしですよね、ハルさんのようなドラマチックな悲劇とかでなくてすみません」

 ハルは絶句した。打ち明けてもらったのはいいが、コメントすら思いつかない。ビジネスライクにも程があるだろう。カイは笑って続けた。

「あと、吾朗さんに関してですが……あの人、僕の父親に似てて極めてロクデナシなんですよね。さすがに吾朗さんのほうが苦労してるので、人間性は若干上まわりますけど、女遊びが激しいってだけで、僕の中では最低ランクの人間です。当たりが厳しいのはそういった個人的事情ですので、ハルさんはご心配せずに」
「え、吾朗より最低の人間ってこの世に存在してるのか」

 本人が聞いていたら涙目で壁ドンしそうな会話が繰り広げられはじめた。カイはこの上なく楽しそうに言い連ねる。

「いっそ、ハルさんに斬ってもらいたいぐらいですよ。吾朗さんはゲイでサドで好色でアナーキーですけど、うちの父親はロリコンでサドで好色で人でなしでおまけに生活能力ゼロで無責任、天才的なヒモ気質ですから、僕的ランキングではやっぱり父親のほうが最下位です。ダントツのぶっちぎりですよ。吾朗さんはあれに比べれば正直かなりマシな部類ですね」

 ハルは予想外の毒舌に再び黙りこくる。カイは平常モードに戻ってエディタを立ち上げた。

「ところで、甲野弥栄子さんの息子くん、かなり怪しいです。大学の友人に聞いたんですけど……」
「どういうことだよ、どっから取ってきてる情報なんだ」
「女子に取りいると色々とはかどるんですよ。卒業生だとか……極め付けには妹が在学してるとかのツテがありまして、写真まで入手出来てしまいました。甲野真くんは、今年の二学期から二年生で転校してきたらしいんですけど、初日から男子制服を着てこなかったそうなんです」
「……えーとだな」

 ハルはまた理解がついていかない。男子制服を着てこなかった。じゃあどうやって登校してきたのか。全裸か。ジャージか。

「要するに、女子制服で登校してきたってことですよ。当然、中学校なんか大騒ぎ。本人はそれ以降ほとんど登校してないとのこと。いい感じに歪んで育ってます。転校のいきさつについても……案外、離婚ってだけの理由じゃないのかもしれませんね」

 他人事にはおそろしくドライで勘ぐりが下衆である。ハルは非難がましくカイをこづいた。

「いい加減にしろ。母親のほうには俺も会ったが、逆境にもめげないで頑張ってたぞ」
「ますます僕の好みに近いじゃないですか……ところで、甲野真くんの写真ですが」

 カイがスマートフォンをさらさらと操作して、ハルに見せつける。端末の中には小鹿のような手足をしたセーラー服の少女が隠し撮りされていた。

「一目瞭然、素晴らしい倒錯っぷりですよね。女子校に転校させても第一級の美少女で通ります。この男の子は怪しいですよ。吾朗さんには心苦しいですけど、特別に調査する必要があると思います」

 ハルは画像を見て、セーラー服を見て、顔立ちを確認して、息を呑んだ。そして急に真顔になった。

「こいつだったのか。新庄が話してた『友達』ってのは」
「それは……興味深い成り行きですけど」

 カイも脚を組みなおして、ハルにあらためて向き直った。カイのスマートフォンに天川からのコールがかかる。二人は目線を合わせ、システムをシャットダウンして呼び出しに応じた。 5

 午後一時。吾朗は天川の忠告どおりに恋人を待っていた。お節介に従うようで大変に面白くなかったが、迷惑をかけても仕方がない。退勤の道すがら、約束だけでもさっさととりつけてしおうと、弥栄子にメールを打った。「真のことも含めて一度話したい」と切りだしたところすぐに返信があった。わざわざ昼休みに店を抜けてくるとのことだ。吾朗は疑いもせずこの駅前通りはずれのビルに直行した。カラオケとパチンコと居酒屋が店子に入った遊び場で、弥栄子が指定するには少々違和感があるロケーションだ。じゃらじゃらと玉の音がうるさく、行きかう顔ぶれもあまり健康的ではない。全くの私用での早退になるから、弥栄子も人目につきたくないのだろうか。

 本当は、この処分を期に、二人の仲を白紙に戻してしまってもいい。三カ月の入隊プログラム再受講は、連絡を断つのにはもってこいの言い訳だ。バツイチ子持ち、地元に出戻ったらロクデナシと縁が出来て、子どもの話をした途端に男からは音信不通。絵に描いたような不幸話だが、吾朗が遊び人というのは向こうも分かっていただろうし、「その気がない」のも伝わるだろう。実際、互いの日常に踏み込むにはタイミングが早すぎる気はしている。後になって予想されるごたごたはともかく、逃げきろうと思えば逃げ切れそうだった。

 ……ただ、今朝見た安心したような素顔を思うと後ろめたさが腹を焼く。他者との縁を使い捨てるのにも臆病になってきたのかもしれない。

「あなた、どうしてここにいるの」

 つぶやくようなか細い声に呼ばれて、吾朗は目を見張った。湿布のような鼻につく臭いがする。振り返れば、そこには忌むべき黒セーラー。新庄だ。吾朗はいつもの調子でうそぶいた。

「不幸、不運、不愉快のトリプルリーチってやつか? お前こそどうしてこんなところに」 「呼ばれたから」

 新庄は灰色がかった髪を揺らして、入口を睨む。自動ドアから入って来たのは、白地に紺のセーラー服、弥栄子の愛娘の真だった。思いもよらない邂逅に、吾朗は目を細める。

 黒髪、ボブカット、猫のようにコケティッシュな瞳。さらりとした頬はほのかに火照り、唇はさんご色につやめく。目もとは露を添えたように潤んで、透き通ったもともとの美貌に妖しさを添えていた。自信ありげな微笑みは、花屋の店先でおどおどしていた時とは別人のようだ。偶然にしては間が悪い。

「真ちゃんじゃねーか、……っと、学校の帰りか何かか? お母さんは……」

 まごつく吾朗に挨拶もせず、真はいきなり新庄にしなだれかかった。

「新庄ちゃん、この人が今日の『お客さん』だよ」
「は? 『お客さん』って……」
「新庄ちゃん、ボク今日もどこもおかしくないよね? チェックして」

 驚く吾朗を無視して、真は新庄から離れ、美貌を見せつけるようにくるりと回った。ふわりとスカートがひらめき、短い裾からのぞく太腿が真珠のように輝く。紺のニーハイで締め付けた脚はしなやかに長い。新庄は感情なくオウム返しをした。

「あなたは今日も見た目はどこもおかしくない」
「ふふ……ありがとっ! 新庄ちゃんも今日も最高にカワイイよっ☆」

 真はわざとらしく照れてみせた。吾朗は呆れかえる。たしかに、見た目だけなら文句なしの美少女だ。けれど一つだけ不釣り合いな要素があった。女ではありえない、変声期のかすれ声だ。

「男の子とは、恐れ入ったぜ」

 吾朗は顔をしかめつつも新庄に目配せした。こいつとくるんで俺を落とし入れようとしてんのか? 表情にはせめてそれだけの非難を含めた。新庄はじっとこちらを見つめ返して、かすかに首を左右に振った。そして真を冷ややかに見やる……どうにも成りゆきがおかしい。真は売春の斡旋としか思えないような台詞を吐いたが、新庄クラスの妖(あやかし)を人間が使役するには、カイくらいの使い手か、狐憑きの血筋でなければ無理なはずだ。驚きと嫌悪から、一気に警戒へとフェーズが移行した。新庄の臭気にはあいかわらず吐き気がしてくるが、一時休戦するしかなさそうだった。

 二人の通意にも気づかず、真は背後から新庄に抱きつく。なまめかしく指をからめて、恋人つなぎをした。きわどい接触にもかかわらず、新庄は動じない。いつもの鉄面皮のままだ。真はその肩を抱いて、夢見るような眼差しで頬ずりまでする。造り物のように整いすぎた二人の少女の触れ合い。遠目ならば、仲のいい友達同士のじゃれあいにも見えただろうが、どちらも中身は少女ではない張りぼてだ。吾朗は溜息まじりに水を差す。

「……乙女二人の生唾サービスもそろそろ店じまいでいいよな?」

 いとおしそうに新庄の髪を梳いた真は、ようやく吾朗に視線を合わせた。誘い込むように目を細め、笑いかけてくる。

「シノサキさん、こんばんは。今日はお母さんに大事な話があるんでしょ? ……どんな話なのか、真と新庄ちゃんにも教えて」
「大人同士の話だから、真ちゃんには後で結論だけ伝えるよ。お母さんはどうしたんだ」

 真はそっけなく答える。

「仕事」
「そうだよな、まだ店にいるか」

 受け流しつつも吾朗は考えた。おそらく、待ち合わせの相手は最初から弥栄子ではなかったのだろう。吾朗からのメールを見つけた真が、母親の携帯から勝手に返事を打った可能性のほうが高い。……ということは、弥栄子はここには来ない。真はうすっぺらく笑って再び誘う。

「ボクもシノサキさんとおしゃべりしたいよ」
「はは……真ちゃんと仲良くなるのもこれからの事を考えれば悪くはないよな。場所はどこがいいんだ?」

 本心を押し隠し、へらりと笑って吾朗は乗った。真は蓮っ葉に指図してくる。

「このままカラオケでも、シノサキさんのおうちでもいいよ。どっか連れてってくれるなら車がいいな」
「まずはカラオケでいいんじゃないか? 俺の家はその後だな」
「ねえ、ドラッグストア寄っていい? お家で遊ぶにはお菓子とか色々買わなきゃいけないもんね」
「金は出すからついてきな」

 まさに援助交際ぎりぎりのやりとりだ。吾朗は警備員に聞かれていないかひやひやした。

 真が近くのドラッグストアで買いこんだ商品は、値引き品の菓子と性交用ローションとコンドームだった。当然、会計で店員に不審の目で見られていたが、手慣れた風情で意にも介さない。挙句には入口で待っていた吾朗と新庄に中身を見せて、準備オッケーと浮かれて見せた。ビルに戻り、機種おまかせのフリータイムでカラオケに入り、適当に曲を流しながら吾朗は新庄の出方を待った。

「あ~、甘いもの美味しー」

 注文したフロートをぺろりと平らげて、真は安物のソファに沈む。新庄はフリードリンクのミルクティーにちびちび口をつけている。十代が聞くような日本語の曲など吾朗が知るはずもなく、狭い個室は選曲ネタが尽きてすぐ静かになった。口火を切ったのは新庄だった。

「私、もう帰らなきゃ」

 すっくと立ち上がった新庄に、真がからむ。

「えぇ、寂しいよ。新庄ちゃん、一緒にいよう……? ボク一人じゃはじめての人とはまだ怖いよ」
「夕飯作らなきゃいけないから」
「そんなのしなくていいよ、またお金あげるから……お弁当買っていけばいいじゃない。ね?」
「いらない」

 新庄は情も未練もなさそうに部屋を出た。去り際、また何かを訴えるようにこちらへ視線を送ってくる。何とか隙を見て中座する必要がありそうだ。新庄がいなくなると、真は目に見えて機嫌が悪くなった。通信機をペンでやみくもに押して、機械に悲鳴をあげさせている。オヤジ臭い質問だな、と自嘲しつつも、吾朗は尋ねた。

「真くん、こういうことはよくやってるのか。金とってんだろ、やめらんなくなるぞ」
「昼間に時々ね……お金取るのは当然でしょ。お母さんには話さないでね」
「知ったら卒倒しちまうだろ……あの子とはどういう関係なんだ?」
「とぼけないで、新庄ちゃんとシノサキさんは知り合いじゃない……彼氏がいるなんて、ボク、こないだまで知らなかった。カノジョにしたかったのに残念だな……同棲してんだってね。ガタイが良くてカッコよかったけど……中身はどんな人なの?」

 真は人が変わったようにずけずけ言い返してきた。吾朗はぴしゃりとたしなめる。

「お母さんに聞きな。一度会ったことあるから」
「シノサキさん、ボクのこと応援してくれるって言ったじゃない……それに、いい大人があんなカワイイ子とエッチするなんて犯罪だよ」
「まぁ、見た目的にはそうかもな」
「ほらね、シノサキさんの周りにはヘンな人しかいないんだ」

 吾朗は不快を露わにして黙った。自分についてはどうでもいいが、ハルをコケにされると腹が立つ。真の内面は外見とは違って、いけすかない中学生そのものだった。世話を焼く気も失せてきてしまう。真は馴れ馴れしく続けた。

「……だからこそイイんだけどね。僕もヘンタイだから。シノサキさんだってそうでしょ? 男同士でもオッケーなんでしょ……お母さんから聞いたの。ね、エッチしようよ」

 おそろしく展開が速い。真は何もかも見透かしていると言いたげな、鼻もちならない笑みを浮かべて、セーラーの下のスカーフをしゅるりと抜いた。音をたてて取ったことすら計算の内だろう。胸当てをはだけ、吾朗の膝の上に乗ってかがみこむ。ぎしっとソファーが鳴る。少年のものでしかない尖った鎖骨と、陶器のようなつるりとした平たい胸が見えた。弥栄子にゃ悪いが、こいつ相当にイッちまってるな。吾朗の内心の嘲りも知らず、真はどんどん手順を進めていく。

「ボク、エイズとか持ってないから安心して。っていうか、シノサキさんはうちのお母さんと寝てんだよね?」
「プラトニックなお付き合いだぜ。こんないけないことしてないで学校行けよ」
「夜にしか会ってないくせにプラトニックはないでしょ。うちのお母さんを好きな男の人はたいてい、ボクのほうも愛してくれるから、全然気にしてないよ」
「おい、どういうことだ」
「ふふ……秘密」

 ぎょっとした吾朗をからかうように、生々しい紅い唇が微笑んだ。内心ドン引きしつつも、キスされて、ストールを外されて、シャツのボタンを外されて、胸をまさぐられて、首筋に吸いつかれて、服の上から腰を撫でられる。中学生のくせにひどく慣れた手つきだ。吾朗は抵抗ひとつしなかった。耳元で熱い息がささやく。

「したいでしょ……? シノサキさんもヘンタイの仲間だもん、お母さんでもボクでも同じでしょ? いつかボクのお父さんになるかもしれないんだから……ちゃんと責任はとってよね」

 こういうやりたいだけの迫られ方久しぶりだな、と他人事のように思う。わざとされるがままに任せて、耳を吸わせて、ボトムを開けさせる。真が顔をしかめた。

「ん……そっか、ここじゃヤダ? ボクを触る? それとも見たい?」
「ていうか、俺は男相手だと基本ネコだからな」

 ハルにあんだけ付きまとっておいてどの口が言うかと自分でも思ったが、それでも逃げを打った。あながち嘘でもない。真は信じたようだ。ぺろ、と薄い唇を舐めて、いやらしく笑う。

「じゃあ……挿れさせてくれるの?」
「ここじゃダメだ、あと金は払わねーぞ」

 ボタンをなおしてジッパーをあげて、時間をかせぐために吾朗は前置きした。こっちには時間がない。明後日から新入隊員と同じ立場でしごかれるってのに、中学生に掘られてる場合じゃない。真は執念深く念押ししてきた。腰や背中を熱心に撫でまわしてくる。

「ボクにするんじゃなくて、させてくれるんだよね? ……じゃあお金なんかいらないよ」

 声が喜色にまみれてとろけている。一瞬ぞっとしたが、萎えさせると後が厄介そうだったので何も言わずに目をそらした。真はこの上なく愛おしそうにこめかみに口づけしてくる。そして嬉しそうにつぶやいた。

「今度はカッコいいお父さんで良かったあぁ……ボクにするんじゃなくて、たっぷりたっぷり刺させてね? 真ももう大人になったんだからいいでしょ?」
「……会計してくるから待ってな」
「えーっ、逃げないでよ。逃げたら即効でケーサツ呼んじゃうからね」

 ほうぼうの体で個室を出て、奥まったトイレを目指す。ドアの前にちょこんと座り込んで、新庄が待っていた。セクハラされた腹いせに、吾朗はメダイを見せつけて凄む。

「おい女狐、どこで引っかけやがったあんな奴。返答によっちゃ、今ここで塵に返しちまうぞ」

 新庄はひるみもせずに釈明する。

「真はしつこい。それにずるがしこい。私が盗みをしたようにたばかって、ハルを困らせようとしてる」
「ああそうかよ。ハルに迷惑かけるなんてグールの分際で生意気だ……裁いてやるから覚悟しな」

 イライラしながらつめよるが、新庄はやはり動じない。

「最初は公園で話しかけられた。寝巻きを検討しないといけないと相談したら、店に連れていかれて……手荷物に売り物を入れられたの。真は私を盗人とたばかった」
「セコい手に引っ掛かりやがって……世間知らずもいい加減にしろよ。それで?」
「昼間はずっと一緒にいろって言われてる。今日のようなことにも立ち会わないといけない。この間はねぐらまでつけてきた」
「マジで気持ち悪い奴だな。どうして抵抗しないんだ」
「さもないとハルのことを訴えでるって。私と一緒に住んでるというだけで、嫌疑はかけられるみたい」

 吾朗は腹立たしげに頭をかいた。新庄は高く見積もっても中学生くらいにしか見えないから、そこをつけこまれたのだろう。新庄は後ろめたそうに続ける。

「ハルには事情を打ち明けた。二度と会うなと言われているけど……私が真に付き合ってればハルに危害は及ばない」
「もう充分迷惑はかけてるだろ。今すぐ塵に返っておけよ。それが一番の解決法だ」

 じゃらりとロザリオを鳴らした吾朗に、新庄は強気の態度をひっこめた。一度うつむいて、気をとりなおしてまた顔を上げ、素直に頼ってくる。

「……ここで私を祓っても真はいなくならない。一体どうすればいいの」

 舌うちした瞬間、意地の悪い声が呼んだ。

「ひっどーい、ボクだけ仲間はずれ?」

 セーラーの前をはだけた際どい格好のまま、真が歩いてきた。ためらいなくスマートフォンをかかげて、パシャリと撮影音を鳴らす。

「早くお家に戻ろうよ。ボク、待ちくたびれちゃった」
「急かすんじゃねーよ。やらせてもらうんだから大人しくしてな」

 邪険にされて、真は怖いくらいに敵意をあらわにした。馬鹿にしきったような顔で端末を操作すると、くぐもった音声が再生された。『真ちゃんと仲良くなるのもこれからを考えれば悪くないよな。場所はどこがいいんだ?』『金は出すからついてきな』。ほかならぬ吾朗の台詞だ。駄目押しのように脅迫がはじまる。

「交番に駆け込んで、泣きながらこれを再生すれば……ホントかどうかはともかく、シノサキさんは捕まっちゃうよね。お母さんに手出して、息子にも色目使って援交なんて……世間様がどんな顔するかな? 二人とも、自分の立場は弁えたほうがいいよ」
「卑怯者」

 新庄が短くののしる。真はにっこり笑って強気に出る。

「か弱い少年に淫行するなんていけないことでしょ。当然の制裁だよ」

 吾朗はやけになって申し出た。

「わかったわかった、お前が希望するプレイは何だよ? ハメ撮りでもSMでもこなしてやるから言ってみな」
「さっすが、話が分かるぅ……♪ 気が強そうでゾクゾクするよ。メチャクチャにしてあげるからね」

 愉悦の笑みをうかべた真は悪魔のように命令した。

「受付に頼んでタクシー呼んで。寄り道なんて許さないよ」

 新庄が白けた目で咎めてきたが、吾朗は粛々と従った。

「シノサキはしばらく降格処分だ。入隊プログラムを受けなおさせる」

 ミーティングルームに戻ったハルとカイに対して、天川は開口一番それを通達した。そして言い淀みもなく任務指示に移った。

「さて、県警から先ほど追加情報が入った。通り魔事件の被害者のうち、何名かが自宅で変死していたとのこと。遺体状況が尋常でなく、十中八九『鬼』の仕業だろうとの結論で、EXCU申し送りとなった。発現次第、警察および裁判所より捜査権及び執行権が全面移譲。死刑執行要請が入る予定だ。明日〇〇三〇以降、二名ともに超級対策装備で基地内待機すること」

 同僚の処分に顔を見合わせる間もない。カイが歯切れ悪く質問する。

「吾朗さん……いえ、篠埼上級曹長は戦闘には参加されないのですか」
「今回は参加させない予定だ。本中一曹、何か不調はあるか」

 天川はハルに調子を尋ねた。ハルは正直に答えた。

「……最近、気分に落ち着きがなく、現在も多少、動揺しています」
「身体的にはどうだ」
「刀がないと不安になって吐気がすることがあります。シノサキは……『問題ない』と」
「留意する必要はあるだろうが、今回、篠崎は本部での通信役に留める。これ以上質問がなければひきつづき遺体状況からの敵性分析に移る」

 天川は眉間にしわを寄せたものの、処置は覆らない。戦闘に助力はおそらく期待できない。カイがおそるおそる再び手を上げた。

「天川二佐、報告があります」

 吾朗の交際相手である甲野弥栄子と、その息子・真についての報告だった。天川はうなずきながらメモをとる。ハルも気を取り直してつけ加えた。

「息子の真ってやつは、新庄にもつきまとってる。最初は『友達』ができたと言ってたんだが、どうも弱味を握られたらしくて売春まがいの事に付き合わされてたらしい」
「新庄さんがか……個人的に心配な話だな。加害者のターゲットには女子中学生も入っている」
「客はほとんど三十代から四十代……要するに被害者世代の男が多くて、若いのには目もくれないみたいだ。新庄は俺に迷惑がかかるとずっと秘密にしてたんだが、妙にチャラチャラした服が押し入れから大量に出て来たんで、問い詰めたら打ち明けられた」

 天川は椅子に沈みこみ、しばらく思案していた。カイがスマートフォンの写真を見せる。

「彼の写真です。大学の同級生に卒業生がいて、ツテで送ってもらいました」

 画像を見た天川が面くらう。おおかた、テレビで見かけるお笑い芸人の女装程度を想像していたのだろう。

「これが本当に男の子か?」

 ハルが天川に訴える。いつもの無口が嘘のように、糾弾の声には怒りがこもっている。

「俺も初めは女かと思ってた。新庄とよく昼間一緒にいてくれてたから、あいつにも友達が出来たのかと喜んでたんだが騙されてた」
「それで新庄さんもその……売春まがいの事を強要されているのか」
「新庄はその場で見てるだけみたいだ。あいつなら、男に無理強いされても逃げるだけの力はあるし……でも、この真ってやつは許せない」
「同感だ。新庄さんは妖怪だから被害にあっても法には問えないが、だからと言ってこの少年を見逃してやりたくはないな」

 天川は汚物でも見るような目で画像をもう一度確認し、カイにスマートフォンを返した。

「……今後、私的な情報ソースを利用するときは事前に届け出るように。それで母親のほうはどうなんだ、シノサキの恋人と言う話だが事実なのか」
「吾朗さんの携帯から通話履歴を調査すれば手っとり早いと思います。キャリア会社にログを要求してもいいですが」
「こうなったら拒否はさせんさ。退勤させたが、召集するから待つように」

 天川は携帯で吾朗を呼びだし始めた。コールがかかるが、電話に出ない。留守電にメッセージを吹き込んだものの、さすがに腹が立ったようだ。苦虫を噛み潰したような顔で通話を切る。

「公金で養われている身のくせに何をやってるんだ、あいつは……! 感情任せに動くのもいい加減にしろ」
「ぼ、僕も電話してみます……!」

 慌てたカイがハルをせっつく。二人で交代に電話をかけたが、一向につながらないままだ。ハルは首をかしげた。

「召集にまで応じないのはさすがにおかしいな」
「僕たちが電算処理室に移動してからもう一時間以上たってますし、電波の届かないところにいるんじゃないでしょうか。さっきまでは非常事態じゃありませんでしたし、入隊プログラム受講準備もあるでしょうし、悪気はないかと……!」

 カイがめずらしく吾朗の肩をもった。自分の苦情から引き起こされた事態なので、気がひけているらしい。天川は聞き入れない。

「言い訳にならない。私からの呼び出しに応じないのは既に職務怠慢の域ではない。君たちを営内勤務にすると置きどころに迷うんだが、あいつの場合は最良だろう」

 取りつく島もなく切り捨てて、天川が内線をかける。班付きの検視官である沢見に連絡しているのだろう。思う所がある顔で、ハルが天川に提案した。

「……ブリーフィングが終わったら、甲野弥栄子に会いにいってみようと思います」
「必要はあるのか」
「俺は一度話をしただけですが、母親はまともな人間でした。きっと協力してくれると思う……それに、吾朗が会いに行ってるかもしれない」

 ハルの意見に励まされたように、カイが同調する。

「母親から息子の居場所を聞き出せれば一石二鳥です。甲野真が『鬼』であるという確証がなくとも、別件での容疑はいくらでもかけられますし……身柄確保の名目で僕も同行します」
「ついでに新庄さんも回収しておいてくれ。待機開始時刻には遅れないように」

 天川の怒りは多少和らいだようだ。ミーティングルームのドアがノックされる。検視官が到着した。

「……沢見くん、入りたまえ。では、ブリーフィングに移る」

 資料が配られ、敵性分析が始まる。以後、吾朗の話題は出なかった。

 女子中学生ふたりとアラサー男という乗合いに、タクシーの運転手は訝しそうなまなざしを向けた。吾朗は二人を後部座席に回し、自分は助手席に座った。自宅の住所を告げると車が走り出す。真の目を盗んで携帯をチェックすると、ハルとカイ、極め付けには天川からのコールがかかっていた。何か事件があったとしか思えない。吾朗は運転手に断り、天川に連絡をとろうとした。機嫌のよかった真が豹変し、刺々しく注意する。

「シノサキさん、何やってんの? 一体誰に断って電話なんかしてんの」
「仕事がらみの連絡だよ。そうカリカリすんな」
「そんなの後でいいじゃない。今日のお仕事は終わったんでしょ。どうしてもっていうなら、ボクもどこかに『お電話』しちゃうから」

 吾朗は苦々しく携帯のフリップを閉じた。大の男が女子中学生に命令されているのはさすがに滑稽だ。運転手がさらにうさんくさげな表情をする。居心地の悪さを感じつつ、吾朗は道順を変えるように指示した。弥栄子の勤務するフラワーショップがある駅前通りだ。すぐさま、真が主人づらをして指図した。

「やだ、そっちは通んないでよ! 運転手さん、戻って!」
「真ちゃんはお母さんとこで大人しくしてな。俺は仕事が入ったんだよ。無視なんかしたら食いっぱぐれちまう」
「ふざけないで。今すぐケーサツに電話したっていいんだよ?」

 スマートフォンを印籠のように振りかざし、真が後部座席から身を乗り出してくる。運転手が驚いて注意したが、吾朗は既にとりあわない。ふてくされた表情で真はバックシートに沈んだ。隣にちんまりと陣取っていた新庄が静かに口を開いた。

「ふざけてるのはあなたの方。ずる賢い人間は大嫌い」
「ふーん……別にいいよ、大嫌いでも。新庄ちゃんだってどうせボクには逆らえないじゃない」

 真は形のいい唇に嘲りの笑みを浮かべて、新庄に向き直った。細い肩をがっしりと掴み、にやけながら顔を近づける。酔った中年のごとく、傍若無人な振る舞いだった。瞬間、拒絶の青光が眼前にはじける。まばゆさに目がくらみ、真は視界をかばってとっさに身を引いた。新庄の五指が、舞いの所作のようにしなやかに払われ、続けさまに青光の糸束が真を襲う。頬を熱い一閃がかすって、右手首は骨ごと貫かれた。痛みに呻く間もなく手指はあっけなく力を失い、脅迫の拠り所だったスマートフォンはシートに落ちた。真は焼けたような手首を押さえこみ、うろたえてつぶやく。

「な……何、今の……スタンガンでも使ったの?」

 疑問に応えはない。爪先からは青い燐火が未だにバチバチとはじけている。冷たい炎が鮮やかに弧を描き、あどけない顔立ちを不吉に照らしだた。その表情に怒りはなく、哀しみもなく……ただ侮蔑だけがかすかに浮かんでいる。うすぼんやりとした光はしだいに薄くなり、最後には火の粉を残して空気に溶けた。妖狐の使う術のひとつ、狐火だ。新庄は静かに断った。

「従っているように見せたのは、正体を教えたくなかっただけ。私に二度と触らないで」

 真はごくりと唾を飲み込み、表情をこわばらせて警戒している。吾朗はほくそ笑み、運転手に注文した。

「ドライバーさん、あの花屋の前で止めてくれ。釣りはとっといていいぜ!」

 万札をぞんざいに押しつけられ、異様な雰囲気に恐れをなしていた運転手は喜んで指示に従った。再びわめき出した真を無視して、花屋の前に車を停める。グリーンが爽やかに広がる店先には三つの人影があった。弥栄子と、カイと、ハルの三人だ。EXCUの二人はなぜか黒スーツ姿で、カイは背に天盤をしょいこみ、右手にはジェラルミンケースを下げている。ハルも竹刀袋を背に、防弾チョッキを羽織っている。車内に息子と吾朗を認めた弥栄子が驚いて駆け寄ってくる。説教タイムとストレス解消のお仕事とがいっぺんにご到着だ。テンションのギアが一気に引き上がる。吾朗は待ちかねたとばかりにタクシーから飛び降り、真を引きずり降ろそうとした。新庄も澄ました顔で後部座席から脱出する。

「ほら、お前も降りるんだよ、優しいママのお出迎えだぜ」
「いっ……ヤだって言ってるじゃん! ボクは帰らない! 運転手さん、払ったお金で行けるとこまで行ってよ!」

 真はもちろん金切り声をあげて抵抗した。ドライバーはもちろん中学生の指図など聞かない。半狂乱の息子を心配し、弥栄子がドアから車内を覗き込んだ。

「真! どうしたの、どうして篠崎さんと一緒にいるの!?」

 母親の顔を見るや否や、真は血相を変え、反対側のドアから転がるように降車した。呼びかけにも応じず、下を向いたまま走り出す。カイが舌うちして号令する。

「あれが甲野真! 重要参考人です、確保しなければ!」

 吾朗はとっさに目の色を変え、仕事モードに切り替わった。ストールをひらめかせて軽やかに駆けだす。

「へえ、アイツが怪しいんだな!? お待ちかねの標的だ、俺がとっ捕まえてやるよ!」
「あっ、待って下さい、吾朗さんにはまだ連絡事項が……!」

 カイの引きとめも聞かず、吾朗は真を追って消えた。新庄も無言で二人についていく。事態に置いてきぼりになったタクシーの運転手が困り顔で弥栄子に忘れ物を伝えた。

「あの、すまないんですが、この荷物、あの子の忘れものです」
「申し訳ありません、お手数をおかけして……」

 弥栄子は混乱しつつも頭を下げ、ドラッグストアのビニール袋を引き取った。タクシーは逃げるようにそそくさと花屋の前を発車する。嵐のような成りゆきに、弥栄子は溜息をつき、何の気なしにビニール袋の中身を確かめた。入っているのはローションとコンドームだ。品目のどぎつさに、弥栄子の顔は蒼白となる。まっとうな中学二年生には不必要ないかがわしい道具だ。バイセクシャルの吾朗と同行していたこともあり、嫌な想像しか浮かばない。

 弥栄子の表情がこわばったのを察し、カイが不躾に中を覗き込む。ハルとカイは刑事と偽って弥栄子に聞きこみをしていたところだった。黒スーツ姿もそのためだ。どちらも年が若すぎるため就活生にしか見えず、冷やかしと勘違いされ、進捗は捗々しくなかった。甲野真の氏素性などの基本事項を確認し、ようやく素行にまで話が及んだところで先ほどの一騒動だ。不利な証拠が出てきたのを頼みにして、カイが事情を糾弾する。

「甲野弥栄子さん。お伝えしづらい事ではあるんですが、真くんは不特定多数の男性を相手に売春行為をしています。先ほど真くんを追いかけていった女の子は、こちらの本中さんの親戚なんです。脅迫されて、売春の現場に付き合わされていたとのこと」 「……」

 弥栄子は唇を噛んでビニール袋を握りしめた。静観していたハルが続ける。

「あんたに仕事で会いたくはなかった。息子さんのことは……残念だが見逃せない。こっちの身内が関わってる」
「真くんと関係を持った男性数人が惨殺体で発見されているんです。彼が犯人かは未だ定かではないですが、参考人として連行する必要があります」
「……私は、真がそんな悪いことをしていたなんて信じません」

 弥栄子は口ごもりつつ反論し、黙りこくってしまった。しばらく沈黙が続き、ハルがぶっきらぼうに指示を仰いだ。

「俺はあいつを追わなくていいのか?」
「全員が散っては万一の際に支障をきたします。僕らはここで情報収集に徹しましょう」

 カイはそう判断し、じっと目の前の女性を観察した。弥栄子は抵抗の素振りこそ見せないものの、唇を引き結んで瞳を伏せている。息子に罪があらばあれ、もはや下手には口は割らないだろう。控えめに染めた髪をアップにまとめ、メイクは濃くないが隙もない。細身で長身の、少しだけつんとした美しい女性だ。分かりやすい棘こそないが、けっして近づきやすくもない。普通にしていればちょっと手が届かないような、高根の花タイプの女性である。カイは脈絡もなくにっこりと笑った。訪問時の第一声のような明るい声音で頼みなおす。

「甲野弥栄子さん……お話しを伺ってもよろしいでしょうか」
「話すことはありません。あなたたちは本当のおまわりさんじゃないんでしょう? 店番に戻っていいかしら」

 取りつく島もない様子に、カイは張りついたような笑みを崩さない。いつものように口で丸めこむでもなく、ふっと弥栄子の肩に手を伸ばし、つうっと何かをつまみあげた。弥栄子は怪訝そうに身をそらすが、カイははにかんであくまで好青年風に謝る。

「失礼、話の腰を折ってしまいましたが……髪の毛がついてましたので」
「え? あ……はい。ありがとうございます」

 長く細い、栗色の髪をつまんで、カイは満足げに微笑む。それだけなら少し怪しい親切心で済んだが、カイはそろりとスラックスのポケットに左手をつっこんだ。取り出したのは、人形に切った紙きれである。大切そうに手のひらに横たえて、回収した髪の毛を丁寧にくくりつけた。弥栄子は気味悪そうに尋ねる。

「あの……何をしてるの?」
「恋のおまじないですよ」

 カイは悪戯っぽくそう告げて、紙切れにはぁっと息を吐いた。弥栄子は途端に背筋をしゅっと正す。カイが目を細め、続けていとおしげに紙切れを撫でた。弥栄子が背を弓なりにそらし、怯えながら顔を赤らめる。触れられた感触がたしかにあったが、背後には誰もいない。カイが笑って語り始める。

「ふふ……甲野弥栄子さん、ですか。素敵なお名前ですね」
「そう言われたのは初めてですけど……あの、もう帰って下さい」
「離婚なさってるんですね。ご結婚はいつでしたか」
「は、はたち、の頃です……嫌、どうして、こんなこと話してるの……!?」

 弥栄子は勝手に回ってしまう口に怯えている。カイはほくそ笑んでその問いかけに答えない。手のひらに乗せた人形の紙切れは形代(かたしろ)だ。髪の毛を拠り所として弥栄子そのものと見たてられ、術師が息を吹きかけたことでかりそめの命を持った。はた目には児戯のような行為でも、カイほどの使い手ならば術となる。意味ありげなわずかな行いで、現実とイマジネーションの境界は容易に溶け合って、似通った二つのモノが隠喩として繋がり、ひたすら同じものとして共同しあっていく。類感術は和洋を問わず、太古より呪いの基本概念として利用されている概念だ。仮にも陰陽師の名を継ぐ術者に、術の拠代となる痕跡を盗まれたのは弥栄子にとって不運だった。形代からすれば、創造者であるカイは絶対。したがって、形代との共感が深くなるにつれ、弥栄子自身もカイには反抗しづらくなっているのだった。

「甲野弥栄子さん。僕の質問には全て答えてください」
「はっ……はい」
「お若いですから、恋愛結婚ですね。プロポーズはどちらから?」
「しゅ、しゅじんから……っ」

 出るところに出ればセクハラとなるような質問が続く。カイに本名を呼ばれるたびに、弥栄子は体をまるごと握りしめられてしまったような拘束感に震える。科学によって、知識によって、世界が切り分けられる以前は、名はそのモノの存在全てを表していた。名を知ることは支配すること。名を知られることは所有されること。カイははなからそんな霊界の掟も熟知している。わざとらしく弥栄子の名を確認したのはそのためである。名を知られ、奪われた弥栄子は、相対する他者の名を呼びかえし、対等に立つことはできない。弥栄子はカイの名を知らない。はじめに名のった「ススキダ」はもとより偽名だ。ただ支配され、カイの思うがままなぶられるだけだ。声に乗せて発されるコトバは、現実を変える力そのもの。カイはいつくしむように形代を撫で、猫撫で声で問いかけていく。

「真くんは当時もうお腹にいたんですね」
「は、はい」
「旦那さんとはどちらでお知り合いになったんですか?」
「た、短大の……スキー旅行で……!」
「まったく羨ましい……真くんが女装を始めたのは何故ですか」
「そんなこと、言えません……うっ!」

 弥栄子は何とか抵抗の意を示したが、カイが形代を爪で弾くと、胸をかかえて悔しそうにうずくまった。打たれた、というよりは、厚かましく触れられたような感触があったらしい。気分が悪くておぞましいのに、両足は地面に張り付いたように動かない。子どもに言い聞かせるように、カイが念押しする。

「ちゃあんと答えてくださいね……拒否は出来ないはずですけど、嫌がれば少し痛いかも知れません」
「待て、やめろ。これは流石にやり過ぎだろう」

 明らかに調子に乗った振舞いに、ハルが割って入った。何をしたのかは理解できていないが、カイが悪事を働いているのだけははっきり分かる。カイはぴしゃりとハルを退けた。

「ハルさんは邪魔しないでください。甲野真の情報を得るんですからこれも合法ですよ」 「そんな道理が通るわけないだろう……!?」
「質問を変えます。真くんが女装をはじめたのはいつですか」

 ハルの制止は意に介さず、カイがぐるぐると弥栄子の周囲を周りはじめた。よく見れば、独特の擦り足で進んでは下がり、下がっては進んで、禹歩(うほ)を踏んでいる。場を浄化し、結界を張って術をさらに強化するつもりなのだが、はた目にはただあてどなくふらついているだけである。弥栄子が細い声で答える。

「ち、中学生になってから……声変わりが始まってからよ」
「へぇ、原因は何でしょうね。何だと思いますか?」
「だ、だめっ……!」

 拒絶する弥栄子に、カイは困り顔をした。九つの足跡を踏み終えて正面に戻って来ると、スーツのポケットから今度はロウセキを取り出した。へたりこむ弥栄子の周囲に、五つの点と円を描く。何事かぶつぶつと唱え、そして偉そうに言いつける。

「結界を張りましたから、僕ら以外に姿は見えませんし、誰にも何も聞こえません。プライバシーは守られますから、安心して……僕たちに打ち明けてください」
「……やめろ馬鹿! これじゃ俺たちのほうが不審者だ」

 術が本格的になってきたので、ハルがとうとう食ってかかった。カイの襟首をぐいと掴みあげ、無理やりに立たせる。カイは体格でどうしても遅れをとるから、簡単に首根っこを押さえられてしまった。顔をしかめる年下の同僚に、ハルは正論で説教する。弥栄子とはかつて面識があるだけに、もてあそぶような状況が気まずいのだ。

「これじゃあ吾朗と変わらないだろ!? 趣味を仕事に持ち込むな」
「趣味じゃないですよ。れっきとした呪術です。あんまり僕を刺激すると、気が乱れてそれこそ命にかかわりますよ。邪魔をしないでください」
「……」

 カイが心外とばかりに鼻白むと、ハルは渋い顔で同僚を解放した。気を取り直して、カイが尋問を続ける。

「甲野弥栄子さん、真くんはどうして女装なんかするようになったんですか?」
「しゅ、しゅじんが」

 きつい声での問いかけに、弥栄子がとぎれとぎれに答えた。凛とした瞳は涙ぐみ、眉根は寄せられ、話したくないのがありありとわかる。カイはぞくぞくと愉悦に浸り、頬を紅潮させて嬉しそうにささやきかけた。

「大丈夫ですよ、誰にも聞こえませんから。美しいあなたの秘密を、僕だけに教えてくださいね……♪」

 ハルは内心ドン引きした。弥栄子を問い詰めるカイの目は瞳孔が開きっぱなしで、この状況を楽しんでいることはばればれだ。だからといって、殴って止めて術が壊れて、弥栄子にこれ以上害があってはたまらない。白けた視線を送ることで、精一杯の非難をしたが、カイはもちろん気にもしない。形代の頭を指で撫でつつ、弥栄子の返答を待っている。

「しゅじんが……あ、あのこに、」
「ご主人が、真くんに……?」
「お、おぞましいこと……」

 弥栄子の声は消え入るようだった。カイはさすがに歪んだ笑顔を無表情に引き下げ、道路にしゃがみこんで身を乗り出した。真面目な調子で続きをうながす。

「性的な虐待があったんですね?」
「……」

 弥栄子はすすり泣いてうつむいた。質問への答えこそなかったが、カイは咎めない。一番の禁忌を知られたことで開き直ったのか、弥栄子はカイにすがるような視線を向けた。震え声で訴えかけ、押し殺していた不幸を吐きだす。

「あ、あのこは、もともとせんがほそくて、しゅじんは、それが気に入らなくて……中学にはいってから、ますます当たりがひどくなって」
「それで?」
「わ、わたしは、母親なのに、あのこのことを、まもりきれなくて……あのこは、自分がおとこのこに生まれるべきじゃなかったと、信じこんでしまって……!」
「……事情は大体分かりました。ご協力感謝します」

 一方的に告げると、カイは両手を強く打ちならした。ぱん、と乾いた音が鳴り響き、弥栄子がはっと溜息をつく。カイは憑物が落ちたようにもとの好青年に戻り、そそくさとローセキの線を足でこすって消すと、呪文を唱えて形代も始末した。弥栄子を振り返ると、いたわるように声をかけ、尋問した張本人のくせに、そろりと被害者に手までさしのべた。

「怖かったですよね。もうお終いですよ」

 弥栄子はしばらく迷っていたが、結局カイの手をとって立ち上がった。ハルもよろめく弥栄子を支え、花屋の店先に据えてあったベンチに腰掛けさせる。カイは脈をとり、あくまで礼儀正しく弥栄子の調子を気遣った。弥栄子は精魂つきたのかカイを罵りもせず消沈していた。やがて人心地ついて、二人に話しかけてくる。

「あなたたちは、篠崎さんの知り合いなのよね」
「はい、仕事仲間です」

 今までの悪行など水に流しましたと言わんばかりの図々しさで、カイが優等生ぶって答える。弥栄子は苦笑する。

「……あの人って本当に実在してたのね」
「どういう意味だ?」

 ハルが眉をひそめる。弥栄子が恥ずかしそうに微笑む。

「夜しか会いたくなかったもの。篠崎さんにも生活があって、ちゃんとしたお仕事があるなんて想像もしてなかった。しかもこんな若い子と同僚だなんて」

 『若い子』呼ばわりされて、カイが面白くなさそうにそっぽを向いた。弥栄子が無造作に問い返す。

「どんなお仕事なの」
「化け物退治のお仕事です」

 冗談めかした答えに、弥栄子は溜息をついて評した。

「全く……どっちが化け物なのかしら? どこまでいってもユニークなのね」

7

 ちょうど通勤ラッシュに当たってしまって、駅構内は人波でごったがえしている。セーラー服の後ろ姿を追っていた吾朗は舌打ちした。

 真の脚は思ったより速く、駅に駆け込んだあたりで姿を見失ってしまった。外見だけはあれほどの美少女だ、探せばすぐに見つかるだろうと高をくくったのがまずかった。改札をくぐって電車にでも乗ったろうか。それとも、駅ビルのショッピングモールに逃げたろうか。どちらにしろ、捜索が一気に難しくなる。焦りつつも、人を避けてきょろきょろと見回す。みな、それぞれの目的地に向かって泳ぐように動いており、人探しには向いていない混み様だった。

 五分もしないうちに新庄が追いついてきた。かなり走ったはずなのに汗ひとつ浮かべていない。吾朗は首を振って、真を見失ったことを示す。新庄はくん、と鼻をきかせる。

「……この辺りにはいると思うのだけど」
「本当だな? 嘘だったら塵に返すからな」

 悪態をつきながらも希望を感じ、吾朗は尖らせた視線で周囲を刷く。新庄はぴくりと顔を上げ、吾朗のシャツの裾を握った。

「あれ。あそこにいる」
「何だって? どこだよ」
「黒服の……あれが真」

 ささやいてくる声に疑惑を感じつつ眼をこらした。黒服、はスーツと学生服しか見えない。目をこらすと、細身の少年が学帽をかぶってうつむいていた。吾朗の頭の中で二つの点が線につながる。

「あいつか! 女装から着替えやがったんだな」

 セーラー服しか頭になかったのがまずかった。新庄はうなずいて、泳ぐように人を避けて少年に近付いていく。真もこちらに気がついたのか、吾朗と新庄をまっすぐに見返してきた。憎しみのほとばしるような強い視線だ。人の肩にぶつかりながら一直線に走ってくる。吾朗は好機だとほくそ笑んで立ち向かった。真がそのまま胸に飛び込んでくる。待ち構えた吾朗は襟首をひっ掴んで勢いを殺そうとするが、みぞおちに硬い感触が押しつけられた。とっさに蹴り飛ばす。ザクリ、と小気味いい音がして、深紅のストールが身代わりに切り裂かれた。よろけた真は動じもせずに、弾丸のように走り去った。その手から床へと落ちたのは、大きな銀の裁ちばさみだ。反応が遅ければ、わき腹をやられていただろう。

「と、通り魔!」

 一部始終を目撃したおばさんが肝をつぶしながら叫んだ。新庄は即座に追いかける。平和だった駅内は騒然とした。いざとなれば皆動きは速いものだ、駅員や警備員が泡を食って寄ってくる。集まって来る人々に頭を下げて、吾朗は駆けだした。時間は一秒だって惜しい。今度こそ捕りのがすものか!

 今度の追跡は簡単だった。階段を飛び降り、アスファルトを蹴って疾走する。目印はこれまた黒のセーラー服だ。こちらは衣装替えの危険もない。新庄は迷うこともなく真を追っている。目だけでない、気配や匂いで捉えているのだろう。降りそうな踏切を強引にくぐり抜け、車にクラクションを鳴らされながら、吾朗は突っ走る。新庄が立ち止まったのは森林公園の入り口だ。松や杉が植えられており、昼間でもうっそりと暗い。

「ここか?」

 新庄に問いかけると力強く頷いた。吾朗は彼女を残したまま、つかつかと公園に歩み入る。人影は少ない。ベンチに真が坐っていたので、これ幸いにと近寄った。真はもう逃げない。吾朗はジャケットの身頃からハンドガンを取り出す。手のひらに収まる大きさで、銃身は銀に輝く。軽薄な笑顔で突きつけた。

「通り魔の変態さん。いい加減に大人しくしな」
「何それ、エアガン?」

 真はうさんくさそうな顔で見上げてくる。吾朗は楽しそうに微笑んだ。

「男の子のくせして銃の名前もわかんねーのか。SiG239、ゲームとかでも見たことあんだろ」

 セーフティを解除して、背後の樹にむけトリガーを引いた。片手撃ちでも脅しだから問題ない。弾丸も高価なシルバーバレッドではなく、357SIG弾に換装してある。乾いた銃声が爽快に響き渡った。真は目を丸くして見上げてくる。

「ちょっと……本気?」 「イイ子にしてたら撃たねーからな。さあ、御縄頂戴だ」

 真はごくりと生唾を飲み込み、膝に置いた拳を握る。抜け目なく見張りつつ隣に坐ると、真が悔しげに語り始めた。

「……結局、みんなそうやって力任せで抑え込むんだよね」
「お前ごときを襲った変態と一緒にするんじゃねーよ」
「おんなじでしょ? 弱ければ痛めつけられるんだ……ボクが新庄ちゃんのカレシみたく強かったら、シノサキさんだって滅茶苦茶にしてやれるのに」

 中学生にしてはなかなかの外道な台詞だ。吾朗は答えずに笑みを浮かべたまま、銃口を見せつけながら真を威嚇した。

「セーラー服に戻ったらどうだよ」
「う、うるさい。ヘンタイ」

 真は顔を赤らめて学ランの胸を押さえた。お前とは金積まれたって嫌だよ、と胸の中で毒づきながらも惹きつけておくために誘ってみる。

「怖ーいお兄さんたちが来るまでなら、相手してやってもいいけど」
「……嘘つき」

 恨めしげに真が睨みつける。吾朗は素知らぬふりで背もたれに寄りかかった。食べていいですよ、と言わんばかりに流し眼する。それでも銃は手に握られたままだし、体格の有利さは真と比べるべくもない。痩せ形が鍛えるとなりがちな、肩幅が大きく逆三角に細っていく体つきだ。妖しげな眼つきをすると、真は物欲しそうにちらりちらりと目線を送る。肌が焼けるようだ。待ちかまえていると、震えながら、真は手を出してきた。太腿にさわりと指が置かれ、咎めだてされないと分かると、そろりそろりと撫で始める。吾朗は素知らぬ顔で触れさせてやる。

「お母さんの恋人を寝取りたいなんて凄い中学生だよな。流石にビックリしたぜ」
「みんな、お母さんが好きなんだよ。ボクはおもちゃで、愛されてるのはお母さんだ……!」

 真は腿を撫でまわしながらすでにもぞもぞと苦しそうに身動きしている。状況の危険さを忘れて、それでも見え透いた誘いに乗っている。浅ましくて、ほんのわずかに哀れみを感じた。華奢で愛くるしい頼りなげな外見に反して、歪んだ性欲でいっぱいいっぱいなのだろう。終いには情けない顔で、させて、と呟いた。吾朗は冷ややかに見下ろしつつ返事をしない。お前にはそれがお似合いだよ、と馬鹿にしながら、いいようにまさぐらせてやった。どうせすぐに連れていかれて精神鑑定されて当分シャバには戻れない。興奮したのか真は息を荒げて吾朗の膝に乗りかかってきた。怖がらないのに阻まれないせいで、完全に舞いあがっている。切羽詰まった声で吾朗に懇願する。

「おねがい、させて……ボクに刺させて。シノサキさんみたいなカッコいい人がいい。強気で折れない人がイイ。お父さんの若い頃みたいな……!」
「女の子のほうの好みは、アイツみたいなちっこい娘なんだよな?」
「だって……そうじゃなきゃボクが組み敷けない」
「はは……まあ結局真ちゃんは、誰だっていいんだよな」
「……ち、ちがう」
「脅して無理やりエッチできれば男でも女でも」
「し、シノサキさんは脅さなくてもさせて……くれるんだよね」

 わなわな震えながら、煽られすぎた真が覗きこんでくる。頬に指をかけられて、瞳は完全に欲で狂っている。暴れられたり騒がれたりしないためには惹きつけておくしかないから、思わせぶりに笑ってやった。内心では残り時間を計算している。発砲までして合図したってのに、ハルもカイも遅すぎる。警察でも来て銃刀法違反で連行されたらそれこそヤヤコシイことになる。侵犯を許されたと思って、学ラン姿の小柄な少年が淫猥に顔を輝かせた。かたかた歯を鳴らしながら、口づけしようと覆いかぶさってきた瞬間、ばたばたと慌ただしい足音のち、カイの警告が響いた。

「甲野真! 警察署より委譲された捜査全権に基づき、陸上自衛隊EXCU隊が身柄を接収します!」
「ま、真!? 何をやってるの!?」

 ハル、カイとともに駆けつけてきた弥栄子にとっては、まさに頭を殴られたような光景だ。先ほど様子のおかしかった息子が、恋人に覆いかぶさって襲おうとしている。もっとも、弥栄子の目には「奪おうとしている」としか見えなかったが。学生服を着て男の姿に戻っていても、真はなお女顔で、しなやかな細身の体躯で、どう見ても愛らしかった。混乱のまま近づいていって、吾朗から力任せに引きはがす。真の顔が悔しそうに歪んだ。

「お、おかあさん」
「やめなさい! 汚らわしい!」

 決定的な罵倒を吐いて、弥栄子は我が子の頬を張り倒した。欲情の現場を糾弾された真は信じられず呆然としている。吾朗は同情もせず見ていた。

「……けがらわしい? やっぱりそう思ってたんだ……お母さんは、ボクなんかより自分の男が大事なんだ……」

 地面に引き倒され、笑ってつぶやきながら、衝撃をやりすごすと……真は徐々に本来の攻撃性をあらわにした。目を血走らせ、唇を噛んで、母親を睨みつける。

「いっそ女の子に産んでくれればよかったのに! お母さんはいいよ、いつだって不幸を気取れば誰かが寄ってきてくれる!」
「……何を言いだすの、真!」
「ボクはお母さんをお父さんから守ってたんだ! あの男がお母さんにこんなことするぐらいなら、ボクが身代わりになるって思ってた! でもお母さんはいつも耳をふさいでるだけで、他の男から同情を買うだけ!」

 見物人も構わず、真は母親に過去の苦痛を当たり散らした。そして極めつけの台詞を口にする。

「女に生まれてたらボクだってもっと楽な人生だったよ! あんたみたいに!」

 憎しみが互いを弾き合って、聞いていられないような愁嘆場だった。吾朗は素知らぬ顔でベンチから立ち上がる。真の背後に回ると……銀色の銃をこめかみに突きつけた。

「ワガママ言うのもいい加減にしろよ。お前はしばらく審問室だ」

 真は糸が切れたようにうなだれたが、そのうち不敵に笑いはじめた。

「ふふふ……はは」

 不穏な笑いに、カイが危険を悟る。はっきり言って追い詰め過ぎだ。両手の指でひし型の窓をつくり、じっと覗き込んでみる。見た光景に息を飲み、ハルにあわてて目配せした。機微を通じたハルも、背にしょった麻袋を下ろす。二人の態勢移行には吾朗も気づき、残酷な眼つきで真を見下ろす。

 カイがそそくさと天盤を取り出し、演算を開始しようとした刹那、霊波暴発が起こった。真っ白な光柱が真を中心にドッと立ち上り、ゆらゆらと光が波立つ。周囲にかまいたちが発生し、木々や葉を切りさいた。ハルは飛びのき、吾朗はロザリオでガードしてその場にとどまった。光の波が徐々に収まり、真はそろりと立ち上がる。学生服はやぶけ、なまめかしい肌が見えている。瞳はうつろだ。ガシャッと骨が砕ける音がする。それを合図にほっそりとした身体が殻のようにひび割れ、胴が、腕が、顔が、プラモデルのように分裂した。各部を繋ぐのは幾重ものチューブ、緑の基盤、赤白黄色のケーブル端子……すべて無機質な電子部品だ。彼が頼みとしていたスマートフォンの中身そのまま。何重ものケーブルや最奥の基盤をぶらぶらと見せつけ、腕がびくびくと蠢く。

 ろくろ首のように離れてしまった頭と体とは透明なチューブで繋がれていた。ライムグリーンの信号灯が内部をチカチカと往復している。接合部保護のためか、灰や赤のケーブルが身体がわから蔦のように争って巻き付いていった。チューブはしだいに縮こまり、頭と体がビチッと音をたてて再び接合する。360度頭部回転。眼前の光景を認めて、呆けた瞳が像を結ぶ。真はふらりといびつに笑った。正面に陣取った弥栄子は息子のあまりの変貌ぶりに逃げ出す気力も消えている。チューブやネジや基盤類で埋め尽くされた胴や肘のほころびから、ねっとりと赤黒いものがにじみだす。すると、真は苦しげに喉をつかえさせた。

「ご、吾朗さん! 弥栄子さんをどけてください!」

 カイの指示は2秒遅かった。真の唇から吐き出された赤黒い液体が、弥栄子にどっぷりと振りかかる。吐瀉物を引き被った形になったが、気丈な弥栄子はまだ叫ばない。すぐに熱い違和に気づいて、弥栄子はそろりと頬に触れた。痛みでとうとう表情が歪む。皮相を直接えぐったせいだ。気品ある顔立ちは、硝酸をかけたように無残に焼けただれていた。じゅうう、と炙るような音がして、内側から痒みと痛みがこみあげてくる。焼き焦がすだけでなく、沁み込んだ内側からも、液体が弥栄子を犯していく。ついに甲高い悲鳴が上がった。真が満足げに微笑む。

「あ……♪」

 緩んだ表情で笑った息子は、チューブと基盤の間接をきらめかし、かろうじて人の形を保っていた両腕の皮膚を、脱皮するように落としはじめた。美しい肌が破るように剥かれる。白魚のような指が、鋭角を描く肘が、グロテスクな血の色がにじんだほっそりした粘膜へと変わっていく。先端は丸まってぬらりと光り、まるで食虫植物の触手だ。

「あっ、いや、痛い、熱……!」

 弥栄子が切れ切れに苦悶の声を上げ始める。カイは危険も顧みず真の前に飛び込み、彼女を抱きよせた。一歩下がって印を結び、身固めで隠遁して退避する。弥栄子を抱きかかえ、状態を確認するが、カイの目に映る光景は痛ましいばかりだ。澄んだ美貌は赤く焼けおち、露出した皮相には肉色の蛆がびっしりと巣食っている。蠢く蟲は猛烈な速さで組織を喰み散らし、耳触りな笑い声を立てて、奥へ奥へ貪っていく。顔は露出しているから被害がわかりやすいが、胴を守るセーターも毛糸ごと吐液が肌に焦げついている。

 カイはブリーフィングでの敵性分析を思い出した。殺された男性たちはさらに鋭利な刃物で喉元を切りつけられていたが、表面の状態は同じだ。強酸性の液体による上皮損壊、さらに真皮を通り越して皮下組織や血管に至るまでの引きちぎられるような裂傷。身体内部の微細な破損について、沢見検視官は原因不明と首をかしげていたが、蟲が食べていたとなれば納得できる。この瞬間にも、まろやかな輪郭をもつ弥栄子の身体は噛まれ、引きちぎられ、内側から壊されている。生きながら喰われるおぞましさはどれほどだろうか。呪符を貼っても応急処置にしかならないだろう。

「こいつっ!」

 吾朗は背後からハンドガンを構え、迷わずに真を射撃した。さすがに外さず頭を撃ちぬいたが、真はぼんやりした顔つきで180度振り返ってきた。効き目が薄い。人の形を失った彼には、ただの銃撃など動じないのだ。至近距離で八発撃ち尽くすが、チューブ、端子、基盤によって銃創がまたたくまに再生され、隙間をくまなく埋めつくしていく。ぎょろりと目玉が吾朗を見咎め、両腕の先から再び赤黒い粘液が弾ける。吾朗は唇を噛んで飛びのくしかなかった。

「……安綱、目覚めろ!」

 初手で出遅れてしまったため、ハルは安綱をためらいなく抜いた。カイと弥栄子の前に立ちはだかって、刀の名を呼ぶ。ぼうっと刀身が紅く光り、ゆらりと瘴気が立ち上る。真がまたぐるりと首だけで背後を振り返って、値踏みするように目を細める。ピ、ピと電子音。ターゲットの位置測定がなされ、うねる触手から汚泥のような粘液が射出される。ハルは安綱を垂直に立ててガードした。千年を越えた僻邪の刀はさすがに強力で、濁流は刀身に切られすぱりと左右に分かれた。地に落ちてじゅうじゅうと焦げたような音をたてている。状況を見守っていたカイは天地盤をのぞき、憎らしげに舌うちした。

「この粘液は付着した有機物に寄生して内部構造を食いつくし、苗床にして新たな砲台となる模様……演算結果によると、五分後には振り撒かれた地に肉柱が立ち、粘弾を撒き散らします! 浄化に回らねばなりませんから、ターゲットはお二人で片付けてください!」 「スピード勝負だな」

 ハルが刀を握り直す。赤黒く濡れ光る粘膜がしゅるりと伸びてハルを狙う。ハルは腰を入れて構えなおし、向かってくる触手をすぱりと撫で斬りにした。片腕が断たれても、真はにやにや笑っている。断たれた肘からチューブがびちびちと伸びていく。無様に転がった腕からも、タールのように液が染みこみ、蟲たちが悦びながら大地を汚していった。ハルは走り回り、液弾を引きつけて陽動する。真は多少遅れつつも、動きまわるハルを狙い打つ。

「装備、外にないのかよ!?」

 真の注意が逸れたのをいいことに、吾朗がカイの側に廻り込んできた。カイは無言でアタッシュケースを開き、中身を見せた。吾朗は安心したように嘆息する。

「よし、弾も持ってきてるな!?」
「ええ、吾朗さんは最低辺の人でなしなんかじゃないって見込んでましたからね。命令違反ですけど持参しました」

 カイの言葉に、吾朗は弥栄子に目をやる。瞼のふちからだらだらと涙を垂れ流し、救いを求めて吾朗を見上げている。顔は火傷でただれ落ち、黄ばんだ骨まで露出していた。傷跡にはちろちろと蛆が這いまわり、かつての美しい面影は微塵もなかった。こみあげる悔しさがあったが、吾朗は戦場の常としてやり過ごし、装備を整えた。フロントサイドを畳みこみ、フォアグリップとホロサイトを取りつける。ストック展開、銃身チェック、マガジン装填。その間にもカイは弥栄子の髪に触れ、呪詞を唱えている。そして痛ましげに告げる。

「……このような偶然を招いた責任は僕にもあります。この人は巻き込んではいけなかった」
「言っても未来は変わらない。弾代はちゃんと申請してくれるよな!?」

 アサルトライフルはSCAR-L、シルバーバレッド専用退魔モデルだ。ロアレシーバーをセーフティからフルオートに合わせる。目線を投げると、カイが一も二もなくうなずく。

「もちろんです、後方は僕に任せて、ガンガン撃っちゃってください!」

 威勢のいい応援に気をよくして、吾朗はアトマイザーを取り出した。首筋に噴射し、ふくよかな芳香に溺れる。目が血走って焦点はふらつき、首にかけたロザリオがぼうっと暖かく輝いた。聖母とマグダラの加護が増して、橙の光が吾朗を守る。真の眼前に跳躍し、フォアグリップを握りこんで、景気良くストックを撃ち尽くす。5.56×45mm銀弾の威力はなかなかだ、電子仕掛の機部は吹っ飛び、軟組織に着弾すれば弾頭の真空がひしゃげて、周囲を切り裂いたまま内部に留まる。そこまではヒト同士の戦闘と変わり映えしないが、銀の祓力と聖母の加護で、グールは体内から浄化されていく。したがって再生は遅れ、痛みもダメージも時間に応じて蓄積して倍加というえげつない仕組みだ。衝撃と損傷で真の動きは鈍くなり、液塊の狙いも精彩を欠いた。土をえぐって着地しつつ軽快にマガジンチェンジ。セミオートに切り替える。ハルも陽動を終え、吾朗の隣に飛び降りて、刀を盾にして警戒を続けた。

「どうする。いけそうか」
「コイツは俺の獲物でいいよな?」
「わかった。俺も本調子じゃない。止めは頼む」

 短く意思を通じあって、二人は左右に飛んだ。液弾がそれぞれを狙うが、ハルは刀でさばくのみだ。対する吾朗は旋回し、銀弾をやみくもに乱射していく。弾は一発も当たっていない。そもそも腰だめの連射で当てる気も薄い。触手は執拗に吾朗を追いまわし、続けさまに粘弾が発射された。しかし粘弾はすべて、吾朗を捉える寸前で壁に阻まれたように弾けてしまう。火の粉のような浮遊に沿って、宙に赤黒い華が咲き、血だまりの花に一瞬遅れて、青色の六芒星が鈍く浮かびあがり、穢れを浄化、蒸発する。後に残るのはかすかな青い軌跡だけだ。園内を結界で区切ったカイが、吾朗の動線に沿って展開しているガードだった。紅と青光が次々と花火のように閃き、合間を縫って吾朗が軽快に飛びまわる。二つめのマガジンを撃ち尽くして、吾朗は胸のロザリオに手を伸ばす。

「そろそろいいか」

 吾朗はにやりとほくそ笑んで、ロザリオに軽くキスした。キリストの御母と聖なる娼婦、二人のマリアの名前を呼ぶ。

「聖母マリア、そして愛するマグダラよ……この俺を祝福してくれ!」

 罪人の呼びかけに二人の聖女は応じた。ロザリオは燦然と輝き、八方に光線を交錯させる。光の数珠が紡ぐのは、今まで宙にばらまかれた弾丸だ。三十発の銀弾たちは、10メートルほど進んだ空中ですべて制止し、術者の命を待っていたのだ。尾を飲み込む蛇の円環が浮かび上がり、吾朗の号令で全てが再び動き出す。

「甘い恩寵だ、さあ天に帰りな!」

 同時に、グール体内に潜り込んだ弾丸も運動を再開させる。銀の光が矢のように錯綜し、機械じかけの真を外から内から貫いた。真の小柄な体躯は何重にも串刺しにされ、ガシャリと音を立ててあっけなくくずおれる。カイは撃破を確認すると、天地盤に取りつけられたディスプレイを見て、意気揚々と報告した。

「目標沈黙! 粘液による有機体浸食も停止しました」
「了解、そっちは平気か?!」

 吾朗は地に飛び降りると、急いでカイの方に駆けつける。沈痛な面持ちのカイから横たわった弥栄子を示されると、吾朗は見苦しさに眉をひそめた。顔の右半分は完全に焼けただれ、原形をとどめていない。浸食を遅らせようと札が何枚も貼りつけられていたが、骨だけの顔面は眼球まで溶けてぽっかりと穴が開いていた。セーターの下の肢体も肉がそげてしまっている。吾朗は舌打ちして彼女を抱きかかえた。蝕まれつつもなお面影を残す顔の左半分が、それでも吾朗を認識しているのか、とぎれとぎれに謝罪を繰り返す。ごめんなさい、わたしがわるいの。あのこをおいつめたのはわたしなの……可哀そうだが、明らかに助からないだろう。吾朗は無理に笑って弥栄子の右手を握った。胸の上に手を組ませる。ジャケットからアトマイザーを取り出し、蓋をあけて精油を指につける。

「大丈夫だ、もう苦しくない。俺が今すぐ祈ってやるから……!」

 気休めを口にしつつ、額と手に油を塗布してやる。病者への塗油の秘跡だ。被害者を精油で聖別し、額に手を宛てて罪を許す。従軍神父のまねごとだが、そうせずにはいられなかった。敬虔に瞳を閉じ、静かに呟く。

「May the Lord who frees you from sin save you and raise you up……Amen.」

 目を開けると弥栄子は左目だけで涙を流し、笑おうとしていた。胸に刺すような痛みを感じながら、吾朗はぼろぼろの弥栄子を抱きしめようとした。しかし次の瞬間、弥栄子は真そっくりの顔つきでにやりと笑った。ダメージを感じさせないほどの素早さで吾朗の首にかじりつき、強烈な力で押し倒した。ぬらついて光る口からはあの赤黒い液が涎のようにしたたって、だらだらと胸に垂らしかける。低く伏せた顔がキスするように迫ってきて、まずいと身をすくませた瞬間、カイの式神が飛んで背を刺し、弥栄子の動きが鈍った。異変を察知したハルも駆けつけ、即座に背中から斬り捨てる。かつて愛した女が腕の中にどさりと落ち込んできて、死体からも血のようにあの液が滲んだ。浸食と蛆の生成が始まる。粘液の中で生まれた蛆は、猛烈な勢いで服に沁み込み、祝福によるガードに阻まれて、肌を物欲しげにはいずりまわっている。吾朗はおぞましさに背筋をひきつらせた。

「こいつ……っ!」
「もう弥栄子さんじゃなくなってますね……苗床を餌にするだけじゃなく、媒介して復活までするなんて」

 カイは憎々しげに言い捨て、はっと天地盤を確認した。さっき沈黙したはずの敵性超体反応の光が再び周囲にまたたいている。見回せば、うぞうぞと肉柱が立ち、粘液に食われた腐葉土や木々がぶよぶよと肥大して、ヒトガタに分化しはじめていた。ハルは弥栄子に犯された吾朗を助け出し、カイに指示を仰いだ。

「どうする。囲まれたぞ。各個撃破するか」
「ハルさんは吾朗さんを連れてってください、上着はすぐに脱がせて。聖母の祝福がありますから、汚染部位も聖水で洗えば蟲が落ちるはずです」
「お前はいいのか、危ないぞ」
「……後始末は僕がします」

 ハルはうなずき、放心状態の吾朗を背負って森を突破していった。林立する肉柱は真そっくりな形に分化し、へらへらと笑いながらカイに向かって真っ白な手を差し伸べてくる。六芒星で小結界を張っているため、真たちはカイにそれ以上近づけない。裸の少年に取り囲まれて、カイは不敵に笑った。

「残念ながら僕にはそっちの趣味はないんですよ。年齢だけなら好みですけど……ところで、充分食べましたか? ……もう満足しましたよね」

 カイは真たちに言い聞かせるように呟くと、ライターを取り出して火を起こした。弥栄子の死体の傍らにしゃがみ、髪と衣服に火をつける。簡単に燃えうつるわけもないが、呪文を唱えだすとすぐに火は大きくなった。カイはどこか楽しげに長々とした追儺の祭文を続ける。

「……いろいろのためつもの、かいさんのくさぐさのためつものをたまひて、まけたまひうつしたまつところどころ、ももに、すみやかにしりぞきいねとおいたまうに、かだましきこころわきばさみてとどまりかくらば、たいなのきみこなのきみいつくさのつはものをもちておひはしり、ころさむものぞ、ときこしめせとのる」

 追儺祭は、かつて旧暦大晦日の夜に京で行われた疫鬼祓いの儀式だ。五色の供物を与えて満足させた満穢悪伎疾鬼(けがらはしきやみのかみ)を都から退かせるための祭で、カイが唱える祝詞はその際陰陽師が朗じたものである。詞に乗せられた呪力によって炎はまたたくまに広がり、木々に、落葉に燃えうつって、無数の肉柱たちを焼きはらっていく。アタッシュケースを片付け、カイは炎の中を行く。かつての儀式に見たてて、煌々と燃え盛る市民公園内を歩き回る。古代の悪鬼たちには逃げ場があったが、結界を張られた公園は閉鎖空間だ。今まで手ぐすね引いてカイを誘っていた真たちは畏れおののき、逃げ出しては炎に巻かれていく。浄化の炎は術者のカイを決して焼かない。炎は森から出ることもない。整備された遊歩道を悠々と通りぬけ、カイは市民の森から脱出した。すでに連絡を受けていたのか、火事を見に来た野次馬の隅に自衛隊のジープが停まっている。傍らにはスーツ姿の天川がいた。カイを見るなり呼びかける。

「シノサキとハル君は回収済だ」
「……吾朗さんの状態はどうですか?」
「お前の指示したように聖水で浄化して、救護に廻した。それにしても森を焼き払うとはな……怪我はないか」

 カイは神妙な顔で天川に礼をした。そして真面目に申し出る。

「天川さん。僕も吾朗さんと同じく降格処分にしてください」
「なぜだ」
「命令違反です。吾朗さんを戦闘に参加させました。はじめからそのつもりで勝手に装備を持ち出しました」
「それだけか」
「民間人を巻き込んでしまいました。偶然とはいえ、僕が無理やり接触したからです」
「……甲野弥栄子か。ハル君から事情は聞いてる。だが正当な処罰理由にはならない」

 天川は考え込んだが、溜息をついて首を横に振った。カイは食い下がる。

「たとえ吾朗さんの素行に問題があったにせよ、僕が仲間を密告したのは確かです。吾朗さんを処罰するなら、僕だって褒められたものじゃないはずです。それに許可なく公共物に放火しましたし……!」

 天川は驚いてカイを見つめ、面白そうに微笑んだ。そして押しとどめた。

「了解した、もういい。あいつの処分は取り消しだ」

 思ってもみない展開にカイは面くらい、きょとんとして黙りこくる。天川は笑ったが、やがて疲れた顔で呟いた。

「シノサキも今回ばかりはさすがにヘビーだったようだ。あんな奴でも、誰かが優しくしてやらんとな」

8

 一週間後、篠崎吾朗は自衛隊中央病院から退院した。本人は問題ないと強硬に主張したものの、「鬼」の浸食液に接触したことは事実であり、麻薬レベルの精油を常用していることもあって、検査入院と相まったのだ。胃カメラから心電図、MRIに大腸検査、果ては心理テストまでのフルコースである。退院日ということで、ハルカイを始めとして、天川二佐とその愛娘までもが祝いにかけつけた。天川二佐の娘は今年中学二年生で、吾朗の大ファンである。そそくさと花束を渡して赤面する娘の姿に、天川はこれ以上ないほど渋い顔をしていた。

「遙ちゃん、お祝いありがとな~♪ 結婚相手に困ったらすぐに俺を頼ってくれよ」 「その時にはお前はいくつだ。ふざけるのも大概にしろ」

 父親の小言を遙も吾朗も意に介していない。ハルにも祝いでコーラを貰ってごくごく飲みほし、吾朗は意気揚々と腕を組んだ。

「まったく、これだからシャバは最高だよな。アルコールもニコチンも解禁だ! よし、さっそく飲みに行こうぜ!」
「遙。帰るぞ。カイ、後は頼んだからな」
「了解しました。天川さん、お疲れ様です」

 居残るカイに、吾朗が胡乱な眼を向ける。カイはいつもよりニコニコしている。

「あのな、飲みに行くんだよ。お前はまだ未成年だろうが。天川のオッサンと一緒に戻れよ」
「ノンアルコールなら問題ないですよね。おごってくれないんですか」
「給料貰ってるくせに何言ってんだ。お前が来たら寄ってくる女も寄ってこなくなるだろうが」
「それは嘘でしょう。僕だって結構女性には人気があるんですよ」
「っていうか盛り下がるんだよ……せっかく気持ちよく酔えると思ったのに台無しじゃねーか……」

 二人漫才を白けた目で見ながら、ハルがカイに尋ねる。

「本当にこいつと一緒に暮らすのか」
「はい、そうですよ。もう決めたことですし、天川さんからも頼まれましたから」

 寝耳に水の成りゆきに吾朗はぎょっとする。おそるおそるカイに問いただしてみた。

「……一体どういうことだよ。何がどうなってるんだ」
「だから、吾朗さんはこれから僕とルームシェアして一緒に暮らすんですよ。監視役ってところです」

 吾朗の顔から血の気が引く。カイは気にせず楽しそうにズケズケと吾朗の普段の素行を言い立てはじめた。大体この時勢に喫煙者なんて気が狂ってますよ、早急に禁煙すべきです、複数の女性と手当たり次第に関係持ってるっていうのもHIVの危険性があって困りますよね、同僚であるハルさんに言い寄るのもいい加減にしてほしいですし、アイロンのかけ方もちゃんと知らないですし、酒とタバコと女が趣味って映画じゃないんですから……ジョギングでもはじめたらどうですか。同年代には家庭をもって子育てしてる方々だって大勢います、吾朗さんもそろそろ真人間にならないといけませんよ。

 永久に続きそうな説教から、吾朗がそろりそろりと逃げ出そうとする。ハルの眼が鋭く光り、足を思いっきり踏んで捕まえた。

「お前のマンションは既に引き払ってるんだ。大人しく観念しろ」
「な、何考えてんだよ!? 勝手に引き払ったのか!?」
「いらない服とか使いかけの避妊用具とかハルさんに手伝ってもらって全部捨てましたからね♪ まったく汚らわしい……」

 カイが可愛ぶっててへぺろした後嘲笑する。そしてカバンからホッチキスで留めたレポート用紙を取り出し、吾朗につきつけた。表題は「共同生活心得」。A4サイズで十枚以上にわたっている。

「それは保存用ですので、いくつかかいつまんで口頭説明します。家事はもちろん半月周期で分担。煙草はベランダで。女性は連れこまないでラブホなどを適宜利用。僕に彼女ができたらまたその時別居についてあらためて考えましょう。すさんだ精神を癒すためにハムスターやインコなどのペットも飼いたいと思っているのでよろしくお願いします」 「マジで完璧な人権侵害だろ……こいつと暮らすとか苦行すぎる」

 ジト目で睨んで不服を訴える吾朗に、ハルカイからの冷たい視線が浴びせられた。

「何言ってるんですか。僕の星占いが毎日受けられるなんてそうあることじゃないですよ」 「階級剥奪処分が取りやめになった代わりの処置だ。不服なのか?」

 それを言われては立つ瀬がない。しょんぼりと猫背になった吾朗に、ハルからとどめの一言がなげかけられた。

「お前の身体が心配だ。もう若くないんだし、カイと住んで生活習慣を改めろ」

 当のカイはニヤニヤと上から目線で笑っている。そして附け加えた。

「ああ、吾朗さん、職務以外での門限は夜十時半ですので」
「早すぎるよバカ!」
「……駐屯地内と同じですよ。破ったらその都度天川さんに報告しますからね」

 ハルとカイは新居に必要な物は何なのか真剣に話し合い、先んじて歩きはじめる。退院で解放された気分が台無しになり、吾朗もうなだれながら三宿駐屯地をとぼとぼと行く。秋は完全に終わりを告げ、木々は葉を落としている。木枯らしが吹き始めて、診療に来る一般人もみんな冬の装いだ。一週間で季節がすっかり変わってしまった。弥栄子のことをだしぬけに思い出し、吾朗は言葉を飲み込む。劇的な別れだったからかもしれないが……どうやら、珍しく未練があるみたいだ。

 事件から一カ月後、クリスマスも過ぎてすぐに年の瀬も差し迫り、吾朗とハルは忘年会の名目で再び駅前のカフェバーを訪れていた。まだ昼間なので、軽食を取ったあとにノンアルコールのカクテルでお茶を濁している。吾朗は早くもカイとの共同生活に疲れ果て、カウンターに突っ伏してマスターに弱音を吐きはじめた。

「……信じられないよな、この俺が非番の日にもずっと男二人でワイドショー見てるんだぜ……」
「ははは。ワイドショーも人生勉強だよ」
「芸能人の名前とかバッチリ覚えちまった……あんなくだらねー番組を見る日が来るとは思わなかった……」
「平和な休日でいいじゃないか。カイは本当によくやってるな」

 ハルは隣で付き合いながらも、吾朗の愚痴をあしらう。マスターも楽しそうにからかいはじめる。

「最近吾朗ちゃん顔色いいもんね。酔い潰れたらちゃんと迎えに来てくれるし、未成年ですからってアルコールは断るし、しっかりしてていい子じゃない。もう手は出したの?」

 マスターのとんでもないフリに、吾朗が据えた目でカウンターから起き上がる。

「あんなのこっちからお断りだよ! っていうかマスターは俺を勘違いしてないか? 手当たりしだい食うほどそっちの趣味はないんだよ! ハルとならともかく」

 ハルは聞かなかったふりをしてメニューの表をいじっている。マスターはケラケラと笑って他の客の相手をしに行く。ジントニックを空けながら、吾朗はちらりと座席を確認した。入口のすぐそば、吾朗の指定席から一つ空けたスツール。そこにはカードが置いてあって、Reserved.と書いてある。戻ってきたマスターに、吾朗は低い声で尋ねた。

「あの席、いつまでそのままにしとくんだよ」
「うーん、ワタシの気の済むまでかな?」

 空とぼけた後に、マスターは目を伏せて笑った。

「ようやく気づいてくれたじゃない。弥栄子さんのことは残念だったよね」
「……」
「森火事にまかれた息子さんを助けようとして自分も……だなんて。あの人らしい。めっきり寂しくなったよ」

 カードが置かれてずっと予約済みになっていたのは、弥栄子がいつも吾朗を待っていた席だった。待ち合わせに遅れると、いつもそこに座ってグラスをかたむけていた。退院してからというもの、吾朗は変わらずこのカフェバーに足しげく通っていたが、席のカードに気づいてからも、弥栄子について話すことはなかったのだ。ハルがそれとなく聞く。

「もう、ふっきれたのか」

 吾朗は虚をつかれて、苛立たしげにまくしたてる。

「ふっきれるわけがないだろ。あいつにとっちゃ俺が最後の男なんだぜ……だからせめて俺は、あいつのこと永久に覚えててやるんだよ。マスター、ギムレット!」
「えっ……まだ三時だよ、おやつの時間。吾朗ちゃんこんな昼間っから飲むの!? 吐いたり潰れたりしないでよ」
「いーから出せ。ハルにはミントジュレップな!」
「……はいはい」

 マスターが肩をすくめてカクテルの用意をしに行く。ハルが謝ってくる。

「……すまない。まだ生傷だよな。大丈夫か」
「おまえよりも十年分は出会いと別れに慣れてるよ」

 言い返した吾朗の言葉に、ハルはうつむいていた。マスターがカクテルを持ってくる。吾朗はものすごい速さで一杯目を空にして、続けて同じものを注文する。  日が落ちてきて、先に潰れてしまったのはハルの方だった。気分が悪そうにカウンターに伏せて、そのまま寝てしまった。鋭い印象も薄れ、こんこんと寝込んでいる。忙しい時間帯だったが、廻ってきたマスターはハルを覗きこみ、穏やかに微笑んだ。

「傷心だから、ヤケ酒に付き合ってくれたんだね。ハル君そんなに強くもないのに」
「まったく無防備に……キスしちまうぞ」
「やめときなさい。店内でハッテンしないでね。言っとくけど同性愛サベツとかじゃないから」

 きわどい冗談をマスターはぴしゃりと注意する。吾朗も酔っていたから、鼻白んで要求した。

「ふん……じゃ、マスターも一杯つきあえよ」
「そうだね、じゃ、一杯だけ私も。Blue Moonにするよ」

 マスターは悪戯っぽく笑って、二杯作り始めた。ドライ・ジンにレモンジュース。それに少量のバイオレットリキュール。菫の香りがする、薄紫の上品なカクテルだ。洒落た美しい色を見つめながら、マスターがしみじみとこぼす。

「クールな人だったね。これが気に入りなんて……似合いすぎてるよ」

 吾朗は答えない。マスターの言葉に附け加えるべき印象はない。グラスに口をつけると、ジンの苦みとレモンの酸味が溶け合って飲みやすい。港町の霧のような味だった。ブルームーンを飲み干すと、ハルがようやく目を覚ました。呆然としながら瞬きをくりかえしている。吾朗がふざけて肩を抱いてもまだぼんやりしている。おかしくなって吾朗はそのままハルをぐいぐいと揺り動かした。

「まだ六時だぜ? これくらいで潰れるなんて修行が足りねーな。おごってやるから眠気覚ましにまた飲めよ」
「これ以上はダメでしょ。ほらハル君起きて起きて。変態に持って帰られちゃうよ」

 騒ぎながらも、吾朗は弥栄子のことを振り返る。……センチな気持ちになるってことは、ある程度思い出にして整理してしまったのだろう。祈りの一つでも唱えて弔ってやればよかったのに、カクテル一杯で終わりだなんて我ながら冷たい男だ。相変わらず、「神聖な役目」には向いてない。

 マスターにウーロン茶を与えられたハルがようやく復活して、二人で店を出るとき、マスターは素知らぬ顔で予約席のカードを片付けていった。吾朗がその店で弥栄子のことを話題にすることはそれ以降なかった。

 年が改まって、雪が降って梅が綻び始めても、吾朗はまだそのバーの常連だ。ハルと来ることもよくあるし、一人ふらりと寄ることもある。行きつけの店だということを覚えたのか、門限を越していると、カイからマスター当てに電話をかかってくることまである。マニュアル人間とのルームシェアは厄介そのものだが、日常は何だかんだでさらに平穏になった。鬼殺しなんて吾朗にとってはそれこそルーティンでしかない。「この世こそが地獄だ」という信念にしたって、相変わらずそのままだ。弥栄子がいなくなっても、吾朗にとって訪れた変化などほとんどない。

 最近、ここで一人飲んでいると、死んだ奴らのことをよく思いだす。パートナーだった従軍神父、弥栄子、それに数限りない戦友。彼らは記憶の中でまだ生きている。俺の生きながらえてる価値なんか、奴らを覚えてるってことだけなのかもしれない。ギムレットをがぶ飲みしてだらしなく酔いつぶれながら、今のところ、吾朗はそんなふうに考えている。

(二話おわり)