ムッシュ・ド・パリは迷わない(1-2)

その一 グッバイ私の初恋

4

 カイと吾朗は授業が終わるとすぐに帰って行った。普段なら軽く雑談をして二人をねぎらうのだが、今日は諍いもあった。カイも負担を強いたと反省したようで、律儀に謝罪していた。次回は小テストはないらしい。
 面会締め切りも近い夕方の病室。ひばりが双子の妹、つぐみを手伝っている。車いすからベッドに移る手助けだ。つぐみは軽い。160センチで40キロ前後しかない。それでも、人ひとりを支えるというのは難しく、重たいことだ。
 ふわふわの茶色い髪を乱して、つぐみがベッドに上がる。そして悪態をつき始める。
「顔はいいと思ったけど、やっぱりただのマジメ君じゃつまんないわ」
「……カイ先生のことを悪く言うのはよくないと思うけど。丁寧にやってくれてるよ」
「お姉ちゃん、あんな奴かばって何したいの? 体育会系のほうがオキニかと思ってたのに。もう主旨変え?」
 当たり散らしたひばりが、ベッドに転がって愚痴った。
「……あーあ、せっかくの十八歳の夏なのに、つまんない」
「でも……受験勉強はしなくちゃだめだよ」
「そっちは私の陣地じゃないもん、だから志望校私立の低い女子大にしてるんだし……分担したじゃない? 私たちは」
「……」
 嘲りの表情を浮かべてつぐみがひばりを見る。なまじ愛らしい顔立ちだけに、普段の仮面との落差がすさまじい。ひばりは黙った。
「お姉ちゃんは勉強、私は可愛さ……分担したじゃない。だからお姉ちゃんは勉強してりゃあいいけど、私は遊んでていいの。年上にちょっと優しくされたらそんなことも忘れちゃった?」
「違うよ、ハルさんは……」
 言いかけたひばりに被せるように、つぐみが刺した。
「ストレス溜まって万引きしようとしたのを止めてくれたイイ人、でしょ? でも、あの人なんかモテそう。お姉ちゃんなんかじゃ箸にも棒にもかからないよ。一生懸命色目使っちゃって……馬っ鹿みたーい」
 あまりにも辛辣な物言いだったが、ひばりは反論せずに顔を伏せた。自分と同じ顔立ちで、自分と同じ遺伝子のはずの双子の妹。それなのにひときわ可愛らしい彼女につつかれると、ひばりの自信は全てしぼんでしまう。つぐみは手鏡を取り出し、しなを作った。
「ハルさんだっけ、どっちがいいか聞いてみよっか? お姉ちゃんと私」
「……やめて!」
 弾かれるように悲鳴を上げる。ひばりは家庭教師の授業のあと、ハルに例の借金をおごり返す習慣がついていた。カフェでおごらせてくれたのはあの一回だけで、それからは飴やジュースといったお菓子が中心ではあった。わずかな接触だったけれど、ハルについてひばりは少しずつ知り初めていた。意外と甘党なところや、剣道の練習が好きなこと。沈黙がこわくてひばりが口にするつまらない高校生活の話にだって、じっと聞き入ってくれる。静かで鋭い瞳に見つめられると、息がうまくできなくなる。返ってくる言葉はいつも短いのに、冷たくない。あの人は比べたりしない、そう信じている。恋愛とかそんな素振りすら本当は勘付かれたくない。つぐみが悪魔のように笑う。
「ふふふ。かーわいい。けっこう本気なんだ、初恋ってわけ?」
「……もう帰るから」
 ひばりは素早く荷物をまとめ、珍しくとげのある態度で病室のドアを閉めた。つぐみがつまらなそうにベッドにつっぷす。携帯を取り出し、何十通もの送信履歴を見て溜息をつき、いらいらとメールを打ち始める。『もうすぐ退院なんだ』。看護師が夕食を置いていく。笑顔で愛想をふりまき、戸が閉まる。つぐみは携帯も放りだし、猛烈な勢いで夕食をかきこみはじめた。ほとんど噛んでいない。汁物やお茶で流し込み、平らげると再び携帯をみつめ、そのうち苦労して車いすに乗り、個室備え付けのトイレに向かった。沈黙。
 涙まじりの顔でつぐみがトイレから出てくる。濡れた口元をぬぐい、壁かけ鏡に自分の顔を映す。髪は長く、茶色く染めている。色白で、小作りな愛らしい顔。……でも、化粧をはいでしまえば、姉と同じ顔立ち。携帯に着信は入らない。
「……私が可愛さ、お姉ちゃんは勉強、私が可愛さ、お姉ちゃんは勉強……」
 つぐみは呪文のように繰り返す。何百回メールを送っても、振られた相手からの返信はない。

 もうすぐ夏休みで、暑さも本格的になりつつある。ひばりはつぐみの重たい荷物をかかえながらひたすら坂道を行軍する。スポーツバッグいっぱいの夏用の洋服。病院へのバス停まではあと十五分は歩く。
(病院にこれを届けたら、そのまま予備校か。きついなぁ……)
 今日のこの後のスケジュールを考えるだけで憂鬱になってくる。けれど、母のためにも自分は頑張らなくては。国公立、医学部志望の道はけっして易しくはない。つぐみの退院まではあと一カ月ほどだし、その後はもう煩わされることもないだろう。自宅での自習はだらけがちになるので、カイの家庭教師には正直助けられていた。近頃はつぐみも大人しく与えられたプリントを穴埋めしている。銀色の自転車がギッと音を立てて、ひばりの隣に止まった。
「どうした。重そうだな」
 ひばりは心臓が喉から飛び出そうになった。ハルだ。今日も竹刀袋を背負って、Tシャツにジーンズだ。こんな所で出会うなんて。ひばりは慌てて笑う。
「ぐ、偶然ですね! 今から妹の荷物を届けに行くんです」
「そうか。乗せてっていいぞ」
 ハルはぶっきらぼうに自転車の前カゴを叩く。悪いなあと思いつつも、ひばりはスポーツバッグを自転車に載せた。ふう、と一息つく。ハルがふっと笑う。
「ずいぶん汗だくだな」
「あ……」
 ひばりは暑さだけでなく赤くなった。いそいで学校のカバンからタオルを取り出して顔を拭く。ハルは自転車から降りて、ひばりの横を歩く。
「どこまでだ?」
「官舎前のバス停までです」
「通り道だ」
 ハルの言葉は相変わらず短い。何か話さなきゃ、とひばりは焦る。それでも今日は、ハルのほうから話を振ってくれた。
「今日も妹のお守りか」
「え、ええと……でも、母さん働いているから。パートですけど」
「大学受験なんだろう? カイが心配してるぞ。妹の世話もいいけど、勉強に集中したほうがいいって」
 ハルは顔色を変えない。まっすぐ前を見ている。初夏の火照りの中、ハルの隣を歩きながら、なぜか胸が切なくなった。ひばりは小声で話す。
「母さんにも言われます、でも……あの子も悩んでるから」
「そうは見えないが」
「今年の春、好きな人に振られたのが本当にショックみたいで。外見とか恋愛には自信あるみたいだし……最初入院したのも、耳が聞こえなくなったからなんです」
「そうなのか」
「突発性難聴って、原因不明なんですよね。失恋のショックが原因なのかな、なんて。つぐみはそこまで話してくれないけれど……」
「仲はいいのか」
 ひばりは苦笑して、答えた。
「微妙です。性格、正反対だから。でも、心配は心配ですよ。病院で爆発事故が起こって脚を折ったのだって……入院費はタダになったけど、事故のあらましも判らないみたい……つぐみ、それからずいぶんやせちゃいましたし」
 ハルはそれ以上聞いてこない。ただこちらを見据えて、そうか、とうなずいただけだ。好奇心やからかいはない。それでも視線が少し和らいでいる。坂道がもうすぐ終わって、国道に出る。ひばりは珍しく打ち明け話を続けた。
「お父さんは忙しいですしね……ほぼ離婚してるみたいなもんですけど。私はお母さんといて、つぐみはお父さんっこなんです。大学に入れたら……つぐみと一緒に過ごす時間も少なくなるだろうな。卒業したら多分、もっと会わないだろうし……」
 母は一日中スーパーのパートをして、学費の貯金に余念がない。折れてしまいそうな自分に言い聞かせるような身の上話だった。そう、つぐみはお父さんの側。ひばりはお母さんの側。大学の学費が終わってしまえば、他人同士になる。入院したつぐみの面倒を文句も言わず見るのは、他に誰もいないからという理由もあるが、これがつぐみと親しく過ごす最後の時間だとどこか悟っているからかもしれなかった。
 話し過ぎたと思って、ひばりは慌てて付け足した。
「で、でも。国公立の医学部って難しいから。浪人しちゃうかもしれないし、そしたらお父さんとつぐみとの縁もまだまだ続くんですけどね! そのほうが寂しくないし、いいのかな」
 ハルはひばりの話を全て呑みこんで、顔を上げた。もう官舎前のバス停が見えている。そして、ぽつりと言った。
「家族との別れなんかいつかは来るもんだ」
「は、はい……」
「お前の勉強の邪魔をしないように、吾朗に言っておく。カイにも」
「か、カイ先生には助けてもらってます……! 吾朗さんも、たまにおごってくれるし」
 バス停について、ひばりは荷物を自転車から下ろした。ハルは真剣なまなざしでひばりを見つめた。それだけで、ひばりは心を軽々と掴まれてしまったような気がする。シンプルに励まされた。
「がんばれ」
「……はい」
 ひばりはうつむいた。目をそらさずに向かい合ったハルを、見つめ返すことができなかった。頬が熱過ぎて。

 自転車のハルはひばりと別れると、そのまま習志野駐屯地に向かった。髪の短い自衛官たちに人懐っこく挨拶される。ハルはその全てに応える。まだ人もまばらな食堂に入ると、カイと吾朗が待っていた。
「ハル。遅かったじゃねーか」
「……すまない」
 残りのカレーをかきこみながら吾朗が報告する。
「首尾は上々だぜ。浴衣着てくるってよ」
「……くれぐれも、揺さぶり過ぎないで下さいよ。発現しないにこしたことはないんですから」
「まぁ、いいじゃねーか。人ってのはそう簡単には壊れねーよ、たとえ壊そうとしても……」
 吾朗は携帯のフリップを開け閉めして遊んでいる。ハルは低い声で言った。
「俺は反対だって言っただろう。接触してるのか」
「天川のオッチャンも続けろってよ」
 吾朗はハルの苦情を右から左へと聞き流した。カイは後ろめたそうだ。
「……壊せという指示はないですけど」
「壊すなっていう命令もないな。いいじゃねぇか? 的相手じゃそろそろ腕もなまっちまう」
「……」
 ハルは無言で吾朗の横に座った。携帯をひったくり、プライバシー侵害との文句も聞かず、画面に目を走らせる。つぐみからのメールだった。何画面もスクロールしなければいけないほどの長文で、自らの心情をとつとつと訴えている。最後は「公園での花火楽しみです」と結ばれていた。ハルはじろりと吾朗を睨む。
「公園での花火?」
「気晴らしにどうか、ってな。ねーちゃんも誘えって返しておいたぜ。そこがこいつの……『グール』の泣きどころみたいだからな。履歴遡ってみろよ、思わせぶりでいざとなると冷たい。吾朗様の芸術的な手管だぜ?」
「まだ『鬼』じゃありません、若いですし、このままカウンセリングを受けさせれば……」
 カイがたしなめるが、吾朗は無視する。
「効いてるような素振りはねーな。『ウザいだけ』だって。好きな男に一日二百通メール送るようじゃあ……効いてるわけねーわな」
「……」
 妹・つぐみのほうこそ怪しいと言いだしたのは吾朗だった。初めは意見のひとつとして記録される程度だったが、彼女が入院先の病院で過食嘔吐の症状を見せ始めてからがぜん説得力を増し、調査が進められていた。六月半ばの『鬼』の力の暴発は、姉・ひばりの恨みではなく、つぐみ本人が起こしたものだと仮説がたてられ、耳鼻科病棟への入院が精神的な重圧による突発性難聴であったこと、クラスメイトや同級生などからの近頃の評判、ハルやカイに対するいやに上っ面だけの会話などにより、疑惑は深まっていった。
 『鬼』が自らの力で自らを傷つけたという事象自体には前例がなかったし、証拠も押えられていない。だが、吾朗はすでに一人合点し、ひそかにつぐみと接触を増やしていた。見舞いに行き、相談に乗り、メールアドレスを聞きだし、後は彼の得意とするところである。一日に何通も長文のメールが来るようになり、偽りの愛の言葉をささやき、途中で放り出すように冷たくし、つぐみの心を揺さぶった。つぐみは病院を通じてカウンセラーがつけられ、精神療法も受けていたが、過食嘔吐は止まらない。発作のように起こり、事後に吾朗へメールが来るのだ。吾朗はもはやつぐみを獲物としてしか見ていないから、どんどん追い込む。
 カイが苦々しく釘をさす。
「吾朗さん……派手にすると、退治してから足がつきますよ」
「すっとぼければいいだけだろ? 首になんかならねーし」
「いくら『与える者』に魅入られて、鬼になりかけているといっても……」
「じゃあ祓ってみろよ。そこまで発現はしてないだろ? 俺だって、ある程度出てきたら癒してやるよ」
 口げんかに、ハルは何も言わない。それでも不機嫌なのは目に見えていた。吾朗が絡む。
「何だよ、ハル。お前だっておんなじだろ、『鬼』を斬らなきゃ食いっぱぐれる」
「それとこれとは別だ。あいつらはおもちゃじゃない」
 吐き捨てたハルの正論に吾朗は笑う。カイは下を向いている。
「オモチャだよ。俺たちが単なる弾丸なのと同じだ。撃たれるためのオモチャだよ。育ててる最中だ、天川のオッチャンだって判ってるだろ」
「……天川さんはそんな人間じゃありません」
 カイの苦し紛れの反論も、吾朗には届かない。それに前段はカイにも否定できない。カイの顔はひときわ暗い。ハルは年下の少年からあえて目を反らしてやる。
「公園で花火なんて生まれて初めてだな。楽しみだぜ♪」
 吾朗だけがうれしげに、携帯のストラップを指ではじいた。

5

 鮎沢つぐみは、病室で携帯のキーをカタカタと打っていた。意中の男子がいたことなど遠い昔みたいだ。友達からもメールは返ってこなくなった。近頃のメールの相手は吾朗だけだ。きちんと全文を読んでいるのか、読んでいないのかわからない。外見を褒めてくれる。でも内面をこきおろしてくる。たまに面会に来る。その時は怖いくらい優しい。こちらを刺しそうなくらいの怪しい目つきでキスをせまられた。窒息してしまうかと思った。
 遊ばれているという自覚はあった。本当に欲しいものはこれじゃないということも判っていた。けれど抗えなかったし、抗ってもつまらない日々が戻ってくるに決まっていた。一度、ちゃんと尋ねてみた。「身体目当てなの?」吾朗は馬鹿にしたように笑う。曰く「だったらとっくに食ってる」。じゃあ、何が目当てなのだろう?
 つらいのは、姉・ひばりと比べられることだった。内面はお姉ちゃんのほうがマシだな。ねーちゃんだったら食ってるな。あっちのほうが実はモテるんじゃないのか? どれも、普段だったら笑い飛ばしてしまう冗談だ。けれど、春のはじめ、満を持して告白したのに、あの男子生徒はつぐみを振ったのだ。「俺が好きなのは、お前よりもお前の姉さんみたいな、頑張ってるヤツだから」。そんな男子だから好きになった。そんな男子だから絶対に付き合いたかった。でもダメだった。その男子は、中学から一緒の学校だったから、つぐみの姉のひばりを知っていた。つぐみが高校受験を少し頑張ったのは、彼と同じ学校に行くためだった。空しさが募る。そして憎しみも。
 ……可愛いのは私なのに。美しさを捨てたお母さんとひばり。美しさと豊かさを選んだお父さんと私。母親がきらいだった。十九のころ年上の父と結婚して、短大をやめた。浮気されて、文句ばかりを言って、女だけど手に職をつけなさい。男に馬鹿にされちゃだめの繰り返し。ひばりは母の言うことを素直に聞いて、勉強するだけの機械みたいなものだ。いつもひばりと比べられ、成績についてくどくど言われ過ぎて、つぐみはノイローゼになりそうだった。私はお母さんみたいにはならない。お父さんに捨てられたのも、双子を産んでから、美しさをサボったからでしょう? お母さんの昔の写真、たしかに可愛かった。脚も棒みたいに細い。お人形さんみたいに可愛い。今は……。
 男にまで姉と比べられ、おとしめられることは、つぐみには耐えられないことだった。母からの期待を捨てたのに、父はいつもつぐみの愛らしさを褒めてくれるのに、肝心の好きな人から否定されてはかなわない。体重だって40キロ近くをキープするために、死ぬほどの努力をしている。化粧水だって乳液だってマスカラだってファンデだって! けれど今はまた新しい恋をしている。しているはずだ。
 吾朗はメールでは冷たくて、一緒に居る時優しかった。キスされてから、家庭教師に反抗する気もなくなった。寄りそっていると心が甘くうずいた。ナイフみたいな囁き声は、つぐみの心をいつも撫で上げた。「でも俺は、お前みたいな装う女が好きだけどな」「泣くほど辛いか。涙は武器だよな……抱いててやるよ」。歯の浮くような口説きも彼からのものなら嬉しい。でも、馬鹿な同級生やキモイ痴漢とは違って、胸や腰は触らないから、本音がわからない。やっぱり遊ばれてるんだろうか。
 ……お腹が空いた。
 体重が目に見えて減り始めてから、個室といえども夕食をホールでとらなくてはならなくなった。すぐ吐かないように、看護師が監視している。食べたものが贅肉になって、無駄にデブになると思うと怖気がする。それでも時間が経ってしまうと、うまく吐けない。イライラしたり、怖くなったりするとひたすらお腹が空く。飢餓感はつぐみにいつもまとわりつく。ダイエットは年中しているようなものだが、この空腹には慣れない。ひばりはこんな苦しみも知らないのだろう。憎悪がうつろに溜まっていく。
 三日後の花火を楽しみに、つぐみは眠ることにした。

 公園での花火の待ち合わせには、ひばりも浴衣でやってきた。紺色の地味なものだが、十代の娘らしく、やぼったさも愛嬌のうちだった。つぐみはピンク色の浴衣を着ていたが、サイズがいくぶん大きくなっていた。痩せたぶんがまだ戻っていないのだ。
 花火には、吾朗だけでなくハルとカイも付き添ってきていた。カイはまだしも、つぐみはハルにあまり姿を見られたくなかった。ひばりがハルを見る目も吐き気がした。熱い憧れの目。そして恥じらいの目。
 吾朗はまるでお姫様のように自分の車いすを押して、エスコートしてくれた。さすがに友人の前で女子高生とラブシーンを繰り広げる気はないようで、ときたま物言いたげに見つめつつも、さらりとしたものだった。騒ぎながらライターで火をつけて、色とりどりの光の尾を振った。ちょっと子どもっぽいかも。それでも嫌ではなかった。二人きりのときの獣のような危うさを知っているから。久しぶりにはしゃぐうちに疲れてきて、木陰で休むことにした。夏の夜は、暗いけれど怖くはない。吾朗は傍についてくれた。
 締めに線香花火をはじめるひばりと、カイと、ハルを眺めた。カイは妙に真剣で、ひばりはくすくす笑っていた。ささやかな火花を、竹刀袋を背負ったハルも熱心に見守っている。ふいに悲しくなった。その横顔は、好きだったあの男子に似ていたからだ。スポーツマンで、浮いた噂もなくて、真面目で、優しくていさぎよい。カウンセリングの憂鬱さと、一人ぼっちの寂しさと、体重が減ったことによる体力低下で、気が弱くなっていた。吾朗が敏感に察して、小声で話しかけてくる。
「ハルって……格好いいよな?」
「え……? うん。何、吾朗さんって、男とかも好きなの?」
「関係ないだろ。ガタイもいいし、剣道一辺倒で成りもダセーけど、いい男だよな。俺も負ける」
「そんなことないよ」
「ああいうのがタイプなんだろ? 本当は……」
 吾朗は相変わらずちくりと胸の奥を刺してくる。それでも、もう気心は知れていた。つぐみは自覚したことすらないような心の裏側まで全て、吾朗へのメールに書いてしまっていた。うなずいた。
「うん……好きだった子に似てる」
 その後、いつもだったら、甘い誘いかごまかしが来るはずだった。妬けるとか、青春だなとか、そうやってつぐみをくすぐってくれるはずだった。吾朗の声は低く、研ぎ澄ましたように冷たかった。つぐみにだけ聞こえるように、わざわざかがんで、耳打ちするように言った。
「ハル、お前のねーちゃんと付き合うんだってよ」
「え?」
「ハルのやつ、いい子ぶりやがって……お前のねーちゃんと隠れてメールしてたんだぜ。元カノとも別れるらしい。やっぱ趣味も似てるのかね? お前の落とせなかった男と」
 依存しきっている吾朗の嘘にだまされ、つぐみはむさぼるように目の前の光景を見た。信じられない、いや信じたくない。ひばりがそんなこと出来るはずがない。ハルの横顔は穏やかだった。自分が話しかけても、仏頂面を崩さないのに、ひばりを見て、くすりと笑って、優しい表情。ひばりもハルを恥ずかしそうに伺っている。そうだ、本当は、私だって、ああいう人が……。
 吾朗は追い打ちをかけた。
「じゃ、俺もねーちゃんと遊んでくるかな♪ 許せないよな? おべんきょ担当が男まで取っちまうなんて……」
 ひどく意地悪な言葉だったが、つぐみの内心はその通りだった。吾朗はつぐみなど見捨てたかのように軽薄に花火組へ合流する。追いてきぼりを食ったような気がした。吾朗はほがらかに笑い、ひばりに話しかける。急速に空腹が襲ってきた。ひばりは面喰っているが、おずおずと答えている。あの女! なんにも知らない癖して色目なんか使って、キモチワルイ! 私はおなかがすいてるのに、いつだって苦しくて狂いそうなのに、おなかがすいたの! あんな奴ら……!

 異変にはじめに気がついたのはカイだった。ふと顔を上げる。つぐみが暗くこちらを睨んでいる。その肌はきしんで、ひび割れ始めている。吾朗も振りかえり、会心の笑みを浮かべる。
「ひばりさん、下がってください! できるだけ遠くまで走って!」
 カイはカバンから素早く黒の天地盤を取り出す。天盤がはじかれ、内部の磁石と計算機器によって式占の演算がはじまる。同時に、自衛隊特群超現象対策班へのデータリンク開始、援護要請。すかさず調伏の詞を唱え始めた。つぐみは頭を抱えて苦しむが、そのうち骨折した脚もかまわず車いすから立ち上がる。ひゅう、と口笛を吹いて、吾朗がコートの身頃から軍用マシンピストルを構える。挑発がわりに一発、つぐみに向けてためらいもせず撃った。つぐみは銃弾を手で軽々とたたき落とす。それはもうつぐみではなくなりかけている。口が耳まで裂け、覗く歯はどれも犬歯のように尖り、メキメキと木が倒れるような音をさせながら、骨が隆起する。ぼろぼろと白い膚が落ちていく。ひばりは声も出ない。すくんでいる彼女の手をハルは強く握り、公園の外に連れ出そうとした。その瞬間、赤光の矢がひばりの足元をかすった。ハルは舌打ちし、竹刀袋から武器を取り出す。中に入っていたのは……くろがねの鞘。赤と金の紐。重い金属の音。明らかに真剣だ。
「ハルさん……!?」
「逃げろ。狙いはお前だ」
 ハルの指示は簡潔だ。カイが叫ぶ。
「方角壬! 避けて下さい!」
 今度の赤光はひばりの眉間を一直線に狙う。ハルが翻り、鞘で受けとめた。じゅうう、と水煙が上がり、ぬらりと銀に光る刀身がわずかに姿を現す。吾朗が歌うように呼ぶ。
「抜いたな、ハル! 今日はそんなにイイ銃も持ってきてねぇが……援護してやるよ!」
 軽快な音を立てていやに大きいストックホルスターを取りつけ、セミオートで斉射する。銀の銃弾が網のようにつぐみだったモノに襲いかかる。
 つぐみは、もはや人の形をなしていなかった。黒髪をふりみだし、服はとうにちぎれ落ち、青い膚は鰐のように固く、体躯は二メートルを超す。長く細い二本の腕、不自然に痩せこけた身体、ふくれた腹。地獄絵図にある餓鬼の姿そのものだ。ぎろりと金色の目が吾朗を睨む。小蠅を追い払うように右手で凪ぐと、かまいたちが起こって公園の緑を削った。吾朗はロングコートをなびかせて避け、ストックのセレクターを切り替える。
「グールちゃん、今すぐ主の元へ逝かせてやるぜ! 悔い改めな!」
 リコイルコントロール不可能なほどの重みをもつ9mm銀弾三点斉射が『鬼』を襲った。反動は強く、吾朗自体も吹っ飛び、したたかに木に背を打つ。だが彼はこの上なく楽しそうだ。カイが間髪いれずに状況を伝える。
「また遠距離来ます、避けて下さい、十秒後に援護可能!」
 鬼がうずくまり、はりねずみのように千本の赤光が辺りを貫く。ハルはひばりをかばって刀で受け、吾朗は打撲の痛みなどないかのように鮮やかに飛んだ。高揚のない声が鬼の背後より響く。
「ここが鬼門です……悪鬼を逐い、奇動霊光四隅に衝徹し、元柱固具、安鎮を得んことを!」
 回り込んでいたカイが呪符を放れば、鳥がついばむように白く飛んでいく。首に喰らって、鬼はうめき、髪が錐のように尖ってカイを狙った。八握印を結び、すっと瞼が閉じられると、カイの姿は霞のように消えた。
「嘘……何、何なの、これ……!」
 目の前で繰り広げられる人智を越えた戦闘に、ひばりは駆けだすこともできない。飛び道具はすべてハルが刀身で跳ね返しているが、二人分は苦しい。吾朗からブーイングが上がる。
「ハル! こんなんさっさと斬っちまえよ。ひばりはどうだっていいだろ!」
 ハルは怒鳴り返す。
「……そんな道理があるか! 戦いたかったんだろう、お前一人で何とかしろ」
 口論もすぐに中断された。鬼は四つん這いになり、獅子のごとくに咆哮したのだ。身がための術を解いたカイが叫ぶ。
「音波攻撃来ます! ……反転間に合いません、耳を押さえて、こらえて!」
 その数秒のちに、耳をつんざくような悲鳴が辺りを襲った。頭がかきみだされそうな、金属音に似た甲高い大音響が、平衡感覚を奪う。ハルはよろけ、ひばりはすでに地面に打ち伏している。吾朗とカイは平気そうだ。呪詞と弾幕がまき散らされ、吾朗は宙から、カイは下から、互いに目配せする。
「吾朗さん、ハルさんは当てに出来ません、やれますか?!」
「いいぜ、久々にトドメをくれてやるよ! お前は結界でも張ってな!」
「もう出来てます」
 カイが天地盤をはじき、ぴたりと止める。公園内にいつのまにか貼りつけられた守護符が、青い光を放って五芒の星を形作る。これで、鬼は公園の中からは逃げられない。吾朗はコートのポケットからアトマイザーを出した。軽く一吹きして、鬼の鼻っつらに飛ぶ。障害を認めた鬼が目を細めるのと同時に、もう一度至近距離で三点バーストをぶっぱなす。反動と鬼の赤光をモロに受けて、射撃者の体内ダメージは甚大なはずだが、ものともせずに再び跳躍、鬼の口に銃口を突っ込んだ。
「Dei Gratia(神の恩寵によりて)……我等が主からの情けだぜ!」
 銀弾をそのままセミオートでガツガツと撃ち尽くす。腕に血がしたたり、瞳孔も完全に開きっぱなしだ。後頭部を撃ち抜かれて、鬼の外殻はそのまま影絵のように崩れ落ちる。勝ったかに見えた。カイが警告する。
「吾朗さん、ハルさん、二秒後です、耐えて!」
 吾朗は慌てて鬼から離れるが、地に足をつけるとがくりと膝を落とす。
「まっ……待て、今の全力だったんだ、微妙にキツい……」
「了解、防御します。ハルさんはご自分でこらえて下さい!」
 カイが吾朗の元に走り、呪印を結んだ。二人の姿が霧のように歪む。鬼の丸くふくれた腹を割いて、裸の娘が飛び出してきた。狙うのはもはやハルとひばりしかない。伸びた爪を振りかざし、一直線に走ってくる。ようやく体勢を立て直したハルは、舌打ちして刀を抜き放った。
「……仕方ないか」
 使い手の声に反応するように、刀身がぽうっと赤く輝く。娘と組み合い、ぎりぎりと押しあう。娘がニヤリと笑う。丸く奇怪にふくれた腹から幾条もの光が漏れ始める。自爆するつもりだ。
「安綱!」
 ハルは呼びかける。魔剣は目覚め、刀身が闇の色に沈む。娘の顔が驚愕に歪むが、内部での熱、質量、運動は全て刀に吸収されてしまう。じろりとにらんで、ハルはつぶやいた。
「……悪鬼、成敗」
 横っ面をはたくように、ハルは刀を払った。今度こそ少女の苦悶の叫び。裸の娘の面は、元のつぐみの顔立ちに瓜二つだ。ハルは忌々しげに刀を振り、一思いに両断する。まっぷたつになったつぐみの裸から、赤黒いもやが起ち上り、その全ては刀に吸収され、跡形もなくなった。カイが隠行を解いて報告する。
「……一九二三、対象消滅。作戦コードB-201は対象撃破により終了、チームEXCU撤収します」
「ちっ、最後は結局ハルかよ……」
 遅れてきた痛みによろけながら、吾朗が愚痴をこぼす。カイは吾朗の肩をかつぐが、静かに責め立てた。
「……吾朗さんは謹慎してもらいます。鬼の暴走を私情で加速させました」
「証拠なんかねーだろ、証明も難しいし」
「天川さんには動向を報告済みです。しばらくお別れですね、寂しいですか?」
「ったく……チクりやがって」
 悪態も聞かずに、カイはベンチに吾朗を座らせ、黙々と呪符で手当てを始める。
 ……ひばりは、公園の入り口でガクガクと震えていた。刀を鞘におさめたハルがしゃがみこみ、平気かと尋ねる。しかし、その気づかいに微笑むことはどうしてもできなかった。目の前で、双子の妹が異形に変わり、殺された。吾朗の浮ついた調子も反吐が出そうだったが、カイですら、ハルですら、迷いも見せずつぐみだったモノを攻撃した。最後には、つぐみそのものの姿の少女を、ハルがまっぷたつに……! 混乱でひばりは尋ねる。
「あ、貴方が……つぐみを……!」
 ハルは一瞬眉をひそめたが、強く見返してきた。あろうことか、やすやすと肯定する。
「そうだ。俺が鮎沢つぐみを殺した」
「……いや、来ないで、やだ……!」
 ハルは、動揺しない、ひばりから目を反らさない。涙がだらだらと目から流れ出た。衝撃と悲しみで、ひばりは当たってしまう。
「あなたたちは……何なんですか!? あなたたちに出会わなければ……こうはならなかったの?!」
 ハルは鋭い視線で、きっぱりと答えた。
「そうだ。俺たちのせいにしろ」
 ひばりは矢も盾もたまらず、ハルを平手打ちした。ハルはそれでも動じない。お願いだから、謝ってほしかった。妹を殺してすまないって言ってほしかった。カイが重い顔で駆けてくる。そして何事か言おうとする。ハルは立ち上がり、押しとどめる。心を残したようにひばりへ語りかけた。
「……貸しだった三千円の残りはこれでチャラだな」
「……」
「お前の前にはもう二度と姿を現さない。……さよならだ」
 ハルはそのまま公園から一人歩き去った。カイはそれを止めない。淡々とひばりを見下ろす。
「……鮎沢ひばりさん、あなたの身柄をしばらく確保します。陸自の関係者に引き渡しますので、処理はそちらで。危害を加えることはありませんが、僕らのことは忘れてもらいます」
「……」
 ひばりは震えている。カイの事務的な言葉が寒々しい。吾朗がようやくベンチから復活して、ひょこひょこと歩いてきた。ひばりは睨む。この人が、妹をおかしくしたんだ!
「怖い顔すんなよ。一旦魅入られたら普通はどうにもならねーんだ」
「吾朗さんは黙ってて下さい。……ひばりさん、今回のことは個人的にお詫びします。ただ……気に病みすぎないで。押しつぶされずに……どうか人として生きていってください」
 カイが要を得ない慰めを口にする。吾朗は呆れたように横目で見て、凶悪に笑った。
「ま、人間でなくなっちまったら……今度こそ、俺が殺してやるよ」
 ひばりは絶句する。カイもさすがに睨みつけた。公園には黒塗りの車が乗りつけ、スーツ姿の男が何人か降りてくる。ひばりは連行され、吾朗も手錠をかけられる。ひばりは浴衣のまま、拳を握りしめる。こんなことになるなんて。こんな終わりになるなんて……。それでも、もう逢いたいとは思えない。おそらく逢うわけにもいかない。ひばりは大人しく車にひきたてられた。
 車の中には眼鏡をかけた背の低い女の人が乗っていた。お悔やみと、今後の処遇が語られる。このままつぐみの入院していた病院に搬送すること。希望すれば健忘剤を処方するし、精神安定のためにもそれを薦めること……ひばりは首を振る。ショックで頭が回らないけれど、それだけは拒否する。女はすぐに注意した。
「それだと、あなたには緘口令が布かれます……今後一年は監視もつく」
「いいんです」
 ひばりはやけっぱちで答えた。女は口をつぐむ。黒いブラインドの塗られた窓にこめかみを当てて、呆然としながらひばりは思う。……それでも私の初恋だった。疲れ果てて目を閉じる。まぶたの裏にはぼんやりと、あの人の後ろ姿が浮かぶ。今となってはつらいだけの面影。ひばりはその面影にむけて心の中でつぶやく。さようなら、初恋の人。

(二話前半につづく)