お題「夏の終わり」「言えなかったこと」
伊藤敬文は祈月家二階の客間、自室として借り受けているそこで、主君の息子を抱擁していた。二十八歳と十八歳、十歳差。まだ高校生で、遠き魔術師の理想郷、アルカディア魔法大受験のための準備が忙しい。伊藤敬文も去年三月に国軍に士官として復帰し、夏の間だけそこに来ていた。
古い型の冷えすぎる冷房を嫌って、宵闇へと窓が開け放たれている。ぬるい空気、汗ばんでべとつく肌。それなのに抱き合ってキスしている。かすめるだけじゃ足りずに舌まで出している。
「ごめん、敬文(けいぶん)……! 俺、もう無理、耐えらんない、敬文に抱かれちゃいたい」
「そだね、うん……好きだよ、君が好きだ、俺だって心臓ごと捧げたい」
少年と大人の恋だった。伊藤敬文は士官学校卒業後退魔科任官拒否で古都大修士号、そののち国軍普通科志願、少年の父、祈月源蔵の派閥にあった。一時軍閥落ちがあったが復帰である。
抱きしめながらキスしながら体の輪郭をデッサンするみたいに手のひらでさすりながら敬文は思う。だって耐えられるわけがない。俺が見つけて俺が戦に連れてってその後も力ずくで誘拐されちゃいそうで初めて怖いって怯えてみせて俺に全力で甘えた子が求めてきてるんだから。
逃避行ののち、少年の故郷までたどり着いてその後そばにいた。求められるがままに父親の与えていない庇護と溺愛で包み込んできた。
その罪深さを思うとときどき怖くなる。夜の海みたいな底知れない深み。
「身体、苦しい? でも……ひとりで何とかできるね?」
少女と違って少年だからな、とズルい大人は思う。自分を支配する性欲から逃れられないから、手籠めにするのは本当に簡単である。手伝ってあげると申し出ればいい。俺も君と繋がりたいって言えばいい。男同士の恋愛にプラトニックなんてありえない。
……清矢さま、なんて悪い子だろう。他は完璧すぎる優等生なのに俺みたいな男に抱かれちゃうなんてとんだスキャンダル。同い年の親友は毛を逆立てて怒るだろうな。
腕の中の清矢は絶望の瞳で見上げてきて、敬文の胴を抱きしめてケダモノっぽく頬ずりする。すうっと深呼吸して男の汗の香りまで味わって、こくんと小さくうなずく。 伊藤敬文は頬に曲げた指をあてがいながらからかう。
「……うん、いい子だ」
次の瞬間、清矢は弾かれるように顔を上げた。丹精な顔つきが歪み、釣り目に涙をためている。ツーブロックの黒髪は鈍いつやを放ち、風呂上りでどこか涼しく甘い匂い。 白いさらりとした肌に赤みがさして、真珠みたいな気高さの男の子が首にかじりついた。
「敬文、俺の恋人になって」
「何言ってるんだ、ダメだよ。まだ君は高校を卒業してない」
「ヤダよ、俺、イイ子だけど……今だけ不良になる。敬文、抱いてよう」
敬文の胸板に頬ずりして、ぎゅうっと抱きついている。あぐらをかいた膝に乗り上げ、全身でもたれかかっている。さすがに愛しい少年にそこまでされては敬文も平静ではいられなかった。なだらかなカーブを描くショートパンツのお尻にそっと手のひらを滑らせる。清矢が背筋をびくつかせて飛びのく。
「ひゃっ、け、敬文。どこ触ってんの……!?」
「抱いてほしいんじゃないの? これぐらいで音を上げるようならひとりでしなさい」
酷薄な命令である。清矢はむっと表情を堅くして、あぐらをかいた敬文の股間に触れようとした。敬文は力強くその手首をつかみ、じっと視線で圧をかける。清矢はぎりっと歯噛みする。
「ズルいよ、敬文……!」
「ね、今夜は自分の部屋に戻って。卒業したらいくらでも抱いてあげる」
「手首、痛い……!」
清矢はそう言っていったん引く態度をとったので、敬文は離してやった。するとすかさず、弾丸のように胸元に飛びついてくる。不意をつかれたが、押し倒されるわけはなかった。無鉄砲な行動が微笑ましいくらいだが、敬文だって本当は胸が高鳴っている。
抱きとめてやり、すうすうと髪に鼻をうずめて深呼吸すると、冷たい桜のようなシャンプーの香りで理性がごっそり奪われていった。
「お願いだから。清矢さま。俺、ちゃんとした大人でいたい」
「一緒に道、間違って」
清矢はそう言って、とっぷりとキスしてきた。男の股間の猛りには気づいているんだろう。唾液が自然と溢れ、思わず口づけに応えてしまう。頬を手挟んで、つたなくも舌を使っている。ああ、欲望のままに押し倒して突っ走っちゃって間違っちゃえたら。でも。
敬文は耳元でささやいた。
「あと八ヶ月だよ。俺は帝都にいるんだ。君は受験勉強。たぶんあっという間だ」
「だけどそうしたら俺、留学しちゃうじゃん」
唇を尖らせて不平を言うのが、たまらなく愛しい。敬文は躊躇った。確かに翌年五月には清矢たちはアルカディア魔法大へ行ってしまう。試験に合格すればという前提はあまり意味がない。学長から入学試験五割義務づけというオファーが来ており、清矢はどの分野もすでにそのスコアをクリアできる見込みがあった。
敬文がこうして祈月家に泊まり込みなのも勉強に付き合うという名目があった。朝から晩まで机に首っ引きだったが、敬文が来たとたん花火をしたがったりプールに誘ってきたり。友人たちと堂々遊べない鬱憤をこの一週間で晴らしていたのが清矢だった。 だからこれもきっとそんな遊びの一環。
「いい子だからもう寝なさい」
「はーい、なんて言わないぜ? 俺」
そう言って、どさりと客間の布団に仰向けに寝転がった。タンクトップにショートパンツ。脚はすらりと長い。すんなりした青竹みたいな肢体。つり目で自信たっぷりに微笑んで、あからさまな誘惑だった。
敬文は悩ましげに眉をひそめる。まるでプラチナでできたブローチだ。なめらかな肌は月明かりで尖った部分がチラチラ光る。
「……バカだね」
もう胸が一杯で、しゃにむに抱きしめたくなった。自分が綺麗なことを知ってる。敬文が股間を膨らませているのも分かっている。そして少年の果実もまた愛らしく張りつめて切なそうだった。
実際、あとヶ月のお預けは長かった。だけどここは祈月家であり、一階にはこの子の祖母や母が眠っている。清矢は膝を曲げて、タンクトップの中に自身の右手を差し入れ、もう片方の左手で自らを抱きしめるようなポーズをとった。
「お願い、敬文……! 俺辛いよ」
敬文は舌打ちして、苦しい雄に操られるように押し倒した。はぁはぁと荒い息づかい。喉仏に唇をつけ、何度も吸いたてた。耳たぶをつまんで、首筋につづくラインから愛す。そして熱くなった中心まできゅっと触れ合わせてうずつきを伝えあった。
「ね、こんなになってるんだ。怖いだろ?」
「敬文……! こ、怖くないよ、俺。大丈夫だよ、何してもいいから……!」
かすかな声の震え。引ける腰。強がりであることは理性の飛んだ脳にも知れた。
敬文は自制心を総動員して離れる。そうして、傍らに膝をつくと、清矢の膝裏と背中に腕を突っ込んで、やや強引に横抱きにして立ち上がった。俗に言うお姫様抱っこ、である。
「け、敬文! 何してんの!」
「暴れちゃ危ないよ」
六十キロもない体を持ち上げるのは軍人の敬文にはそこまで辛くなかった。清矢の部屋まで廊下を歩いて、ドアの前で下ろしてやる。清矢は三角すわりして膝に額を押し当てた。
「……びっくりして冷めちゃったよ。だけど俺今夜ひとりで寝るのはヤダ」
「わがままだな。そんなに俺を悪い大人にしたい?」
諭してやると清矢は顔を上げて黙った。勝気な表情が一転、泣き出しそうだ。ちりちりと敬文の胸が痛む。もどかしさを隠して笑った。
「今日のは予行練習。本番は八か月後にしよう。もっときちんと準備して、高校生じゃなくなった君を抱きたい」
……ほんとは滅茶苦茶君と二人、ひたすら間違っちゃいたいけど。
言えなかったヤバい本音は体の奥深くに沈めた。夏の終わりのそれぞれの一夜は、狂おしく切ないに違いなかった
(了)
※この短編は独立した軸としてお楽しみください