常世の昼の春物語(第二話)相棒は俺にヒミツを許してくれない(1)

01 夏目雅呪殺事件

 二年前、陶春県汐満市渚村。八月某日。村の中央会館にて、とある人物の葬式が行われていた。永劫の帝こと『永帝』を歓待するために、たった十二日間で季節の風流を味わいつくした『春夏秋冬の宴』以来、この地に根付いて村人の教育に従事してきた学者一族、夏目雅の告別式である。十二歳の一人息子文香は憔悴しきっていた。

 文香は通夜で滂沱して、主君源蔵も涙ながらに謝った。なぜなら、雅は源蔵の長男・夜空を誘拐されまいとして使者と戦い、呪言をかけられて世を去ってしまったからである。

 夜空は、焼香の際に泣き喚き、生前と何ら変わらぬ遺体にとりすがった。

「……帰ってきてよ! お別れなんて嫌だよ! 俺のせいだ、俺がもっと強ければ! 雅! 雅ーーっ!」

 弟の清矢は泣かずに黙っていた。先だってこの世を去った母親に続けて二度めの葬式だった。夜空よりもさらに幼い彼は、悲劇すらちゃんと認識できていないようだった。大人たちの真似をして抹香を押し戴き、そっと香炉にくべて、礼をして去った。現場にいた二人の従弟・草笛広大は、鼻をすすったものの何も言わずに焼香をした。こちらも自然な哀悼の意であった。

 おりしも源蔵たち祈月軍は長年政敵であった鷲津氏の清隆と同盟して、敵を打倒せんとしていた。汐満市には現状、皇統を強権ですげかえ、恐怖政治を行っていた悪将軍・藤内の部下であった灰狼族の暴れ者・呂壱剛毅りょいつ・ごうきが駐屯していた。藤内自身は討たれたものの、その残党が各地を荒らしまわり、ついにはこの地方にまで流れてきていたのであった。

 戦靴慌ただしき中、齢十一の夜空が同盟に際しての人質として乞われたのは、いわば世の中の趨勢でもあった。ただし使者がよくなかった。

「零時を迎えにきましたんやけど」

 夕暮れ時に尋ねて来たのは、茶髪を長めに伸ばし、軽くパーマをあてた白狐亜種の男だった。女を食い物にする典型的遊び人、そんな印象であった。零時というのは最近まで投宿していたよそ者の子だ。何でも、術を修行したいとの願いだった。松嶋市街に退魔の結界を張る安部氏の親族で、本人きっての希望で神社からこちらに通ってきていたのだった。不審者の到来に、村の古狼と慕われる夏目雅が応対した。白狼亜種が多数を占める渚村では、戦時とあって、私塾を経営する夏目家に子供を集めていたのだった。雅は朴訥な口調で言った。

「既にここは戦場。吉田零時は国元に返した。お前は一体何者だ」
「零時の父親の、宙明ひろあきと言います。祈月の坊ちゃんを同盟のよしみで鷲津さんの家へ、って要件を言付かってきとります」
「預かっている子供をそうやすやすとは渡せない。さては呂壱の手の者だな」

 夏目雅は、内心冷や汗をかきながら大柄な体躯に木刀を構えた。零時の父というにはいやに若い見た目の男は疑われたというのに余裕たっぷりに微笑んで喧嘩を売った。

「それでうちを撲つと言いますんか。おお怖い怖い。とんだ暴力親父やなぁ、文香ちゃんやっけ? 祈月の夜空はどこや。教えんか!」

 ごく真面目な小学生で、少し気弱なところもあった雅の息子、文香は黙って夜空を背にかばった。夜空は一つ年上のその少年の後ろに隠れた。

「庇うっちゅうことはそいつが夜空やな! 眼鏡のボンが文香やって、零時が言うとったわ! おまぬけさんは一等最初に死にさらせ!」

 三島氏。土御門家の庶流の家柄だが、呪いの力は随一。祈月氏の側近として陰に日向にその業を支えてきた夏目雅はその恐ろしさをよくわかっていた。人差し指から放たれた殺傷力ある悪意に気づき、すぐに夜空ごと息子を突き飛ばす。開け放たれた土間に、雀が、鳩が、烏が、ひばりが、何羽も何羽も侵入してきて屋敷内を飛び回り、つつかれた子供たちはぎゃあぎゃあ騒ぎながら部屋の隅に殺到した。

 雅は背を低くし、木刀ごと体当たりをしかけて、三島宙明に峰打ちをしようとした。宙明はにやりと笑い、邪悪そのものの表情で言った。

「死ねやっ!」

 二度の呪詛を受けた雅は脂汗を垂らしながらしゃがみこんだ。今年中学生になろうかという前村長の孫、風祭銀樹かざまつり・ぎんじゅがハサミ片手に立ちはだかる。

「俺が相手になるっ! お前の首をちょん切るぞ!」

 まとめて掴んだ書道用の半紙を、素晴らしい速さで人型に切りぬき、その首をハサミで跳ねた。とたんに襲い掛かるかまいたちの風速。よろけた三島宙明の前を小鳥たちが飛び回り、三羽がばたばたと風刃に切られて落ちる。

「術師がおるんやな、どうせちんまい躯を晒すのがオチやで、夜空をよこせや!」
「あんたは人殺しだ! 自分の子供を面倒みてくれた人の恩を最悪な仇で返すんだ!」

 祈月軍閥のトップ、源蔵の第二の子分を自称する、張本家の娘・志弦しづるも叫んだ。そして硯やらなにやらを投げまくる。三島宙明は顔面に硯の直撃を受け、墨をひっかぶった。

「夜空! てめーだけは捕まっちゃなんねぇ! 俺と一緒に勝手口から逃げるぞ!」

 夜空の従弟、草笛広大くさぶえ・こうだいが決然と叫び、文香にかばわれた夜空の手を引く。夏目屋敷の構造は勝手知ったるものだったから、夜空はうなずいて広大とともに逃げた。頭には、父の命なしに誰かの人質になるなという教えだけがあった。自分さえ無事に逃げ切ってしまえば、三島宙明は退散するだろう。齢十一の夜空の胸にはそうした確信があった。広大の機転に力を得た銀樹は、書道のために積まれていた半紙を次々とハサミで切り抜き、音に合わせて飛ぶ風刃で敵を牽制した。そしてその隙には喉を嗄らして仲間を励ます。

「文香! ありったけの風でさかまけ! 志弦は墨汁ぶっかけろ、全員で三島を押し返すぞ!」

 白狼村、渚村に今も暮らす村民たちの秘密が露わになる瞬間であった。

 かつて、皇軍として祈月家の祖・嘉徳親王に付き従った特別魔術兵。獣亜種ごとに統括された村人たちがその子孫。夏目も風祭も草笛も白狼亜種で、当時はエリート中のエリート兵であった。夏目の息子、文香は銀樹の号令に従い、泣きながらもつむじ風を纏って三島宙明に体当たりした。村の子供みなの師匠、文香の父である雅は朗々と吼える。

「ウォオオオオオオオオオオオオオン!」

 寸時、雅は一匹のけだもの、白狼に変化した。四つ足の体躯にまとわりつく衣服を嚙みちぎって、三島宙明を守ろうとする小鳥たちの猛攻を抜け、痩身の男に真向から襲い掛かる。喉を食い破られそうになった宙明は魂さえ突き破る強烈な憎しみで叫んだ。

「土御門に逆らう者は、去ねやぁああ!」
「お前こそどっか行っちゃえ!」

 志弦は泣きながら、落ちた木刀を拾い、墨まみれの宙明にやみくもに振るった。
 銀樹がいつの間にか即席の風車を作って、ふうっと文香とともに息を吹きかける。

「風よ! よそ者を押し返せ!」

 竜巻が吹き起り、大広間をめちゃくちゃにした。すでに、裏口から出た夜空と広大が触れ回り、領兵までが夏目屋敷にかけつけていた。三島宙明は取り押さえられ、事件は収束したに見えた。

 しかし、三度の呪怨を受けた夏目雅は、当時魔法医療も進んでいなかった日ノ本では、看病むなしく帰らぬ人となってしまったのだ。

02 夜空のロンシャン留学

 陶春魔法大学の七階、結城疾風研究室にて、十一歳の夜空はソファに座っておとなしく待っていた。

 傍らには大きな祈月紋の長持が置いてある。

 やがて、白狼亜種で白衣姿の大柄な男がのっそりと入ってきた。ぶっきらぼうに夜空に問いかける。

「それで最終確認です。夜空くんはあくまでロンシャンに留学したいと言うんですね。うちに預けられてからというもののずっとそればかりですね」

 黒髪を美しく肩に流した夜空は、うなずいてはきはきと答えだした。

「俺は今ここにいても、誰のお役にも立てません。父上や、関根さんや張本さんのようには戦えない。古狼が亡くなったのは俺のせいだ。だから、結城先生のようにロンシャンで英語や技術を身に着けて、立派な大人になって戻ってきたいのです」

 結城先生、と呼ばれた男はやや冷たい目線で見下した。彼は渚村の古狼こと、夏目雅が亡くなって風聞を気にした祈月・草笛両氏から、夜空を預けられていたのだった。子供をかわいがるような性格ではなく、夜空の言にも学生を指導するときと同じような容赦のない反論をしてみせた。

「私はそんなに望んでの留学じゃなかった。でもあちらではかなり厳しい毎日でしたよ。行けば立派になれるっていうのは甘い話です。お葬式で泣きわめいたことをみんなに責められているようじゃどうかな?」

 夜空はむっとして十一にしては達者な口調で言い募った。

「泣く以外に何をしろって言うんですか⁉ 古狼との最後の別れの場なんだ。俺が悲しまなくてだれが悲しむんだ。俺はここにいたってどうせ、人質になるくらいの価値しかない……祈月の命運だって風前の灯火。それなら外国で修行していたほうがお家のためだ」

 結城疾風は自身のデスクの安楽椅子に腰かけ、脚を組んだ。背もたれをたわませて天井を眺めながら言う。

「でも、鷲津との人質には結局弟の清矢くんが行きましたよね。お前では体面が悪いからと言って……なんとも原始的な盟約だけど、私戦の世ではしかたないんだろうか」

 夜空は膝の上でぎゅっと両手を握りしめる。

「俺は……呂壱なんかに父上たちが負けるとは思わない。でも、祈月はこの国に居たら汚れ役を押し付けられてばかりだ。古狼もつねづねそう言ってた。もっと賢く立ち回らなきゃあ、何も変わらないよ……」

 結城疾風は口を尖らせて答えなかった。夜空の言い分は正しくもある。朝廷と政府は、元・白透光宮家である祈月家にことさらに潮満街守護の任を与え、猛将・呂壱剛毅の始末を押し付けたからだ。

 源蔵その人ははじめ出世だと非常に喜んだ。しかし、帝都で軍総将藤内氏直属の秘密警察を率い、その怪力で鬼と恐れられた呂壱剛毅が半ば居座るように進軍してきたのである。そんな情報を中央が得ていなかったわけがない。

 結局武力で敵わなかった源蔵は詰所を追い出された。威を借りている参議の遠山氏に助けを求めたものの、実際に援軍にきてくれたのは遠山高志の旧友、鷲津氏の一派だった。先の藤内総将に対するクーデター戦で共闘したとはいえ、祈月氏に対してはずっと政敵だった一族だ。

 争点はつねに、魔法政策への批判と一部特権階級による公金の独占。

 嘉徳親王による日ノ本全土をかけめぐった魔物討伐の軍演習、そしてその息子であり、初代白透光宮はくとうこうのみやである季徳すえとくによる、常春大社での『春夏秋冬の宴』。そして他国で隆盛いちじるしい汎用系魔術を教える指南所として悲願であった陶春魔法大学の設立。この皇族の絡む魔法政策には何から何まで首を縦に振らなかった官僚、それが鷲津氏だ。

 結城疾風自身は祈月の流れである。古い武家の出だと側近は自慢するが、要するに、白透光宮家三代目・正徳公が嫁にとったのが結城氏嫡流の娘だったので、次男の方にそちらの家を継がせたのだった。父の瑞樹は最後の白透光宮であり、臣籍降下をして祈月氏を名乗った『輝ける太陽の宮』こと耀の実弟だ。

 正徳ははじめから孫の疾風を留学させ、魔法技術を教える国産の教授にしたかったようだ。疾風はその政策に従って、夜空とそう変わらない年齢からずっと従者つきで流通都市国家・ロンシャンで教育を受けてきた。

 つまり、疾風自身、祈月やその前身である白透光宮家の推進する魔法政策や、皇帝直属退魔軍の維持という理念によってつくられた人物であった。

 夜空はそんな疾風の経歴をうらやましがり、戦の真っ最中だというのにロンシャンに留学したいと言いだして、困った源蔵に結城氏へ預けられてしまったのだった。疾風はぴしゃりと言った。

「ロンシャンに行っても古狼さんは帰っては来ませんよ」
「それは……分かってます」

 夜空はすんと獣耳を前に倒した。

 疾風は内心、夜空に同情もしていた。守役であり、私塾を主催するほど高学な人物を身代わりにしたとの糾弾は、幼い身にも容赦なく降りかかっていたためだ。今まで可愛がられていただけに、村人は葬式での態度などを口さがなく責めている。でも、夜空自身にはまったくどうしようもない運命だったではないか。責めるべきは同盟を口実に人質を要求し、そのために悪どい術師を派遣してきた鷲津である。けれど、呂壱剛毅を追い出すには彼らの助力が必要なため、軍閥内部では誰も何も言えない。夏目に対して申し訳が立たなかった。夜空本人にしてもロンシャン留学などと血迷いだしたのは自責の念によるSOSだ。

 言語も文化も違う中で現実を知り、しばらくそっとしておいてもらえば正気に戻って落ち着くだろう。まだ若く、世間知らずだった疾風はロンシャンへのホームステイを提案した。学生時代の人脈があったので、知人にひと月程度預けることができたのだ。祈月さくらだけは反対したが、夜空の母方の草笛氏は主家筋に遠慮をしてしまい、海外旅行の話は進んでしまった。

「……祈月はきちんと決着をつけるべきなんだ」

 夜空が確信をもってつぶやく。疾風はそれを聞き逃し、長持を見て言った。

「わかりました。転送石の準備はすでに整っています。荷物を持って最上階に行きましょう。あちらの大学と繋がっていて、テレポートできますから。向こうでは大変でしょうが、古狼さんも見守っていると思って、一か月頑張るんですよ」

 夜空は固くうなずいた。ロンシャンで教育を受けるには、私費でプライベートスクールに入るか、疾風のように特別留学生として国が認めるしかない。大学では知能検査や魔力測定も行ったし、呂壱との戦が無事に終われば、もしかしたら希望も通るかもしれない。疾風は長持を持ってやり、夜空とともにエレベーターで最上階まで上がった。

 最上階の特別研究室では、学長と事務方が転送石を調整していた。グレーがかった半透明な魔石には特殊なインクで時空移動の魔方陣が刻まれている。周囲には特別なテープがリングのように張り巡らされて結界を切り、空色の魔石は燐光を帯びてすさまじい魔力を滞留させていた。

 これは正真正銘日ノ本公式の転送石で、ロンシャン国立アカデミー魔法科との契約で成立させた特殊設備である。エメラルドグリーンの戦装束に白いマントをつけた源蔵が夜空を招き寄せ、腫れ物にでも触るように心得を言い聞かせた。

「祈月家の嫡男として恥ずかしくないようにふるまうんだぞ」
「大丈夫……俺こそが祈月を継ぐ者だ。それだけはきちんと分かってるよ」
「これからは、泣くのは一人きりのときだけにしろ」

 夜空はあどけない顔でうなずき、赤色のリュックを背負った。長持を転送石の目の前に下ろし、先にアカデミー魔法科へと転送する。学長が神妙な顔で長い転送呪文を魔法式詠唱しはじめた。

 そのころ未だ闇魔法専門の学者としてこの大学に勤めていた、ロンシャン出身の小野泰人教授が疾風に聞いた。

「本当にいいのか? あちらは子供一人で旅するには、少々治安が悪いと思うぞ」
「私の出身研究室の同期に頼んであるんだから大丈夫ですよ」

 疾風は呑気にそう言って、自身もつい最近味わった転送儀式をこの目で見ようと集中した。

「……みんな、サヨナラ」

 夜空は青ざめた燐光に照らされながら、悲し気にそう告げた。

03 清矢の新しいトモダチ

 インベンションを全部さらった後、ピアノを片付ける。遊びに来ていた詠は聞き疲れてしまったらしくベッドで勝手に寝ていた。同じ部屋を共有している従弟の広大は店の手伝いに出されている。二人きり、祈月清矢はしばらくベッドの縁に座って寝顔を眺めていたものの、悪だくみの笑顔でシャツの中に手を忍ばせ、詠の脇腹をさわさわとくすぐった。

「ん……んん、ひゃっ? な、何すんだよ清矢くん! やだってば触るなよ!」

 清矢は良く通る声で甘えるように言った。

「えー? 触っちゃダメー? だって寝ちまったんだもん」
「寝ててもいいって言ったんじゃん。じゃー反撃な!」

 思いっきりけらけら笑って、互いをまさぐりあった。しまいには詠は抱きついてきて、すりすりと頬をなすりつけた。油断したら舌すら出してきそうだ。清矢は可笑しかった。

 『日の輝巫女』から間一髪で逃げ出して以降、二人は親友となっていた。清矢が繰り返し弾いた馴化の音型が抜群に効いたことは間違いないが、それだけが理由でもないだろう。詠はもともと同年代の友人を欲していたし、それは清矢も同じだった。詠は気のいい子で、清矢は(従弟の広大を除けば)今まで年上とつるむことが多かったので、本来の年齢らしく天真爛漫にふるまうことができていた。

 缶蹴りやかくれんぼもまだまだ楽しかったし、祖父・耀の冒険譚や神兵隊の先輩たちの噂話にはもっともっと熱中できた。清矢が人一倍張り切って取り組んでいるピアノについては詠の集中がもたず途中で寝落ちすることが多かったが、俺もレコード聞くとき始めてだと寝ちゃうし、と半ばあきらめている。

 ひとしきり睦まじくじゃれ合った後、詠は清矢にとって聞かれたくないことを聞いてきた。

「なー清矢くん。『夜空』っていったい誰?」
「……知らない人」
「うっそだろ。俺怒るよ。広大くんも『清矢に聞け』って教えてくれないんだ」
「ウチは教えねーことは教えねーんだよ」

 冷たく突き放すと、詠は怒ってベッドにあぐらをかいた。清矢を正面から見据え、圧をかけてくる。

「『日の輝巫女』が言ってたもん、清矢くんは夜空の弟だって。兄ちゃんいたの? 月華神殿とか清涼殿とか、どっか他所に修行に出てるとか?」
「ちがう。魔物の言ったこと信じんなよ。人んちの事情嗅ぎまわるのよくないぞ」
「……清矢くん」

 清矢はあくまで父や叔父に教えられたとおりの答えをしたが、詠はもちろん納得しなかった。しばらくしゅんと耳を折ってうつむいた後、ベッドからさっと立ち上がって窓を勝手に開ける。夏になりかけの爽やかな微風が子供部屋を駆け抜けた。

「教えてくれねーんだ?」
「あのさ詠。俺ん家は何でもかんでもホイホイ打ち明けられるワケじゃねーんだよ。とくに今は遠山高志と鷲津清隆の戦がもうすぐだし……機密っていうのがあんの。夜空のことなんて勝手に話したら俺、また怒られてばーちゃん家に預けられちゃう」

 腕組みしてそう言ったが、詠は聞かなかった。

「広大くんとかもみんな知ってることなのにか?」

 振り返った詠は硬い顔をしていた。清矢は首を横に振った。亡くなった母さんが言ったとおり、「ダメなものはダメ」なのだ。夜空はいつもその建前に反抗していたが、二つ年下の清矢はどこまでも母に従順だった。幼い清矢にとっては詠の好奇心なんぞより、父や周囲の大人の言いつけが(とくに、母の実家の草笛氏が)絶対だった。

「俺帰る」

 詠はくだくだしく揉めず、短く言って部屋を出ていった。清矢はいつもどおり詠を屋敷から大通りに出るまで見送ったが、別れ際の笑顔は含むところがありそうで、どこかしら距離があった。

 ……週末には神兵隊の訓練に参加したが、黒裳衆を率いる小川先生の指導で、詰所にて鷲津と遠山・祈月連合軍の陣立てを検討することになった。着替え用ロッカーの並ぶ詰所に、一段高くあつらえられた休憩場がある。冬は炬燵が置かれるそこに、少年兵たちはぎゅうぎゅう詰めで座って、軍学談義としゃれこんだ。

 兵力では遠山・祈月連合軍が圧倒的有利、本来それで論を尽くさないが、鷲津に関しては士気の高さと中央からの支援があり、侮れないとのことだった。駒を地図上で動かしつつ、清矢は問いかけた。

「常春殿はこちらに援兵を割いてはくれないのか?」
「遠山殿の背後は我々が抑えているし、本戦には参加しないが、万一があればお命を保護する。旧日本軍基地で野戦をするなら、兵力三倍差の常識通り、遠山軍が勝つだろう。ただ、兵站線を守っている祈月軍には……鷲津側の攻めが集中するだろうな」

 暗に、そちらに援軍には行けないと言っている。清矢の参加以来、ぐっと祈月びいきになった犬亜種、市村文吾が気の毒そうに首をかしげる。神兵隊長・綿貫の息子、洋一は詠に水を向けた。

「詠。お前なら、祈月の援軍に出たい! とか言いだすんじゃないか? でも大社や常春殿で決めたことなんだ、くれぐれも勝手なことはするなよ」
「勝手なことはしねーけど、隠し事ってやっても良いわけ?」
「隠し事? 何のことだ」
「詠! それは黙ってろって……!」

 黒裳衆の小川先生は詠と洋一をじろりとにらんだ。

「ふざけるな。祈月の家で何を聞いてきたかは知らんが、策でも漏れたらどうする。現実に兵が徴収されて、負傷する者もいるんだぞ。本当に、若い者は戦を祭り程度にしか考えない……」

 『隠し事』をばらそうとした小川先生は詠のほうを叱った。それでも詠はひるまず、皆の前で清矢を責めたてた。

「清矢くんに夜空って兄ちゃんがいるってことがのどこが策なの?」
「……策かもしれんじゃないか。古今東西、知る者こそが勝利を手にする」

 小川先生がかばってくれたので、清矢はませた口調で断った。

「夜空のことは体面が悪いんだ。それでわかってくれ」
「もしかして身体が不自由だとか? だから神兵隊にも清矢だけが来たのか?」

 洋一が訳を聞いてくるが、清矢は頑としてそれ以上言わなかった。小川先生はみなが集中していないと見るや、軍学談義もそこそこに瞑想修行を命じた。ともすれば眠くなりそうだったが、五分ほどで全員が竹刀で叩かれてお開きになる。

「詠、ふざけんなよ」

 清矢は終わりがけに詠に絡んだ。詠はあくまでまっすぐ見返してくる。

「何? 策とは違うんでしょ」
「そうとも限らないだろ。鷲津のやつら、潮満が呂壱に攻められたときも夜空を人質にって探してやがった。詠に教えて、何かで伝わって、また誘拐だの始めたら大変じゃん。同盟だって人質がほしいって騒ぐのに、今度ははっきり敵味方だぜ。居場所なんか言えないんだよ。つうか、俺はあいつ死んだと思ってるし」
「死んだって。兄ちゃんなんだろ」
「……知らない。もうこれ以上は家の事情だよ!」

 口論をはじめた二人を見かねた文吾が止めた。詠は短く息を吐いて言った。

「俺だってもう清矢なんか知らねー!」

 詠は小川先生が叱るのにも関わらず、詰所のたまり場から逃げ出していった。猿亜種の先輩がからかうように清矢の肩をたたいてくる。

「だって機密だもんなぁ?」

 火中の栗をつついてしまった綿貫洋一も困った顔をしていた。清矢もまた意地を張ってその日の調練では詠とわざと組まなかった。

04 夜空がいなくなったそのあとのはなし

 血を分けた兄弟だというのに、清矢は夜空と別れの挨拶をしていない。

 夜空がロンシャンまで転送石でテレポートしてしまったとき、清矢は鷲津の別宅で人質にとられ、後継ぎの茂美やその妹の茉樹に一挙手一投足を見張られていたのだ。

 もともと、二つ年上の兄は祈月次期当主と決められていた。渚村でも夏目雅が夜空を中心に教室を開き、海防重鎮の久雄氏にも可愛がられて白鷹「白帚」号を贈られていた。

 夜空は父の高等学校時代の親友である張本忠義の娘、志弦と常に一緒に行動していた。村では祖母・さくらの農作業を手伝ったり、祭りで稚児役をしたりと、いつも同年代の中心にいた。前村長、風祭氏の子である銀樹や、もちろん草笛宗家を継ぐことになる従弟広大なども夜空のほうを取り巻いていた。

 だが予定していた一か月が過ぎても、夜空はホームステイから帰ってこなかった。

 夜空を預けたはずの知人に連絡をとったところ、不法入国扱いで連れ去られたとのことだった。国立アカデミー経由で何度も探してもらったが、その行方は知れなかった。結城の裏切りだとか色んな陰謀が疑われた。夏目雅が管理していた蔵から祈月氏の文物が持ち去られていたことがわかると、諍いはさらに加速した。失せものは錚々たる顔ぶれだった。

 家の祖である嘉徳親王が携え、戦場で音曲を操ったと伝わる螺鈿のハープ。銘は『飛鳥』。
 臣籍降下した祈月家初代、耀が晩年にあつらえ、家名を興す願をかけた流水文様と籠目文様の陣羽織二着。
 白透光宮家二代、季徳公が和歌を書写した春夏秋冬の扇子四面。

 どれも家の来歴を証明する宝物だ。中でも別格が『新月刀』だった。鮫皮を紅に染めた柄をもつ特殊な脇差で、二代目季徳公の時代に作られ、術師を狩る魔刀とされている。祈月先代・耀が任務の際に必ず携えていた武器で、国で処罰されることになった術師への仕置き刀として重大な役割をもっていた。同じ機構の『満月刀』が東北の望月氏にも与えられて対となっているが、政府や軍関係者への影響を思えば絶対に失ってはならない刀だった。

 誰が魔刀を持ち去ったのか……疑心暗鬼が続いたが、結局夜空を最も慕っていた同い年の娘、志弦が悪ぶれもせず打ち明けた。それらは次期祈月の当主である夜空の傍らにあるべきものだと、堂々主張したのだ。当時夜空と同じく十一歳だった志弦の発言にはみな度肝を抜かれた。

 なんでも、夜空と志鶴のふたりにだけ、亡くなった古狼、夏目雅からの遺言があったらしい。それは『清矢と当主争いをするな』『新月刀は絶対に手放すな』という命令だった。子供が故人の遺言を真に受けたという落ちだ。最初、源蔵もその話を真に受けなかったが、疑われた結城疾風が厳しく事情を聞いた。結果、ほんとうに十一の子供たちが大人の裏をかいてロンシャンに宝物を持ち逃げしたことが判明し、全員が騒然となった。

 清矢の父の源蔵は、間抜けな成り行きで歴史のない祈月家当主となってしまった。

 嫁の雫はすでに亡く、消沈した草笛氏当主・宗旦は、草笛氏や祈月氏に伝わる音曲の技だけは失わせぬと、残された孫の清矢にことさら熱心にピアノや竪琴、ハーモニカを仕込みはじめた。耀の隠密業の相方であった天河も協力し、英才教育は体罰も辞せずという厳しさである。

 清矢も従弟の広大も、ハープは鉄弦で奏でなくてはいけないから、二人とも小さな指がいつも切り傷だらけだ。

 練習のサボリがバレたら水責めまでされるし、おさがりの鷹「白帚」号は馴化曲の聞きすぎで他の個体を攻撃するようにまでなった。術だって、週一で安部神社に行って式神相手に修行させられている。極めつけに週末は清矢のみ神兵隊で剣術稽古。そんな暮らしの中で、詠と出会うまでは友達と子供らしく遊ぶなど縁の薄い話だった。二人分のピアノ、竪琴、ハーモニカの練習で草笛家は日が暮れてしまう。母方の雪乃ばあちゃんも、父方のさくらばあちゃんも、家事や農事の合間を縫って迎えだ見張りだとてんやわんやである。

 そうして分刻みのスケジュールで励んでようやく、詠をオオカミに変えて『日の輝巫女』から逃れられる程度までうまくなれたというのに、夜空ごときは身内からでた泥棒にすぎないと、清矢は馬鹿にしきっていた。

 父はすでにそれらの文物が失せたことを忘れたいようだ。とくに『新月刀』は数多の術師の血だけを吸ってきたいわくつきの魔刀。呪いの小刀などなくとも、祈月氏は軍人としてやっていける。その気概こそ立派だが、耀がうたわれたような術師としてのカリスマは失われ、常春殿神兵隊に対してもますます命令などはできなくなり、地方の参議である遠山高志に毎度頭を下げているしまつだった。

 そんなお家の事情は、いくら遠縁の親戚だろうと祖父の耀をヒーロー扱いしているにすぎない詠になんか話すわけにはいかなかった。だって、草笛の家では耀は当時まだ魔物とされていなかった大巫女……つまり『日の輝巫女』の陰謀で常春殿に消されたとまで言われているのだ。誰も信用ができない。

 詠と仲たがいしても、清矢は表向き平気だった。その日も祖母のさくらが迎えに来て、遊びに来ないのかと聞いたが、詠は行儀よく笑って、さよならも言わずに帰ってしまった。

「どうしたんだい?」

 すでに子育てを終えていたさくらは、清矢ときっちり手を繋ぎながらも軽く聞いてきた。清矢は黙って背負う荷物の重たさに耐えながら歩いた。さくらは大きなため息をついて、清矢を引っ張って小言を言った。

「そういうとこはあんた、雫にそっくりだね。あたしが気をまわしてやっても、頑なでさ……そりゃあたしだって、文句ばかり言うのは悪いと思ってる。時にはじっと堪忍してでもやらなきゃいけないことはあるさ。でも人が心配してやってるっていうのにその態度は、芯が強いっていうのとは違うと思うよ」
「……母さんのこと悪く言うな。死人なんだぞ」
「雫はそういう悪態だけはつかなかったよ。ほんとに清矢は」

 唇を噛んで足元を見つめたけどそこにあるのは砂まみれの地面ばかりだった。

「ばーちゃん。夜空のこと、どう思ってる」

 清矢はなるべく遠回しに言った。

「夜空? ……でもあんた、今は戦の最中なんだから、それどころじゃないよ。夜空が帰ってきたっていう知らせなんて全部ウソだからね」
「今いるみんなの方が、夜空なんかより偉いよね?」

 清矢は自分と兄とを比べる発言をした。さくらは周囲を見回しながら答えた。

「清矢のほうがってことかい? でも、夜空はあたしや古狼の手伝いはそりゃあ一生懸命やったもんだよ。清矢はピアノだの何だので村の仕事なんか知らんぷりじゃないか。どっちもどっちだよ」
「違う。俺は……! 俺は頑張ってるよ。夜空なんかより偉い、そんなことは自分で分かってる」
「自分で自分が偉いなんてとんだ思い上がりだ。何だ、神兵隊で叱られたのかい? そりゃあんたが悪いんだ。ちょっと術ができるようになったってそれは剣とは関係ないよ。どうせそんなふうに自慢して詠くんと喧嘩したんだろう?」

 邪推なのに結論だけは見事に言い当てられて、清矢の胸に痛みがにじんだ。泣きそうだったが我慢した。さくらは慰めもせず、とつとつと説教を繰り返した。じゃあばーちゃんの手伝いのためにピアノサボれって言うのかよ。反射的に悪態が口をつきそうになる。それを言ったらビンタだと分かっていたので何とか喉に飲み込んだ。清矢は持って回った言い回しをやめて、さくらにも分かるように訴えた。

「詠が、夜空のこと聞いてくるんだ。それって『機密』だよね……? 話さなかったら詠が怒って。俺、神兵隊に何にもバレたくない」
「あの子がうちに来てくれたとき、あたしが少し夜空のことを口にしたから、覚えてたのかもしれないね。広大も話したことがあるかもしれないし」
「ばーちゃん! また犯人捜しになるぞ。めったなこと言っちゃダメだ」

 清矢は声をとがらせてさくらを注意した。家宝と夜空がともに失せたとき、内部では諍いが起きた。汐満の戦で呂壱を討ち取ったというのに、戦勝ムードなどなかった。結城が主家になり替わりたくてやっただとか、久雄氏が糸を引いているとか、恵波が手引きしたとか、父を亡くした夏目文香が騙されたんだとか、普段互いがそれとなく持っている反感が表に出たかたちになり、責任のなすりつけ合いもひどかった。

 祖母のさくらがもっとちゃんと夜空たちを見張っていなかったから。草笛の警戒が張本に対して足りなかったから。喧々諤々の醜悪な騒ぎだを嘆いた清矢は、鷲津の人質から帰ってから、堰を切ったように泣きじゃくった。

「夜空よりも家宝よりも、みんなが喧嘩してるほうがヤダ!」

 それに納得した父・源蔵も事情の追求につとめ、責任は管理を怠った自身が引き受けると泥をかぶった。思い出すと弱気になる。悪夢がまた訪れるんじゃないかと思って怖くなる。さくらは動揺している清矢の背中にバンと活を入れた。

「しゃんとしな! そんなんじゃろくな剣は振るえないよ」
「でも、夜空のことは家の恥だ」
「バカっ!」

 清矢が兄を責めたとたん、さくらは今度こそ容赦なく後頭部を張り倒した。清矢は悔しくてさらに暴言を吐いた。

「何すんだよ! そりゃあばーちゃんは、夜空のほうが俺より可愛かったかもしれねーけど! 殴ることねーだろ!」
「違うよ。どっちが可愛いかなんてどうでもいいことだ。あたしゃ、夜空には夜空の考えがあったんじゃないかと思う。浅はかだったかもしれないけどね……でも今はそんなことより、詠くんとのことだろう。何を聞かれたんだい」

 清矢は順を追って説明し、さくらは逞しくうなずいた。

「……確かに夜空のことは『新月刀』の行方にも関わるからね。あまり大きな声じゃ言えないし、手落ちがいっぱいある。でもさ、何より、お前は兄ちゃんが心配じゃないのか。三年も行方知れずなんだよ。親友にくらい、ちょっとは打ち明けたっていいだろうに」
「兄ちゃんが心配……」

 それは無論、清矢の中に漠とした不安として残っていたが、家宝紛失の騒ぎのほうが大きかったために、ずっと取り残されていた感情だった。初夏のお日様がじりじりと背を焼く。清矢は自分たちの恐ろしい過ちに気づき、急に反省した。

「そっか。俺たち、人の命のことよりも宝のことばっかり言ってたんだ」
「本当だよ。間違ってるよね。子供が一人行方不明になったってのにさ……だからあんたも気を付けるんだよ。詠くんには、夜空のことだけを話しな。あんたと仲がいいんだから、あの子だっていろいろと気を付けるにこしたことはない」
「……わかった。俺、そうするね」

 清矢は納得し、まだきまり悪く地面を見ながら歩いた。自分の影を追いながら進んでいくと、同じ歩幅で歩く祖母の足が案外と小さいのにも気づく。

05 良いニュースと悪いニュース

 翌日、清矢は小学校から直接常春殿へと帰り、小川先生や綿貫隊長にいぶかしがられながらも、詰所で詠を待っていた。どうせ、ピアノの練習は先に広大が行う。清矢はその間、雪乃ばあちゃんに見張られながら宿題をしていなければならないのだ。

 たっぷり一時間以上も待ちぼうけを食うことになったが、やがてとぼとぼと詠が現れた。戦衣に着替えようとして入ってきた詠は、清矢が休憩スペースで待っているのを見ると尾をぴんと立てた。

「清矢くん……! どーして」
「詠。俺、今日はピアノサボってこっち来た。話したいことあって」
「話したいことって……夜空のこと?」
「そうだ。誰にも聞かれたくねー。だから訓練が終わったら、詠んちに行っていいか?」

 常春殿は大社の付属軍事施設であり、本来の神社からは少し離れた場所にある。詠はうなずき、その日は清矢に付きっ切りでひたすら稽古をつけてくれた。学校の肩掛け鞄を持ったまま、詠にくっついて帰る。

 詠の家はきれいに区画整備された大社町の大通りから二町奥まった場所にあった。家は和風で古く、蔵まであってだだっ広かった。詠は引き戸の玄関を思いきり開け放って、掃き清められた土間から上り框にひらりと飛び乗りる。「兄ちゃん、帰ってる?」と騒ぐが誰も答えない。常春殿に術師として仕えているという、詠の実の兄はいないようだった。

「そういや、詠にも兄ちゃんいたんだよな」
「うん……だから、夜空ってどんくらいの歳なのかなって。俺の兄ちゃんはね、今二十歳」

 軽く話を流しながら、詠は靴も放り出しっぱなしで家に上がってしまった。清矢はおそるおそる高い上り框に上って、詠のぶんも靴をそろえた。洗面所で手を洗い、部屋に入れてもらう。詠の部屋は四畳半で、机と本棚を置いたらもういっぱいいっぱいだった。畳には古い和本が転がっている。清矢と広大が暮らす草笛屋敷の八畳の洋室とはだいぶ違った感じだった。

「何読んでんの?」
「んとね、『八犬伝』。今道節が悪いやつ付け狙ってるとこ」
「俺も読んだらって父上に言われたことあるな」
「清矢くん、『八犬伝』もだけど……『古事記』読めよ! 清矢くんならぜってー覚えられるって。俺、アメノミナカヌシからオオハツセワカタケノミコトまでなら全部言える!」
「それって……何?」
「天皇系図だよ。神話時代のだけど……ほかにも詔とかも言えるんだぜ!」

 これが常春大社付き神官であり、術師として仕える櫻庭家の特殊教育であった。詠は本棚から一冊、茶色くすすけた文庫本を出してきて、ヤマトタケル伝説について熱を入れて語った。清矢も多少聞きかじってはいた話だが、見たのは絵本か何かだったような気がする。呪文のような古文の丸暗記に、清矢は目を丸くした。

「詠もスゲーじゃん。俺、そんなにいろいろ唱えられないよ」
「えっ、じゃー耀サマの使ってた術とかはできないの?」
「耀サマの術って? 狼に変わったりとか? 俺は自分は変わっちゃいけねぇって爺ちゃんから言われてる。草笛が伝えてる音曲術は村に古くから伝わってるのとか、皇室からのものとか、常春殿の『春夏秋冬の儀』で作られたものとか色々あってさ……」
「ちがうちがう、狼に代わるやつもだけど日光とか月光とか集めたり」
「それはわかんねー」
「なんで? 孫なのにやろうと思わないの?」
「教わってねーし、それに、そういうのは渚村の古狼が伝えてたから……」

 古狼の話にさしかかると、詠の母さんがふすまをバンと開けた。小柄な女で、清矢の亡母よりかなり年かさのようだったが、詠によく似たくっきりした目鼻立ちをしていた。この辺では珍しくないが、白狼亜種であった。清矢は慌てて自己紹介をした。

「お邪魔してます。祈月清矢です。今日は詠くんにヒミツの話があって来ました」
「玄関入ったときにちゃんと挨拶しなきゃダメでしょう? 雫さんは一体どんな教育してんの」
「えっと……母さん、三年前に亡くなりました」
「本当に!? ……そんなことだったとは全く知らなかった。すまないこと言っちゃったね」

 いきなり説教から入ってきた詠の母親は息をのみ、座り込んで謝った。清矢は立ちあがって自身の顔を指さした。

「でも、俺、母さんに瓜二つだから。草笛のほうのばあちゃんはさみしくないっていつも言ってる」
「……そっか。でもヒミツの話って、あたしにも言えないこと? ほら、詠も清矢くんと知り合っていろいろと危ない目にあったでしょ。だから親に内緒にしなきゃいけないことは話しちゃダメなのよ」
「かーちゃん! ウゼーこと言うなよ!」

 詠が険しい顔で母の注意を押しとどめる。清矢はもう一度畳に座りこんで、神妙な顔でやっと本題の夜空について語り始めた。『新月刀』をはじめとした家宝が失せている汚点は注意深く隠した。

 詠の母はショックを受けていた。

「そんな……雫さんに続けてお兄ちゃんまでってこと? ロンシャンに小さな子を一人で行かせるなんて、祈月の家は一体、何を考えてるの……?」

 清矢はあのころ何度も聞いた常識的意見に再びうんざりした。結城の名を出してしまうと、あの少ししょぼくれた感じの若い博士の立場がまた悪くなってしまう。夜空の件で信用を失い、久雄氏の楓さんとの縁談までつぶれてしまったのだ。清矢は仕方なく言った。

「草笛も渚村も今は鷲津との戦だって気が立ってる。夜空については、ロンシャンの大学に問い合わせてるんだけど帰ってこなくて……たくさん身内でモメたんだ。もう帰ってこないんじゃないかって、俺は思ってる」
「帰ってこないって! あんたそれ、大変なことだよ! 行方不明の届けは警察に出したの?」

 詠の母は声を荒げた。清矢は責められているような気分になって押し黙った。詠が母をにらみながら自身も質問する。

「あのさ、夜空って結局どこに行ったの? ロンシャンてどこ?」
「かつて世界最大の魔力炉があったシェルターの国。大麗ダイリー越えた砂漠の真ん中にあるんだって」
「どうやってそんなところに行ったんだよ」
「それは……陶春魔法大学にある転送石でひとっとびだったって」
「転送石⁉ そんなものがあの魔法大学にあるの?」

 詠の母はその事実にまた驚いたようだが、詠は人差し指をぴんと伸ばして得意げに言った。

「なー、それならさ、俺たちがその転送石でロンシャンに行って探せばいいじゃん」
「そんな、テレポートなんかして、体が無事だとは限らないよ。それにロンシャンっていうのは技術はあってもあんまり安全じゃない国なの」

 詠の母はそう警告したが、詠自身はあまり頓着していなかった。

「夜空きっと生きてるよ。俺たちで助け出そうぜ!」

 詠はニッと笑い、清矢の背中を叩いた。詠の母はキッとにらんでくる。清矢は、彼女の言わんとしていることが子供なりによく分かったので、小さく頭を下げた。

「……そうだよな。探してもらうよう言っとく」
「えーっ? 俺たちで行こうよ!」

 清矢はしっかり正座をして畳に座っているのに、ぐらぐらと世界が回転する錯覚に陥った。

 大人の事情がすべてだった夜空の事件で、こんなにも「正しい」意見を言ってくれたのは詠がはじめてだったからだ。「ん、でもだいじょぶ、探しに行く人は頼めるから」と何とか取りつくろいながらも、喉がカラカラになった。「清矢くんどうした?」と鋭く聞いてくる詠の手をぎゅっと両手で握りしめる。詠っていうのは、ほんとにいい奴なんだ。清矢は実感し、頑なだった自分の態度を恥じた。

「詠、ありがと。お前ホントに俺の親友な」
「へへ、じゃあもっと神兵隊にも顔出せよ~!」

 肩をぐいぐい小突いてくる詠を見ながら、詠の母さんも少し安心したらしく、甘酒でも飲むかと聞いてきて、清矢はあまり近所に言いふらさないようお願いだけした。

 それからしばらく経って、父親の源蔵がいよいよあまり屋敷へ帰ってこなくなったころ、夜空の件で新たな進展が見られた。草笛の屋敷で清矢と広大が音楽の練習に励んでいる夕暮れどきに、陶春魔法大教授こと、結城疾風が訪ねてきたのだ。

 雪乃ばあちゃんがお茶を出してこいと言いつけ、清矢はハノンを中断した。広大に見張られながら来客用のいい玉露を入れ、お茶受けに落雁を添えて、客間で給仕した。結城疾風は若いにも関わらずくたびれた洋装で、籐の肘掛け椅子に座っても落ち着かなさそうだった。

「結城先生、お久しぶりです。お変わりありませんか」

 草笛家の者として恥ずかしくないようにと気を付けながら、清矢は挨拶をした。いつも眠たげな眼をした結城博士は頬をかいて言った。

「清矢くんだったっけ。大きくなったね。あの、お父さんはいつ帰る?」
「父上は最近あまりお帰りになりません、遠山様との軍議が忙しいのかも」
「……それじゃあ困るんだけどな。良いニュースと悪いニュースがあるんです、と言っても小さい子にはわからないか。じゃあ、おじいさんか叔父さんは?」
「わたくしでは不足でしょうか」

 いきなり雪乃ばあちゃんが訪問着に着替えて現れ、清矢は内心呆れた。結城博士は広げた脚の間で手を組んで慌ただしげに言い切った。

「いいニュースっていうのは夜空くんのことです。どうやら彼は、生きているらしい」
「夜空が? しかし時期がよくないような……鷲津の間者による誤報かもしれませんよ」
「うーん、疑り深いのは仕方ないかもしれませんが、情報ソースははっきりしてる。愛野くんって覚えてますか? 愛野京あいの・みやこくん。ほら、私と一緒にロンシャンに留学した……」
「汐満医院の息子さんですよね。帰っていらっしゃったんですか?」
「はい、彼も転送石で。清矢くんわかる? お兄さんを取り上げてくれたお医者さんの息子さんだよ」

 清矢は記憶を探ったが覚えはなかった。雪乃ばあちゃんは続けた。

「京さんはロンシャンじゃなくてグリークの魔法大学で学ぶことになったっておっしゃってたけど、とうとう帰ってこられたんですか?」
「はい、ロンシャンっていうのは進学も就職も全部が義務教育の平常点で決まるんで、そのあたり厳しいんです。愛野くんもついにグリークで医師免許を取られて、マスターウィザードの修行も終えて、ロンシャンから一報を入れてくれたんですけど、そこでアカデミーから夜空くんについての伝言を預かってきてるんですよ」
「夜空、生きてるんですか? じゃあ迎えに行けば帰ってこれる?」

 清矢は思わぬ吉報に顔をほころばせた。雪乃があちゃんも祈るような手つきをして結城博士を見ている。結城博士は少し難しい顔をした。

「そのはずなんだけど、良いニュースというのはここまで。悪いニュースというのがここからです」
「ううん……清矢が聞くのはここまでにしたら? あとでおばあちゃんから教えてあげるから」
「やだ、俺も聞く。大丈夫だよ、死んでないだけマシなんだ」

 雪乃ばあちゃんが気色ばんだが、清矢はそう言い張った。結城博士はうつむいて一息に話す。

「夜空は返せないそうなんです」
「なんで? やっぱりどこかに捕まってるんですか?」
「セバスチャン・ヨハネス・ゴールドベルクっていう人に仕えているんだって」
「はぁ?」

 雪乃ばあちゃんは清矢の出しゃばりを叱り、有閑夫人らしい丁寧な口調で聞き直した。

「それは一体どういうことなんですか?」
「夜空の身柄を保護しているのは、ヨハネス・ヴォルフガング・ゴールドベルクという人だというのが国立アカデミーの言い分です。このヨハネスというのは、ロンシャンの現大統領の名前です。夜空はそこで、息子のセバスチャン・ヨハネス・ゴールドベルクの世話をして働きながら、ロンシャンの義務教育まで受けているっていう話です。しかし、不自然すぎる……いくらセレブだと言ったって、なぜ大統領が夜空なんかを養うんでしょう。私は、もう少しましなウソがあるだろうと思うんですがね」
「あの子は祈月氏の宝をいろいろ持っていったから、それ目当てとか?」
「でも、ロンシャンに渡ってしまえば大した値がつくとは思えないし……我々をだますための嘘じゃないですかね。現大統領のゴールドベルク氏自体、マフィアとの繋がりを噂されてますから、多少の信ぴょう性はありますけど」

 マセた清矢にもさすがに話の細部までは分からなかった。結城博士は子供の前にも関わらずべらべらと歯に衣着せぬ物言いをした。

「ロンシャンは表向き超高度な監視社会って面してますけど、奴隷みたいな身分もあるし、人身売買だって盛んです。アカデミーのあるボルトウィングってところは国際犯罪も多い。あの子は大学内で犯罪組織にとっ捕まって、家宝ごと誰かに奴隷として売られたんじゃないですかね? 愛野くん、さすがに自分も出産に立ち会った子だから、夜空に一目会わせてくれって粘ったらしいんですけど、大統領のプライベートだから、の一点張りで話はそれっきりだそうです」
「えっと……結局どういうことなの? 俺たちはどうすればいい?」

 清矢が口を挟もうとすると、雪乃ばあちゃんが怖い顔で制した。結城博士はようやく籐椅子に背を落ち着けて、ごまかすように玉露をすすり、落雁をかじった。雪乃ばあちゃんが厳しく言いつける。

「清矢。ピアノの練習してなさい。夜空のことについてはまだ誰にも話しちゃダメですよ」
「えーっと……清矢くんだよね。お兄ちゃん、多分ロンシャンで犯罪に巻き込まれちゃってるから、君もちゃんと用心してね」

 清矢は子ども扱いされて追っ払われ、放心しながら私室に戻った。広大がハープを片付けながら、何の用だったと聞いてきたが、怒られても困るので首を振り、とりあえずピアノに座りなおして、いらだちながらハノンを弾き始めた。

 俺はまた何もできずに隠されているだけなのかな?

 また大人たちだけで下らなく夜空の事件をつつきまわすのかな?

 運指のみのつまらない基礎練が心底いとわしかった。詠が申し出てくれた協力は、危険どころか無謀である。けれど、銀樹や広大だって誘拐事件のときには活躍した。今回は清矢にも、何かできるんじゃないか。

 夜空と清矢の兄弟にとって、十一歳という年ごろはひとつの節目なのかもしれなかった。絡み合うような急く旋律で、二声のインベンションが始まる。

(2-2につづく)