盛夏の夜の魂祭り(第三話)嫉妬の業火は諸刃の剣(1)
01 幻想と崩壊のラ・ヴァルス
三拍子のリズムが不吉な旋律で響く。交響詩が描くのは、ガラスのハイヒールを履いた女性の手を夜会服の男性が取り、熱に浮かされたように踊る幻想だ。かかっているのはモーリス・ラヴェル作曲の『ラ・ヴァルス』。陶春県服飾の大店、草笛家の昼下がりには似つかわしくない音楽だった。しかも、アップライトピアノが備え付けてある子供部屋に大音量で鳴り響いている。
くりくりした瞳をした短髪の少年が、二段ベッドの下段で寝転んで雑誌を読んでいる。身長が筋肉とは不釣り合いに伸びすぎてしまったのか、膝を折り曲げて多少窮屈そうだ。ダンス・ミュージックは狂騒的に加速していく。少年は落ち着かなげに白い三角の獣耳をひくつかせていたが、やがて起き上がって部屋の主に文句を言った。
「なー清矢くん。俺、この曲あんま好きじゃねーよ」
しっとりした雰囲気の少年が軽薄に応じた。これまた白狼種と思しき三角の獣耳まで蓄音機にまっすぐ向けている。
「
こちらは艶やかな黒髪をしゃれた段入りに整えて、瞳は黒く、煙ったように神秘的で、黙っていれば人目を惹く美貌をしている。
「悪ィけど、頽廃のカタルシスって気分じゃねーんだよ。俺、今日の試合で洋一に負けちまったし」
「ああ……そっか」
詠と清矢の所属する魔法軍事神殿・常春殿の警備兵、神兵隊の話である。本日は練習試合があったが、詠は隊長の息子の洋一に三戦目までねばって競り負けていた。もう一人の少年、
そして、詠にとっては過剰な慰めをくれた。
「でも、詠も頑張ったじゃねーか。魔法使えばもっと勝機もあったろ」
詠は腕組みをして唇をとがらせた。
「ダメだよ魔法は。洋一には剣技だけで勝たねーと勝ったとはいえねー」
「偉いなあ。俺なんかハナから剣技だけで勝つなんてあきらめてるぜ」
「清矢くん、もっと剣にも本気になってくれよー。賞とかさ、付き合いだってさ、何もかもピアノばっかに熱心じゃん」
「まあまあ。ほんと、詠は大した奴だよ」
陶春県では三年前に国立魔法大学の門前でとある事件が起きた。軍閥の私闘が耐えない政情にのまれ、悪しき術師が御曹司を誘拐しようとしたのだ、と報道は言う。その術師は六年前にも似たような事件を起こしており、止めに入った村の学者を呪殺していたと……。懲りないその男を力づくで捕まえ、司法の裁きを受けさせたのが魔法大学に勤める結城博士と、その親戚である祈月軍閥の御曹司こと清矢本人だった。
実のところ、当日の戦闘には、当時十二歳だった
幼い詠が多少なりとも自負を持ちはじめたのは、清矢との出会いがきっかけだった。
清矢は常春殿神兵隊の特別兵にして実は宮様だったという英雄、
息子源蔵は世の混迷に立ち向かって正式に武官として身をたて、ライバル鷲津氏との闘いの中軍閥化してしまった今は故郷にはほとんど帰ってこない。肝心の母親は、重い病気にかかって長期入院中だ。
要するに詠にとって清矢は血筋だけで既にまばゆい存在だった。
美人の誉れ高い母親に瓜二つだという、耀サマの孫。耀サマが祈月氏として名字を頂き臣下に降る前の、白燈光宮家の歴史だってカッコいい。清矢はちっぽけな詠を親友と認めてくれた。事件の後も、神兵隊の同胞として技を磨きあって久しい。少年らしく英雄譚に素直にあこがれる詠にとって、清矢は単なる親友という枠に収まり切らない大切な憧れだった。弱音を吐いたというのに意外にも褒められて、思わず頬が赤くなる。
「どうしたんだよ詠。あれー? 照れちまったかー?」
清矢は悪だくみの顔で二ヤついたと思うと、するりとベッドに滑り込んできた。詠の硬い短髪をワシワシと犬にするような手つきで撫で、半ば肩を抱いている。お気に入りのペットへのぞんざいな愛情そのものだった。
「やめろよ清矢くん、俺くすぐってぇ」
ころころとじゃれ合う子犬のようだった二人も、十五歳になっていた。思春期の無邪気さは、好意を示すにも常にオーバーだ。火が付いたように笑っていると、もう一人のこの部屋の主、母方の従弟である
「何やってんでい! 俺たちもう中学も卒業だぞ。いい加減辞めろよそういうの」
見た目よりは大分さばけた性質の清矢には、家族同然の従弟の叱責も馬耳東風だ。
「別にいいだろ、詠はあまえんぼなんだよ」
だが、詠はさすがに今のは恥ずかしいシーンを見られたと思った。
「男らしくねーよな、やめる」
醒めた声色で言うと、ふいっとベッドから這い出て雑誌とにらめっこを始めた。清矢だけが、狐につままれたように取り残されている。
02 旧白燈光宮家姫君婚姻譚
翌日も詠は学区の異なる清矢の家を訪ね、連れ立って渚村そばの
頬にあたる五月の薫風が爽やかだ。詠は清矢に頼み込んで、木刀で打ち合いに明け暮れていた。強敵に勝つには結局努力しかないという結論である。空はまっさらに晴れて、底抜けの高さに吸い込まれていきそうなほど青かった。学校帰りの制服からろくに着替えてもいなかったから、多少動きづらい。
清矢の突きはいつも無情なほどに鋭い。剣技では詠のほうが先輩だけあって勝っていたが、型なしの打ち合いだとフェイントやトリッキーな動きに翻弄されることもあった。
「ちゃんと受けとめてから返せよ、それはごまかしだぜ!」と言うのが真っ向勝負の詠からの苦情。清矢の剣は、型に忠実な万能型ではなかった。ピアノはバッハとかいう古典派を、生真面目な音で響かせるのに、まったく違う。
ひとしきり遊んだあとは、桂の木の根元に腰を下ろした。清矢は汗をぬぐった後、母のおさがりの香水瓶からいちいち何か吹きかけている。嗅いでみると薄荷の匂い。軟弱だと顔をしかめる詠に、「詠ももうちょっと構いつけろよ、汗臭いと女の子に嫌われちまうぜ」というのが清矢のやり返し。
涼やかな美貌の清矢にそう言われると何か負けたような気持ちになった。拗ねて短い距離をつめ、肩を軽く触れさせると、清矢は労わってくれる。
「詠……きっと次は洋一に勝てるぜ。悔しかった気持ち全部剣で俺に伝えなよ」
高めの気の強そうな声が、凪ぐほど穏やかになって、詠の鬱屈した気持ちをなだめる。波音みたいに落ち着くなと詠は思う。
「いいよ。だって俺よくねーもん……男らしくなりてーのに、甘えんぼだなんてさ」
「詠。でも内緒にしとくから、おいでよ」
母のように誘われて、詠はおずおずと肩に頭を寄せる。そして、昨日見た草笛広大の浮かない顔を思い出しながら重い口ぶりで打ち明けた。
「清矢……俺ね、なんか怖くて」
「怖いって?」
「だってまた戦なんだろ? 前回は清矢くんの父さん無事だったけど今回はわかんねぇって常春殿のやつらが言う……!」
四年前、十一歳の清矢が神兵隊に見習いとしてやってきた頃、山陰地方は荒れていた。祈月二代目源蔵が、旗揚げからその威を借りていた参議・遠山高志と、新興の鷲津氏との間で大きな戦があったのだ。過去一度同盟したことはあったが、祈月は遠山についた。大軍を擁したので負ける手はないかと思いきや、兵站を炎で焼き尽くされて窮地に入り、思い詰める性格の遠山は自刃してしまったという。残党を吸収した祈月氏は、古都にほど近い恵安県知事の求めに応じてそちらに動き、傭兵状態の日々を送っている。
年若い清矢だけが、宮家当時からのふるさとに置き去りにされてしまった。
詠は素直に不安を訴えた。櫻庭の家は常春殿中枢部とかかわりが深い。中央帝都で政界にも力を持ち始めた鷲津氏が、再度祈月率いる遠山残党を叩こうとしているという話を、父も兄も盛んにしている。
再び情勢が物騒になってきて、どことなく沈鬱な空気だ。清矢は不自然なくらいに何も言わず、母の面影を追って、ピアノの訓練に熱を入れてばかりだ。
「あっ、カゲウサギ」
また、話を逸らすかのように清矢がおもむろに立ち上がった。カゲウサギは、魔物である。ウサギの形をしているがイノシシほどに大きく、丈夫な後ろ足で人馬を襲い、倒してもその肉は大気のなかにかき消える。ウサギが己の矮小さを呪う気持ちが具現化したと言われる。子供や老人も入るこの山では放置しておけなかった。
その名の通り闇色のどっしりとした姿で、カゲウサギが大地を蹴る。清矢は学ランの胸襟から鎖で繋がれたハーモニカを出して、唇を滑らせた。遠くは白燈光宮家の祖、嘉徳親王も操ったと言われる日ノ本独自の音曲術。
「傀儡」という名の、曲芸めいた節回しが日常を戦闘に変える。長く執拗に引かれる音波に操られ、カゲウサギはぐるぐると器械のようにその場を回り始めた。
詠は心を落ち着けて木刀を握りしめる。神兵隊で貸してもらえる真剣ではないから、一体倒すにも相当な強打が要る。腰を据えてかからなければならなかった。
長い耳の付け根、こめかみのあたりに狙いすまして、木刀を振りぬく。カゲウサギは打撃を喰らい、もんどりうって倒れたが、衝撃で音曲での洗脳も晴れたようだ。強力な前歯をむき出して詠にとびかかってきた。前脚で押し倒し、喉元に食らいつこうという、ウサギのくせに肉食獣の狩りにも似た動き。詠は今度はウサギの頬を力任せに水平に殴りつけた。
痛みに驚いたカゲウサギは激昂し、振り向いて強靭な後ろ足での攻撃に切り替えた。砂ごとドッと脚を蹴り、詠はそのつぶてと余波を避けるはめになる。清矢はハーモニカを続けている。魔物に特攻するコードが吹かれ、カゲウサギはぎょっと驚いた。
詠はその隙を見逃さない。高々と木刀を構えて体ごとねじり下ろし、大上段から首根っこを打ち据える。あちらの気力が尽きるまで泥臭い戦いが続くだろう。
大学で習っている魔法を使えば、より早く倒せる。理屈としては、魔素だけでできている悪意の存在が魔物なので、同じく魔素を利用した攻撃術である魔法で根幹から構造を壊したほうが、退魔は早いというのである。だが詠唱が必要だし、こうして敵を物理的に引き留めていれば、いずれ清矢が使うだろうと詠は高をくくっていた。集中を続け、調息を乱さず常に正しい歩幅で。ほとんどトレーニングの延長のような感じ。カゲウサギは後ろ足で立ち上がって威嚇の声をあげてきた。
「……危ないよ、どいて!」
後方で鋭い制止の声が上がった。清矢ではない。カゲウサギからは視線を離さずに、飛びのいて距離をとる。入れ違いに、つむじ風の気配を纏って大柄な少年が突っ込んでいった。詠は舌打ちして止めようとした。村の者だろうか。神兵隊で実戦訓練されている自分たちとは違うのに。
心配は杞憂だった。
少年は、腰に佩いた二尺以上の太刀を軽々と振りぬいた。刃渡りが長く、反りも強いその刀は、見るに麗しい白銀の輝きを放つ。刃からは狭霧のように水気が立ち上り、虹色に輝いてカゲウサギを存在ごと浄化する。抜けば珠散るの比喩のごとく、斬撃とともにしぶきが散る、きららかな妖刀であった。
それを扱う持ち主も、よく鍛えられた体躯をしていた。百八十センチは軽く超える長身を低く落とし、威力も鋭さも乗った斬りを扇のように素早く往復させる。居合剣だ、はじめは単なる蛮勇と勘違いしたが、かなりの使い手のようだ。
少年は一気に攻めかかると、とどめに一閃、強く刀を掃った。研ぎ澄まされた剣気に切り伏せられ、カゲウサギは実体を保てず陽の光に溶けて行った。血の色をした脈動する妖芯が残り、少年は拾って巾着に納める。独特の蒸留手段を経て、蜂蜜色の強壮剤となる材料だ。
清矢は動揺もせず、ハーモニカを構えて警戒を解かずにいた。少年は抜き身の刃を静かに鞘に納め、にこりと鷹揚に笑った。
「大丈夫だった? 怪我してない?」
「倒してくれてサンキュー。あんた、流しの退魔師か?」
「退魔師っていうか、ちょっとお使いでね。祈月さんって知ってる?」
少年は栗色に脱色したぱさぱさした長髪だった。灰褐色の三角の獣耳が立ち上がる。犬亜種か、それとも同じ狼族か。清矢のきつい視線にもおどけて首をかしげ、大柄なのに威圧感はない。
「じゃあ親戚の人がいるとこに案内するわ」
清矢は軽く請け負って、山道を降りていった。詠もその判断に従い、無言ぎみでついていく。山を下り、渚村を抜けて、猫亜種が多く住む菊池村に向かった。途中白燈光河原に立ち寄り、清流を手に汲んで喉を潤す少年に川の名すら告げない。
この辺りになると、詠にも清矢のたくらみは見えてきていた。おそらく、このまま菊池神社の隠密衆、
少年を菊池神社に連れて行くと、漣が忍び装束で境内の掃除をしていた。額には鉢金をつけ、首巻の下には面貌や喉当てが潜む。すぐにでも魔物退治や曲者排除に赴けそうな武装だった。戦いの中でちぎれた猫亜種の尾を短くする処置まで受けている。
漣は愛想などかけらも見せず部外者の少年に用向きだけ聞いた。
「何の用だ。境内に刀を持ちこむな」
「えっと、祈月の姫君のとこに用があるんだけど……歓迎ムードじゃないみたいね」
「失せろ」
帚を置き、腰の忍者刀に手をかけて、眼光鋭くにらみつける。詠でももう少し常春殿の建前を気にして話だけは聞く。清矢はとりなしもしなかった。
警告はそれだけで、漣は一目散に切りかかった。
恐ろしく速い振り下ろし、横凪ぎ、はじき返しに唐竹割り。息を突かせぬ連撃を、少年は鞘のまま受け、防戦一方だ。スナップをきかせた回し蹴りが思いきり腰に入り、ドッと尻もちをついた。
漣は吐き捨てる。
「体幹がなっていない。刺客ならもう少しましなものをよこせ」
「ちょっと待って。俺は敵じゃないよ。これを見て」
少年は先ほどの見事な佩刀ではなく、背中にしょっている小太刀を横ざまに構えた。黒蝋色塗の鞘に、瑞雲のかかる満月の紋。柄は鮫皮で、いぶし銀の目抜き釘にも同じ月紋が彫金されていた。組み紐は黄檗、浅葱、それに白。豪奢なつくりは、一見置物の宝刀かと見まがうばかりだ。詠はまるで月下美人にでも出会ったかのようにどんぐり眼をむいたが、漣はとくに興味のない素振りだ。
少年は意外そうに首を傾げた。
「……あれ、これじゃあ証明にならない? じゃあ名乗るよ。望月・『三郎』・充希、見合いのために自ら参上いたしました」
「見合いか……」
漣は相手の言い分をおうむ返しすると、ちらりと清矢に目配せした。少年は折り目正しく片膝立ちでかしずいて、頭を下げた。
「今や祈月氏は危急存亡の秋。しかし白燈光宮家の血筋を絶やすわけにはいきません。これぞ望月・満月刀本刀。対になる新月刀を持つ娘さんを、俺の嫁に」
清矢も何も訂正せず、肩をすくめた。
「会わせらんねー。本気を見せてくれなきゃあ」
それだけで会話を打ち切り、稲作に励む菊池村の中央通りを堂々と突っ切っていく。詠も小走りで追いかけて、肩を並べた。
「なぁ、あいつ、祈月の娘を嫁にって……望月って言うって……」
「ああやって突然訪ねてきた三島宙明の息子を預かったから、内情が鷲津にモロバレしたんだぜ。みんな痛い目みたからよそ者には厳しい。漣に任せておけば裏もとるだろ」
清矢が慎重でよかったと思う一方で、詠は背筋を正した。祈月氏を巡る政情が再びきな臭くなってきているのは本当のようだ。念のため草笛家まで清矢を送り、その日は解散した。
しかし、望月充希と名乗る少年は菊池神社に取り入ったのか、翌日も渚村で待ち合わせをしていた詠と清矢の前に現れた。清矢は『ピアノの練習ある』と言って話もせず帰っていった。
その翌日も、同じだった。詠は心配になって、清矢を学校にとどめ、自分は早引けしてでも帰り道に付き添った。望月充希は着流しの下に綾織りのズボンを履いて、垢ぬけた風情で通学路に現れた。祈月に取り次いでくれと頼まれたが、清矢は一言も話さずに今度は松嶋市まで足を延ばして彼を撒いてしまった。
三日経ち、四日経った。望月充希は連日、学校帰りの清矢の前に現れた。ついには厚めの化粧紙を萌黄色の紙縒で結んだ、古風な手紙を渡してきた。
「お願い! 君は白狼だしホントは色々知ってるんでしょ? これが俺の本気だから、祈月のお姫様に渡して!」
勢いよく両掌を合わせて拝まれて、清矢は文を受け取った。
「わかった」
そう微笑んだが、本心など分かったものではないと詠は傍らで見ていて思った。祈月には女の子などいないのに、どうやら菊池神社も真相を何も教えていない模様である。案の定、家に帰ってすぐに、恋文を開いて見分している。詠はいい加減望月充希が気の毒になってきた。
「なー清矢くん。祈月の家に娘なんていねーじゃん。だましてるのどうかと思うなぁ」
「バーカ。夏目雅の呪殺を忘れたのかよ。よその地方からの使者を簡単に信用していいわけがない」
清矢は詠を叱ったが、くすりと笑って恋文をつまみ上げた。
「でも、この熱烈な愛の告白にはちょっとくらい心動かされたりしてな?」
ほだされたような態度に、詠は口をとがらせた。
「な、何だよ清矢くん……! あんなやつが格好いいっていうのかよ」
「実際、よかったじゃん? 漣に勝てればもっとすごかったけど、居合いの鋭さは決まってたぜ。田舎出身なのに外見も垢ぬけてるし。求婚しにくるだけの気合は見せてるって感じ?」
「清矢くん、じゃあ、あいつのヨメになっちまうの?」
「バカ言うんじゃねー。ただ、じいちゃんはそっちに疎開するのも悪くはないかもなって言ってる。もうすこしみんなの判断待ちだな」
清矢が遠いどこかに行ってしまう。
詠は居ても立ってもいられなくなった。頭が良くて、カッコよくて、優しくてちょっと気が強くて、ピアノも剣もできる俺の特別なトモダチ。それが知らない男に連れられていなくなってしまう。二人の安寧な暮らしを邪魔する軍閥やら鷲津やらが、心底うっとうしくなった。俺だって魔物を倒したり、悪い術師と渡り合ったり、耀サマと天河さんみたいに清矢くんと一緒に大人になってワクワクするような武勇伝を作れると思ったのに。
常春殿が作っちまったあの『日の輝巫女』って魔物女も、倒してやろうと思ってたのに。
耀サマがどうして朝廷から殺されたかとか、家宝の『新月刀』を夜空って兄がロンシャンに持っていっちゃってるとか、頭の固い神官たちは汎用系魔術に眉唾だとか、色んな問題があるのに。
全部、二人でやり遂げられると思ってたのに。
清矢とのドラマチックな物語が、みんな遠ざかって行ってしまう。
「清矢くん、行くなよ。あんな奴のとこ、行くんじゃねー」
「まぁなー。だけど、父上が今度の戦で負けたらヤバいぜ。草笛名乗って潜伏するっつってもバレバレだろうし。実際、望月からの申し出は渡りに船だ」
清矢は誘いに乗る気もあるらしかった。
詠は清矢の肩に両手を置いて、頭を下げて頼み込んだ。
「清矢くん、行かないでくれ。それか俺と一緒に戦おうぜ」
「何言ってんだよ、詠。父上の戦に参加するってことか? 俺たちまだ子供だぜ」
「魔法があるだろ。鷲津のやつらは魔法使えんのか?」
魔法。十一歳のころに訪ねた国立魔法大学で、教師陣が見せてくれた派手な技。中でもグリーク魔法大出身の沢渡マルコは、近所の神官の安部帰明と競うように、魔力豊かな清矢たちに個人指導をしていた。
はじめこそ「術はズルい」「男らしくない」と感じていた詠だったが、学生時代の冒険譚を聞くとうずうずしてしまい、彼の操る炎属性の汎用系魔法から始めて、その才を認められ、今では常春殿神兵隊に伝わる耀の術まで習っている。
マルコからは「火力は一番だな」と褒められ、神兵隊のメンバーの中でも髄一の破壊力だと自覚があった。
昔、渚村の子供たちが誘拐未遂の術師に再戦を挑んだときの気持ちがわかった。
詠とて、試合ばかりで実際に人を斬ったことはない。十一のころ三島宙明に木刀で殴りかかったくらいのもので、神兵隊の活動も魔物退治が中心だ。けれど周囲には自分たちほど武芸に励んでいる若者はいなかったから、戦に出ても一人前には働けると思っていた。
何もせず結果におびえているよりは、剣をとって戦いたい。
正直、清矢の父親祈月源蔵と鷲津清隆が何を争っているのか、どうしてその武力で『日の輝巫女』を倒そうとしないのか、そもそも何が偉くて世間に褒めそやされているのか、まったく分かってはいなかったが、成り行きにただ泣くなんて女々しかった。詠の一番嫌う態度だ。
「なぁ、遠くに逃げるくらいなら戦おう! 清矢くんと俺のコンビなら、源蔵さまたちだって助けられるよ」
じれったく誘いをかけると、清矢は冷たいまなざしで聞いた。
「……死ぬつもりか? 詠」
「でも俺、清矢くんがみなしごになっちゃったら辛い。離れ離れになるのだってイヤだ」
自分の気持ちを正直に伝えたのに、清矢は心を動かされなかったみたいだった。
詠のヒートアップを止めるのが清矢のクールだから、いつものことではあるが、別れるのが嫌だという気持ちに同意すらしてくれない。
清矢はピアノの蓋をあけてその前に座った。
「……今日のところは帰れ」
振り向きもしない背は対話を拒否していた。
詠はうなだれて草笛家を出た。
魚市や八百屋が立ち並ぶ湖陵町を抜けていく。どのみち帰りがけだ、渚村に寄って、清矢の父方のお婆さんの祈月さくらにも、今の話をしてみようかと思った。
顔を上げると、五月晴れが悔しくなるくらいに綺麗だ。ふと気づくと、あとを付けていたのか、いつの間にか望月充希に隣に並ばれていた。
彼は快活な笑みで首をかしげて聞く。
「ねぇわんこ君。あの子は一体どちらさんなの?」
「……教えらんねえ」
「住んでるのは草笛さんっていう呉服屋みたいだけど」
じっくり顔を見てみると、何となくいけすかないやつだった。髪を茶色に染めているのも軽薄だし、サイドも襟足まで伸ばしていて何だかチャラチャラしている。くりっとした愛嬌ある目つきで、身のこなしは無駄な力が入らず口ぶりにも余裕があって上背も詠より高い。
女子ならカッコいいって言うのかな、と詠は思った。早足で充希を振り切ろうとする。
充希もねばってその肘をとり、隠していた正解を言い当ててきた。
「祈月の子については、『お母さんによく似てる』って評判があってさ……だから娘さんだと思ってたんだけど、もしかしたらあのキレーな子が若君だったり?」
詠は怖い顔で充希をにらんだ。
「お前、鷲津の手の者かよ!」
「いーや。でもその反応見ると近いところ突いてるね?」
充希はにっこり笑い、顔を近づけてきた。
「話、させてよ。あの子が祈月の若君なら、俺の実家にかくまいたい。ま、女装させていいなづけってことでもいいけど♡」
あってはならない冗談だ。清矢はたしかに線が細いが、物事をやりきる責任感と、冷静な頭を持った、大事な大事なトモダチだ。無下に汚された気がした。詠は取られた肘を振りほどき、右拳でいきなり充希の頬を狙った。「おっと!」と充希が楽しそうに上体を逸らす。
「わんこ君はあの可愛い子ちゃんの護衛ってワケ?」
「ざっけんな! 清矢くんは俺の親友だ! 女装とかっ……そんな馬鹿なこと清矢くんはしねー!」
「ふふ、顔が赤いぞ~? もしかしてわんこ君はあの子にラブ?」
殴りかかろうとしても、充希はひょいひょい避けてしまう。買い物かごを持ったおばさんたちが、厄介者を見る目で遠巻きにしている。漁師のおじさんは腕組みして喧嘩をはやす。詠はなおも振りかぶって頭を狙ったが、逆に体勢を低くした充希に胴へとタックルされて、どさりと往来に背後から倒れこんでしまった。
「っの野郎……!」
後頭部に響く痛みに怒りが沸いて、起き上がる。充希はちょいちょいと手でこちらを挑発している。掌底で鼻っ柱をつぶされ、すねを思いっきり蹴ろうとすればスライディングで転ばされ、いつの間にか少年ふたりの立ち回りは本格的になっていった。
詠もタックルをしかけると、今度は充希は柔術で投げてくる。鉄棒の前回りのごとくにくるりと半回転して、背中をしたたかに打ってなお起き上がると、町の憲兵が駆けてきていた。
「君たち! 往来で何をしているんだね! 市民から通報を受けているぞ!」
交番ではしこたま反省文を書かされた。
迎えにきたのは菊池神社の透波漣だった。
充希が保護者としてそこの連絡先を言ったのだ。何か隠密の事情かと勘繰られ、憲兵は詠までまとめて引き取らせた。家に帰ったら母の機嫌もヒステリック活火山状態だろう。
充希が漣に真相を聞くと、漣は悪びれもせずに答えた。
「いかにも。あれが祈月清矢、源蔵の子だ。母親の雫さんに似ているというのも確かに評判だった」
「俺、徹夜で恋文書いちゃったのになぁ~。まったく皆さん意地が悪いよ」
「忍びなら情報かく乱は当然。望月充希よ、『三郎』の二つ名を継ぐなら、もっと周到にならなくてはな。怪しまれておやじに文を書かせているようでは甘い」
漣は先輩風を吹かせると、市をゆっくりぶらついた。漁港にまで足を延ばし、波の様子でも見ているのか、腕組みして黙っている。
潮の匂いがした。ところどころ雑魚が捨てられていて、野良猫が群がっている。漁師たちはそろそろ仕事を終えるところだ、赤銅色の日焼けした肌をむき出しにして、船や網の手入れを続けている。
いつもどおりの港の風景。みな、戦などとは無関係に日々の務めを果たしている。
身内の人間が充希を受け入れたようなので、詠もさっきの清矢との話を打ち明けた。漣は無感動な目で詠をとらえる。
「清矢を疎開させるという望月の案、悪くなく思える」
「でしょ? 白燈光宮家を断絶させるのはダメだって」
「同意だ。お前たちも十五歳、ちょうど進学の年齢でキリがいい」
喧嘩に負けどおしの詠は悔しくて拳を再度振り上げた。
「いやだ。俺は清矢くんと一緒に戦う! きっとそうすりゃ鷲津にだって勝てるよ!」
百戦錬磨の漣相手では、自分の意見はいかにも子供の空威張りに見えた。漣は無表情のまま、詠にも厳しく問いかけた。
「鷲津清隆について何か知っていることは?」
「……なんか祈月を嫌ってて、戦をしかけてきてる。遠山高志さんだって、自殺させることはなかったと思う。政治の評判はいい人だったって、兄ちゃんも残念がってる」
「その程度か」
漣は目を細める。
「鷲津氏はもともと朝廷の文官だった。明叡元年に白燈光宮家主導で行われた、永帝退位の記念事業『春夏秋冬の宴』。これを単なる奢侈だと批判し、さんざ論戦を張った。そのころからと思えば対立は根深いな。また、汎用系魔法普及のための魔法大学設立にも反対をしていたらしい。今時科学万能主義を貫く、術嫌いの一族だな」
詠はそう教えられて、自身の無知に恥ずかしくなりつつも一点の光明を見出した。
「じゃあ、魔法で攻めかかれば……勝機はある?」
漣は眉を少しひそめてため息をつく。
「使い手が清矢とふたりだけでは勝ち目もなかろう」
そして親切に、鷲津清隆についての情報も与えてくれた。
「当代の清隆は、二十年ほど前の藤内拓大将軍の横暴に憤って、自身も文官から軍人となった。……もっとも、祈月源蔵も同じくその乱の鎮圧で武官としての名をあげたから、はじめは同志だったということになる」
「そんなら、なんで陶春を荒らすんだよ。藤内将軍は成敗されたし、それでもう戦は充分だろ」
詠が怒りを覚えながら質問する。漣もかすかに軽蔑の口調で答えた。
「四年前の旧海軍大社基地跡での血戦も、藤内討伐後の覇者争いに過ぎん。遠山高志の下にやすやすと収まれない時点で、藤内に似た野望を持つ人物といえるな」
「結局清矢くんのお父さんが正義ってことか! じゃあ俺もはせ参じる!」
短絡的な帰結に、充希は呆れて笑った。
「ふーん、英雄願望だけは立派だけど。君に何ができるって?」
漣は笑わなかった。そして至極真面目に誘い船を出した。
「魔法大学の結城博士のもとへ祈月軍閥の参謀が訪ねてきたという。何でも鷲津に降ろうとしているらしいぞ……清矢は祖父とともに説得に行くようだが、はてさて」
「清矢くん、俺になんでそんな大事なこと、黙ってんだよ……!」
時はまた、詠の知らないところで動いていたのだ。穏やかな海の青色が染みるほどにつらかった。
「俺も行く! 結城先生に会いに行くよ!」
詠が海に向かって吠える。シンプルで強い結論に、漣はうなずいた。
「鷲津に乗り換えようという渦中の人物も気になる。いっそ、皆で見物といくか」
かもめがひときわ大きな声で鳴いた。海鳥の飛びまがう様子を見ながら、詠は高鳴る鼓動を止められなかった。
03 Magic of Tactics
その男の第一印象は、擦り切れた麻布。
その男の眼光は、半ば死んでいた。
漣に知らされた日時に陶春魔法大学・結城研究室に赴くと、犬亜種と思しき存在感の薄い男がソファに座っていた。詠は中学校の用務員を思い出した。実直そうではあるがどこか影がある。
「伊藤敬文さんと言います。年を経て学問を収め、軍学を学ばれたとか。その後は恵安県で役人をなさっていたらしい。祈月と鷲津が恵安県三枝で小競り合いをしたときに、祈月軍勝利を決定づけた参謀……でよろしかったでしょうか」
「ああ、そんなものでいいよ」
結城教授が概略を説明する。鷲津に降ろうとしている男、伊藤敬文は、覇気などなくしきっているように見えた。
ローテーブルをはさんだ反対側のソファには、清矢とその祖父、草笛宗旦が座っている。うす紫の小袖に、鶯色の羽織を着こんだ宗旦は、意外なことにはなから本題を切り出した。
「敬文さん。源蔵軍が頼りないのはわかるが、すでに鷲津は各地に難癖をつけているだけだぞ。和睦をするにも、鷲津に源蔵を国軍で使う意思はないだろう。どうか、考え直してくれまいか」
「俺にできるのも戦のあとせめて源蔵さまたちのために鷲津側から奔走するだけだ。恵安県知事は国からの叱責を恐れて自前の軍は手放す。虎雄と結んで再び居候すると言ってもこのままじゃその先の当てがない……」
伊藤敬文は源蔵の義父である草笛宗旦を真っ直ぐは見なかった。いかにも憔悴した感じだ。宗旦も現状、同じような認識らしく、結城教授の表情も浮かない。祈月軍閥が追いやられた苦境の色がありありと見えるようだった。
清矢は礼儀正しく一礼をして、尋ねた。
「父さんは国軍には戻れないんですか?」
「そのためのルート作りのために、鷲津に降ろうと思う。まあ、清隆は俺のことなんか一介の小役人としてしか評価してないんで、望み薄だろうけど……ともかく私戦で勝たなくちゃ説得力がないってのが今の国軍の風潮だからな。間違っていると思うけど」
敬文は清矢に声がけされて、ようやく研究室内を見回した。清矢に詠、それに充希と、若者が多いことに驚いたらしい。
「この子たちは……?」
結城教授は後ろ頭をかきながら答えた。
「ええと、源蔵さんの息子です。清矢と、友達の詠。そっちの君は誰かな? えーっと、望月さんとこからの使者、そうか~。それで透波漣さんは、菊池神社に勤めてる方でしたよね。ごめんなさい、みんなの行く当ても源蔵さん次第なものですから」
「そうか。ご子息にはお会いしたことがなかったな。伊藤敬文です」
役人をしていたとの経歴にたがわず、伊藤敬文は清矢にも律儀に頭を下げた。弱冠十五歳の少年に、三十くらいの男が低頭したことに、詠は驚いた。
「父さんは旧海軍大社基地跡での血戦で遠山参議を守れなかったもんな。今度の戦もツライのかな?」
「国軍に父親の代から勤めてる虎雄っていう派閥が、反鷲津を貫いて独立の風だ。その本拠地、遠海地方に行けば変わるだろう、ってのが今の祈月軍閥の判断。でも、虎雄が軍閥の人をどれだけ国軍に戻せるかわからないし、鷲津がその逃亡をやすやすと許すとは思えなくてね……」
「じゃあ父さんたちは単に別の地方に転任するだけなのに、追われて命を狙われるってことか」
「……そんなのおかしいぜ。常春殿から頼んでもらって、源蔵サマを匿ってもらおうよ! 清涼殿の言うことなら鷲津も聞くんじゃねーか?」
詠も焦る気持ちで議論に参加した。伊藤敬文は気おくれした様子だ。驚くことに、地元では賢人として名高い草笛宗旦も同意した。
「詠、お兄さんやお父さんにそう頼めるか? 昔からだが、鷲津は白燈光宮家のことなんか何とも思ってないからな。耀さんも源蔵も、帝にまで拝謁したことがあるってのに」
伊藤敬文の表情はうなだれたままだったが、会話の流れにひっかかることがあるようだった。
「宮家どうこうってのはそんなに効力があるものかな?」
「えっ……?」
詠は逆に伊藤敬文の物言いのほうに驚いた。詠にとっては、祈月家は白燈光宮家の直系だという、そのことだけが重要だった。祈月源蔵は父である耀を若くして亡くし、新聞配達をするなど苦労しながら国軍に勤め、今の名声を得ている。
だが、ほとんど帰ってこないので会ったことがない。彼個人の考えなど、まったく知らないままだった。
「だ、だってさ! それが一番重要じゃん! 白燈光宮家は嘉徳親王の子孫で、魔力も高けーし、音曲でまで術が使える。渚村は宮家領の跡地で、親衛隊たちの子孫が今だってふるさとを守ってるんだ! 草笛だってその雅楽官だし、『日の輝巫女』とか三島とか、魔物だって悪い術師だってみんなまだこの日ノ本に残ってるってのに……!」
「血筋のことなんか源蔵さまは何一つ口にしたことがない。鷲津でも、それを評価する人はいない。門閥に拠らない完全実力主義の世の中ってのが、鷲津清隆の志だ。その網目にかかれるかどうかってのが帝都でみんなが考えてることさ」
この敬文の認識には清矢の表情も少し動いた。血筋でいえば白燈光宮家傍系である結城教授も面白くはなさそうだ。
「父さんは術とか、嫌いだしな」
清矢は詠をなだめて、とりあえず敬文の顔を立てる方向性をとったようだ。結城教授がつけたした。
「えっと、清矢たちも意外だとは思うけど、源蔵さんってあまり宮家の後継ぎだってことを誇らないんだよね。たぶん、伊藤さんたちも源蔵さんのそこに惹かれて集まっているわけじゃないと思う。単に反鷲津の勢力で、簡単に乗り換えたりしないっていう義侠を認めてる人のほうが多いんじゃないのかな?」
前提のあまりの違いに、詠はうなった。望月充希も首をひねっている。
「あの……そんなだからこそ、敵対勢力には私戦を起こして皇位簒奪を狙ってるってまで言われてるんだけど……祈月軍閥の旗印っていったい何なわけ? 反鷲津ってだけ?」
「源蔵さまは皇位簒奪なんか狙ってないよ。世を正すためって志はあるけど、俺たちではうまく支え切れていないんだ。鷲津の世になること自体は嫌ってる者も多い。だけど時流ってのには俺も逆らえないのかもしれない」
自信のなさげな伊藤敬文の物言いに、詠は困惑した。
こいつ、結局何なんだ? ホントは源蔵さまに味方したいのが見え見えだ。なら、貫き通して戦場で道を切り開く覚悟見せろよ。
この場で一番発言に重みのある人物、草笛宗旦がため息をついた。
「清矢はどう思うんだ。ほかならぬお前の家のことだぞ」
「……遠山さんを守れなかった以上、今までみたいに三下で単なる勢力争いをしててはダメだと思うけどな」
父の業績をすべて笑い飛ばすような見解を述べる清矢を、敬文はにらみつけている。清矢は物怖じせずに続ける。
「俺のご先祖様である、白燈光宮家の季徳は、たんに『春夏秋冬の宴』で遊んでただけじゃねえ。音楽術で気候まで操ったあれは、戦が終わってすたれていくだろう国産の術を大規模に発展させて保存しようという試みだ。この国立魔法大学を立てたのも、海外から汎用系魔法の技術を取り入れようとしたから。そのプロセスで生まれた『日の輝巫女』みたいな間違いもあった。おやじは耀が早死にしたせいで家の歴史から逃げたいんだろうけど、鷲津に対しては何か説得力を出していかねえと、マジで地方の勝手な軍閥だよ」
詠は驚いていた。清矢は頭がいいし口がうまい。だけどこんなにきちんと大人に対して意見ができるなんて!
普段、詠は清矢とは剣術の練習だとか神兵隊員の近況だとかの会話をするばかりで、世のなかについて話し合ったことなんてなかった。耀の日記はどんなに頼み込んでも読ませてもらえないし、『新月刀』を持ち逃げした夜空についても、腫れ物に触るようで話題にはできない。ピアノについて熱っぽく語られることこそあれど、詠も剣や術についてやり返していた。それが詠たちが青春をかけている芸事だった。
そして次第に、楽しくやれればそれで満足だなんて思い込んでいた。日常が満ち足りすぎていて、それが壊れるのが嫌だったのだ。
詠は自分の幼稚さを反省した。
望月充希も話に乗った。
「俺もそう思う。常春殿には『日の輝巫女』がいるけど、うちんとこの月華神殿だって何を隠してるか分かったもんじゃないんだ……。でも、ただ潰せばいいかっていうと、それはそれで数世代分の後退なわけ」
「すべての果実を鷲津に総取りさせるわけにはいかねーよな。俺も父上の戦に参陣する」
それは決定のひとことだった。
しかし、今度こそ伊藤敬文は簡単に認めなかった。今までのぼそぼそした感じとは打って変わって、切れ味よく否定する。
「子供が何人かはせ参じても焼け石に水でしかないよ」
清矢はニヤリと笑った。
「まぁ、それは分かってっけど。父さんが死ぬかもしれねーって時になよなよと匿われてるってのも、カッコ悪いだろ?」
「格好いいとか悪いとかじゃないだろう。おとなしくしててくれ」
「……敬文さん。あんたも男なら勝負しようよ。俺が勝ったら、鷲津に降るっていう気の迷いも無しにして、一緒に心中してくれない?」
その生意気な物言いが気に食わないらしい。伊藤敬文は挑発に乗って、死んでいた目を輝かせた。草をはむ驢馬のようだった無害な瞳が、今や漣辣な獣だ。
「……いきがるガキにはきついお灸をくれなきゃダメだな」
本性をあらわにしたと思しきセリフに、なんだかんだで荒事好きな透波漣の口元も笑んでいる。結城疾風教授も顔をほころばせてうなずいた。
「うん、いいですね。前線で戦術指南するほどの勇士に清矢がどれほど通用するか。試してみたいです」
そして、前哨戦の幕が上がった。
詠は、神兵隊の装備も貸さないでどうするんだろうと思った。他でもなく伊藤敬文にである。草笛宗旦は透波漣に使いに立ってもらい、家から清矢の装備を持ち出させるらしい。
敬文は魔法大学に魔物退治用として備えられていた一振りの剣を持った。体育館に集まった結城教授が腰を低くして聞いている。
「すみません、それ、一応魔法剣ですけど安物で……」
伊藤敬文は戦闘のこととなると頼もしい答えを返した。
「構わない。普通の両刃剣だから、かえって扱いやすいくらいだ」
成り行きを聞いたのか、ほかの教授たちも集まってきていた。
「ロッドを使いますか? それなら大学で開発したちょっといい奴が!」
「剣だけで戦うんなら、常春殿の神兵隊でやってもらいたいが」
炎術と魔法軍事学を専門とした沢渡マルコ、錬金術などを教えるというサニー・エン・サチパス、ロンシャンからクライスト教由来の補助魔法を教えているベネディクト・リリー。詠たちはみな、この教授陣に魔法を習ったことがあった。沢渡マルコは個々人の記録までつけているらしいが、サニーやベネディクトは片手間である。
日ノ本からグリーク魔法大学に留学した医者の愛野京や、ロンシャン出身だという学長の姿まであった。
「清矢くん、詠唱をちゃんと完了できるでしょうか……? あと、魔法だと手加減って難しいんだよなぁ。ワタシ、ついにこの日ノ本でも復活に手を染めるんですかね……?」
「魔法防御の守りだけは貸し出したほうが良いぞ。いくらなんでも死者はまずい」
「ワクワクしますね! 詠くん! 本物の決闘が見られるなんて」
愛野京が楽し気に語り掛けてくる。
詠は言った。
「俺も参加して、清矢の詠唱時間を稼いだ方がいいんじゃ……?」
「いや、清矢は『ライトニングボルト』も『マギカ』も呼称詠唱まで行ってる。『リュミエールドイリゼ』だけは発動式が必要だが、単独相手に系統最高術を使うのは隙を晒すようなもんだ。どのみち、基礎魔法の詠唱すら戦闘中に完成させられないようじゃ、普段神兵隊で鍛えてるのは何だって話になるからな。愛野先生、もしもの時は頼みます」
沢渡マルコは清矢の勝利を確信しているようだ。一方、充希と漣は清矢のほうを心配していた。
「大丈夫なの? あの敬文さんて人、剣筋を見るになかなかの達人みたいだけど」
「本物の戦を経験した者と、芸事だけの半可通は違う……ピアノでの対決ならば楽だったのだがな」
詠は半々だった。清矢の剣は、べつに弱くはない。だけど師匠たちにしたら赤子の手をひねるようなものだし、非力だ。現れた清矢は、詠の見たことのないような恰好をしていた。
真っ白な革でできた立襟のロングコート。手は黒手袋で保護され、袖の中にひそむように鋼の小手をつけている。インナーは、おそらく鋼を織り込んである黒の鎖帷子。急所を守り暴行を防ぐため、黒いベルトが縦横に体を這って、白いズボンの太ももまで締め付けている。足元は無骨なロングブーツ。そして、首にはこの地方で特産する桜色の魔法石のペンダントをしていた。背には、新円の右舷をすこしだけ太らせた新月紋が染め抜かれている。無骨さとは程遠い、祈月家次代にふさわしい美々しい戦衣だ。
手には細身の両刃剣と、柄に魔法石が組み込まれたマンゴーシュがあった。
淡雪のような白肌に、母譲りと褒めそやされる、虹彩の大きな曇り眼。細くさらりとした黒髪は、端正な衣装によく似合っている。軍装には何の不足もなく、そのまま戦に行けそうだった。普段はピアノしか弾かせてないくせに、母方の祖父、草笛宗旦が、どんなにか娘の忘れ形見を大切にしているかがよく分かる。
「清矢くん、きれいだ……!」
詠は思わず嘆息した。相手取るはずの伊藤敬文もまじまじと清矢を見つめている。
「二刀流は源蔵さま譲りか。だけど、にわか仕込みはすぐバレるよ」
清矢はただ笑うだけで返答をしなかった。
闘いはあっけなく終わってしまった。
結城教授による「はじめ!」の声とともに、伊藤敬文が攻めかかる。彼の動きは素人ではなかった。力を貯めて飛び上がり、剣気を発散させてその衝撃で敵を打ち上げんとする。両手剣を逆手に持って軽々と扱い、その剣筋は美しく円を描いて、誰か師匠についていたことが知れる。
「こんなに剣気って使っていいんだ……!」
詠は果敢な攻めにほれぼれとつぶやいた。望月充希が意外そうに言う。
「当然だと思うけど? まぁ神兵隊での習い事ってんならそれでも間に合うんだろうけど……」
剣気は特別な武器で出せる風圧のようなものだ。原理は結城教授によると魔法と同じで、詠唱なしで発現できる術の一種だともいう。剣筋に従って魔力を消費し、相手を圧して時に切り裂くまでいく剣気は、普段の練習では禁じられていた。
清矢は剣を交錯させて身を守り、いったん攻撃をはじくと高らかに吠えた。
「Lightning Bolt!」
「……決まったな」
沢渡マルコがつぶやく。
清矢の呼び声と同時に、左手のマンゴーシュの柄にはまった魔法石が輝き、何もないところから光撃の矢が降った。
八連発。光系統の基本魔法、「ライトニングボルト」。電撃がきらめき、素早い敵を魔法が追って、単発のレーザーで打ち抜く。詠だって喰らったらしばらく動きが鈍るくらいの強烈な魔法だった。伊藤敬文はすばやく直線上に後ずさったが、それは不正解の動きだった。清矢は術での追尾をやめず、脳天に、光の矢が降り注ぐ。
「くっ……!」
剣気まで扱える勇士があっさりと魔法の直撃を喰らう。
詠は不思議に感じた。あんなにも動けるひとが、どうしてこんな基礎魔法の対処すら知らないんだろう。ぐるぐる逃げれば当たらないのに。もっと厄介な魔法だって数多い。
「マルコ先生、このままだと危なくね? 『リュミエールドイリゼ』はともかく、『ライトニングカッター』だってあるし……あれ、剣気より大げさに切れちまう」
「だから光系統の術師と相対するのはつらいんだ。見るに、あの人は基本的な防御魔法の心得すらないな。さて、ここからどう攻め切るかだが……」
「Reflect!」
魔法剣の先で独特な図形を描き、清矢は待った。これは単純な物理防御の魔法で、一度だけほぼ同量の反作用を返す。勇んで切り込むと思わぬ反撃を受けて危うい。
しかし、伊藤敬文はそんな単純な試合運びにはしなかった。力を貯め、思いきり踏み込んで剣を遠心力で振り払う。すると、明らかに剣筋より三寸先に複数の剣気が発生し、かまいたちのように連続して切り刻んだ。その衝撃をなんなく跳ね返した清矢は残りを走って避け、ぶつぶつと詠唱を続けている。どうやら、剣でまともに応対する気がないらしい。
「四元素の根元たる水の元素よ応じたまえ、すべてを母なる海へと流す、清らな雫よ濁りたまえ、魔風をはらみて水泡となりて、触れ包みしものを、もろともに崩壊させよ……水魔法・Bubble!」
「うわ。卑怯……」
普段実験台にされる詠にはそれしか言えなかった。この魔法は魔素を含んだ泡を発生させるもので、足元置きなどされると非常に厄介だ。破泡のたびに魔素ダメージを与え、滑るだけでなくじわじわと効いてくる。『置きバブル』と言って海外の魔術師間でも争いになると聞いた。清矢はセオリー通り敬文の下半身に濃い気泡をまとわりつかせた。
グリーク魔法大学出身、サニー・エン・サチパス先生が気の毒そうにこぼす。
「うーん、バブル喰らっちゃったかぁ。魔素水で注ぐぐらいしか対応できないし……いっそ僕がシールド張ってあげたいよ」
敬文は機動力を封じられてしまったが、その場で腰を落として剣を振り回し、奥に飛んでいく鈍く光る剣気で空間を縦横に切り裂いた。
「すまない!」
恐るべき気迫は謝罪どおり清矢の黒髪をわずかに斬った。だが、悠々と下がった清矢は最後のダメ押しをする。かなり間合いを離しても攻撃できるのが魔法や術の利点だ。
「究極にして深淵たる、真のことわりの名のもとに! 魔術師としての資格と共に、我にあだなす全てを滅せ! 究極魔法・Magica!」
これは本当に基本的な魔法なんだと、詠ですらも思う。
多分原理としては剣気と同じようなものなんだということも分かる。四属性に拠らないただの魔力圧だと沢渡マルコ先生は言う。「無属性なだけに、退魔には使い勝手が悪いがな」。詠はどうしても炎属性の衝撃波しか出せず、案外習得に苦労したものだ。
器用な清矢はなんなく詠唱と印とを完成させる。数ある術のなかで、清矢がこの魔法を選んだのには意味がある。『魔法』という名の魔法。それを知らないお前は、絶対に俺に敵わない。まさに、皮肉な勝利宣言。
魔術は壊れず完成した。術者の招きに応じて、強大な魔力圧がメガホン状に放出される。伊藤敬文はこらえきれずバブルもろとも吹っ飛ばされる。
「そこまで!」
一方的な戦況を見かねたのか、学長が号令した。清矢は誇りかに剣を収める。透波漣も意外な展開に眉をひそめた。
伊藤敬文も信じられないといった顔だ。
「嘘だろう、太刀打ちすらできないなんて……!」
「だから日ノ本には汎用系魔術の指導者が必要なんだ。こんなもの、海外の魔術師にとってはどれも基本装備に過ぎない。『マギカ』なんてロンシャン軍では兵卒だって使えますよ」
ベネディクト・リリー教授があきれかえって沢渡マルコに言う。
日本は国軍にまだ汎用系魔術を導入できていなかった。術にはある程度才能が必要だし、退魔法として神道や仏教に紐づけられて運用されているだけだったからだ。
魔法軍として存在していたのは嘉徳親王率いる皇帝直属退魔軍であったのに、その存在は帝国化をよしとしない度重なる政変によって解体された。固有術の数々も今や分化した軍事施設が独自に残しているだけだ。
日ノ本の魔術政策は他国に比べて立ち遅れていた。
「敬文さん! 大丈夫ですか!? 『バブル』って後からジワジワ来ますよ。はやく治療魔法だけでもかけましょう!」
愛野京が駆け寄って手当てをはじめたが、敬文は虚を突かれてぼんやりとしていた。
「これは……いや、戦術的だけでなく、戦略上すら優位をとれる」
「は? ええと、頭打ったりはしてないですよね?」
「勝ち筋が見えたってことですよ」
伊藤敬文は魔法で手当てされる間、清矢をこのうえなく痛切に見つめていた。
そして自嘲するようにつぶやく。
「……だけど源蔵さまの若君をわざわざ前線に出すっていうのはよくないな。魔法が使える兵を今のうちに厳選するから、訓練をつけてもらえないか?」
結城教授は頼み込まれて「ええ、まぁ」と半笑いであいまいな受け答えをしている。結城教授は詠たちに魔法を教えるにしてもテキスト片手だし、実際は実験だの物づくりのほうが得意らしい。本職の軍人たちを相手取るのは苦労そうだ。
清矢は近寄ってきて抗弁した。
「いや、あくまで俺が参陣することに意味がある。故郷でピアノだけ弾いてても父上たちとは距離が離れるばっかりだ。女の子だって思われてたくらいだもん、戦で生還するくらいのことしねーと認めらんねーだろ?」
「じゃー俺が護衛に付きますか。危なかったらヨメ決定だからね?」
望月充希は笑いながら清矢の脇を小突いた。清矢もまんざらでもなさそうで、詠には面白くない空気だ。
結城教授はひいふうみい、と指折り数えながら言った。
「若い兵が圧倒的な魔力で敵をねじ伏せるならば、鷲津も祈月との戦に二の足踏むでしょうね。兵力差が絶望的なら、他の手を講じる必要があるけど」
「できるだけ鮮烈にいきたい」
伊藤敬文が前のめりに言う。敗北した悔しさなどまるで問題にされていない。
――その横顔からすでに迷いは払拭されていた。
04 捨てられ女と重たい男
望月充希はその日から草笛家に居候し、清矢の学校の送り迎えまですることになった。渚村の白狼仲間たちも、草笛宗旦や結城教授の頼みで戦に出ることが決まった。従弟の広大はもちろん、文香や銀樹、それに魔法はできなかったが、射撃のうまい志弦。祈月に伝わる妖刀・『新月刀』と対になる『満月刀』をもつ充希の存在は、事情に詳しいみなにもスムーズに認められ、全員が伊藤敬文の指導のもと、放課後の調練を続けた。
渚村の連中は以前の記憶から充希や敬文を遠巻きに見ていたが、清矢の祖母・祈月さくらが吠えた。
「今回は単なる親切で世話してやるのとは違うよ。源蔵を見込んで働いてくれてた人なんだ。何かあったらあたしが責任とる!」
渚村の古老こと、雅の遺児・文香の顔つきも違ってきた。
「夏目はずっと白燈光宮家付きの学者だったんだもんな。将来軍に勤めるかはわかんないけどさ……復讐できたお返し。今回ばっかりは俺、清矢に付き合ったげるよ」
そう言って父に念仏を上げる。伊藤敬文も、犠牲になった大人物を悼んで仏壇に両手を合わせた。
伊藤敬文は鷲津に降る判断を取り消し、ここでも祈月軍閥の参謀として、村に養われながら昼に夜に連絡や軍事に精を出し始めた。
渚村の若者は、たいてい家に伝わる術を何か一つは使えた。まじない歌や、風を操る術が多かったが、なかでも、夏目家の術はオオカミに変じるというもので、祈月家先代・耀も使ったと言って著名だ。前村長の家の風祭銀樹も、空間をはさみで切りぬいて異次元で食い破るという常識はずれな術が使える。魔法大学で教えを受けているのも同じで、伊藤敬文が教えるのは主に剣や槍の使い方や陣形の組み方、行軍の方法だった。
夏目屋敷は、私塾が経営されていたころの賑わいをにわかに取り戻しつつあった。神兵隊の洋一も、隣の犬村の文吾も、戦に来てくれると約して足しげく通ってきた。調練は日暮れにまで及び、さくらばあちゃんが大鍋でまかないを振る舞う。耀のパートナーだった天河重彦も、松嶋市街に退魔結界を張る安部帰明も、術の稽古や試合の相手を勝って出てくれ、白燈光宮家に関する歴史を敬文に授けていた。
清矢のピアノ仲間も顔見せにやってきた。造船会社のお嬢、
「清矢さん、戦なんて非人道的な行為に手を貸すのはよくないわよ。ラヴェルの『クープランの墓』の逸話、聞いているでしょう? あんなに明晰だった作曲家が、心にも脳にも傷を負ったのよ。お父さんが軍人だからって、清矢さんまで同じ道を歩む必要はない……! 私は反対です。魔物相手ならともかく、清矢さんは『非戦』を貫くべき!」
太目の犬耳少女である可憐は、深紅のワンピースに品よく身を包み、身も世もなく嘆いている。清矢は彼女の背に手を置いて説得に必死になっていた。
「なんだか、違うねぇ……源蔵が義勇軍として旗揚げするって時とは」
さくらはその光景を見て不可思議な顔をした。
「全員、若すぎますから。俺はこの責任をずっと背負っていくことになります」
「……確かに、源蔵たちも戦に出たのは十八のときだ」
「きれいなだけではいられない。けど、時計の針は進めなきゃダメだ」
敬文はすっかり覚悟を決めたようだった。ピアノ仲間たちは戦に出るとは言わず、みな名残惜し気に街へと帰っていった。その日の夜、みなで大鍋いっぱいの筑前煮を食べ終わり、食後のしょうが茶を飲んでいると、張本志弦が決然と顔をあげた。
「あたしは戦に出る」
「何言ってるんだよ……お前も、あの嬢さま方と一緒にここに残りな」
「でも、兄ちゃんだって父さんだって戦うんだよ。あたし、張本の評判を取り戻したい」
リーダー格の銀樹が面倒そうに諭したが、まっすぐな黒髪をポニーテールにした志弦は聞かなかった。
「女が戦に出たらいろいろとアブねーじゃん。お兄ちゃん行くんだし大丈夫だよ」
清矢ものんびりとなだめた。すっかり仲間入りした充希が笑って言う。
「美人さんが狙われちゃうってのは清矢くんもだけどねん♥ お姫様扱いされてたくらいだし、いっそ俺の彼女って偽って、一緒に月華神殿まで逃げちゃう?」
まだ学生のみんなが清矢を、祈月家の行く先を心配して参陣してくれるというのに今更裏切るような意見だ。よっぽど騙されたことが悔しいのか、へらへらと清矢の肩を抱く充希に、詠はイラっとした。
「清矢くんは女じゃねえ! そんな男らしくないことはしねえ!」
充希は口角をあげながらも、目が笑っていない。
「でも生き残り策としてはいいじゃん」
文香がお茶をすすりながら「それなら志弦が男装したほうがいいよ」とまぜっかえした。確かに、そのほうがまだ敵を挑発しないだろう。
「えーっ、俺は清矢くんが女の子だったらガチ恋なんだけどな」
せっかくうまくまとまりそうだったのに、充希はふざけた態度を改めなかった。詠はとうとう堪忍袋の緒が切れてしまい、拳で膝を打つ。
「清矢くんが充希の彼女のわけねーじゃん! その話いい加減にやめろよ!」
「へぇ、詠ちゃん嫉妬?」
ちょっと空気がこわばり、清矢が真面目に説教した。
「詠、充希は俺のために危険もいとわずひとりで出てきてくれたんだぜ。故郷の月華神殿だって地元と争って大変らしい。魔術軍としての伝統を披露して、鷲津に一矢報いる。これは間違いなく、政治問題にもなるんだぞ。夜伽話なんかでもめてる場合じゃねえ」
詠は理屈自体は飲み込んでいたが、憤りをどうにもできなかった。清矢のために怒っているのに、どうして充希の味方をするのか。
充希が凄い妖刀を持っていて、『満月刀』の持ち主ですらあって、強くて清矢と対等で、難しい話も、くだらない話も、気が合っているようなのが悔しいのだった。
清矢くんはきれいだけど女なんかじゃねーのに。
情勢が不安になってきてから、清矢とはずっとしっくりいっていない。口では詠が大事だとか持ち上げてくれるが、調略についても黙っていたし、戦に行く決断だって、まず最初に詠に告げてほしかった。
誰よりも清矢のことをわかってるなんて、うぬぼれだった。
普段誇っている『親友』という肩書きがいかにも苦しい。二人きりのときにかけられる甘い言葉は、たんに機嫌をとっているだけじゃないかという疑いまで出てくる。
詠はむなしくなって、客間を出ていった。外に出て、蔵の壁に背を預けて、宵の空を見上げる。
星が出ていたが、それはぼんやり滲んで見えた。
しばらく夜気に触れて落ち着こうとしていると、志弦が様子を見に来た。彼女は女なのに精悍な顔をしていて、弓も詠よりうまい。学校の女子なんかよりよほど気が合った。詠は情けなく笑って言った。
「俺、やきもち焼いちまった。清矢と充希が仲良さそうだからってさ。まったく、男らしくねー」
年上の志弦は発破をかけるかと思われたが、となりに腰を下ろして理解を示した。
「でもわかるよ。自分が一番だって思ってたのに、そうじゃないって分からせられるのって悔しいよね」
そして膝を三角に折りたたみ、前のめりに突っ伏してつぶやいた。
「あたしも、夜空のことでそう感じてる」
「夜空……志弦にどう言ってたんだ?」
夜空は清矢の兄で、夏目雅の呪殺事件で世を儚み、志弦に手伝わせて祈月の家宝を海外まで持ち逃げした男だった。幼いころは皆に心配されていたが、今ではとんだ大悪党扱いである。利用された女は悔し気だ。
「必ず『新月刀』を持って戻るって。そして当主になって、祈月を変えて見せるって……とっくに笑い話だけど。信じてたのに、今まで音沙汰無し。残ったあたしのことなんかどうでもよかったんだなって思う。あんなに仲が良かったのにさ……」
志弦に夜空の話をすることは、誰もが遠慮していた。だから彼女の口から本音が聞けて、詠は安堵した。はっきりと言ってやる。
「夜空が祈月家の当主だなんて絶対認めらんねーよ」
「古老は、清矢が継ぐようにって言い出す奴らは不敬だって言ってたけどね。今はあたしも詠と同じ意見。もう六年だよ。いろいろ変わってくよ」
詠は、充希が男色なのか、清矢に本当に気があるのと志鶴に聞いてみた。志鶴は首をひねって、「でも充希あたしにも調子いいしね、わからない」と思案していた。
女子同士が相談してるあの空気のまま、志弦は核心を問いかけてくる。
「詠はどうするの? 清矢が充希といい仲になっちゃったら、それでも親友でいられる? あたしはもし夜空が戻ってきたとしても、前みたいにできる自信ない……」
詠は黙っていた。そんなこと分からない。やがて、銀樹がふたりを呼びに来る。
「戦で一緒の組分けだってのにケンカはよくないぜ」
年長の彼が、場を収めようとしてくれたのだろう。詠は「わかった」とひとまず反省し、話は終わった。
しかしその晩、家に戻って子供部屋で寝しなに、詠は志弦の言葉を反芻していた。
清矢くんに恋人ができちまったら。
まあ、望月充希は質の悪い冗談だとしてもだ。
ピアノ仲間の可憐さんは『戦に行くな』って泣いてた。清矢に昔、告白したこともあったらしい。その時は、家のことなんか理由にして断ってたみたいだけど。他の女の子だって、あんなきれいな清矢には惹かれずにいられないだろう。
清矢くんに俺より大事な人ができたら……俺はその幸せを親友として喜んでやれるのかな。大人になるってやっぱそういうことなのかな。
なんかメッチャ寂しい。
走り出した思考は止まらず、何度も寝返りを打ってその夜は更けた。