盛夏の夜の魂祭り(第三話)嫉妬の業火は諸刃の剣(2)
05 抜けば珠散る恋風魔風
十五にもなれば、男子も女子も色気づく。
彼女は今年の四月に、桜風のようにやってきたと、クラスメイトの高梨は言った。
どうにも十五にしては雰囲気が大人っぽい。細い体は均整がとれていて、胸も大きく腰も安産型だ。志弦だって見た目は非常に可愛いが、その子の目じりは長いまつげがスッと彩って、男を射殺す妖艶さがあった。首にまでおしろいをはたく薄化粧。細くてやわらかそうな猫っ毛のほわほわした髪。みつあみは緩く編まれて、野暮ったさというものがない。猫族の長いしっぽも、常にくるりと思わせぶりに巻いていた。
合唱でのアルトがまた色気があって溜まらないんだよなぁ、というのが高梨の言。玉砕覚悟で告白してみたが、「あなたとはお友達のままでいたい」と体よく振られたようだ。
友達が気にしている女だから、詠も少しは気にかけていた。今年の春に転校してきたその女は『みさき』という名前だった。
六月に入り、梅雨の湿気と夏の暑さで閉口する時期が来た。
彼女から結び文を渡されたとき、詠は驚いた。もしかして高梨との仲を考え直す気になったのかと、いそいそと和紙を開く。
『放課後、音楽準備室で待ってます』と書かれていた。詠は高梨には内緒にして、神兵隊の訓練に直行せず、音楽準備室に行った。
そこには吹奏楽部の楽器などもたくさん置かれていた。防音処理のされた縦四畳の狭い部屋で、めずらしく髪を結いあげた『みさき』は、信じられないことを言った。
「わたし、本当はずっと高梨くんより櫻庭くんが気になってたの。強い男の人が好き。ふつつかものですが、良かったら、付き合ってください」
彼女は少し斜に構えた普段の態度とは違って、きっちりと詠に頭を下げた。『返事はいつまでも待ってます』と謙虚に告げて、準備室を出て行った。窓からのぞくケヤキの葉が、瑞々しく健やかに見えた。
詠は驚きながら帰路につき、考えた。
高梨にはとても打ち明けられない。だが、普段しゃなりと色気のある彼女が、まるで大和撫子のように礼儀正しく申し込んできたことを思うと、「高梨に悪ィからさ」なんて単純に振ってしまっては悪いと思った。それにほかでもない高梨自身の吹聴で、彼女の魅力は理解してしまっている。
俺のこともカッコいいと思ってくれる女の子がいたんだなぁ、というのが、詠の素朴な実感であった。男としての自信を与えてくれただけで、『みさき』には感謝したかった。
自慢になるかとも思ったが、詠は清矢に相談してみることにした。渚村でみんなの耳に入ったら、冷やかされてしまうだろう。清矢を誘って、県庁所在地の松嶋市まで連れて行き、料金を払って「春宮」の庭園に入る。清矢は「今の季節は紫陽花がきれいだろ」と微笑んだ。そういえば、今年はここでお花見をしなかった。
梅雨の晴れ間で、わんと咲きほこった紫陽花は非常に豪華だ。花手水に手をひたしてはしゃぐ。柳の枝はすだれのように風のかたちを教え、合歓の木は夢色の幻想的な花を咲かせる。
『みさき』と来てみたらどうだろう、とフッと思ってしまって、詠は恥ずかしくなった。どうせ断るにしても、一回くらいデートをしたって罰は当たらない気がする。池のそばにあつらえられた東屋に席を取っていったん落ち着くと、詠は清矢に『みさき』のことを報告した。
目を輝かせて話に乗ってくるか、それともほくそ笑みながらからかってくるか。どちらかだと思ったのに、清矢は深刻そうな顔をした。
「そいつ一体何者だよ。四月に転校してきたって……そんな新参は信用できない」
思ったよりも辛辣な意見に、詠はむくれた。
「素性のわかったやつじゃねーと付き合っちゃいけねぇのかよ」
清矢は恋愛ごとになんか興味もないのか、上から目線で言いつけてきた。
「当り前だろ、俺たちの参戦それ自体が祈月軍閥の機密だ。絶対に断れ」
「そりゃ高梨に悪いから、ホントに付き合う気はねーけど……」
煮え切らない語尾に清矢がきつい目を光らせた。
「詠、これ命令だぜ。父上の軍閥の一員になるんだから、俺の言うことは聞いてくれ」
その一言に、詠はカチンときた。
何だよ、命令って。俺はちゃんと何でも隠さず打ち明けてるのに。ただ、いつも通り他愛ない話がしたかっただけなのに。
高次な話ではないのは確かだが、もっと親身になってほしかった。
「命令? ざっけんな! 俺たちは友達だろ! こんなことなら広大くんに相談すればよかった!」
清矢の肩を思いきりはたき、詠はその場を後にした。
相棒と頼む男は追いかけても来なかった。
詠はヤケになって帰宅すると『みさき』に返事を書いた。
『お互いの相性をしばらく試してから決めようぜ』。高梨は悔しがるだろうが、少しくらいなら分かってくれるだろう。
高梨は本当にいい奴で、「腕っぷしで俺よか詠か。畜生、幸せになれよ!」と目元をこすりつつ許してくれた。
『みさき』は詠が戦うところを見たいというので、神兵隊の練習場所を教えた。女友達と連れ立ってきて、若手は全員色めきたっている。付き添いの子も彼氏を探しているのか、「私たちと同じ年くらいなのに、皆さんすごいです。どんなメンバーがいるんですか?」と頬を赤く染めた。洋一は舞い上がって一人ずつ名前を挙げていった。
「あとは今日来てないけど、清矢とか。ピアノばっかで剣の腕はまだまだかな~。詠の親友なんだよな!」
何だか白々しい感じだが、詠は作り笑いでうなずいた。『みさき』が微笑みながら、詠の頬を突く。
「そっか。わたし、その子に会ってみたい。親友にも認めてもらいたいな、わたしが彼女だって」
こそばゆい気持ちがした。いつもは厳しい綿貫隊長も、「爽やかな、若人らしい交流だ!」と嬉しそうだ。戦の話なんか誰もしなくなった。そんな現実は存在もしないかのようだ。週末に、充希と連れ立って清矢がやってくる。『みさき』や他の野次馬たちがいるのを見て、一瞬目をすがめたが、何も言わなかった。その日は神兵隊の訓練に二組の客があった。遊びがてらの『みさき』たち。もう一人は、常春殿神官の葛葉寛だ。『日の輝巫女』と会話し、彼女の身辺の世話をするという罰当たりな役目を担っている。狐亜種で、昔から大社務めだっていうのに卑屈が染みついてしまったかのようなやつだ。
三白眼で、いつもせこせこと誰にでも腰が低い。『日の輝巫女』は魔物なのに、そんなやつにすら頭を下げている。
大社の仕事で会うと、必ず『ちゃんと常春殿の術はやってる?』とだけ話しかけてくるのもうっとうしかった。
「葛葉さん、どうしました。もしや『日の輝巫女』に異変ですか」
綿貫隊長が声をかけると、葛葉は『みさき』たちに目を止めた。
「『大巫女さま』に変わりはないですよ、それにしても、女人禁制とまでは言いませんが……なんで若い娘が大挙してここに?」
「詠の友達たちだそうです。見学して、親しみを持ってもらうのも良いと思いまして」
「へぇ~、まぁ、耀サマのころにもよくあったらしいですよね、そういう浮ついたこと。清矢くんいます?」
よりによって葛葉が清矢を指名したので、詠は口を出した。
「清矢くんに何の用だよ」
「お父上の軍勢の先行きがまた怪しいって聞いてます。良ければこれ、持ってってください。『
葛葉はそう言って、清矢に一束輝く稲を渡してきた。黄金色の稲がうすぼんやり発光している。清矢は受け取って手のひらに載せると、ためつすがめつ観察した。
「怪しいぜ、そんなもん」
詠があしらおうとすると、葛葉は逆に精米された完成品を押し付けてきた。
懐紙に丁寧に包まれたそれは、手のひらに乗った半透明にきらめく水晶のような米粒だった。詠は乱雑にポケットに突っ込んだ。
「また、貴重品の仙薬にそんな扱いをする。神兵隊では術の訓練は下火みたいですね」
「それ頼りになるのもいけませんからな」
憤慨ぎみの葛葉。小川先生が苦笑しながら説明した。『神稲』は大社祭神の加護がかかった稲で、服用すれば術のあと消耗された巫力(日ノ本では人間の魔力のことをこう言い換えることが多かった)を補填してくれるという。すっかり清矢の護衛気どりの望月充希は、葛葉なんかにきっちり九十度でおじぎして自己紹介した。
「望月充希と申します。月華神殿地方から、祈月の若君の窮地を救うため使者として参上しました。『神稲』は月華神殿でも作ってます。『日の輝巫女』について、教えてほしいんですが……」
葛葉ははじめ惚けたのか目をぱちくりさせたが、『満月刀』を見せられると普段はあまりしない講釈をはじめた。
「魔物といえどもあれを普段動かすのは歩き巫女だった『千秋』の精神。普段は高慢なだけの巫女さまですよ。まぁ戦時に焦りすぎる必要もないでしょう。今のところワタシが頭を下げるだけで満悦のようだし」
「よく、あんな魔物女に頭なんか下げれるな」
詠はずっと言いたかった皮肉を口にした。葛葉はくすくすと笑う。
「それだけであいつが人を食わないなら、ワタシは土下座でもなんでもしますよ」
いかにも厭味ったらしい返答で、詠は自分から喧嘩を売ったのに腹が立った。充希が深刻な顔で探りを入れる。
「月華神殿でも魔物を罪人の仕置きに使ってて、地元政府に問題視されてる」
葛葉はさばけた様子で言った。
「いや、問題視して当然だと思いますよ。必要悪だなんて私は思わない。ただ、常春殿も『日の輝巫女』を祓えていない以上、強くは言えないんだなぁ」
ちらり、と綿貫隊長を見る。猿亜種の公平がとんでもないことを言いだす。
「普段はあの巫女さま、魔物にはならないじゃない。どうしても俺たちが殺さないといけないの?」
詠はこの神兵隊に『日の輝巫女』を飼い続けようなんていう信じられない人間がいるものだと衝撃を受けた。誰も答えないので、清矢が単刀直入に聞く。
「葛葉さんの力では『日の輝巫女』を祓えないのか?」
葛葉は至極残念そうに言った。
「……それはね、出来ない仕組みになってるのよ。清矢くん、お父さんによろしくね」
葛葉は両手で清矢と握手すると、『神稲』を置いてそそくさと出て行った。隊員たちが剣舞や術を披露するたびに、女の子たちの黄色い声が響く。
訓練が引けるころ、『みさき』は清矢に話しかけた。
「わたし、詠くんの彼女の『みさき』。これからみんなで遊びに行かない?」
清矢は彼女の顔をまじまじと見て、すまなさそうに笑った。
「ごめんな、俺も用事があるんだ」
清矢はさっくりと断ると、充希と連れ立って帰って行った。洋一が顔をほころばせて「じゃあ俺たちとどっか行こう!」と『みさき』に話しかけている。蕎麦屋に行って腹ごしらえをして、思い思いの相手と別れた。『みさき』と二人きりになってひなびた道を歩きながら、詠は謝る。
「悪ィな、『みさき』。清矢ってけっこー忙しい奴なんだ」
「ううん。なんか、大変なことになってるんだね。『日の輝巫女』とか戦とか」
そのセリフはここ一か月の事件とは遥かに隔たった位置から発せられていた。ぱっと志弦のことが頭に浮かぶ。彼女は男装が必要とまで言われて、長い黒髪をばっさりと切ってしまったのだ。本人は首筋が涼しいと笑っていた。
『みさき』を改めて見てみる。
さりげない小花柄のブラウスにオレンジ色のカーディガン。ひざ下丈のプリーツスカートを履いて、普段は蓮っ葉にも見えるのに質実な格好だ。髪は結わずに垂らして、清楚な装い。彼女にふさわしい派手すぎないけど可愛らしい恰好。
……このままじゃあ危ないことに巻き込んじまうのかな?
悩みを忘れさせてくれる『みさき』の存在はありがたかったが、詠は自分が果てしなく間違っているように感じてきた。口からするりと言葉が出た。
「……あのさ、やっぱり俺たち、付き合うのやめようぜ」
「どうして? わたし、何か迷惑かけちゃった?」
「やっぱ高梨には悪ィし。俺、ホントは女の子と遊んでる場合じゃなくてさ……」
頭をかきかき言い訳すると、『みさき』は詠の胸に飛び込んできた。ふわりと甘い花の香り。額をちょこんと詠の心臓につけて、彼女は拗ねた声で言う。
「そんな簡単にフラないでよ。わたし、詠くんのためなら何でもするよ。詳しい話、聞かせてほしい……せっかく付き合えたのにもうお別れなんて、そんなの寂しい」
詠はドキマギした。何ていじらしい態度なんだろうと思った。手を引かれて、『みさき』の家に寄った。山の中にあるにしてはこざっぱりとしたモルタル壁の、モダンな文化住宅だ。誰もいないから上がってって、と誘われ、お茶を出された。『みさき』は台所に立ったまましばらく帰ってこない。緊張を紛らわせようと口をつけた。
そして意識が寸断した。
06 罰
目覚めると、寝袋の中にいた。全身に食い込んだ荒縄がぎちりと鳴る。後ろ手に手首を縛られ、その余りを胸から肩へと回し、上半身全体が極められている。ウエストを締めた縄を起点に両足も棒のように縛り上げられ、さるぐつわを嚙まされていた。脳内の眠気など一気に醒めて、詠は喉だけでうめき、全身をもぞつかせた。油っぽい匂いのする縄は動けば動くほど食い込み、肌に細かく擦り傷を作った。
詠は芋虫のような恰好でぼろぼろのベッドマットに転がされていた。周囲には酒瓶のラックがあり、米俵や缶詰が大量に置かれていた。コンクリートブロックを積んで作った壁には窓もない。床は簡単に木の切れ端を道なりに敷いてあるだけだった。かろうじて、立って歩けるだけの広さがある。酒樽まであることを考えると、どうやら食料備蓄用の地下室のようだった。ベッドマットはしんなりと湿って土のにおいが染み込み、昨日今日敷いたものではなさそうだ。
清矢の警告を思い出した。同級生に薬を盛って縛り上げるなんてのは、十五歳の普通の女子がする行いではなかった。『みさき』の裏には誰かがいる。少なくとも常春殿や祈月に好意的でないのも確実だった。
寝袋のまま寝返りを打ち、うつぶせて戒めの中でも指だけを動かす。そのうち、ガシャンと鉄製の扉が開く音がした。はしごで何人かが連れ立って降りてくる。特徴のない顔つきなのに、いやに逞しい男たちだけだった。最後から二番目にやってきた男はやけに優男で、前髪を長めに残した猫亜種だった。ひとりだけよそ行きの和服の中に立て襟のシャツを着込んでいる。江戸紫に、灰縞のノーカラーシャツ。今から盛り場に繰り出すようなしゃれた格好だった。
「君が『櫻庭詠』くん?」
その男は明るく、気さくな態度で話しかけてきた。猿轡をされた詠は返事もできずじっと眼にその男の姿を焼き付けていた。黙っていると、手下が勢いよく詠の頬を蹴り上げた。歯を食いしばって衝撃には耐えたが、ひりひりと痛みが張り付いたように残る。
猫亜種の優男はいきなりの暴力に顔をしかめた。
「……おっと、初手から手荒なのはよくないな。君が『櫻庭詠』くんかな? 首を動かすぐらいはできるよね?」
詠がうなずくと、彼は詠の前にしゃがみこんでにこりと余裕たっぷりに笑った。
「やぁやぁ、時は早いね。あの時魔物に襲われて泣いてた男の子が今はもう戦に参加しようだなんて驚きだ」
うまく思い出せなかったが、詠はうーうーと喉から声を出した。強面たちはそれ以上手を出そうとはしてこない。優男がどうやらこの一味の親玉のようだ。優男は言った。
「君と祈月の若君はずいぶん仲がいいみたいだね」
詠は鼻息を荒くした。否定しようにも、『みさき』が知っている情報はすべて筒抜けだろう。優男が含みのある笑顔で言う。
「でも勝ち目のない逃亡戦に未来ある若者を連れ出すだなんて、源蔵は巷で言われているほどの善人ではないよね。君らはまだ学生だ。大人しく家で宿題をやっててほしいかな」
戒めのない尾をばたんばたんと振る。口ぶりからして鷲津の者だ。手足が自由だったら今この場で組み伏せてやりたかった。
「一応聞いておくけど、こちら側に裏切るっていう気はある? そうすれば常春殿にも手心を加えてあげるつもりだけど」
男が目配せして、周囲の手下が動く。寝袋をはがし、猿轡を外された。詠はらんらんと光る目で男をにらみ、啖呵を切った。
「裏切りなんてするわけねぇ!」
唾を吐きだしてそう告げると、男は目の奥の温度を急激に冷えさせた。
「じゃあここに三か月くらいはいてもらおう。そうすれば少年たちの義勇兵なんて夢も簡単に瓦解する……それでは、さよなら。もう会うことがないことを祈るよ」
男はまともな会話をする気はないらしかった。詠は内心、冷や汗をかきながら黙っていた。「痛めつけますか?」と手下が聞いている。恐怖をあおるためか、手下は木のパドルを手のひらでパシパシと鳴らしていた。男は「私が見ている必要もないだろう」と冷たく言いすて、はしごに足をかけて地下室を後にした。誘いを断った詠のほうは一顧だにしなかった。三人ほどが男について出ていき、地下室にはパドルを持った坊主頭と猪首の男が残った。男はふたりとも革のパンツを履いていた。
「さて、可愛いお嬢ちゃんじゃないのが残念だが……手心はねぇぜ!」
うつぶせている詠の頭をまず猪首が強烈に踏みつける。こめかみが強く圧迫されて眼裏が真っ赤に染まった。坊主頭のほうはパドルを握りしめ、縄で戒められた下半身を狙った。一打目から何の容赦もなく、高々と振り上げて尻を叩く。ずぅん、と仙骨にまで響く痛みが重たく広い筋肉を痺れさせる。
「ひとまず三十までだ、頭は抑えておいてやるよ」
猪首が笑う。坊主頭は「二!」と軍隊式で数える。パドルが空を切ってひゅっと音をたてる。打撲は完全な力任せだ。尻は燃えるように熱を持ち、ビクンと痛みで背がのけぞる。詠がもがくたびに、猪首が頭をぐりぐりと踏みつぶす。かかとについた砂がきりきりと食い込んできた。
息がろくにできなかった。神兵隊に勤めたら拷問もするようになると聞くが、この程度でも確かに苦しい。生理的な涙がにじんでしまい、舌を噛まないようにするので精いっぱいだ。
――これは俺への罰だ。清矢くんの判断が正しかったんだから。
詠は思考を切り替えて耐えることにした。気が遠くなるほどの時間をかけて三十までの殴打が終わり、詠はぐったりと息をついた。じんじんと響く痛みがきつい。
すると最後に猪首が詠のズボンを下ろし、ひりつく尻を生で蹴り飛ばした。予見していなかった痛みをダメ押しで与えられて、思考がスパークして全身がのけぞる。
「はっ、カワイイまぁるい生っ尻だな。俺たちが男色でなくて良かったなあ?」
罵り笑いをして羞恥心まで煽りつつ、男たちは引き上げて行った。
あいつらは俺を殺すつもりだろうか。ぼんやりとそう思った。臀部に与えられたダメージは強烈で、今すぐ逃亡にかかれるとは思えなかった。だけどこの調子だと三か月無事でいられる可能性は限りなく低い。できるだけ早く逃げて、助けを求めないといけなかった。汚い手を使う鷲津軍閥に敵対心だけが育っていく。
ズボンも下ろされた屈辱的な姿のままで時が過ぎた。やがて、もう一度ガチャリと音がし、鉄製の扉から誰かが降りてくる。下っ端のひとりだった。唇の上に大きなほくろがある。帯剣していたが、詠のズボンを引き上げてくれ、暖かい粥も匙で手ずから与えてくれた。
「あの女、本物の中学生だと思ったか?」
藪から棒な発言に驚いたが、『みさき』のことだと合点し、詠はおずおずうなずいた。小男はくっくっと笑った。
「あいつ、もう二十も過ぎてるよ。年増の演技に騙されるたぁさすが童貞だな」
「『みさき』は鷲津で働いてんのか?」
「ん? まあ、教えらんねぇなぁ。泣いて頼めば一発ぐらいはヤラせてくれるかもしれねえがなぁ、坊主は見たところカネも持ってないだろ。あきらめな。どんな病気移されるかも知れねえぜ」
詠は複雑な顔をしてみせた。ほくろ野郎はさっきの奴らほど暴力的ではなさそうだった。卑しい笑いを引っ込めて、本音を語る。
「だけど戦に行ったって本当、ろくなことにならねぇぞ。さっきみたいにいじめられるし、死んじまったら元も子もねえ。ママに『嫌だ』って言うくらい何も恥じゃねぇしさ、勝ち馬に乗るのは大事だぜ」
「……そうかもしれねぇけど」
まったく本心ではないが、詠はうなずく演技をしてみせた。気が変わったように見せかけたほうが良さそうだからだ。粥を飲み込んでしまうと、男は用足しについて聞き、詠は下半身の縄を切られた。「我慢できなくなったらこの中にしろよ」と蓋つきの瀬戸物のポットを置いていく。
痛む尻に治癒魔法をかけようかとも思ったが、やめておくことにした。魔法が使えるということはぎりぎりまで隠すべきだ。魔術師に対する拷問は苛烈を極めるという。清矢ならこんな場合、一体どうするだろう? そう思うと取るべき態度が見えてきた。いったん折れたように見せかけておいて、逃げるチャンスをうかがう。自分にだって本心を見せないくらいの演技ができる男だ。親しい分焦れてしまっていたが、これからは見習わなくてはいけない。
救助に関しても望みがあった。最後に一緒にいたのが『みさき』だと、神兵隊の皆が知っている。遠波衆や、警察だって動いてくれるだろう。
生き延びなくては。そう誓い、詠はうつぶせになった。
ランプのか細い光のなかで、時間の切れ目は、ほくろ野郎の運ぶ食事だけになった。でも必ず温めた状態で運ばれてくるし、猪首や坊主頭がその役目を代わることはない。ほくろ野郎は何度も詠に裏切るよう言った。だが、詠はあいまいな態度を取りつづけた。鷲津への裏切りを了解して実際に事が運ばれてしまっては、清矢に会わす顔が本当になくなる。
どうやらこの地下室は、庭に掘られたものらしかった。天窓が開いてもそこから差してくる光はない。監禁場所に通じる部屋を暗がりにしておく道理はないし、雨の日などは水音まで聞こえた。ほくろ野郎は明かりをもって慎重に降りてきている。履いている靴はサンダルなどではない外履きだったし、実際土で汚れていた。
これはむしろ吉報だった。家の中に掘られた地下牢ならば、屋内を突破しなくてはならないからいきおい脱出は難しくなる。だけど外に面した庭ならば、追手さえ振り切れればすぐに自由の身になれるだろうと思った。
一日に一度、食事が与えられているとすれば今夜は五日目になる。地面にはこっそり指で正の字を書いていた。
「何かしたらもう一回お尻叩きだからな」
ほくろ野郎の警告に詠はおとなしくうなずいた。逃げるチャンスは食事時だけみたいだった。食事は満足に与えられていない。大人しく救助を待っていても、衰弱が続くばかりだ。
数えて六日目に、詠は決行することにした。
煉瓦のブロックに背をもたれて、沢渡マルコに教えられた基礎魔法の詠唱を行う。
「……四元素の原初たる炎の元素よ応じたまえ、我が爪先に焦熱し、燃焼系の
こんな世界の隅でさえも、魔素は使い手の願いに応じてくれた。人差し指にまとった炎でじりじりと縄を焼き切る。両手が自由になるが、縛られた圧迫感はなかなか消えなかった。はしごを上って鉄製の天窓を押してみる。外側から鍵がかかっているようだ。詠は降りてベッドマットに座った。
武器になりそうなものを探す。麦酒の空き瓶などはよさそうに思えた。それを携えて寝袋の中に納まり、眠らないよう数をカウントしながらじっとその時を待つ。
ゴゥン、と重い音がして、今夜は坊主頭が降りてきた。詠は寝袋にくるまりながら、坊主頭を見た。ぴったりしたシャツにワーキングパンツ。よく鍛えられた逞しい肢体を見せつけるかのような薄い衣服だ。そしてあの木製パドルを腰にぶら下げていた。だけど武器を隠している今では、いかにも無防備に見える。
「顔を上げろ」
そう言われて、詠はうつぶせたまま顎をあげた。傾けられた椀から粥を飲み込む。給餌が終わると、坊主頭は腰からバラ鞭を外した。
「吐くなよ」
ほくろ野郎とは違ってこいつは詠をしっかりといたぶるつもりらしかった。詠は寝袋のジッパーを内側から開けはなち、坊主頭が反応する前にその頭に瓶を振り下ろした。
がしゃああん、と派手な音を立てて瓶が割れる。凶器となった瓶を真っ直ぐに突き出して、鋭利な断面で顔を突き刺した。坊主頭は攻撃にもひるまず、肘裏で受けて体を前のめりに折る。手首をもっていかれそうになり、詠はあわてて両腕を開いた。前屈した顔面に膝蹴りを見舞うが、坊主頭は後ろ受け身を取り、キックで股間を狙ってきた。腿でガードし、斬りつけるように再度瓶をふるう。
坊主頭はしっかりと格闘訓練を受けている感じだ。ろくに食べてもいない詠がまともに争っても勝ち目は薄いと思った。だから後ずさって瓶を振り回しながら、簡単すぎる詠唱を叫んだ。
「夜を呼び出す魔法の呪文、NightyNightyNightly!」
「Night」という闇魔法の短縮形だと習っている。
坊主頭は児戯かこけおどしだと思ったろう。その瞬間、彼の目の前が真っ暗に眩んだ。濃い闇は上半身を包んで、引きはがそうとしても絶対に離れない。パニックに陥った坊主頭はやみくもにパンチを繰り出した。
盲目となった敵。完全に詠の手番だ。詠は腰を落として頭から突っ込んでいき、両脚をごぼう抜きにしてテイクダウンを狙った。押し倒してから、みぞおちの右に容赦なく幾度も肘鉄を見舞う。肝臓を撃たれてぐふっとうめき声が上がり、抵抗のなくなったところで離れて、一目散にはしごを上った。
坊主頭はまだ追ってはこれない。鉄製の扉を閉めて、外から錠前もかけて、夜の庭をひた走った。空は真っ暗で、月あかりしかなかった。母屋は地下室からそんなに離れてはいない。庭は25メートルプールが二つも入りそうな広々としたものだった。追っ手のかからないうちに木戸口を通って道路に飛び降り、マラソンの速度で走り続ける。靴を履いていないので足裏が痛かった。道路の横には山と、その裾野に田んぼが広がっていた。水路に落ちないよう気を付けて、あぜ道を行く。離れれば離れるほど有利になる。
ズボンのポケットから『神稲』を探し出し、ひと匙分くらいのそれも飲み込んで、かみ砕く。ただの硬いコメのはずなのにほのかな甘みがあった。噛むほどにひんやりとした涼味が口の中ではじけた。空腹は全く満たされないが、心地は健やかになった。
一本道をひたすら進む。空が白むころになると、そのうち街が見えてきた。詠は希望に向かってもう一度走り始めた。
派出所を見つけて、飛び込んだ。詰めていた憲兵たちに誘拐されたと訴えて、保護される。昼頃には母と清矢たちが迎えに来た。清矢は伊藤敬文を引き連れ、学校帰りの制服のまま隙のない表情だった。元気そうなその顔を見ると詠の胸には達成感があふれた。
「清矢くんごめん、俺……」
「今は何にも言うな、怪我はないか」
謝りながら駆け寄ると、清矢は心配そうにさえぎり、ぎゅっと真正面から抱きしめてくれた。ほのかな薄荷水の香りも、その重みも懐かしい。詠はすぐ甘えたくなる気持ちを抑えて、清矢の肩に触れていた。
引き渡し中、詠を落ち着かせるために清矢はぴったり隣について、いろいろ話してくれた。詠が帰ってこなかった翌日から捜索が始まったこと。「みさき」を追ったが彼女の家はもぬけの空だったこと。透波漣や天河楽器店、魔法大学や神兵隊の仲間たちも協力してくれたこと……。
詠は焦る気持ちで報告した。
「俺な、鷲津の人間と思しきやつに会った。俺たちのこと知ってた」
「澄名考かもな。大社基地跡の血戦のときに俺たちのことを嗅ぎまわってた」
すかさず清矢は答えた。聡明で、物覚えもよくそつがない。それに比べて、見え見えの美人局に引っかかった自分。詠の口ぶりは重くなった。
「清矢くん。俺足引っ張っちまった」
「いや、俺も悪かったよ。詠に上から命令したりして……俺たちそんな関係じゃないってのにな」
「うん。親友……だ」
心の支えにしていた存在が目の前にいるのに、いざ関係を言葉にしようとするとまた口ごもってしまった。清矢は詠をじっと見つめてくれた。詠は少し視線を反らしながら弱音を吐いた。
「でも、やっぱ充希のほうが頼りになるんだよな。格好いいし、腕だって立つし、頭も悪くねぇみたいだ」
……俺みたいに馬鹿じゃねぇんだ。
いつもは軽蔑している卑屈な物言いになった。
「詠、そんなこと言うな」
隣に座る清矢は、詠の肩をぎゅっと引き寄せた。母親たちも手続きが終わったのか戻ってくる。清矢は慰めてくれたけれど、詠の憂色を完全に払うには足りなかった。
07 午前二時のロマンス
詠が戻ると同時に、徐敬文は清矢たちをふるさとから別の場所に移した。清矢たちは軍閥の逃亡のために葛葉たち常春殿が用意したルート上、布引天神の神社にまとめて伏せられることになった。詠は生まれて初めて本物の軍議というやつに参加した。
旗揚げのころから祈月源蔵に付き従っている関根、張本の両雄だけではなく、新顔が何人かいた。きっちりと隙のない狐亜種の西行英明、猫亜種のワイルドな伊達男、北条直正。ほかに狸亜種の小笠原時雨など、今までの武闘派と比べると雰囲気が違っていた。
「……という訳で、清矢さまを始めとした渚村と常春殿の若者たちで、殿軍を務めてもらう予定だ。鷲津の伝統的な術嫌悪と、これまでの我々との戦いぶりからして、敵軍に汎用魔法や術による攻撃に対する備えは一切ないとみていい。逃げる本軍に対してなるべく強烈にやってもらう。追撃の気をなくさせるのが狙いだ」
伊藤敬文が作戦を話し終わると、斜に構えた感じの北条直正がいきなり文句をつけはじめた。
「上手くはいきそうだが、初陣から
それは当然の懸念だった。同じく席についている張本も関根も微妙な顔つきだ。しかし、あの白のロングコートを羽織った清矢は堂々と言った。
「父上が死ぬくらいなら俺が行く。それに、まだもう一人息子はいるから」
結局こんな修羅場まで付いてきてしまっている望月充希が問いただした。
「それってどういうことなの」
文香がうんざりした顔でごまかした。
「夜空っていう兄が、ロンシャンに留学してる」
それで一応、北条直正も納得した様子だった。
「絶対あたしが清矢を守り抜いてみせるよ!」
志弦はもう夜空の名を出されても何の屈託もないみたいだった。息巻いている少女に、父親である猛将、張本忠義が泡を食う。
「あのよ、俺も清矢たちと残るぜ。娘に後を頼んで、自分だけとんずらなんて情けなさすぎる」
「新兵のみの軍を殿に当てるなど正気の沙汰ではないです。歴戦の張本殿が中心になってくれて初めて、許可できる作戦ですね」
表情を変えずうなずく西行英明はいかにもまとめ役という感じだ。殿に据えられた忠義は犬耳を掻いて敬文と清矢の二人を心配そうに見た。
「でもよう、清矢、大丈夫なのかよ。魔法で敵と渡り合おうだなんてさ……そんなの、結局は皇太子さまたちの真似した芸事に過ぎねぇだろ。人質にでもなって手間かけさせるってんなら、源蔵兄貴と一緒に逃げてくれたほうが、俺たちも安心なんだがな」
それは全員の本音だろう。数十分後、彼らは清矢の術の威力に驚くことになる。沢渡マルコが魔導書片手に教えた『リュミエールドイリゼ』は、光系列の大魔法で、実際には魔物にすらまだ使ったことがなかったが、充分に戦術に数えられる広範囲の制圧術だった。猫亜種の北条直正まで、目を焼かれて辛そうだ。逃亡の折には布引天神の神官たちも雷を降らせてくれるという。詠は充希とともに最初の大魔法詠唱まで清矢を守る役をもらった。
ついに本物の『戦』に参加するんだ。
詠の闘志は激しく燃えていた。清矢は祈月次代に相応しい毅然とした受け答えをしてくれた。憧れのヒーロー、『輝ける太陽の宮』耀サマの孫。京人形のような端正な美貌で、剣を臆さず取る清矢ほど詠を煽るものはない。清矢がもう充希のほうを相棒と認めていようが、その路傍の一石となれるだけでも実際、構わなかった。
その日は興奮して眠れず、雑魚寝の大広間から抜け出して、砂利を敷いた庭園で月光の下、素振りを繰り返した。本戦が迫っている。悪あがきだろうと、地道な一打一打を積みあげる以外に、出来ることはなかった。
足さばき。急所を狙う刺突への薙ぎ払い。さまざまな場合を想定して、詠は剣技を練り上げる。清矢を守るには剣だけでもダメだった。防御魔法は詠のほうがすぐれていると、沢渡マルコだって太鼓判を押してくれている。広い物理結界を、前面に張り巡らせる。詠唱を繰り返し、剣で印とともに透明な壁を展開する。下がるうちに再度攻撃。夢中になっていると、清矢も起きたのか、縁側から庭に降りてきていた。
「清矢くんも眠れねぇのか? ちょっと訓練に付き合ってくれよ」
詠が精いっぱい明るく告げると、清矢は寝間着のまま傍にやってきた。そしてくすりと笑って、詠の汗を指でぬぐった。
「そんなこと始めたらますます眠れねぇだろ。寝床に戻れ……あと、その前に話がある」
「話? えと……俺また何かやっちゃった?」
「詠が『みさき』なんて女に釣られちゃったのは俺のせいだから」
清矢は沓脱石に座り込んで、膝に頭をもたせかけている。思ってもみない論理に詠は驚愕した。清矢は充希に対しても受け入れるまでが慎重だったし、伊藤敬文が来てからと言うもの、落ち度なんて何もなかったはずだ。
綺麗な顔を憂鬱に曇らせて、寂しそうに清矢が言う。
「俺は詠をついに戦場にまで引きずり出しちまう。それなのに話にもちゃんと取り合ってやってなかった……ずっと、俺に不満だったんだよな。ホントにどこも怪我はないのか? やせ我慢なんてするなよ」
詠はしょんぼりと狼耳を伏せた。
「ちげぇよ。俺はただ、清矢くんと離れるのが嫌だっただけだ。だから戦場なんて怖くねー。『みさき』については騙されるほうがアホだったってだけの話だ」
たとえ失態がきっかけで、ともに上る階段のステップが違ってしまっても、追えるだけついていきたい。今の詠は反省ののちそういう心境になっていた。清矢はまっしろな素足で砂利まで降りてきた。そして憐憫たっぷりに、「馬鹿」となじる。
「俺が女の子だったらお前『みさき』なんて奴に騙されなかった?」
「せ、清矢が女の子だったら……やべーよ。俺も絶対恋してた」
「守ってくれた?」
詠はうつむいてしまう。清矢がどうして女の子なんだよ。清矢が男の子だから、好きなんだよ。耀サマの孫を守るのに男も女も関係ねぇよ。そう思ったが、いざその仮定を想像してみるとドキマギした。
「あんな女より俺の方が何倍も詠のこと好きだし、愛してるよ」
清矢はあっさり甘いセリフを言ってのけて、悲しそうに笑った。
「俺もたいがい、女々しいんだ。思い残すことがあったら良くないと思うから言っとく。俺の弱点は詠だよ。詠が一番大事で……傷つけたくない。命令なんかしてごめんな」
詠は頬が熱くなるのがわかった。詠が欲しかった言葉そのものだったからだ。清矢は詠の左手をぎゅっと握りしめ、涼しい目線でじっと詠の心臓を射抜いた。
「そんだけ。あんま気にしないでくれ」
詠は何も答えられずに突っ立っていた。
いつも凛としている清矢。かっこよく伊藤敬文をのした清矢。ピアノがうまく、ときに酷薄な王子のように命じてきた清矢。
それがあんなに弱弱しくも直球で、情を向けてくれている。
『みさき』に告られたときよりもずっと、男冥利に尽きるという感情が胸に染みた。眼の底までじんわりと熱かった。
たとえ広大くんに気色悪いって言われたって、俺は……!
寝床に戻ると、清矢は詠のとなりで静かに瞼を閉じていた。詠はそっと額の前髪を払ってやる。そして母のようにそこにキスした。いつも清矢がしてくれるように、できるだけ優しい声色で、告げる。
「清矢くん、俺も同じ気持ちだ」
自分もこんな猫なで声が出せるんだと驚きながら、詠は清矢の寝顔を眺めた。
「いつだって一番最初に命令してくれ。俺、それでも平気だぜ。だって俺たちはちゃんとひとつだったんだから」
一世一代の詠の口説きを、清矢はもちろん聞いていた。何も言わずに目を開けて詠を下からかき抱く。詠は以前より何倍も強くなった気持ちで、清矢に体重を預けた。
08 笠間橋の攻防
主だった長クラスの者こそ意気盛んだったが、父たちの軍は前哨戦から打ち続く戦闘で疲弊していた。恵安県から湖を回り、一直線に古都まで駆ける。そこでは軍事施設のひとつ、清涼殿や虎雄氏が匿ってくれるはずだった。だが、源蔵は負傷兵たちもその家族も残らず連れて行くと言い張った。馬車や乗合自動車には負傷兵や非戦闘員である女子供までが満載され、歩みは必然的に遅くなった。
カバーのために車を二台。それに馬車一台、替えも含めた馬が十頭。清矢たちに与えられた脚はそれだけだった。志弦は男装していたから一見少年に見えたが、それでも長銃を与えられていた。しゃがんでの遠距離射撃だけを求められている。
清矢たちは途中から父親たちの軍の移動に帯同し、笠間橋付近で敵を待ち伏せることになった。仲愛山と天鳴山をはさんで流れる遊馬川を渡り、山越えが叶えば、清涼殿まではあと一息だ。
笠間橋は全長246メートル、幅員幅員36メートルの鉄橋だった。伊藤敬文はまず橋の西側、つまり鷲津が追ってくる側に「通行止め」の縄を張り、橋の東側に防御陣を敷くよう、張本忠義に求めた。入口に設置する地雷と同じ役目を、清矢の術式が担う。
草笛で祖父があつらえた戦衣はリバーシブルになっており、裏面は目立たない濃いグレーだった。祈月の新月紋は黒で刺繍されている。おとりには神兵隊の洋一がロッドまで持って文吾とともに正面に配置され、清矢はやや離れた位置からあらかじめ魔素チョークで書かれた魔法陣を詠唱で展開させる。残されるのは二十四名。八名一組で分隊を組み、三交代制でローテーションを組む。
任務は橋の防衛。単純だった。父たちの一団が笠間橋を通過し終わる。
そして清矢たちの戦が始まった。
三時間後、時刻は四時半。単眼鏡をのぞいていた兵が敵襲を宣言した。うっそうとした山道を抜けて、ついに鷲津軍が姿を現した。敵はウーズレーCPトラック三台、それを改造した装甲車一台だった。縄など切りすてて、黒々とした車体を光らせながら追ってくる。
詠は剣を抜いて、かぶった麻布を持ち上げて調節しつつ清矢と同じ方向を見た。
ぶつぶつと詠唱が始まる。
「蒼穹の空に横たわる、忌まわしき虹蛇。だがそれは無限の色彩として現れる、大気に満ちみてる希望の光。あまねく織られし清らかなる帯となりて、悪しき敵を虹のかなたへ……輝け! リュミエールドイリゼ!」
清矢は魔素チョークで落ち葉の下に書かれた線をマンゴーシュで突いた。魔法陣が描かれた橋桁へ、術師の魔力が伝わる。虹を織り込まれた織られた帯のような光束が、波打って輝いて敵を浄化せんとする。
高純度の魔素が光となって敵車両を襲う。味方兵はみな、首を伏せて炸裂に備えた。音もなく光帯が車両を通過した瞬間、肌や目を焼かれて混乱した兵が何人も橋桁に転がり出てきた。
「もう一発か?」
詠は清矢に聞く。特殊紙に魔法陣を書いたマジック・カードがあったから、確実に追撃はいける。だが、敬文から合図が入った。敵軍掃討の指示だ。清矢たちは麻布を放り出し、洋一たちの隊に合流した。
術式のいくさの皮切りは、清矢の甲高いテノールだった。
「追悼曲だ!」
ダメ押しのライトニングボルトも地をえぐりつつ直進して、タイヤを射抜かれた追手は完全にまごついてしまった。志鶴も肩に担いだ狙撃銃を撃ち、敵勢を牽制した。
あわただしく響くのは広大のハープ。混乱と一瞬の酩酊を誘い、文香は大きな白狼の姿のまま、犬歯をぎらつかせだらだらとよだれを垂らしている。笠間橋はまさに死地となった。
「装甲車一両にトラック二台、敵はざっと四十五。中には銃持ちもいる」
愛用の両刃剣を片手に、徐敬文がぴったりと清矢の横につく。そう分析しつつ舞うようなステップで敵を逆手で仕留めていく様は、第一印象とは違って決然としていた。詠は貸してもらえた魔法剣を握り、右手を天にかかげる。
「日光凝集!」
剣の中に組み込まれている陣形がうなりを上げ、体を通って右手に殺到する。全身の血管が洗われるような圧倒的な震え。それを筋力と度胸で押さえ込むと、直径一メートルの炎球が凝縮してくる。詠はそれをトラックの運転席に向かって投げかける。
「投擲!」
神兵隊に伝わる炎の術だ。携えている魔法剣は、黒々としたオブシディアンで作られた、通称黒耀剣。耀が使っていた装備だという。厚い刃にはいくつもの術式が内包され、綿貫洋一が持つ輝かしい翼を模した柄の直剣とはまた違う。フロントグラスは業火の熱でひしゃげ、顔面に直撃を受けた運転手は無事ではいられないだろう。仲間の洋一と文吾も負けじと同じ術を行う。
「日光凝集ぅーーーー、投擲!」
こんどの火球は詠のものよりも一回り小さいながら、装甲車の機銃口を狙っていた。弾丸は軌道を反らされ、火球に銃口を押さえられて暴発してしまう。荷台に乗せられていた兵たちが焦ってばらばらと降りてくる。
トラック一両につき十三名の歩兵が乗っている計算だが、連携は破壊されてしまっていた。銀樹が家に伝わる二枚刃重ねの特殊サーベルで空間を異次元で切り裂いている。兵たちは面白いように足首を持っていかれていた。
仲間の善戦に詠も奮い立ち、大声で名乗りをあげた。
「俺が祈月の盾となる! ここは絶対防衛圏っ!」
「討ち取れ!」
運転席から苛立たし気な号令が響き、無事だった敵兵が四名も群がってくる。詠は黒耀剣の柄を握りしめ、「月光凝集!」と叫んだ。切れ味が魔素で倍加され、どんどん視界が冴えていくのを感じる。
サーベルを振り上げる脇。槍の穂先を突き出す腕。甘い剣先などはじき返し、すべてを狙い通りに切れる。アーマーでは防ぎきれず、返り血が飛んで頬を汚す。骨にぶつかり、肉を断つ手ごたえ。数に勝る敵をあたかも主人公のように切り伏せる爽快感。
しかし、黒装束の詠の腿を後方から鉛玉が襲った。詠は痛みに耐えながら魔法障壁を発動する。正気に返ってみれば、乱戦でむやみに突っ込んでしまった形だ。後退するしかないが、背を向ければ危うい。
冷や汗をかいた詠の頭上で、ざっと空がかき曇った。
「
助けに来てくれたのは充希である。
「交代だよ、詠ちゃん!」
軽快に言って、駆けだして追手をひきつけてくれる。詠は腿に応急処置のヒールをしながら下がろうとするが、魔素ダメージがあると思しき雨を苦にせず猛然と追ってくる一人の将がいた。兜の下の、手負いを逃さんとする怒気の表情はすさまじい。
「詠、とどまるな! 俺の傍に帰ってこい!」
清矢の呼び声がした。顔を上げると、紋章入りのマンゴーシュを口元にかかげて何事か詠唱している。詠は両目を閉じて己の感覚の信じるまま直走した。
「フラッシュ!」の号令とともに強烈な光。相対した将は眼底までしたたかに焼かれたはずだ。清矢は詠と入れ替わりざま懐に飛び込み、敵の長銃をマンゴーシュの刃でひっかけて暴れさせた。射撃を封じ、利き腕に装備した長剣でがら空きの喉元を貫く。
詠は知っていた。清矢の試合でのとどめは常に無慈悲だ。剛腕でねじ伏せるのではなく、無駄のない動きでためらいなく一点を突き通す。防具があっても肝が冷える、百獣を統べる王者の剣。
今は、技を競うだけの試合ではない。だから敵は死んだはずだ。柔らかな顎の下から一気に脳を串刺しにされて、将はひとたまりもなかった。清矢のすぐ隣で敵から奪った短銃を使っていた敬文がすぐ怒号めいた鬨を上げた。
「遠藤成親破れたり!」
名の知れた人物だったらしい。腹を蹴り離された躯がくずおれると、激高した護衛が銃剣で清矢の脇腹を狙った。敬文は即座にその男のこめかみを銃底で殴りつける。詠もけがの痛みなど忘れ、反転して華奢な相棒の援護に移った。もはや脚の痛みなどには構っていられない。
「後退! 後退!」
装甲車に隠れていた兵が悲鳴じみた声をあげる。鷲津軍は、源蔵たち本軍の移動に即応した先発隊長が討たれてしまい、出鼻を完全に砕かれてしまった。
生き残りは銀樹の操る異次元の裂け目に足をとられそうになりつつ逃げだした。狼と変じた文香が動物の敏捷で追い立てる。こちらも幼馴染ならではの息の合った連携だ。神兵隊ふたりの援護射撃も見事だった。
普通なら一隊にひとつのレベルの豪華な術式がぞろりと清矢を守っている。
「ば、化け物めっ! 魔物だ、あれは!」
恐れながら手持ちの銃弾を乱射しつくした男は天をののしったが、志弦の狙いすました射撃で肩を射抜かれた。娘とともに最後尾に構えていた歴戦の壮士、張本忠義が吠える。
「いいぞ、鷲津の奴らを追い出しちまえ! 独りも逃すな!」
その檄で萎えかけていた祈月兵たちの戦意も奮起した。残り少ない弾を撃ち、刃こぼれした剣戟をふるう。詠も再度前線に向かおうとするが、敬文が止めた。
「……あとはほかの兵たちに任せて、みんなは少し休憩だ」
遠藤成親の率いていた四十二名の小隊は全壊といっていいだろう。魔力を行使した戦闘は派手だが消耗も激しい。葛葉差し入れの神稲を食み、皇太子直属近衛兵の末裔たちはいったん下がった。
翌日の新聞には祈月軍勝利の報が躍った――軍閥のスポークスマンである西行英明は責任をあくまで鷲津軍に被せた。任務完了につき移動するだけだったのに、追ってまで戦闘行為をしかけてきたのは鷲津軍のほうだと。用意周到な西行は、鷲津たちを「国軍」と称することはなかった。彼らも正規兵だけを使っているわけではないために、祈月や虎雄と同じ、一軍閥に過ぎないという認識でいかなければならないらしい。清矢たちは念のため二日間笠間橋を守りとおしたが、魔法の炸裂を恐れてか追撃はなく、本隊を追ってすみやかに合流できた。
伊藤敬文の望んだ結果は雑誌のコラムが語っていた。祈月氏が行ったという魔法攻撃と、その残虐性への疑問、そして正式装備の必要性である。清矢たちはそのころ、清涼殿方面の虎雄氏本拠、山城県にてすでに父親より激励を受けていた。
再会は、父も息子も両方戦衣をあらためないままだった。親しみやすくも、どこか品のある風格をもった祈月源蔵は、殿軍の帰還をねぎらい、張本忠義とは堅い握手をした。
源蔵は清矢をまぶしげに見ながら聞いた。
「怪我はないか」
「俺は無事です。詠をはじめ、皆がよく働いてくれました」
名前を出されて詠は恥ずかしかった。源蔵はすぐに眉根を寄せながら次の質問をした。
「いくつになった」
清矢は澄まして答えた。
「十五です」
答えを聞いて源蔵は唇を噛んで嘆いた。
「私でさえ初めて戦場に立ったのは十九の頃だと言うのに、世はますます混迷しているのだな……しかもそれは、わが軍でのことだという」
「父上のお命危険とあれば、この祈月清矢、一本の征矢となりていつでも参上いたします」
清矢は父の悲しみに付き合わず、勿体を付けてそう言うと、血まみれの姿のままかしづいた。源蔵は苦虫を噛みつぶしたような顔つきだ。
「戦ではずいぶん魔法で敵兵を破ったようだが……母親に生き写しのお前が、武器をふるうところなど本当は見たくなかった」
「いえ当然です、それこそが祈月氏に生まれた者の運命」
源蔵は笑ってみせる息子をじっと見つめていた。父子の感情はどこかすれ違っているようにも思える。伊藤敬文もこの戦の立役者だが、頭を上げようともしなかった。褒められることもなく親子の会話が終わり、詠はあっけに取られてしまった。
参謀陣が頃合いを見て各々動き始める。
「清矢さま。此度のご活躍はお見事でした。源蔵さまが築かれる真に平和な世の到来のため、引き続きご尽力ください」
殿軍を待って布引天神にとどまってくれていた西行英明が礼をする。
伊藤敬文もようやく顔を上げ、腕組みして言った。
「これで、汎用系魔術の実戦投入時代が封切られたわけだ。清矢さまはまさにその象徴……御身の安全は、単なる情を超えた意味がある。詠も充希もほかのみんなも、頼んだよ」
西行の通り一遍の謝辞よりもずいぶん本質に踏み込んだ内容だった。詠たち若手は神妙に礼をとる。参謀は源蔵を別室に連れて行き、武官たちはすぐに持ち場に戻った。戦勝ムードとは程遠い。どうやらまだ軍議は続くようだ。
詠は銃弾を摘出する手術を受け、志弦に付き添われて休むことになった。手柄を自慢し合う空気ではなく、黙っていると充希がやってきた。
救ってくれた恩着せがましさも見せず、枕元にどさりとあぐらをかくと、相変わらず飄々とした口調で切り込んでくる。
「これで清矢くんは名実ともに祈月の跡取りとしてデビューしちゃったワケだけど、ロンシャンに留学してる『夜空』って方はどうなってるの? そこ、放置してると鷲津に利用されちゃわない?」
幼いころは助けに行くと無邪気に言えたが、今となってはそれが難しいこともわかっていた。看病についていた志弦が声をひそめて明かす。
「あたしもそれ、ずっと気になってるんだよね。だから戦に行く前、悔いにならないようにと思って、大学に頼んで夜空へ手紙を出してみたんだ」
詠は驚いた。張本家はこの娘も含めて誰もが武芸一辺倒のような気がしていたからだ。慌ただしい中でそんな策を実行していたとは甚だ意外だった。
「……詳しく聞かせて」
充希の声色はきわめて深刻だった。