盛夏の夜の魂祭り(第四話)草迷宮の開く宵(1)

1 恋ゆえのあやまち

 古今東西、恋のパワーとは恐ろしい。
 初恋の僧に会うために八百八町を炎に染める、それだけの危うい熱意に満ちている。

 恐ろしい術師が渚村を襲った悪夢から数日後。夏目雅は幽明の境を漂っていた。
 幼い夜空は泣きじゃくり、夏目屋敷に泊まり込んで、実の息子の文香や、奥方と交代しつつ昼夜の看病に臨んだ。志弦は夜空の側仕えのような役割を内輪で与えられていたから、自然夜空とともに、夏目雅の看病にあたることになった。
 鷲津への人質は清矢が御庭番衆の家柄のピアノの先生に付き添われて行った。

 深夜未明、夜空と志弦は雅の布団の傍らにいた。雅がうなされ、夜空を呼んだ。

「夜空……! 夜空。大事ないか」

 雅はそう言って身をよじりながら起きあがろうとした。志弦はあわててその広い背中を支えた。

 夏目雅は狼のような厳めしい顔のつくりをした、優しい巨人であった。渚村の御庭番衆の子供たちに術や書道を教え、農作業や仕事のかたわらに預かりもしていたから、村でも感謝され、尊敬されていた。

 中でも夜空については、次期祈月家当主だと見込んで、子供たちの中心において可愛がっていた。

 粗末な野良着に身を包んだ夜空がぱっと顔を上げる。

「どうしたの、古狼! 痛いの? すぐに薬とってくるよ」

 雅は息も絶え絶えに断った。

「いや……この心臓の痛みには、鎮痛剤が効かないんだ。全身が重い。もう魂がちぎれそうだ。三島の呪殺は恐ろしき術。鷲津はどうなった」

 夜空は聡明な声ではきはきと答えた。

「清矢が代わりに人質に行ってくれたよ」

 夏目雅は青い顔色でうなずいた。

「源蔵が国軍なんかに志願するからこうなる。国軍も常春殿も、結局は同じだ。最後にはこうして裏切ってくる。夜空……お前は、軍には行くなよ」

 志弦も泣きそうだった。どうして鷲津は協力してくれると言ったのに、三島を差し向けてきたのだろう。その息子だという零時は、安部神社に泊まって、夏目の私塾に通ってきていた。みんな親切に面倒を見ていたが、それは偵察だったのだ。夏目雅は水を所望し、夜空が吸い飲みを使ってたどたどしい手つきで飲ませた。

 夜空は大きな目に涙をいっぱいに溜めて、問いかけた。

「俺も結城博士みたいにロンシャンで勉強したら、戦なんてしなくても済むのかな」

 雅の表情はその思い付きを聞くと少しやわらいだ。

「そうだな、ちょうど疾風が帰ってきたところだし、入れ替わるのもいいだろう。そうすれば耀さまのしたような行いに手を染めることもない」

 大きな口にわずかな微笑が浮かんだ。雅はおもむろに夜空の頭をなでた。

「行け。ロンシャンに……祈月の次期当主として恥ずかしくないようにするんだぞ。『新月刀』は持っていけ。あちらでは辛いことも多いだろうが、古狼はいつも、応援してる。そのことを忘れるな」

 雅はそう言って、今度は志弦を見た。

「志弦。文机まで行きたい。夜空も、力を貸してくれ」

 大柄な老人が力を振り絞り、畳を四つん這いで動く姿を見て、志弦は絶望していた。胸の疼痛に耐える姿を見かねて、夜空は無理はよくないと言い聞かせた。だが、それは怒りを含んだ眼差しで叱咤された。夜空はときおりしゃくりあげながら、命じられるままに硯で墨をすりはじめた。

 実際、雅の執筆は長時間に及んだ。痛みにうずくまりながらも、強い筆致で最後の言葉を書き残していく。夜空がどんなに手伝うと申し出ても、代わりに筆を執ることは許さなかった。

 思えば、その時にすでに夜空と志弦のふたりは、厳しくも温かかった夏目雅の逝去を悟っていたのだった。

 ハープやピアノや手習い、日本刀の扱い。夏目雅は泣きごとを許さず、責任感をもって夜空の教育に取り組んでいたから、ふたりともそんな師匠の姿を心に焼き付けようと真剣だった。

 幾通もの遺言書を書き終えたあと、夏目雅はもう一度這って寝床まで戻ってみせた。

 仰向けになってうつろな目で、最初に夜空へ封書を渡した。

「他の者には見せるな。掟が守れないなら、御庭番衆を率いていく資格はない」

 夜空はうなずいた。

「志弦。お前はロンシャンには行けないかもしれない。だけど、いつでも夜空の味方でいるんだぞ」

 志弦も深く頭を垂れた。やがて鶏が鳴きはじめ、交代の時間がきた。

 文香と奥方が朝支度をはじめ、夜空たちは汁かけ飯をかきこんで、まだ生暖かい寝床に入った。

 志弦は痛切な想いで切り出した。

「夜空、ロンシャンに行っちゃうの?」

「わからない。でも、それで祈月が戦をしなくなるなら……考えてみるべきだと思ってる」
「そうしたら……私と一緒には生きていけないね」

 志弦は隣に敷かれた布団に横たわって、ぎゅっとシーツを握りしめた。

 夜空は恋心を告げられたにもかかわらず、存外冷静に言った。

「そうかもしれないな。俺が武芸に励まないから、志弦のお父さんは不満あるみたいだし」
「寂しいよ。あたしも連れて行ってよ! 結城先生の留学には、天河さんの息子さんたちもついていったんでしょ!」
「ロンシャンで俺が志弦を守り切れるかわからないよ」

 夜空は志弦の激昂に身体を起こして、人差し指を唇にあてた。震えて泣く志弦をなだめつつ、高い声で恨み言をつぶやく。

「どうして父上は戦ばかりするんだろう。どうして母さんが病気だっていうのにずっと家に帰ってこなかったんだろう。今の状態じゃあ、宮様なのは結城家だよ。おばあちゃんが言ってたけど、耀が死んじゃったから、春宮の経営まで弟の結城瑞樹さまが継いじゃったんだって。本家はすでに逆転しちゃってるんだ。森戸さんも諦めなって言ってる……俺、やっぱりロンシャンに留学する」

 清矢は九歳という幼さだから分かっていなかったが、これが十一歳の夜空の本音であった。

 実母の雫は二年前に他界していたし、姑のさくらとは折り合いが悪かったから、清矢を産んでからはほとんど実家に下がりきり。夜空は賢い少年だったから、ばらばらな家族にはずっと思うところがあったのだった。離縁したも同様の状況で、姑のさくらがそれでも夜空を預かり、手伝いをさせるかたわら、子供が知るべきではない事情まで愚痴りすぎていたのも良くはなかった。

 夏目雅はその後、床から起きあがることはなかった。三日後に葬儀が行われた。葬式で失態を犯したとみられた夜空は反発していた結城家に預けられ、自分も留学したいとさんざんだだをこねた。

 長い留学から戻ったばかりの疾風はちびっ子相手の塩梅が分かっていなかったのだろう。真に受けて、当時の学長に話を通し、ホームステイを決めてしまった。夜空は、祈月氏の証となる品を持っていきたいとねだった。それ自体は源蔵の叔父である結城瑞樹に認められた。

 慌てたのは実母の生家、草笛家だ。夜空の愚痴にあったとおり、結城家は春宮の経営権を相続したから、ほとんど本家格だ。御庭番衆として、瑞樹の命令には従わなくてはいけない。

 祈月家の蔵は、代々夏目氏が管理していたが、雅が亡くなってしまったために、祈月源蔵の舅・草笛宗旦が鍵を開けた。

 宗旦は夜空と志弦を連れて、はじめて蔵に入った。そこにあったのは輝かしき宮家の歴史の集積だった。

 草笛は呉服屋ではあったが、近年穀商の利根川家と張り合って舶来品や骨董も商っていたから、美術品の由来にも非常に詳しかった。美品で残っている花鳥図の屏風や、香池財閥から嫁入りがあったときの婚礼道具などをじかに見て興奮しきりである。

 夜空はさりげなく聞いた。

「おじいちゃん、『新月刀』はどこ?」
「『新月刀』か。耀さま以降、源蔵が嫌って使っていないからここにあると思うが……おお、これが本刀だぞ!」

 桐箱からその短刀を持ち出し、宗旦はほれぼれとうなずいている。そして夜空たちに効果を説明した。

「これが祈月の当主刀、『新月刀』だ。相手を切りつけて魔力を吸い取れる。悪しき魔術師を罰するのに使う刀なんだ。危ないから、決して刀身には触らないようにな。古狼から仕組みは聞いてるか? 外部の人間には話しちゃだめなんだぞ……」

 宗旦は声をひそめて刀の秘密を教えた。歴代当主が継承してきた呪いの小刀。絶大な力を行使する代償として、襲名儀式で体の一部を捧げるのだ。

 初代季徳公は左目を。その後に嘉徳親王がわきの下を。そして、耀が心臓を。息子に先立たれた正徳公が、はらわたを。源蔵は父と同じく心臓を捧げたという。

 志弦は仲間に入れてもらえた喜びと、この後行う裏切りに引き裂かれそうになりながらじっくりと見入った。

 志弦の父は、犬亜種で、源蔵とは高校時代に知り合った新参である。だから父も兄もまったくその刀のことを知らなかったのだ。

 下緒は紅、白、藤紫の鮮やかな組紐。柄は赤く染めた鮫肌。黒くつややかな鞘に玉虫色の螺鈿が埋め込まれ、桜吹雪を表している。背後には、金の蒔絵で描かれた右弦の太い新月紋。伝説の武具は何とも典雅な佇まいだ。

「きれい……」

 その美しさに、思わず感嘆がもれた。夜空も神妙な顔でその刀を眺めている。宗旦が注意をする。

「だけど、吸った魔力は神泉で洗うか、使い手の身体で再吸収するかだぞ。正徳公は最後の儀式に耐えられず、亡くなられたらしい。孫の源蔵に穢れを残したくなかったのだろうな……さ、刀についてはこの程度だ。次はハープを見せてやる」

 宗旦は、子供たちの企みなど知らず、親王愛用のハープ、季徳公謹製の四面の扇、正徳公が嫡男・耀のために作ってやった新月紋の陣羽織二着などを取り出して見せ、志弦にも宮家の歴史がわかるように詳細な説明を加えた。

 その時手はずどおりに店に勤める小者からの呼び出しが入り、宗旦は夜空たちを置きっぱなしにしたまま、蔵を後にした。

 志弦は、説明を受けたものを探し出してすべて夜空のリュックに詰め込んだ。陣羽織だけはどうしようもなかったが、夜空がひそやかに耳打ちしてくる。

「俺、陣羽織を持っていくって言うよ。そうすればさっきの品の上に敷いて、全部隠せると思うから」

 志弦はうなずいた。ばれたら自分が叱られるつもりでいた。お仕置きで忍びの透波衆まで落とされてもいいと思った。それが夜空への自分の想いを証明する行いなんだと、強く思い込んでいたのだ。

2 The Letter From Longshang

 駅近くのビルの一室に、祈月軍閥の面々が居並ぶ。時は、笠間橋の追撃戦から半月を数えていた。
 地元陶春県から呼び出された結城疾風教授が盟主・祈月源蔵の隣に座り、夜空についての報告をしていた。

「志弦ちゃんからの手紙を転送石経由でロンシャンアカデミーに送ったところ、クリスタルウィングの教会の住所から手紙が来ました」

 源蔵は結城博士より手紙を受け取り、出席者に回し読みさせた。

『志弦へ

俺は今、ロンシャンのゴールドベルク氏の庇護下にいる。
十一歳のときに不法入国で結城先生の知り合いのところを追い出されたときに、力となってくださった方だ。
その時に亡命手続きをとり、奇跡的にロンシャンの国民となれた。
今は、ロンシャンジェネラル・ハイで医者を目指して勉強中だ。
同じような境遇の仲間もいる。
六年前の約束についてだけど……日ノ本はまだ内乱中で、とくに祈月氏の命運は風前の灯火だと聞いている。
祈月の次期当主は俺だ。俺がいるところが、すなわち祈月のあるべきところなんだろう。
古狼も、日ノ本を出るときにそう背中を押してくれた。
だから……『新月刀』は戻せない。
どうしても相談したいというのなら、志弦も亡命をしてほしい。
ロンシャンで結婚ができれば話は早いけど、俺たちは年齢がまだ足りないし、どうやって家族として経済を立てていくかという問題がある。
君の一生を決める選択だ。よく考えてみてほしい。

After Katastrophe 1308, July 23th
Yozora K Kigetsu』

 手紙をむさぼるように読んだ張本忠義は、湯気でも出そうなほどに激怒した。

「夜空って気でも違ってるのか? 志弦をロンシャンに亡命させるって!? 俺たちの戦いはまだまだこれからなんだぜ! 『新月刀』返しやがれってんだ」

 親王愛用のハープなど、蔵からのほかの失せ物については言及もされていなかった。清矢はあらためて兄からの手紙を読んで、無表情のまま隣の草笛広大に回した。従弟の広大は、なんとかこぎれいなブルーブラックの筆跡を幼いころの記憶と一致させようと頭をかかえている。

 多分に清矢派である伊藤敬文が口火を切った。

「亡命したわりには、権利だけは主張したいってところかな。既に鷲津の息がかかっている可能性もある。源蔵さま、ご決断を願います」
「ご決断とは?」

 いかにも食わせ物といった態度で、猫亜種の北条直正が聞きかえした。敬文は少し北条をにらんで、はっきりと言い渡す。

「夜空どのの廃嫡です。家督を悪用されかねない」
「俺ぁ賛成だぜ。夜空の盗みのせいで志弦はずっと悪く言われてきたんだ」

 張本忠義がぶっきらぼうに賛成する。伊藤敬文は正面切って清矢を見る。

「清矢さまはどう思われますか」

 清矢は睫毛を伏せて強い言葉での糾弾を避けた。

「……夜空なりに考えがあるのかもしれない」
「だけど、それに皆が賛同するとは限らねぇぜ、清矢くん!」

 神兵隊から出席を許された詠が、ガタンと立ち上がって反論する。空気が熱くなりかけたが、渚村代表で参加している風祭銀樹が皮肉って急所を突いた。

「そんで? 兄を押しのけるってのか?」
「俺にはその気はない」

 用心深い清矢は涼し気に否定してみせた。対して、夏目文香もこれまた怒り心頭に達している。

「御庭番衆の家柄として言わせてもらう。俺は大変な時に蔵泥棒した夜空なんか担ぐ気にならないよ。父が『ロンシャンに逃げろ』って遺言したからって、それが何だっていうの? 自分の間違った行動の責任まで押し付けるつもりなの? マジでいい加減にしてほしい」

 共犯の志弦は言い訳はしなかった。批判覚悟で立ち上がり、自分の気持ちを吐露した。

「何もかも知らずにロンシャンに逃げてる夜空には、もう当主の資格はないと思う。あたし、古狼の遺言を素直に信じてたけど……全部間違ってた。あれは盗みだった。取り戻したいよ」
「……若い世代はそう言ってますけど? 清矢さま?」

 北条直正はどこか楽しそうに水を向けてきた。清矢は軽く北条を見返す。

「全て父上が決めることだ」

 源蔵は清矢を見つめて、ため息をついた。

「当面、世継ぎは清矢とするが……継ぐためには、自身の行いの正しさで夜空を納得させなくてはならないぞ」
「清矢さま、よろしくお願いいたします」

 返事を待たずに、参謀格筆頭の西行英明が座ったまま話を引き取り、一礼した。この決定は覆されることはないだろう。源蔵は厳しい表情をやわらげ、若い世代を見回す。

「みな、他に何か気になることはないか? このビルで雑魚寝は辛いだろうが……できるだけ待遇は良くしたいと思ってる」
「土御門家」

 文香がひとことだけ言った。新顔の参謀たちの反応が薄かったため、自分で説明を始める。

「俺の父を呪殺した術師、三島宙明の本家です。清涼殿地方に居座って虎雄との同盟を模索するなら、彼らの動きは押さえないといけないと思う」
「何か伝手はありますか?」

 西行英明が聞くと、文香はうなずいた。

「三島宙明の兄が現・土御門家の当主のはずだ。そこに魔力婚で嫁いだのが、渚村の永野松宵ながの・まつよい。父の事件のときも土御門家にいたはずだよ。以来、里帰りもしてないけど……」
「人質に取られてるというワケですか?」
「いや、単に古狼の件で顔が出せなくなってるってだけ。まだ鷲津側についてるのか、そうでないのかだけは確認しないとダメだと思うな」
「最低限中立はほしいところだ」

 北条直正が机を指でたたきながら同調する。参謀たちのため、源蔵が補足をした。

「三島宙明本人は裁判もやり直しになって今は服役中だ。鷲津には尻尾切りをされたわけだな」

 西行英明がうなずきながら話を進める。

「その件、若手に頼めませんか? ただ山城県に滞在しているだけというのも飽きが来るでしょうし」
「必ずや、調略を成し遂げてみせます」

 清矢は代表して神妙にそう言った。軍議の話題は虎雄氏との連携のほうへ比重が移っていった。

 十九畳のワンフロアにカーペットを敷いて布団を雑然と並べたのが清矢たちの屯所である。軍議に出席していた者たちが帰り着くと、充希がちょいちょいと肘で脇腹をつついて絡んできた。

「清矢くん、『新月刀』すら失せてること俺に黙ってたね……?」

 清矢は軽く謝る。

「ごめん。お前と並び立つような資格ないのかもしれないけど」

 充希は布団に座ったまま、清矢の頬にちゅっとキスした。

「仕返し。まったく、後で絶対いろいろ払ってもらうから」

 詠が怖い顔で仁王立ちする。

「それどういう意味だ?」

 充希はけらけら笑ってふいっと立ち上がり、自分の布団のほうへ去っていく。
 一部始終を見せつけられた詠はどっかりと清矢の横に座りこんだ。
 そして顎で外を示す。

「清矢くん。話ある」

 もう詠との間に溝を作りたくない清矢は黙ってついていった。ロッカールームに連れ込まれて、むっとする夏の熱気のなか、正面から抱きすくめられる。詠の、銭湯上がりのさっぱりした匂い。作務衣姿で大きな体を少し丸めて、ぎゅっと抱きついてきた。

「すまねぇ。またつまらねぇ嫉妬しちまった」
「詠、大丈夫だぜ。あんなのはたぶん冗談だよ」
「わかってるけど、ヤなんだよ」

 石鹸の匂いをさせたまま、詠が頬と頬をくっつけてくる。唇ももちろん当たってしまっている。腰の緩やかなカーブをきゅっと掴んで、少しの隙間も許さないと言わんばかりだ。清矢は高鳴る自身の鼓動を聞いた。落ち着いた吐息が軽く耳にかかる。詠はぴったりと影のように清矢に貼り付く。

 夏の麦畑みたいな、どこまでも蒼い爽やかな詠。ちょっとだけ汗くさいけど、キラキラな笑顔で相殺する。心配になるほど気前がよくて、夢中になったら突っ走る。

 十五になって背が伸びて、男らしい体つきになった。人好きのする笑顔はそのままで、頼れる骨太さも備えた。単純でカラッと明るくてとびきり熱い。

 そんないじらしい男が、恋をしたという。美人局だったわけだが、だから清矢もその女が憎かった。こんなに可愛い詠を弄んだんだ。地獄に堕ちりゃあいい。

 関係にヒビが入って、仲直りをした。以前のようなベタベタした距離の近さが戻ってきた。清矢は安心するとともに、自分のずるさを感じていた。俺は、詠が好きなんだよな。

 それもたぶん恋って方向で。

 充希が来て、女なら嫁にもらいたいって言われて、全く気色悪いとは思わなかった。そっちとばかり仲良くして、詠を放置した。新しい友達が嬉しかったためでもあるが、何より興味だ。男同士の関係が本当に恋になりうるのか。

 充希の戯れに隠された本心は知らない。けれど、楽しく付き合っている間に、詠が誘拐されてしまった。一番大事なはずの相棒を、蚊帳の外において、まんまと奪われた。参戦という自身の軽薄な決断も心から悔いた。そのあと失恋した詠に甘く抱き締められて、涙が出るほど嬉しかった。

 でもこんなじゃれ合いは、詠にとって幼なじみの毛繕い以外の何でもない。友情にだって恋愛みたいな湿っぽいところはあるんだから。

 じゃあ。いつか来る未来に、詠から嫌われないためには。

「詠。今ので嫉妬収まったろ? じゃあもう離れて」

 清矢は明るい声でそう言って、トンと詠の肩を押した。詠はしばらく清矢の肩に両手を置いたまま、もじもじとしていた。軍議のことについて話題を変える。

「あの……祈月の跡継ぎになるんだよな? 俺、夜空じゃダメだと思うよ」
「俺はどっちでもいいけど」
「清矢くん。俺には本音を話してくれ」

 詠がまたずいと顔を近づけてくる。清矢は口を割った。

「そりゃ俺が継ぎたいけど、序列ってものがあるだろ。それに家宝はほとんど夜空が持ち出した……これじゃあ当主争いは必至だ。まずは夜空と話し合わねぇと、どうしようもないよ」
「俺……俺、清矢くんに祈月家の当主になってもらいてぇ。そのために力、尽くすよ。清矢くんに、仕える」

 詠にとってそれは大きな決断だろう。対等だった親友という立場から、主従になるのだ。詠は少し肩を丸めて、ニッと笑って言った。

「常春殿の結界術ももっとがんばってやるよ。どんなに強くっても、充希にはそれはできねぇだろ? 清矢くんのためなら、俺は命張れる。だ、だからさ……誓いのキスしようぜ」
「誓いのキス? そんなのダメだろ!」

 清矢は驚いて突っぱねた。口ごもった詠は、けもみみを愛らしく寝せてじっと「待て」をしている。黙っていると堪え性のない詠は正面から顔を擦り付けてきた。頬に柔らかい唇がかする。清矢は顔の間に手のひらを割り込ませて拒んだ。詠が表情を曇らせる。

「なんで? どうしてだよ清矢くん」
「詠。主従ってそういうものじゃねぇだろ? 父上と張本さんがそんなことやってると思う? 誰にも示しがつかねぇぜ」
「だ、だけど! 充希とはいいのに? なぁ、清矢くん……!」

 だって充希とは互いに本命じゃないし唇にしたわけじゃないじゃねぇか。そう思ったがピュアな詠は怒りそうだ。清矢は精一杯恰好をつけて微笑んだ。

「自分のこと粗末にすんなよ、詠」

 そう言ってやりながらも、心臓がバクバクと重苦しく打っていた。だってもうすぐ恋人同士のように口づけをしてしまうところだったのだ。清矢は詠を愛していたが、主従の契りは主従の契りであって、おふざけでしていい行為ではない。そのふたつを取り違えて、詠の大切な貞操を奪うなんて、仁者のすることではなかった。逃げるようにロッカールームを後にする。戻ってきたことに気付いた充希が「どんな話だったの?」と探ってきた。

「全部俺が悪いって話」
「ふーん? 何かあるんなら言ってね」

 細部を相談する気には、さすがになれなかった。

3 お嬢様、求婚する

 清涼殿に受け入れ協力を申し出た祈月軍閥は、清涼殿内の練兵場を使えるようになっていた。そこは築地壁に囲まれた綺楼傑閣で、庭園南側に池を掘らず練兵場に仕立て上げたという代物だ。飛び地の築山には松が植わり、奇岩も集められて、花の終わった杜若がつややかな葉を伸ばす背後に、そろそろ薄が侘びを添えようとしていた。市街警備が主な役割なのか、壁の外には駐車場も備え、門前には街路が広くとられてあった。城塞に近い常春殿とは違い、防御力なんかなさそうに見える。

 結城博士が、清涼殿神兵隊員も含めた軍人たちに基本的な汎用系魔法の講義と、実践訓練を行っている。

「汎用系魔術は、古くは竜語を魔術式として応用していったもので、海外では使用者が多いです。言語音そのものに魔力が通じ、魔術式詠唱とはつまり竜語詠唱のことです。ただすでに純粋な竜語ではなく、人に作られた造語や文法、公式も多い。術式は電算プログラムに似たものだと思ってください。最初に魔術場を形成し、その中で計算や命令を続けていく……しかし我々は魔素に恵まれたホモ・ファシウスですから、そんな御託よりは、まずはスターターを持って基本最小詠唱をしてみましょう。最初は炎属性からいきます」

 小さな魔石をはめた指輪を配られた兵たちは、おのおの順番に、炎、水、風、土、光、闇の六属性の基本最小詠唱をはじめた。炎と闇を発現させる者、一種類がやっとの者、三属性以上を発動させて得意がる者、風だけを懸命に繰り返す者、どうも天性の差がありそうだ。

 渚村出身者や常春殿神兵隊は二度目の講義だったが、おとなしく従っていた。清矢は水、風、光が発動し、詠は炎と闇の一般的な組み合わせ。草笛広大は特筆すべきで、炎、水、風、土、闇の五属性が発動していた。

「おれっち、これだけは一等抜けてるよな~!」
「君は……ああ、草笛広大くんか。御庭番衆の面目躍如と言ったらいいか。隊員にスカウトしたいくらいだ」

 清涼殿神兵隊長の新発田が大げさにほめる。
 広大は少し伸びてきてしまった髪をごしごしとかいた。

「お、おい! 俺でも『炎』が発現したぜ! すげぇな!」
「自分、清涼殿所属なんですが、『風』の発現がないんです……! ああ、やっぱり汎用系でも駄目だったか」
「発現した『水』って、飲んでも大丈夫なのかな?」

 訓練は物珍しさもあってワイワイと盛り上がっていた。そんな中、訪ねて来る人がふたりいた。
 陶春県松嶋市の結界をつかさどる安部神社の神主、安部帰明。
 彼は土御門家の親戚であった。結城博士はとなりに歩み寄ってきた人影を認めると、笑顔であいさつした。

「帰明様! それに楓さん。ご足労いただきありがとうございます」

 楓と呼ばれた佳人はしっかりと口上を述べた。

「此度の戦勝、おめでとうございます。陶春県より帰明さまを連れてまいりましたので、ご挨拶に伺いました」

 彼女の名は、久緒楓。
 長い黒髪はまっすぐに流れ、眉は濃いめで、くっきりとした目鼻立ちが凛とした印象だ。
 竜胆の花咲き乱れる絽の着物に、勝ち虫の飛ぶ夏帯を締めて、水晶の帯留めが涼しい。風が駆け抜けていくような爽やかな出で立ちだった。結城博士が腰に手を当てて再度声をかけた。

「楓さん。お久しぶりです」
「相変わらず疾風さんは緊急時だというのに落ち着いていらっしゃるのね」
「ピンチの連続でもう慣れましたよ」

 初対面の充希が清矢の小脇をつつく。

「うっひゃー、美人さんだぁ。清矢くん、お知り合い? 俺にも紹介してよ」
「陶春在官の海軍大佐の娘だよ。『男だったなら』って親に嘆かれるくらいしっかりしたお嬢様だ。渚村の白透光宮家御庭番衆たちも一目置いてる」
「へぇ~、高嶺の花ってわけか」

 噂話をしていると、楓は遠巻きにしている清矢のほうにしずしずと向かってきた。品のあるしぐさで清矢の手をとる。

「清矢、無事で何よりです。逃亡戦では勇敢な活躍だったと聞いています」
「詠や充希や、広大たちが助けてくれたおかげですよ。俺だけの手柄じゃない」
「けれど、草笛の音曲魔術だけでなく、汎用系魔法にも秀でているというのは、生まれ持った才能なのでしょう」

 楓はツンとした雰囲気を崩さず、無理に笑おうとした。清矢は違和感を覚えたが、手をとられたまま応対用の笑みを作った。楓は決然と表情をひきしめてうなずくと、少し震えながら言った。

「あなたは白透光宮嫡流。そして、草笛の音曲魔術も、汎用系魔術もできる。まさに、御庭番衆筆頭の鷹匠を祖とする我らが久緒氏の婿にふさわしい人材です。どうか私の婿となって、祖父の屈辱を晴らしてはいただけないでしょうか」
「えっ……と」

 充希に続けて楓からも求婚である。兵たちのどよめきが波のようだ。

 清矢はさすがに驚いて固まってしまった。陶春松嶋市、安部神社の神主である安部帰明サマが背中をどついてくる。

「貰えるときに貰っておかんと、儂のように一生独り身じゃぞ。何、年齢差など気にするでない! 楓さんは今回の清矢の勇気ある参陣に感じいったそうじゃ!」
「むろん、清矢の成長は待ちます。わたくしとでは七歳差……しかし陶春地方の政情は急を告げています。地元の名家である白透光宮本家と久緒氏の婚姻こそ、みなが待ち望んだ安定をもたらすのではないでしょうか」

 結城博士は露骨に嫌な顔をした。

「うーん、宮家関係に嫁ぎたいなら、源蔵さんだってやもめだし、私だって独身だし、別に清矢じゃなくてもいいような気はするけど……」
「清矢はわたくしの言うことを聞いてくれますね!?」

 ややヒステリックに、楓が叫んだ。

 久緒家は楓のセリフにあったように、もと宮家の鷹匠だ。土着してからは海軍に出仕し、祖父・俊光の代に少将まで上り詰めた。両家の関係は深く、祈月耀が常春殿から誅殺されたおりに、同じく『日の輝巫女』によってかみ殺されたという不吉な事件が起きていた。次代・宗光も祈月氏に遅れて海軍に出仕し、『淦呂の乱』、『呂壱侵攻』、『鷲津・遠山の血戦』という難局を乗り切ってきている。鷲津の威光は海軍までには行き届いていないとみえて、先の血戦を越えても、まだ国軍に籍を置いていた。

 年上とは言え、彼女との婚姻には政治的なうまみがありそうだった。

 それに、今までの恩がある。家同士の付き合いは深く、楓自身も母を早くに亡くした清矢に対して、姉分として立派にふるまってくれていた。

 だが、もちろん素直に「うん」とは言えなかった。結城博士が言ったように、関係者なら二人も胸が空いている。清矢はたじたじとなりながら尋ねた。

「楓さまの求めることとは……?」
「もちろん陶春地方の安寧です。そのためには鷲津勢力の弱体化と『日の輝巫女』の撃破が悲願です」

 それは清矢も求めることではあった。結城博士があきれ返ってたしなめる。

「あのねぇ……清矢はまだ十五歳でしょう。はっきり言って子供ですよ。楓さんが結婚に焦っているのはわかるけど、強引じゃないですか」
「何をおっしゃいます! 殿御なら、三十二の『若様』が十八の娘に求婚したって擁護されるじゃないですか!」
「はぁ? 私は学生諸君に色目なんか使ってませんよ! 教え子と結婚する先生についてはどうかと思ってますし」

 喧嘩が始まってしまったので清矢はあわてて間に入った。

「ち、ちょっと止めようぜ。俺は大学には行くつもりだ。楓さまをかなり長く待たせることになっちゃうんじゃねぇかな?」
「白透光宮本家はそんなに久緒との婚姻が嫌なのですか?!」

 答えづらい問いを突き付けられて清矢は絶句した。となりに居た広大がせこせこ謝る。

「楓さま、申し訳ありません。清矢については、源蔵さまを通してからにしてくれないと、跡継ぎなんで、困ります。それに清矢なんかよりは結城先生のほうが……」
「疾風さんは主家である祈月家を裏切る不義ものではないですか!」

 楓がまなじりを吊り上げる。幼い夜空に当主刀をつけてロンシャンに送ってしまった失態を責めているのだ。地元の政治に責任感をもつ彼女は、疾風のそのふるまいを当時から公然と批判し、縁談も破談としていた。疾風が珍しく食ってかかる。

「夜空の件は反省していますよ。だから大学のつとめの間を縫って、三島宙明を捕えたり、調略に協力してる。結城家にとって外聞の悪い評判を広めないでください」

 結城博士と楓は互いに睨めっこをしている。渚村出身の風祭銀樹が手をあげた。

「なぁ、結城先生。俺たちはもう基本最小詠唱なら済ませてる。安部様も来たことだし、ひとっ走り土御門家のやってる薬局とやら、冷やかしに行ってきちゃダメかい?」
「儂と楓さんはこれから旅館に入るんじゃぞ。まぁ、偵察に行きたいなら好きにすればよいが」

 夏目文香が素早くガッツポーズをした。彼らは連日軍閥の一員として訓練されているが、本来はただの学生なので、そろそろ息抜きがほしいのだろう。隊長の新発田は苦虫をかみつぶしたような顔をしている。清矢は自分も体よく抜け出すことにして、わざわざ詠に聞いた。

「詠はどうする?」
「行くに決まってんだろ!」

 自棄になったような返事がきた。
 綺麗どころと少しでも話したいのだろうか、充希は知らんぷりを決め込んでいる。

4 母になれなかった女

 土御門家当主に嫁いだ永野松宵ながの・まつよいは、薬局『清明堂』で渚村の面々による訪問を受けると、困ったような顔で応対した。
 白狼亜種で、段をいれたショートヘア。一重の瞳が奥ゆかしく、身重なのか下腹が膨らんでいる。
 『清明堂』は、古都の風景に溶け込む昔ながらの生薬屋であった。店の中は土間づくりで、天井近くには『良薬済世』の額。壁面には飴色の引き出しがぐるりと並んだ。その上には硝子の丸瓶が置かれ、「葛根」「桔梗」「爪呂根」と一つ一つにラベルが貼られて、丁寧に分類されている。西洋医学の薬も買えるらしく、カウンター奥の硝子戸の中には琥珀色の薬瓶や未開封の注射器がものものしく鎮座していた。
 生薬のつんとくるの匂いの中で、永野待宵はやんわりと笑った。

「皆さま、お久しぶりですね。でもまだ営業中なんですけど……」

 夏目文香がカウンターにもたれ、絆創膏を会計しつつ問いかける。

「待宵さん。夏目雅の息子の、文香です」
「文香くん、お父さんの件については、ちょっと……」
「今はそれよりも別の用件なんだ。土御門家の状況について教えてくれない? 俺たち、お店が退けるまで待つからさ」

 清矢、詠、広大に、文香と銀樹と、若い男子が詰めかけているせいで、薬局内は混みあっていた。奥に居座っていた薬剤師とおぼしき白衣の男性が裏側に引っ込んでいく。
 しばらく個人の備えのために包帯や傷薬を発注していると、裏から電話か何かで呼ばれたのか、白い狐耳の生真面目な感じの少年が店に足を踏み入れた。
 栗色の髪を眉毛の上で切りそろえ、少し小柄で、姿勢がいい。どこか世を憂いた表情のはかなげな少年は、学生服に身を包んだまま、小綺麗な笑顔で言った。

「わざわざいらしてくれたのはありがたいんですが、店と関係のない用件ですよね? お帰りいただければ」

 清矢は振り返った。銀樹が斜に構えて言いあてる。

「お前さん……覚えてるぜ。三島宙明の息子の零時だろ」

 零時! その名で文香も広大も凍りついた。夏目雅の事件の際に、安部帰明の神社に居座って、渚村の私塾を探っていた間者だ。

「待宵さん、渚村に帰ろうぜ。鷲津清隆のやってる軍閥潰しは単に藤内政権の後追いだ」

 清矢が説得する。零時はカウンターの前に割り込むと、丁寧な口調で断りを入れた。

「今は、土御門家は術師としての活動はしていません。その手のお話についてはお引き取り願います」

 清矢たちは帰るそぶりを見せない。薬局に他の客はおらず、不穏な空気が流れた。零時はついに地を出して、険しい表情で世相を皮肉った。

「故郷を追われたと思えば、次はこの地にまで戦火を広げようとしてるんですか?」
「言うに事欠いてそれかよ! 自分のしたことには悔いはないってのか?」
「自分のしたことって何? 僕は父さんと違って、術で人殺しなんかしてない」

 零時の父に自分の父を殺された文香にしてみたら許せない言い分だった。
 まさに、逆鱗に触れたといってよかろう。学問には熱心だが、どちらかというと気が強い向きのある彼が、胸倉へと掴みかかる。カウンターに押さえつけて、どっと頭突きをしてにらみつけると、危機に狂った鼠が何匹も集まってきて、文香の身体を駆け上がり、腕や尻尾に噛みついた。
 『生類使役』。契約を交わした動物を操る。三島宙明が使ったのと同じ術だ。
 文香も負けじと溶けるように白狼そのものの姿へと変じる。人間の形が光り、溶けるように狼の輪郭が現れた。皮膚からぶわりと白い毛が立ち上り、マズルがぐっと突き出る。こうなれば後は獣性にまかせて暴れるだけだ。薄青色の瞳を剥き、よだれを垂らしながら吠え掛かった。
 清矢は焦って懐から木製のハーモニカを取り出した。放っておけば渚村での悲劇の二の舞になるだろう。印が刻まれたそれは特製の呪具だ。唇を舐めて湿らせ、するりと滑らせる。渚村組は全員狼亜種。弾くべき曲は限られていた。
 手毬歌に似た、スキップ符号の曲。狐亜種の獣化コード。以前、零時の父親である三島宙明を捕縛した際に使った曲だ。旋律を聞いた瞬間、詠が焦って止めようとした。

「清矢くん、それはいけねぇよ!」

 しかし曲は止まらなかった。奇矯な和音が薬局内に広がる。零時と薬剤師の中年男性はそれぞれ白ぎつねに転じてしまう。人のすがたなら強気に出られても、けだものに戻ってしまうと弱肉強食の理に屈するしかない。
 これは先祖である嘉徳親王の皇帝直属退魔軍において親衛隊が用いていた戦法であった。その名残りの御庭番衆に白狼が多いのは、単純に獣として強いからだ。
 清矢は術の成功を確認しつつも、文香が二匹を噛み殺しやしないかとはらはらした。

 狐二匹は狼と変じた文香に追い散らされて独楽のように駆けまわり、薬局から逃げていった。広大が頃合いを見てハーモニカで特殊な音型を奏でると、文香の変身が解ける。カウンター裏に身をかがめていた松宵が、獣耳と尾を逆立てて金切り声で叫ぶ。

「祈月軍は山城県についたとたんに狼藉ですか!? これじゃただのやり返しです! 清矢さま! 夫と零時さんを戻してください!」
「……すまねぇ。もしかしたら殺し合いになるかもって考えたら、仕切り直したくて。時間経過でもとに戻るはずだ」

 言い訳を聞いても、松宵は厳しい表情のままだ。文香は小袖を身に着けながら口をとがらせた。

「たしかに大勢で詰めかけたけどさ、被害者の遺族にあんな言い方ってあり?」
「おうよ。自分のしたことは棚に上げるたぁ、潔くねぇな」
「うるさい! あんたたちだって同じでしょ! 店閉めるからその分働いて弁償してきな!」

 ぴしゃりとした反論に、清矢たちは返す言葉がなかった。平謝りに謝ったが、松宵は無視してシャッターを閉める。全員が閉じ込められてしまい、バケツ、はたき、ほうき、雑巾が順繰りに配られる。清矢ははたきで頭を叩かれ、文香と銀樹は床拭きだ。詠は水汲みを言いつけられ、尻尾を巻いて従っている。
 最終的には、窓の外が暗くなるまでガラスケースを磨かせられてしまった。

 日付は変わって水曜日。薬局の定休日である。

 土御門家は旧家の名のとおり、土塀で一角を区切られた大きな屋敷だった。敷地内には蔵まである。瓦敷きの二階建て、一階には広縁が通り、鬼瓦が恐懼の表情で空をにらみつける。庭木もきれいに丸く刈り込まれており、夏の容赦ない日差しの下で、芙蓉が澄んだ花弁を開いている。
 古いながらもよく手入れされた家だった。玄関から呼び鈴を鳴らして入り込むと、頬を生ぬるい風が撫でていき、紙きれでできた式神がふいに飛びかった。
 一瞬警戒したが、お手伝いさんとおぼしき鹿の子柄の和服を着こんだ老婆がすぐに顔を出した。

「零時さんのお友達ですか? こんなに大勢……いったい何の御用です」
「渚村からの使いです。先日の件、誠に申し訳ありませんでした。もちろん、ほかのお誘いもあります」

 結城博士が先頭を切る。本日は親戚の安部帰明も一緒だ。今日は神官の恰好をやめ、霞色に紺鼠の袴を合わせて洒落てきた。
 先日の失敗を踏まえ、博士と帰明、楓と清矢、それに慎重な広大という顔ぶれでの訪問だった。
 客間は二十畳以上はあるだろう。屏風には四季の意匠。立て掛けられた屏風には姫君をおぶった貴公子が描かれ、その背景を囲うように銀粉の雲霞がたなびいている。
 客間には土御門家の当主、隆明と、その妻の松宵、そして零時が雁首をそろえてずらり並んでいた。
 薬局で薬剤師を勤めていた土御門隆明は直接の討ち入りにも毅然と言いはなった。

「私たちは宙明とはもとより袂を分かっていますよ。夏目雅さんの事件には無関係です」

 はっきりと身内を切り捨てる言い分である。年かさの帰明は強引に和解に持っていこうとする。

「ならば話が早い。鷲津なんぞろくなもんじゃないぞ。先代の存命時のように、本家も白透光宮家に協力してくれんか」

 返事を待たずして、結城博士もいきなりアメを持ち出した。

「その代わりというのもあれですが……零時くんを陶春魔法大に推薦入学させませんか?」

 学生服で一番下座に座っていた零時は指名されて虚を突かれたように繰り返した。

「陶春魔法大学への推薦入学……」
「そうじゃ。儂も最近は少々汎用系を見直しておってな。教授たちの力を借りて、神道由来の汎用系攻撃魔法を作ってみようと考えておる」

 思いがけない申し出に、土御門家の面々は顔を見合わせた。
 結城博士は菓子折りを突き出し、頭を下げた。

「先日の薬局での狼藉は謝ります。今、魔法大は巫力選抜枠が不足しているんです。相対したところ、零時くんはお父上に似てすばらしい巫力。特別推薦生として入学してくれないでしょうか?」

 絡め手での調略であった。零時は沈痛な面持ちで声を荒げた。

「父親に似るとは屈辱です、あんな奴とは縁を切りたいって願ってるのに……!」
「ああ、それはすみません。でも、それならなおさら、入学してくださいよ。違いを見せてほしいな」

 結城博士は若者の憤りにはいい加減慣れたのか、たいして取り合わなかった。清矢も身を乗り出す。

「祈月は、土御門家や宙明に呪殺なんて命じねぇぜ。もし内輪でそういう話が出たとしても、俺が止めてみせる。どうか、こっちに寝返ってくれねぇかな?」

 現当主が代わりに返答した。

「呪殺なんてそもそも、野良からの依頼で手を染めるべきではありません。夏目さんの事件のときには、すでに宙明は勘当の身分だったし、我々は宮家を裏切ったつもりはありませんでしたよ」

 松宵も当主の隣で必死に抗弁する。

「あれは土御門家とはほとんど無関係に宙明さんが企んだことなんです。私も知ってたら止めました。手引きに使われた零時さんだって当時何をやらされてるか分かってたわけじゃないですよ!」

 みな、それぞれ思うところがあるのか、一瞬場が静まりかえる。夏目文香には悪いが、ここは手の打ちどころであった。
 清矢はどうしようかと結城博士を伺った。ちりり、と縁側のほうから鈴の音がする。
 ちりめんの首輪をつけた三毛猫がとてとてと客間まで走ってきた。開け放たれていた襖の向こうから、衣擦れの音がする。
 猫を追い、広縁を慣れた風情で通りぬけたその人は、白綾の打掛の裾を引きずった三十代ほどの女性だった。地紋は銀のように鈍く光り、黒と藍を基調に秋草が大胆に描かれる。髪は零時によく似た栗色で、ふわりと肩で広がっていた。女主人然とした古風ないでたちながらも、声に気取ったところはなく、子が親を呼ぶような無邪気さで呼びかけてきた。

「ひろあきさん? ひろあきさんが帰ってきたの?」

 安部帰明が怪訝な表情をする。

「何事じゃ……? 宙明はまだお勤め中じゃぞ」
「帰明さま、すみません」

 家令とおぼしき老婆がさえぎるように彼女の前に立ちはだかる。

「もしかして牡丹さんか?」

 事情を察した安部帰明が目を輝かせた。楓も片頬に手を当てて少し考え込んでいる。

「そういえば、清涼殿の巫女が安部帰明さまの妻として選定され、ここに留め置かれていると聞いたことがあります。まさか、このお方がその巫女ですか?」
「そうなるな。おお……会えてよかった」

 事情は複雑そうだったが、帰明は安堵した様子だ。清矢は得心がいかずに聞いた。

「でも、そのお方がなぜ未だにここに?」
「うちの監督不行き届きでな」

 当主・隆明が渋面で言う。

「花嫁修業をしている間に、俺の弟の宙明と密通してしまったんだ。その時の子が零時。あいつはそれからずっとこの土御門家を出禁になっている」

 不義の子として名をあげられた零時も深刻な顔つきでうなずく。帰明だけは思いもよらぬ人物に出会えて浮かれ気分のようだ。

「牡丹さん。儂は過去は気にせんよ。いっそ陶春に来る気はないか? そうすれば、零時もともに引き取れる。いいことずくめじゃないか!」

 たしかに、牡丹は零時の母親だというのが嘘のように若々しく美しかった。
 待宵の表情がすっと冷たくなる。

「難しいと思います」
「これ、松宵」

 夫の隆明が止めるが、松宵は雪崩落ちるような告白を続けた。

「牡丹さん、お産からずっと心の調子が悪いんです。自分はまだ十五歳だと思い込んでいるし、零時さんのことも息子として認識できていないんです」
「どうして話した!」
「ここの家だけで抱え込んで隠し通すほうが可哀想です! もうすぐ私たちも子供が生まれるんですよ?! 私の意見、言わせていただきます!」

 ヨメとして押し殺されていた正義感が、故郷の人々を前に爆発した。

「勘当だとか罪だとかこねくり回す前に、医者にも連れていくべきです! きちんとまともに人と話させて、術でも薬でもなんでも試すんです! きっとそうすれば今よりはよくなりますよ!」

 結城博士がずずっと緑茶をすすりながら提案する。

「清矢、広大くん。あのさ……草笛に伝わる例の『癒しの旋律』弾いてみない?」

 黙って正座していた広大が、お鉢が回ってきたことに驚く。

「えっ、今おいらハーモニカしか持ってねぇぜ?!」
「やってみようぜ、広大。母さんから習った曲だ……気休めかもしれねぇけど、心の病って言うんなら、それだって儲けものだ」

 清矢は前向きになり、懐からハーモニカを出して広大と隣同士に並んだ。
 牡丹は不安げに、ひろあきさん、と恋人の名を呼び、息子である零時の薄い肩にすがり付いた。

「……ひろあきさん、どうかしたの? この人達は誰? とうとう私をお嫁に連れにきたの?」

 見た目と釣り合わないあどけない口調は狂気の証明だった。
 零時は苦笑しながら、彼女の肩を抱き寄せる。
 そして彼女のかつての恋人であった、三島宙明のようにふるまった。

「しゃあないなぁ、牡丹は。そう、陶春から来たひとたちやで……害はないやろから大人しうしとき」

 今までとは別人のような猫撫で声で、肩をさすりながらあやす。
 清矢はぞっとした。狂気に陥るだけでなく、息子に妄想の相手をさせるとは。
 零時はとくに感慨もなく、すべてを諦めているようだった。
 それでも杏のかたちの瞳はまっすぐに清矢を見据えており、片膝を立てていつでも飛び出せるような体勢をとっていた。術を使われたらすぐに対応できるようにか、右手では印を結んでいる。父と取り違えられ、名前すらまともに呼ばれなくとも、母を守ろうとする強い気持ちが燃えている。

「牡丹。今、大事なところやから、少しおとなしくしててな……」

 正気を失った母を、憎い父親がわりに諭す。この零時というのは、清矢とそう変わらない年齢でありながら、はるかに暗いものを背負った少年のようだった。清矢も亡き母を思い出し、落ち着こうと深呼吸する。そして特段の心遣いで、『癒しの旋律』を奏で始めた。

 母さん。もしあなたの魂が残っているなら、俺に力を貸してください。
 草笛氏に伝わる秘曲で、心の傷も癒えればいい……。  始まりはFの長音。明るい長調の響きがゆっくりと動く。夏の終わりの薔薇にしたたる、夜明けの露の香りまでが彷彿とする。二十六小節の旅が終わって、休止符のタイミングを目くばせしあう。
 息子に肩を抱かれていた牡丹は、清らかな響きに少し落ち着いたようで、帰明をしげしげと見た。

「この方が安部帰明さま? わたし……ご挨拶しなきゃ」
「そうだよ、牡丹ちゃん。丁重にしてくれ」

 現当主に促されて、牡丹は零時のとなりに座り込み、しずしずと頭をさげた。
 老女が膝を打ってぱんぱんと音を出す。

「牡丹、その子はあなたの息子の零時ですよ。もうあれから十七年が経ったんです。わかりますか?」

 牡丹はまるで恋人にするような仕草で、零時の頬にゆっくりと指を這わせた。注意深く顔のつくりをたぐった後、三重苦のひとが水に撃たれたように身を引いた。

「ひろあきさんじゃなくて、別人かしら……?」

 現当主である隆明も唐突な現常認識に腰を浮かせる。声に涙をにじませながら繰り返した。

「親子なんだ。牡丹ちゃん、あんたの息子だよ!」
「息子……そうなの。ああ、あの時の赤ちゃん!」

 牡丹は手を胸の前で合わせ、正面から零時を凝視している。
 零時はためらいながらも呼びかけた。

「母さん……?」

 不安げな声色。長年抱いてきた希望と不安が胸の中で激しくぶつかり合っている。牡丹は眉を寄せて尋ねた。

「あなたの名前は?」

 零時は目を潤ませて答える。

「ゼロトキと書いて、零時です。午前零時生まれだから」
「れいじさん。そうか……大きく育ったのね、てっきり私、あなたはお産のときに亡くなったかと思ってた」

 清矢は息をのんだ。牡丹は自分の言葉の残虐さをわかっていないのだ。いくら母が存命でも、他人じみた顔でこんなセリフを言われたら、どれほど傷つくだろう。
 それでも、生まれてこの方母の愛というものを与えられたことのない子供には、干天の慈雨であった。
 零時は蓮の花が開くようなコマ送りの速度で笑った。

「母さん。僕の名前……初めて呼んでくれたんですね」
「わたし、お産の後から頭が回らなくなっちゃったから。生き延びていたのね。そうか、もうそんなに時が経ったんだ」

 牡丹はいびつに微笑んで、初めて息子を息子として抱きしめた。

「すごい効き目じゃな……」

 帰明がごくりと唾をのんだ。老女が申し訳なさそうに続ける。

「どうせ治らないと思って、医者にはかかっていなかったんです。お二人とも。ありがとうございます」
「いや、医者に見せてやってくれよ。俺たちの『癒しの旋律』はあくまで術に過ぎねぇ」

 清矢はそう言って、頭をかいた。そして零時に向けて続ける。

「あのさ。俺たち、こっちにいる間は通ってくるよ。この曲、ハープで弾くのが正式なんだ」

 ひと悶着あったことを簡単には忘れられないのか、零時がやや悔し気に微笑む。

「本当ですか? ……虫がいいお願いなのは分かってます。でも、少しでも希望にすがりたい」
「うん。牡丹さんが現実を受け入れていく手伝いができればなって」

 結城博士ものんびりと座椅子に寄りかかった。そして再度勧誘をくりかえす。

「零時くん、魔法大への進学はどうする?」
「僕、大学進学はあきらめていたんですが……」

 ためらう零時に、帰明もしかめつらしくだめ押しした。

「牡丹さんに免じて、儂が学費を援助させてもらう。書生として安部神社に滞在せい」

 固辞も失礼だと見たのか、零時は今度こそ生真面目に居住まいを正した。

「陶春に行ったら、自分も土御門家の代表として、夏目雅さんの仏前にお参りしたいです」
「良かった、これでこの子の顔を実家のみんなに見せてやれます」

 松宵も安堵の笑みを浮かべて、膨らんだ腹を撫でた。

 ビルに戻ってから屯所で皆に報告する。清矢はしみじみと唸った。

「音楽って、ほんとは美とか感動とかのためにある芸術であって、誰かに無理やり言うことを聞かせるためのもんじゃないよな。俺間違ってたかもしれねぇわ」

 そして詠に目くばせした。詠は、薬屋での諍いの際にコードを吹こうとする清矢を止めてくれていたのだ。全ての顛末を聞いた文香も、噛みしめるようにつぶやいた。

「あいつもあいつで、色んなもの抱えてたんだな……俺、零時のこと許すよ」

 清矢もうつむいて、普段より素直な声色で誰にともなく尋ねた。

「そっか。俺も夜空のこと……いつか許せるのかな?」
「それには、会いにいかねーとだな!」

 聞いていた詠がニカッと笑って清矢の手を握る。詠は清矢の指の股に自分の指をさしこんで、ぎゅっと握りしめてきた。手汗をかいており、尾っぽはぶんぶん勢いよく振られて、もっと触れ合いたいのを我慢しているのがまるわかりだった。好きだなと思い顔が熱くなるが、みんなの前で何を言えるわけもなかった。

「詠はカワイイな」

 嘆息しつつ照れ隠しでほめてやると、詠は怒って握った手をほどき、シュッシュッと拳を空振りしてきた。

「カワイイじゃねぇよ。大の男に何を言ってんだ、清矢くんは」
「おっ、やるか? 狼になってその後みんなに素っ裸披露しちまう?」
「ハーモニカはずりぃって! 俺の裸とか誰も見たくねぇだろ!」

 けらけら笑いながら、首にバックチョークをかけてくる。頭の後ろに詠の胸の弾力を感じた。ギブアップ! と間髪入れずに言いながら、脇腹に肘鉄をかます。詠は大げさによけて、もう一度後ろから腰を抱き、持ち上げようとしてきた。清矢はじゃれ合いの喧嘩をそれ以上買わない。腰に回された手の甲を優しく撫でてやると、詠は慌てて拘束を解いた。

「な、なにすんだよ清矢くん、くすぐってぇよ!」

 詠は照れ隠しでふたたび拳を構えている。充希がのんびりとはやしたてた。

「ほーんと仲良しなのね、おふたりさん」
「それだけは充希にも絶・対・に! 負けねぇ!」

 詠は凄むとぞんざいに肩を抱いてきた。接触したところから喜びが泉のように湧いて出る。懐っこく、しかし聞きたくてたまらない感じでそわそわしつつ、詠が尋ねる。

「なぁなぁ、清矢くん、楓さんと結婚しちまうのか?」
「うっせーよ、結城先生から奪っちまうわけにはいかねえだろ」

 否定すると、詠は閉じ込めるようにぎゅっときつく抱きついてきた。

 親友。相棒。幼馴染。
 どの関係も、俺にはもう十分すぎるくらいだ。これ以上は欲張り。
 清矢はそう思い、滲む喜びを押し殺した。

5 親子の断絶

 虎雄との交渉は順調に進んでいるようだった。汎用系魔術の益を汲んでくれた清涼殿が国軍復帰の後押しをしてくれている。清矢にくっついて参陣した神兵隊の若手や渚村の面々は、土御門氏の調略が終わった後はかつて古都であった山城県の観光に勤しんでいた。

 最初頑なだった吉田零時も、観光ガイドに引っ張り出されたり、清矢たちが通いで母に『癒しの旋律』を聞かせるたびに打ち解けていき、訪ねてきた者たちにみずからの来しかたを話すようになっていった。

 呪殺を使える三島氏の血縁であるために、同級生には避けられていたこと。
 本家の土御門家でずっと肩身の狭い思いをしていたこと。
 家令の真弓だけが味方をしてくれ、陰陽師の家人としてさまざまな術を修行してきたこと。

 清矢たちは旧家の暗い事情にはじめ息をのんだ。しかし、村からついてきたメンツは誰もが『白透光宮家御庭番衆』であったから、三代目正徳公の際の跡継ぎ耀の頓死や、彼がしでかした不倫騒ぎなども聞き知っており、この手の話題にも対応力があった。

 とくに年長の札付きの不良・風祭銀樹は親身になって話を聞いた。
 すでに本日の演奏は終わって、護衛の名目でついてきた渚村の仲間たちもアイスキャンディを配られて一息ついているところだ。

「零時、お前さんはそんな環境なのにグレちまわなかったっていうのが偉いよ」
「そう……でしょうか。そういう人たちは僕の術を恐れてましたけど……」
「俺は耀様の件の冤罪でグレて、術で随分ヤンチャしちまった。でも、父さんも母さんも大変だってのに、お前はしっかり優等生出来てる。爪の垢煎じて飲みたいくらいだぜ」
「父親のようになりたくなかったんです、僕は」

 落ち縁に腰かけ、アイスキャンディをかじりながら、零時は空を見上げた。

「父さんの気持ちに応じた母さんも悪かったけれど、僕を忘れたいと思うくらいに罪の意識はある。でもあの悪党にはまるで責任感がないんです。勘当のあとも僕に何度も会いにきたり、鷲津から勝手に仕事を受けたり。父親としての義務は何も果たさないくせに、寂しいのか縁だけは欲しがる。小さい頃はそれでも会えて嬉しかったけど、夏目さんの事件があってからはもう口を利かないようにしました。それからはずっと、反面教師です」

 清矢は庭に降りていたが、その独白には共感できるところもあった。

「俺も父さんの無茶には内心反発してたこともあるよ。母さんもいないし……零時の境遇とは簡単には比べられないかもしれないけどさ」
「互いに大変でしたね」

 淡く微笑む零時に、清矢も笑った。

「俺には、渚村の仲間や神兵隊のみんながいてくれた。大人も守ってくれた。でも零時はぜんぶ一人で抱えちまってたんだから……辛かったと思う」
「僕の辛さなんて大したものじゃないですよ。でも、諸々感謝してます。進学への道が開けるなんて思ってもみなかった」
「零時ならスゲー威力の技とか使えそうだよな。一緒に汎用系魔術も学んでいこうぜ!」

 詠が拳を差し出し、零時も苦笑しながらこつん、と拳を合わせた。
 充希もアイスのスティックをくわえたままウィンクした。

「俺もね、大学は魔法大にしろって言われてる。ホントーは文学とかやってみたいんだけどね~」
「望月次期当主と同窓とは、光栄です。せいぜい僕も『満月刀』の餌食にならないよう気を付けないと」

 気だるい会話の合間にも、低級霊がふらふらと近づいてくる。そのたびに零時は立ち上がって呪印を刻み、腰に差していた守り刀で空を切って、除霊している。いにしえの陰陽師の邸宅のように、屋敷自体が曰くありきの場所に建っているのだろうか。
 清矢は不審に思って聞いてみた。

「何か、やけにこの手の霊が多くねぇか?」
「もうすぐ精霊会ですから。ちょうど縁日が出てるでしょう?」

 零時はそう言って、縁側においてある蚊取り線香の灰を少し払った。

「まあ、僕は一緒にいくトモダチもいないけど……」

 自虐的な発言に、零時の隣に座っていた銀樹がくわぁとあくびをした。

「今年からは大勢で行けらぁな。大物ぞろいだ、地元のチンピラも避けていきそうだぜ」

 清矢はニヤニヤ笑いながら冗談めかす。

「月末には清涼殿で大きな祭りがあるんだろ? 俺、浴衣着てぇなー。いっそ、パパにねだっちまうか!」
「俺っちも父親こっちだから一応ねだれるけどよぉ……なんか恥ずかしくねぇか? いかにもボンボンって感じ」

 広大が難色を示し、大人ぶりたい年齢の友らが笑う。詠だけが人差し指で頬をふにっと押してきた。

「清矢くん、せっかくだし、おめかししろよ。俺、清矢くんの浴衣見てぇ」
「かんざし挿してしゃなりと歩けば都の男も振り返るよん?」

 充希の冗談は線の細さを皮肉ったものだ。清矢は赤くなってぶんぶんと首を振った。

「女装は絶対しねぇええ! もう年齢的にトウが立ってるだろ! かえって怪しまれちまうよ」

 そこに、土御門家家令の真弓が焦って走ってきた。零時を見て、呼びかける。

「零時さん、牡丹見ませんでした?」
「曲を聞いたあとは、奥に戻しておきましたけど」
「ちょっと姿が見当たらなくて。お使いに出ていた間に出て行ったんじゃないかって……」

 全員真顔になって、屋敷を捜索した。昼食後に『癒しの旋律』を施した際はしっかと正座して聞き入っており、具合も良さそうに見えたのだが。物置きや地下まで見たが、たしかに真弓の言う通り、屋敷の中にはいなかった。心配した清矢たちは、二手に分かれて町を探すことにした。零時の言ったように縁日が出ていて、提灯がところせましと吊り下げられては赤々と光を放っている。小走りで石畳の街道を抜けながら、零時が堰切るようにこぼす。

「最近だいぶ意識がはっきりしてきてたってのに……」
「どんな様子なんだ?」
「帰明さまとお話して、今までに起きた事件を聞いたりもしてたんです。父さんが犯した罪についても、ちゃんと理解はできたようでした」
「心の病は一進一退って聞くからな。今日は調子が悪かったのかもしれねぇ」

 空も紫色に染まりだし、盆踊りが始まっていた。足早に近所を巡ったが、牡丹の姿はない。人混みに引かれるように、零時の出身小学校に足を運んだ。校庭の中心に櫓が立ち、浴衣姿の人たちが集まっている。祭事の警戒のためか、清涼殿の神兵隊が白とあさみどりの鎧姿で警備をしていた。

 祭りばやしがのんびりとした風情を醸し出す中、清矢と零時、それに充希と詠はさらに別れて情報収集をしようとした。太鼓が腹に響くリズムを刻む。横笛のしめやかな音に、鉦が覚醒を添える。櫓を囲んで踊る人たちを横目に、ヨーヨー釣りのブースを出しているおじさんに話しかける。

 突然、上空を横切る黒い影。ハッと仰ぎ見ると、そこには翼を生やした鳥亜種の神兵隊が飛んでいた。手には大きな羽扇を持っており、空中を掃いている。その羽先には、きらきらと光る綿埃のようなものが大量にうごめいていた。

「あれは……!?」

 見つめていると、羽扇がチューリップの花のようなかたちに開き、ぼんやりしたきらめきをぐんぐんと飲んでいった。

「精霊会の魂集めたまあつめです」

 零時がそう言って、おごそかに両手を合わせた。チカッと何かが稲光のように光る。
 次の瞬間、鳥亜種の神兵隊の持っていた羽扇が断ち切られ、集められていた霊や魂がワッと胞子のように飛びちった。踊っていた群衆がおののく。「あそこ!」と誰かが指をさす。そこには細剣を振りぬいて剣気を飛ばしたとおぼしき、りゅうとした成りの男がいた。

 髪は青みがかった黒の短髪、獣耳は狼亜種か、はたまた犬亜種か。男は肩章をつけた紺色の詰襟を羽織っていた。襟には昴星を模した白銀のバッジが光っている。銀糸で縫われた二重のラインが袖と身頃のサイドを貫き、ベルトは鮮やかな白。スワロウテイルのロングコートは風をはらんでひらめき、中には質実な鎖帷子を着こんでいた。どことなく光のない瞳。二十代半ば、星雲のように鈍く輝く男だった。

「……至極殿神兵隊!?」

 充希が叫びつつ警戒態勢に入る。リュックから『満月刀』を取り出し、校庭を警備していた清涼殿神兵隊とともに男のほうへ駆けていく。
 男は二人を軽くにらみつけ、手のひらをかざして詠唱した。

「夜闇よこごれ、Nocturn!」

 闇の領域が展開され、獲物を包み込んで魔素をえぐり取る。駆け付けた詠は清矢を後ろから抱きかかえ、耳元にささやいた。

「汎用系の闇魔法じゃねぇか! しかも短縮詠唱! 清矢くん、どうする……!?」

 民衆はとたんにパニックだ。浴衣でめかしこんだ嬢様たちも、もろ肌脱いでいたおじさんも、てんでばらばらに逃げ出そうとしている。清矢たちも青年団に後ろからぶつかられ、櫓のすぐそばに避難した。

(こんな時、親父ならどうするんだ……!?)

 清矢は一時思いを馳せ、突然声を張り上げた。

「皆さん! 落ち着いて、落ち着いてください! まずは歩きで櫓の下に集まって! それから迂回して避難しましょう!」

 民衆思いの父、源蔵ならそうするだろうという判断だった。櫓の上で太鼓を叩いていた若人も、拡声器で同じ文句を繰り返し始める。
 清涼殿神兵隊は闇魔法をまともにくらい、くずおれている。その背後から、充希が『満月刀』を振りかぶって男に飛び掛かる。

「物騒な。敵ではない、邪魔をするな!」

 男はバックステップして充希を値踏みすると、左手に掴んでいた懐中時計のネジを押した。
 瞬きした、まさにその間に。

 充希の再度の剣筋は空を切った。男は紙芝居の絵が切り替わったかのように、校門まで駆けぬけていた。瞬間移動ともおぼしき技だった。羽扇を切り裂かれた清涼殿神兵隊の鳥亜種が翼をはためかせて追っていく。顛末を見届けた清矢はほっと一息した。

「逃げたみたいだな。清涼殿に任せた方がよさそうだ……」

 詠はしっかりと清矢を後ろから抱いて、息を荒くしていた。
 合流した充希が首をかしげる。

「捉えたはず……だったんだけどね。一体どうしたんだろう」
「『満月刀』の威力、見られると思ったんだけどな……」

 詠も残念そうに肩を落とした。
 清矢は人波が落ち着きを取り戻しはじめたのを見てとって、魔法攻撃を受けた清涼殿の兵に声をかけた。彼は黒髪を長く伸ばした伊達男で、猫亜種であった。闇魔法で魔素ダメージを多く受けている。図らずも充希が盾にしてしまった状況だから、後で揉めたくもない。

「あんた! 大丈夫か? 俺たちは祈月の人間だ。治療する」
「ありがとうございます、だけど無用です。治癒術なら清涼殿に伝わるものもありますから……」
「大丈夫、じっとしててよ。『ヒール』しようぜ」

 清矢は軽く言い、生命回復魔法の『ヒール』を行った。クライスト教の長い歴史のなかで発見された回復術で、それを汎用系に翻訳した、広く使われている技だ。自然治癒力を引き上げる仕組みらしい。回復魔法なら愛野教授が教える『ディア』もあったが、清矢の体質の場合ヒール系列のほうが効果が強かった。魔法でなら魔素ダメージも回復できるので最適だろう。継戦能力を劇的に引き上げるこれら回復術の存在を思えば、魔法なしで戦おうという鷲津清隆の信条は国家戦略としてきわめて稚拙だと感じられる。

 ちょっと物騒な詠唱をして、白色の光が反応するとともに、うずくまっていた兵が深く息をつく。次の瞬間にはぴんしゃんと歩きはじめたので、清矢は注意した。

「清涼殿に戻って、今の男のことを報告しようぜ」
「『魂集め』の妨害は切り捨て御免、との古い掟があります。今の時代にあっては大げさだと思いますが、自分は任務中です。あいつを追わなくては」
「だけどさ、俺たちだけだとちょっと新発田さん怖いし……それに人を探してるんだ」

 清涼殿神兵隊長の新発田は、清矢たちには大変にこやかに接していたが、部下に対しては何時間も声を荒げて説教をするような二面性のある男だった。兵も思うところはあったようで、しぶしぶうなずいてくれる。

「自分は坂井と言います。失せ人は子供ですか?」
「いや、成人した女性だ。昔清涼殿に仕えてたって聞いたな……」
「名前は吉田牡丹、三十代はじめで、今日は花菱の着物を着てました。僕の母親です」
「ううん、花菱の着物か……」

 坂井は周囲を見回したが、和装の女性は多かった。あきらめて、清涼殿の詰所に戻ることにする。
 零時は焦れたようだったが、その心配は清涼殿に着いて氷塊した。隊長の新発田がこう言ったのである。

「牡丹ちゃんか。さっき久方ぶりに清涼殿に上がっていたよ。何でも、古巣に相談があるらしくてね」

 兎亜種の新発田は半分顔に埋まっているような細い瞳を無理やり柔らげて、清矢たちに言った。そしてわざわざ自分で案内してくれる。本殿に上がり、角にある巫女たちの控室に連れていかれると、牡丹は衣装部屋の中央に座って、うず高く積まれた茶巾や下着を畳んでいた。零時が怖い顔をしていざり寄る。

「母さん、一体何をしてるの……! 巫女だったのは何年も前の話でしょ。清涼殿に迷惑かけないで」

 手首をとられた牡丹はぴしゃりと零時をはたいた。

「れいじさん、やめて。私、帰明さまに嫁ぐなんてできない」
「うちの人間は誰もそんなこと言ってないじゃないですか……!」
「だって、私、ひろあきさんと子供まで作ったのよ。実家に戻って、ひろあきさんが牢屋を出たら、一緒になろうと思っているの。そのためにはここでお勤めをしていなきゃ」

 牡丹の口ぶりは初対面の時からすれば見違えるほどであった。一人の女性の選択としても、ある程度は得心がいくものだ。零時は苛立って母の手を力任せに引っ張ったが、彼女は畳をつかんで立ち上がろうとしない。見かねた新発田が割って入る。

「牡丹ちゃんは清涼殿の優れた巫女だった。他の巫女も驚いたけど、受け入れてくれたようだよ。今日は気が済むまでここに置いたらどうだい?」

 作り笑顔には有無を言わせぬ重圧があった。こめかみが引きつっているところを見ると、本来なら叱りつけたいのだろう。清矢はトラブルを恐れて、零時をなだめて一礼し、退出した。清涼殿の敷地を一歩出ると、零時は感情を爆発させた。

「母さんは結局息子より自分の恋人が大事なんだ。僕はあんな父親とは縁切りしたいのに!」

 握りしめる拳はわなわなと震えている。詠も充希も、何も言えず黙り込んだ。清矢がうつむいた顔をのぞき込んで言葉をかける。

「まだ病気もよくなってないからだよ」

 中途半端な慰めは癇に障ったようだった。零時はキッと清矢を見つめて、八つ当たりをする。

「でも母さんの面倒をずっと見てきたのは僕だ! あの男はただ母さんを誑かしただけなのに……! こんなことなら中途半端に治らなきゃ良かった」

 友人たちは、そんな悪態を放置してはおかなかった。充希が怖い顔で迫る。

「そんなこと言っちゃダメでしょ」

 詠もじっと零時をにらんでいる。零時は失言を恥じたか、唇を噛んでうつむいた。充希が諭す。

「とりあえず、おうちでみんなと相談しなきゃ。俺が送ってくよ……清矢くんたちは、帰って」

 詠はうなずいて、清矢の手をとって足早にその場から離れた。乗合いタクシーや人力車が行きかう通りを、二人で歩いていく。空は蒼く染まり、臥待月が高く輝きはじめていた。土産物屋が店じまいをするかたわらで、料亭は提灯を点けはじめる。

 さっきまでの事件が信じられないほど、何事もない世界。古都の夕べは、静かに暮れていく。

 陶春から遠く離れて、詠とたった二人でいる。清矢はふと弱音を漏らした。

「零時のことうまく慰めてやれなかった」
「じゃあ『そんなことないよ』って言えばよかったのか? それこそ気休めだろ」

 詠は存外にドライだった。清矢はしみじみと続ける。

「恋って怖いな」

 その単語に、詠はぴくりと獣耳を動かした。清矢は嘆息する。

「きっと牡丹さんの記憶の中で鮮やかに残ってるのは三島宙明との恋しかないんだろうな」

 詠はしばらく黙って、「俺も清矢くんのためなら同じようなことやってきちゃったけどな」と言った。

 清矢はあらためてこれまでの詠の献身を分析した。

「でもそれは……俺が祈月耀の孫だからだろ? 詠はずっと耀サマみたいな英雄になりたかったんだから」

 詠は黙って清矢と手をつなぐ。縁日が出ている町内に近くなり、すれ違う人々も熱に浮かされている。詠と清矢も、まるで遊びに出た観光客に見えたろう。やっと二人でこうして街歩きができた、と清矢は思う。実際は屋台に寄っている暇などなかったが、きらびやかな照明と、歴史の香りを残す古都のたたずまいに、旅愁が高まっていた。

 やぶからぼうに詠が聞いた。

「俺じゃ、清矢のとなりにふさわしくねぇのか」
「いや、そんなことないよ。詠がいてくれなかったら、この間の戦だって生き延びられなかった」
「そういう話じゃない。抱きしめてぇとか、キスしたいとか言いだしたからか」

 清矢は答えられなかった。同性愛は、思春期の気の迷いだとも聞く。もしそうなら、詠が大人となってから、清矢はきっと疎まれてしまう。そんなリスクを犯さなくとも、今のままの距離感だって清矢は構わなかった。

 詠は沈黙を肯定ととり、忍耐を告げた。

「じゃあ……俺は一生この気持ち封印する」

 結局二人とも同じ結論だ。清矢の中の男が騒ぐ。優柔不断なためらいもずるい臆病も、全部吹き散らして路地に引き込みたい。キスして抱きしめて、安心させてやりたくなる。勢いに任せてそうしても、思い切りのいい詠はきっと否とは言わない。自分でした選択を後から逆恨みするような奴だったろうか? そんなの、詠が一番に嫌がる態度ではないか。

 ――だが、ほんの一時間も前には、至極殿神兵隊とおぼしき男が、魂集めを妨害するという事件が起きていた。早く軍閥に報告しなくてはならない。清矢は溜息をついて帰りを急いだ。

(4-2につづく)