月華離宮の伏魔宴(第五話)水迷宮のプリンセス(1)

1演出された天災

 順和二十七年六月、樹津川河口の空が赤黒く染まった。

 兵たちの血が空に映ったのだと、山城県の民たちは声を潜めて語り合った。
 鷲津氏率いる国軍の一部による祈月源蔵軍閥への侵攻は、もはや単なる地方軍閥の討伐ではなく、日ノ本の命運を占う戦となった。

 十三日の昼、芸州県から発した鷲津の船団が樹津川口へと押し寄せた。鷲津軍の中核、歴戦の帝国陸軍第六旅団三千二百名である。上陸して市街戦で山城県を掌握し、祈月軍を殲滅する予定であった。対する祈月軍はせいぜい二千。兵力差はわずかとはいえ、鷲津軍は帝国正規軍の精鋭だ。

 一見、厳しい展開。

 しかし、清涼殿を手中におさめた祈月氏は、巨大魔石を使った戦略級風魔術の行使に手をつけた。
 西南からの強風が海を荒らし、在地の術師たちの雷魔法が敵船舶の甲板を襲う。
 彼らは生贄儀式失敗によりがら空きとなった清涼殿に集められていた。
 清涼殿の魔石『爽風石』とD兵器『永帝』による龍脈ナヴィゲーション・システムがその力を樹津川口に集結させる。

 魔石によって増幅された極太の稲光は、鋼鉄の甲板を断ち割った。本数は優に五十を超え、雷撃は十分以上も続いた。
 潮流と風力が重なって入り江である樹津川口の海は渦を巻き、天然の防壁となる。渦は魔素を帯びて青く輝き、ひしゃげた船舶を包み込んでいく。空は赤黒く掻き曇り、荒れ狂う渦潮の坩堝を、白い雷鳴が菌糸のように侵食する。

 鷲津軍のそこかしこから悲鳴じみた報告があがる。

「無線途絶! 雷サージです!」「結界魔法装置『Reflect』、過負荷により自爆!」「波が巻いて帰投できません!」

 彼らが頼みにしたのは、諸外国の魔法兵器だった。しかし、それらは所詮、戦闘レベルの玩具にすぎず、防御にしても退却を叫ぶ指揮官を三分間雷の直撃から守る程度の役にしか立たなかった。国軍内の連携も、冬宮たちによって絶たれていた。艦に満載されていたのは歩兵。この戦に参加した海軍の将兵は舟を動かせる最小限だった。輸送船団は次々と姿を消し、船倉もろとも沈没。西国との中継地点である淡路島に詰めていた残存部隊も上陸の機を失った。
 時、至れり。祈月側についた海軍大佐たちが艦隊を動かした。無傷の駆逐艦百二十は災厄の後の海原を機雷とともにかけめぐる。

「追撃がはじまった。魔法攻撃の第二波はない! 総員、持ち場に戻り奮戦せよ!」

 鷲津側の指揮官は、兵に発破をかけるべく、足元をふらつかせながら船倉から甲板へと歩み出た。
 そこには凄惨をきわめた地獄絵図があった。
 雷撃に打たれてショック死し、濡れたまま転がる精鋭の姿。なけなしの回復魔法で戦友を蘇生しようとする新兵。すべてを神罰とおそれ、死の海へと身投げする老兵。

 指揮官は舌打ちし、天に唾吐いた。

「くそっ、祈月源蔵め! 天候まで操って、魔王にでもなるつもりか!」

 この戦術は、かつて白透光宮家の二代目・季徳が試みた、局所的に季節を変える法『春夏秋冬の宴』の発展だった。
 生還した将兵たちは後に、魔法によってかきたてられた天災の猛威を語り継いだという。

 その戦いから一か月後――。

 帝都の中華料理屋、玉龍軒の個室では、勝利の宴が催されていた。
 怜悧な顔立ちの男がうっすらと笑みを浮かべ、紹興酒の盃を上げる。

「鷲津清隆の金切り声が聞こえてくるようではないか。遠山参議の仇討ちだ。祈月氏は存分にうさを晴らせばよい」

 彼は『冬宮』。二十七年前に父親である銀帝を当時の陸軍大将に倒された壮年の宮だ。今は蘭堂宮家当主としてその命脈を保っている。
 二つ名のとおり、厳冬のように冷徹な印象を与える切れ長の目をしていた。
 プライベートの今日は、肩までの柔らかな髪を後ろ結びにし、紺鼠の単衣を着流しにしたラフな格好だ。
 彼こそが現在の帝国退魔軍総帥。至極殿、常春殿、清涼殿、月華神殿の四神殿を統括する男であった。
 国軍鷲津派の敗戦を予期していた彼は、同時作戦で山陽方面に駐屯していた国軍を襲わせた。山陰から回り込んだ常春殿は呉の海軍基地を包囲し、崩壊した軍は降伏した。

 会食には日ノ本の魔法政策を強く推し進めんとするこの黒幕と、至極殿副術師長、黒田錦が参加していた。
 末席を汚すことになった祈月源蔵の愛息、清矢が深々と礼をする。

「父に協力していただき、ありがとうございます。白透光宮家は蘭堂宮家への忠誠を誓います」
 冬宮は嫣然とした笑みを浮かべ、紅の円卓に乗り出してきた。
「ところで清矢は色彩魔法の高位退魔術、リュミエールドイリゼを使えると聞いた」

 冬宮は指先で杯の縁をなぞりながら、何気ない口調で尋ねた。

「陶春魔法大のリリー先生に師事しました」

 清矢は背筋を伸ばし、丁寧に答える。

「草笛氏に伝わる親王親衛隊由来の音曲術にも堪能だとか」

 冬宮の眼に、獲物を見定める肉食獣のような含みが宿る。

「はい。幼い頃より訓練しております」

 清矢はまっすぐ相手を見つめ返し、忠勤を示すため黙礼した。実力を探られていることは明らかだった。

 ご相伴に預かっている黒田錦が熱い烏龍茶を飲みながら絡む。

「剣技よりは魔術なんだっけ。清矢は」

「白透光宮家の嫡流が、武芸一辺倒では箔がつかなかろう。せっかく陶春の地で命脈を保ってきた魔力血統、鷲津などに食い散らされては困る」

 冬宮はつかの間愛でるような眼差しを清矢に送ると、本題を語りだした。

「お前には、夜空という兄がいると聞いた」

 清矢は目を見開き、口を引き結んで話の続きを待った。兄の名を聞くだけで、喉元にナイフを突き立てられたように息が詰まる。兄・祈月夜空は、七年前、守役の夏目雅が亡くなったのを気に病んで、幼い身でロンシャンへと出奔。その後は行方不明となっていた。

 よりによって、当主の証である『新月刀』を携えてだ。まさに祈月氏の泣き所と言えた。

 事情を知っている黒田錦が補足する。

「手紙を送ったら、ロンシャンのクリスタルウィングの住所から返事がきたって聞いてる。たぶん、それで家督のことが気にかかったんだな……どうやってかロンシャンを脱出して、現在は鷲津関係の人間に匿われてるっていう情報が入った」
「夜空はどこにいるんですか!?」

 清矢は拳を握りしめて席から立ち上がった。己の立場を脅かしかねない知らせだ。冬宮は苦笑し、鮮魚の姿揚げに甘酢ソースをかける手をとめた。

「北陸道、新鴻県だ。その地の参議、毛利氏は月華神殿を地方政治から排斥したいと思ってる」

 冬宮の話は軍人らしく簡潔だった。

 夜空が、日本に帰ってきた。それも宿敵鷲津氏の庇護下にいる……! 考えうるかぎりの最悪の展開であった。
 やんわりと手で着席を指示し、冬宮が和やかな笑みを浮かべる。清矢はばつの悪い思いで椅子に座りなおした。

「私の娘、朱莉あかりもただいま月華神殿へ修業に出していてな。その手紙からも裏がとれている」
「朱莉さま……姫宮さまですか」
「そうだ。ただし現皇太子との縁談がある。互いに年ごろだが、手は出すなよ」

 前・皇統と現・皇統の婚姻。蘭堂宮家による保身の布石だった。
 今の構図は、さも蘭堂宮家が退魔軍と祈月軍閥を率いて、玉座を奪おうとしているように見えるからである。
 冬宮は伝統でがんじがらめの皇室ではなく、それにほど近い貴族として、権勢を恣にする気だ。
 黒田錦は宙に視線を上げてぼやく。

「そうは言っても心配だなぁ。姫宮さまもまだお心を決めていなくて、現地では敵方の毛利参議の息子なんかとイチャイチャしてるみたいでさぁ……」
「清矢なら見劣りもしなかろう。ついでに様子を見てこい」

 清矢は縁談の重みを確認するようにうなずいた。
 冬宮が箸を進めながら、試すように言う。

「当主争いの開始だな。まあ、情勢が落ち着くまで、お前を結城疾風とおなじように海外留学させてとっておくのも悪くはないが」

 清矢はほのめかされた第二の案に飛びつくこともせず、両手をぎゅっと握りしめていた。
 新鴻県といえば、充希たち望月家の本拠でもある。古都の地で彼と別れて、ほぼ一年。
 清矢の心はすでに月華神殿に飛んでいた。

2兄弟再会

 親友の詠をひきつれて、新鴻県永岡駅にたどりつく。

 時はちょうど夏休み、汽笛に合わせてセミの鳴き声がこだまする。だだっ広いホームの中、清矢たちは見知った顔を探した。

 望月充希。祈月家の『新月刀』と対になる刀を伝承している家の嫡男である。
 清矢が祈月軍閥の戦に参陣すると決めて以来、ずっと護衛をしてくれていた。

 彼は小柄な少女とともに、清矢たちを出迎えていた。
 彼女は桃色の小袖に江戸紫の袴を合わせ、ショートブーツを履くという、女学生風の小粋な出で立ちであった。小動物のようにつつましく、やや幼げな顔だちをしている。
 彼女は清矢に膝を折り、荷物を預かろうとした。充希の縁者かと思い、清矢は何の気なしに礼を言う。

「ありがとう、気が利くんだな」
「ちょ、ちょっと清矢くん! ダメ! この人は……!」

 慌てた充希が旅行カバンをひったくる。少女は長い髪を手櫛で整え、しずしずとお辞儀をした。

蘭堂朱莉らんどう・あかりと申します。父がお世話になっております」
「ってことは……オイ! 姫宮さまじゃねぇか! すみません、俺、風貌もお聞きしていなくて……!」
「大丈夫、分かってます、自分の見た目が姫宮っぽくないことぐらいは……田舎娘っていうほうがしっくり来てるって、よく言われます」

 朱莉と名乗った少女は黒目がちな奥二重で苦笑して見せた。

「そ、そんなことねぇよ! 可愛いとかそういうこととは無関係だ、今のは!」

 清矢は慌てまくり、恥の上塗りをした。朱莉は死んだ目で笑う。

「だって私、カッコいいと思ってる男子に全然冷たくされてるもの」

 め、面倒くせぇ~! それが清矢の本音であった。朱莉はとりたてて醜いわけではないし、力関係上、フォローせざるを得ない。だからって面と向かって美人だカワイイだと軽薄な言葉はかけられない。お父さんに言いつけられたら睨まれてしまう。おろおろしながら清矢は慰めた。

「姫宮さま、そりゃ人の好みっていうのがあるからだよ……!」

 大きな登山用リュックを背負った詠は、あくまでガサツに気さくに聞いた。

「姫宮さま、好きなやついんの?」

 何てことをぶしつけに聞くんだ、と詠を小突きたくなったが、充希もあきれ顔で続けた。

「毛利諒さんでしょ。地元の代議士の息子。まぁ、利発そうな男の子だよね。敵方なのに告白までしちゃって、もう……」

 朱莉も別に恥ずかしがったりはせず、平静な感じだ。同い年くらいなのに色恋に関してだけは肝が据わっているのかもしれない。清矢もはっきりと言った。

「俺たち、冬宮様から言われてるんですよ。姫宮さまをそいつから守れって」

 朱莉はブーツのヒールをかつりと地面に響かせて仁王立ちした。

「ダメです! 仲良く! あなたのお父様もわたしのお父様もそのうち分かるはずです、鷲津とやりあうのは愚かだって」
「何で?」

 物怖じしない詠は怪訝そうな顔をした。冬宮と同盟した祈月軍閥は鷲津率いる国軍に快勝した。今の西国の情勢からしたら、朱莉の物言いは理に合わない。彼女は胸の前で手を組みあわせ、懇願するように清矢たちを見つめた。

「お父様は自分の都合しか言わないもの……! わたしを月華神殿に入れるとか、いきなり祈月家と組むとか。毛利諒さんは私にしっかりと今のまつりごとの混迷を教えてくれています」

 小一時間論議するにはこの場はふさわしくなかろう。清矢は改札に向けて歩き出した。
 振り返って、少し口ごもりながら尋ねた。

「それより、……夜空は? どうしてる?」

 朱莉が小走りで追いかけながら伝える。

「今日の宴にお出でになると思います。生き別れの兄君との再会に同席できるだなんて、まこと光栄にございます」
 ようやく姫宮らしい言葉を発した朱莉は、額に汗を光らせながら笑った。

 月華神殿までは円タクで自動的にたどり着いた。宝塔を模した門を通ると、砂利敷きの練兵場が前庭にしつらえられ、本館は擬洋風建築、赤レンガ造りの三階建てだった。柱頭玄関壁やアーチ型の窓は漆喰で塗りこめてあり、傍目には白く輝いて見える。瓦葺きの屋根の中央には、綺羅星を添えた月紋が彫られていた。常春殿と似たような造りで、清矢たちは勝手知ったる風に入っていった。歩哨の兵は、銀と黒のベルトを縫いつけた白地の戦衣を着ている。
 姫宮・朱莉は兵に荷物を持つよう頼んで建物に入り、清矢たちを一階北西の部屋に案内した。そこは貴賓室で、小花唐草文様のカーペットが敷かれ、椅子の代わりか、赤い毛氈が内周を取り囲むようにコの字に引かれていた。窓側の壁面には狩野派の筆と思しき金屏風が立てられ、その前の置き畳には壮年の女性と年若い少女とが、巫女服で正座していた。彼女たちの前には和琴が置かれ、大きな檜扇が伏せられている。朱莉は二人に近寄り、清矢たちを紹介する。

「白菊さま、瑠美奈さん、陶春からの客人を連れてまいりました」
「よろしい。朱莉さまも着替えておいでなさい」

 朱莉は深々とお辞儀をすると、兵に荷物を宿舎に運ぶよう言いつけて、去っていった。窓は開け放たれているが、屏風のせいで風が通らず、蒸し暑い。壮年の女性が三つ指ついて清矢に礼をした。清矢は乾いた喉を唾で潤して名乗った。

「祈月清矢です。本日の宴に兄が出席するとのことですが……」
「わたしは巫女長の白菊と申します。しばらくしたらお出ましになるでしょう。瑠美奈さん、席次を案内して」

 清矢たちはもうひとりの少女に入口近くに案内され、そこに座った。充希が軽口をたたく。

「瑠美奈ちゃん、姫宮さまをさしおいて大役だね。兄としては鼻が高いよん」

 ツインテールを高く結って、吉祥結びの髪飾りをつけた娘は赤くなって反論した。

「だって姫宮さまが恥ずかしいって辞退するんだもの……! 仕方がないでしょ」

 充希の頭をぴしゃりと叩いて、大きな瞳ですっとこちらをのぞき込む。

「清矢さま。あたし充希の妹の瑠美奈です。ここにいる間はどうぞいろいろ頼ってください」
「えっと……さっそく、夜空について話したいんだけど」

 瑠美奈はしっと人差し指で清矢を制した。

「お静かに。全員が味方とは限りませんよ。もう少しお待ちください」

 瑠美奈は言い残して元の席に戻っていった。清矢、充希、詠と並んで、足をくずして指示に従う。学生服の開襟シャツをひっぱって、何とか涼をとろうとした。

 そのうち、神兵隊の中でそれなりの階級と思しき者たちがやってきて、清矢たちの上手に回った。また、神官も澄ました顔で顔をだした。最後に巫女たちが軽やかに現れ、壁際に給仕に立った。

 氷を浮かべた抹茶と水ようかんが配られる。詠は尻尾をぱたぱたと鳴らしながら誰かが手をつけるのを待っている。

 しばらくすると、時計台から三つ時の鐘が鳴った。長とおぼしき銀狐亜種の神官が、おもむろに立ち上がって音頭をとる。

「時刻となりました。未だお出でになっていない向きもございますが、白透光宮家直系のご子息を歓迎いたしまして、ささやかな宴を催したいと思います。演目は、巫女長の手による『風の歌』。舞い手は、望月瑠美奈」

 ばらばらと気の抜けた拍手とともに、琴の演奏がはじまった。

 詠が小声で清矢につぶやく。

「白透光宮家に伝わる曲だな」

 のどかな春日を思わせる、典雅な曲が奏でられ、貴賓室の中をやわらかな風が吹き抜けた。『風の歌・平調』。音曲魔術のうち、白透光宮家初代の嘉徳親王が作ったとされる基礎曲であった。これを宮中で奏でたため、強風で調度が壊れたという逸話もあったが、発現は注意深くコントロールされており、あくまで観客たちに心地よい春風を感じさせるにとどまっていた。幼い頃から基礎練習で親しんできた調べを、こんな旅先で聴けるとは思わなかった。大役の瑠美奈も扇片手に懸命に舞う。

 抹茶で乾いた喉を潤す。甘味も疲れた身体に嬉しい。小規模な歓待だが、心がこもっているように思った。

 音楽が終わり、歓談がはじまったすきに、遅れての客が現れた。

 防弾チョッキを着込んだこわもてに連れられて、二人の少年がやってきたのだ。一人は、ふわりとした短髪で、チョッキをシャツに重ねただけの洋装。黒い獣耳と長い尾をした、優美な猫亜種だ。もう一人は、長い黒髪を背に流し、愛嬌のある顔立ちで、絽の藍色の着物を着ていた。こちらは、白狼亜種。どちらも小奇麗な容姿をしていた。

 ――もしかして、夜空なのか。

 清矢は硝子の抹茶椀を手のひらで温めながら、年若い客人を注視する。
 巫女たちがさざめくように色めき立った。

「まあ……祈月夜空さまも毛利諒さまも、相変わらずお美しゅうございますね!」
「あの黒髪の艶やかなこと。女顔負けよね」
「それに比べて弟の清矢さまはおとなしくて、こう……可憐な感じ?」
「次男じゃぁねぇ……それに戦で人殺ししたんでしょ」
「隣にいる元気そうな子はだぁれ?」

 司会をしていた神官が、咳払いをして叱りつけた。

「巫女たち、軽薄に過ぎるぞ。毛利様がた、末座にお座りください」

 二人の少年は清矢たちに相対する位置に座った。髪の長いほうの少年は、軽くこちらに手まで振ってくる。

 すると、砂色の髪を高く結い上げた猫亜種の巫女が、勝手知ったる様子で彼らの側に歩み寄り、抹茶と菓子をふるまった。打ち解けた様子で歓談している。彼女の尾は上機嫌を示すようにぴんと立っている。
 戸口に立った巫女たちは冷やかすような忍び笑いを漏らす。
 清矢はまごつきながらとなりの充希に聞いた。

「えっと、あれってもしかして」
「夜空たちだよ」

 充希はあっさり言って肩をすくめた。

「巫女さんたちはね、男の品定めが大好きなの。ここの神殿は、密通したら即・死罪。だから、現実逃避みたいなものだけどね」

 詠もきょとんとして尋ねる。

「充希もあんなふうにモテたりしたのか?」

 いつも軽い雰囲気の望月次期当主は意外にも渋面をした。

「さすがに妹が連帯責任になったらヤバいよ。『水迷宮』に放られたくない。くわばらくわばら……」

 雑談していると、巫女長の白菊がこちらまで挨拶をしにきてくれた。『風の歌』の演奏の礼を言う。グレイヘアをきつくまとめた彼女は演目の歴史について講釈をはじめた。

「『風の歌』はかつて、嘉徳親王のご子息、季徳公の三人娘のうちのひとり薄雪さまが、この月華神殿に巫女長として仕えたころから奏法を伝えられております。薄雪さまは常春殿で『日の輝巫女』が大巫女だった時代を生きた人物ですね」

 邪法によって百年を生きる常春殿の魔物女の名が出てきた。詠ががぜん身をのりだす。

「『日の輝巫女』のころの人か。苦労されたんだろうな」
「大変お美しく、叔父上の永帝からも入内の話があったそうですが、生涯独身を貫き、この地で巫女長としての務めを全うされました」

 単純な詠は逸話を聞いてうなる。

「すげぇ、さすが清矢くんの先祖だぜ……! 一本筋が通ってる。もしかして、似てたかもしれねぇな」

 充希も本調子をとりもどして、ニヤニヤしながら茶々をいれる。

「俺もちょっと、薄雪さまには憧れちゃうんだよね~。清矢クンって負けん気強くて冷徹な美人でしょ? もう想像したそのまんま!」

 肩を抱いてきた充希を、詠が無理やり引きはがそうとする。

「なれなれしく抱くんじゃねぇ! 清矢くんもちゃんと突き放せよぉー!」

 盛り上がっていると、長髪の少年が清矢のもとまで進み出てきた。愛くるしい顔立ちをしている。彼は白菊のとなりに並ぶと、ほがらかに言った。

「清矢! 楽しそうだね。俺もロンシャンから帰ってきたよ。会えて光栄だ」

 長年の別離など忘れたような、呑気な言いざまには、イラッとした。

 清矢は再会の祝辞などは述べなかった。茶碗を床に下ろし、兄をにらみつけて、開口一番、牽制する。

「……夜空、自分が誰と組んでるのか分かってるのか? 鷲津だぞ」

 夜空は一瞬面食らい、悲しそうな顔をした。そして声のトーンを下げ、冷静に反論する。

「俺は自分が賢明だと思うけどね。祈月軍閥が魔法を独占できる日々が長く続くと思うかい? これからはロンシャンから魔法兵器も輸入する。土着化した四神殿の神兵隊も改組して国軍に組み入れる」

 敵側そのものの言い分を聞いて、直情的な詠が声高らかに噛みついた。

「鷲津は、俺を騙して拷問までかけたんだぞ。それに、三島宙明を使って夏目雅さんを殺した!」

 物騒な糾弾は貴賓室に響き渡り、ざわめきが水を打ったように止んだ。司会をしていた神官が間に入ってくる。

「神官長の霧森昴きりもり・すばるです。いきなり喧嘩は困りますよ」

 充希が代わりに謝った。霧森はあまり取り合わず、じろりと夜空を見る。

「それとも夜空さまも月華神殿に泊まられますか?」
「いや……毛利の世話になるよ」

 夜空はそれだけ言って、とぼとぼと自分の席へと戻っていった。瑠美奈が慌ててやってきて、清矢たちを貴賓室から連れ出す。

 三階の寝室に向かう階段を上る。詠はいまだ怒りが収まらぬようだ。

「あいつ、『新月刀』を持ち逃げしたことについては何もなしかよ!」

 充希も珍しく詠に同調し、現状を嘆いた。

「あの言い分も、お父上の源蔵さまに真向対立しちゃってるね。やっぱり敵に利用されちゃった……」

 先を行く瑠美奈が釘を刺す。

「月華神殿も、祈月の次期当主は夜空か、清矢かで割れてる。心配なのが、姫宮さまよ。お父上のご意向を無視して、毛利諒に首ったけ。清矢さま、あんた、ヤバいわよ」

 清矢は周囲を気にしながら小声で確認した。

「冬宮は俺を推してくれてるんだよな……?」

 瑠美奈はさばさばと言った。

「そう楽観はしないほうがいいよ。ともかく、明日からは全員で神兵隊と魔物退治に参加して。民の役に立ってるってところを見せないと。毛利軍閥は月華神殿なんて解体してほしいと思ってるんだから」

 建物の隅にある、四畳半の和室に入った。畳を箒で掃き出し、二人ぶんの布団を敷くと、瑠美奈と充希は去っていった。

 夏の日は長く、飾り窓を開けると詠も懐っこくとなりに並んでくる。
 しゃわしゃわとセミの鳴き声に耳を澄ませていると、詠は窓枠につっぷした。
 不穏な情勢をいったん忘れたように、感慨深げな笑顔を見せる。

「あーっ、清矢クンとこれから二人で、ここで暮らすのかぁ」
「何だよ」
「すっげぇ嬉しい。俺たち恋人同士だしさ」

 素直にそれだけ言って、詠は畳に座った清矢を抱きしめてきた。汗ばんだ髪をかき分け、すんすんとけもみみの根元をかいでいる。「何やってんだ」と清矢が止めると、「へへっ」と照れて笑う。

 からかうつもりで、清矢はたきつけた。

「もしかしたらここにいる間に、俺たち、大人の階段上っちゃうかもなー?」
「そ、そういうことしに来たわけじゃねぇだろ」

 純朴な詠は赤面している。清矢は「まァな」と真面目になった。

「ともかく、夜空とはもっと話さないとな。瑠美奈ちゃんか充希に言って、魔物退治にも呼んでもらおう」
「調略ってことか。上手くわかってくれるといいけどな……」

 詠は畳に後ろ手をついて空を仰いだ。
 清矢も荷物から団扇を取り出し、扇ぎながら兄の来し方を思った。

 九歳で生き別れた二歳上の兄、夜空。面立ちもどことなく祖母のさくらに似ており、弁が立つのもそのままだ。守役の夏目雅が死んだことを苦にして、国外へと脱出した。『新月刀』の在処も、逃亡の際に志弦を利用した謝罪も一言もないのは気にかかる。待たされた清矢としてはなじってやりたいことは山ほどあった。出奔の際の不義。『新月刀』ほか宝物の行方。ロンシャンからの手紙の真意。

 団扇の風の行方をたずねる。夜空は幼い頃、いつも清矢の少し先を走っていた。追いかけるうちに、兄は異国へと消えうせ、皆は彼を非難した。

 詠は夜空を知らない。会話を交わしたことすらない。そういう人間も清矢の周りには今や大勢いた。

 清矢は十六になった。少年にとって、七年とはあまりに長い時間だった。日ノ本の世情が荒れ狂う中、兄が身よりもないロンシャンで何をしていたのか、どうやって生き残ったのか、知る由もない。

 静まり返った室内で、詠が小さくつぶやく。

「本気で敵になったらどうする?」
「……まずは言葉でわかり合おうぜ」

 清矢は、自らに言い聞かせるように、そう答えた。

## 3記憶からぬけおちたもの

 翌日の朝霧が晴れる頃、清矢たちは神殿周辺の魔物退治の一隊に加わっていた。これは月華神殿の日課であり、地元住民の安全を守るために欠かせない活動だった。

 清矢は祈月紋を背に染め抜いた白ロングコートの軍装、詠は黒基調の常春殿神兵隊の鎧に身を包み、赤い首巻きをしている。充希、瑠美奈といった望月家の面々も加わり、それに神官長から随分止められたが、姫宮こと蘭堂朱莉も姿を見せた。巫女たちは巫女服の上に革の胸当てやひじ当てをつけていた。

 今日も遅れてきた夜空と毛利諒は、物見遊山がまるわかりの私服だった。

 兵たちの中には、「ただでさえ暑いのに子供のお守りなんてまっぴらだ」と不運を嘆くものもいた。

 神殿周囲は結界に守られてはおらず、街道にまで魔物が出る。木陰から、『月影蜘蛛』と呼ばれる半透明の巨大蜘蛛が鈴の音を立てながら飛び掛かってきた。

 清矢は矢面に立たず、軍用ハーモニカに唇を寄せた。『退魔歌』の旋律が夏の朝のつゆけき森に響き渡る。吹き口から放たれるほの暗い音色は、魔物たちの力を弱める邪気祓いの力を持っている。

 『月影蜘蛛』が吐き出した銀色の糸があてどなく宙を舞うのを見ながら、清矢は隊の動きを観察した。

 充希が糸に足を取られながらも、慣れた様子で剣気を飛ばしている。小蜘蛛の何匹かは『退魔歌』の威力に耐えられないらしい、泡を吹いてひっくりかえっている。最初は愚痴をこぼしていた兵士たちも、今では手早く敵を斬り伏せ、安堵の表情を浮かべている。一人の兵が振り返り、清矢に向かって讃えるようなサムズアップを送った。ハーモニカの効果を実感したのだろう。

 毛利諒と夜空は戦闘には参加せず、ひたすら一人の巫女に守られていた。先日の宴でも話をしていた猫亜種の少女は、ぴったりと夜空たちの前について祝詞を唱え、桃色の結界を発生させて二人を保護している。

 女に守られるって、どれほど宮さま気取りなんだよ。

 あきれ返った清矢は、ハーモニカの替えを夜空に渡した。

「お前も『風の歌』くらい弾けよ。『退魔歌』ならもっといいけど」

 夜空は木でできた特製の楽器を受け取りつつも、悲し気に言った。

「俺は弾けないんだよね、それ」

 夜空は言いながら、どこか遠くを見るような目をしていた。
 清矢は驚いた。

「忘れちまったのか? 『風の歌』は嘉徳親王が御所で弾かれたっていう曲だぜ……ほら、父上に習っただろ?」

 夜空はうなずくと、ハーモニカを清矢に突き返した。
 清矢は楽器を受け取りながらも、その態度に違和感を覚えていた。

 夜空に『風の歌』を教えたのは、実父の源蔵だ。
 当時から内乱の現場におり、ふるさとに戻ることも稀だった父だが、夜空については、跡継ぎ教育の端緒として、『風の歌』を手ずから教えたのだ。
 火喜山までわずかな供回りで息子たちを連れ出した源蔵は、中腹の休憩所で立ち止まり、手持ちのハープで、太い指で旋律を奏でた……。
 父の『風の歌』は、春風の再現というより、戦いのほてりを覚ます、高らかな誇りの歌だった。
 夜空だけが、宮家に伝わる特別製のハープで、その風の音をたどたどしく真似た。
 五月、初夏の日。子供ながらに兄をうらやましく感じたことを覚えている。

 ロンシャンに行くまでは、夜空だって宮家直系の嫡男として、音曲魔術の習得のため、厳しい訓練に明け暮れていたはずだ。いくらなんでも、基礎曲の奏法を忘れたなんて……。

「上空より敵襲! 散開ーーっ!」

 間延びした号令が響き、飛び龍、と名ざされた巨大トンボが恐ろしい口を開いてまっすぐ突っ込んできた。姫宮・朱莉が勢いよく駆け出し、鉄扇を飛ばして機先を制す。巫女装束の紅白が一つの花のようにふわり広がる。彼女が口ずさむのは古の節回し。清冽でありながら、どこかに淫らな、あざ笑うような響きをしている。

 トンボが太い胴をしならせて、鋭い尾で突きを放つ。朱莉は後ろに飛びずさり、黒のショートブーツの踵を、八歩を単位に、とん、ととんと踏みかえて禹歩うほの舞を踊りだす。

 扇を広げた右手がなめらかな軌道を描く。それに合わせて五色の糸房鮮やかな鉄扇が宙を舞う。

 トンボは扇を避けるが、鉄扇の銀光は唸りをあげて薄い翅を削った。トンボの動きが鈍り、空中をホバリングするのが精いっぱいになる。

 朱莉の左手は中指と親指をすり合わせて印を結ぶ。あどけない声が、天の加護を乞うた。

「月華よ、邪を祓いたまえ!」

 号令に合わせて左手が膝まで下ろされると、扇が生き物のように空を走る。一閃、ぎょろ目の頭部がすとんと落ちる。朱莉の華麗な勇姿に、鬨の声があがる。

「すげぇじゃねぇか、姫宮さま!」

 大ぶりの黒耀剣で敵と切り結んでいた詠も快哉を叫んだ。
 見物していた毛利諒は腕組みをして、一瞬、朱莉の舞に見ほれたように目を細めた。
 そしてぱちぱちと気のない拍手をして見せた。衆目が集まる。彼は端正な美貌で笑い、大胆に毒づいた。

「……月流の舞。もとは殺人術ですよね。貴賓室に呼び出して、酔わせてから月流の舞で暗殺する」
「姫宮さまに不敬だぞ!」

 兵が咎めるが、毛利諒は巫女の結界に守られたまま、余裕たっぷりに続けた。

「無垢な姫宮さまにこんな芸を教え込んだのはあなたたち月華神殿でしょう。いいご趣味をしてますね」
「――ストップ! 言い過ぎじゃない?」

 充希が止めに入る。朱莉は硬い顔でその場に立ち尽くしていた。
 夜空は毛利諒の意見に大きくうなずいて、さも賢明な様子で続ける。

「だからさ、鷲津清隆の解体案って、案外まともだと思うんだよね。……四神殿の時代は、もう終わったんだよ」
「我らの前で何を言う!」「太いやつらだ、しおり、今すぐ結界を解け!」

 月華神殿の兵たちは神殿を謗った二人に凄みだす。剣呑な雰囲気となった。
 しかし魔物は人の都合に合わせてはくれない。喧騒に惹かれたかのように、怨霧獣おんむじゅうという水子の群霊体が、嬰児の笑い声をたてながら隊の周囲を飛び交いはじめた。
 清矢はハーモニカで『退魔歌』を吹き、浮足立つ兵を戦闘へと駆り立てた。

 怨霧獣は周囲に白色の霧を発生させ、隊をまるごと包み込む。目に覆いをしていない者は視界を奪われてうずくまった。清矢は舌打ちして手持ちの魔法剣、祈月紋入りのマンゴーシュをふりかざすが、レンジの狭い物理攻撃では空飛ぶ霊体はうまく倒せない。

 清矢に少しでも危機が迫ったと見るや、詠が黒曜剣で常春殿の術を行う。

「日光照射!」

 正眼に構えてそう命じると、黒光りする剣身がぎらりと輝き、陽光が円錐状に収束した。空を飛ぶ怨霧獣が太陽熱に焼かれ、じゅっと音をたてて蒸発した。戦闘は終わったが、きしんだ雰囲気が和らぐことはなかった。朱莉は恥じるように鉄扇を畳んでしまう。見かねた隊長が帰投を宣言した。予定の半分ほどで、清矢たちは基地まで戻ることになった。

 もう午前を過ぎ、夏の明るい太陽が頭上にじりじりと居座る。

 神殿にたどり着くと、帰りを待っていた巫女長の白菊が、臨時参加の若者グループに用事を言いつけた。

「戦闘はもうよろしいですから、昼ご飯の前に『水迷宮』にお参りをしてきてください。ついでに、お掃除も」

 それぞれ箒や水桶を持って、本館の裏手の高台へと向かった。夜空たちを結界で守っていた巫女も改めて「しおり」と名乗り、付き従った。杭を並べた神道風の墓が並ぶ広場0の中心に、硝子張りの水柱が立っている。万華鏡のような円柱で、20mほどの高さだ。その中は自然に渦が巻き、透明な水の中には反射でない無数のきらめきが流れていた。まるで、白昼の天の河を閉じ込めたようだ。

「白透光宮家の姫宮、薄雪さま。叔父・永帝の求婚を断ってこの地で没した、巫女長さま」

 蘭堂朱莉は清矢の先祖の名を呼んで、硝子の水柱に向かって手を合わせた。

「彼女の魂は今も、この『水迷宮』に留まっています。皆さん、黙とうを」

 清矢たちは大人しく言う通りにした。

 蝉しぐれが沈黙を圧倒し、やがて望月瑠美奈が静かに付け加えた。

「他の多くの魂と一緒なの。神官も、巫女も、罪人も、信者も……地元の人たちをずっと見守ってる。私もいつか、あの中に還る」

 それが北陸にある月華神殿独特の信仰だった。瑠美奈は半ば魅入られたように『水迷宮』の渦を見つめていたが、朱莉は複雑そうな笑みで皮肉った。

「私は嫌ですけどね、魂を永久に監獄にとらわれ続けるなんて」

 しおりも吐き捨てるように続けた。

「ほんとに嫌な所。早く出ていきたい……」
「だからみんなさっさと嫁ぎ先を決めたがるんだよね」

 瑠美奈はばつが悪そうに肩をすくめる。
 夜空は腕組みをして嘆息した。

「月華神殿は本当にひどい統治をしてるんだね……死後も魂を保存してるだなんて」

 清矢は話し合いの好機と思い、大きな釣り目でじっと見つめながらわざとらしく話題を変えた。

「夜空。そういやお前『楽興の時』好きだったよな。後でまた、ハーモニカで弾いてくれよ」

 夜空は困ったように微笑む。

「清矢……俺にはそんな難しい曲は無理だよ。お前が弾くというなら喜んで聞くけど」

 清矢もまた笑みを口元に浮かべたまま、少し間をもたせた。
 シューベルト『楽興の時』第一章は、夜空が十歳のころ、ピアノ発表会で演奏した曲だ。
 まだ幼かった清矢にも、森林に響くファンファーレのような、印象的な主題を歌ってくれた。
 さらに追及する。

「じゃあさ、『万葉歌がるた』覚えてる? 『むささびは木末こぬれ求むとあしひきの』」

 夏目私塾で、子供たちが集められて遊んだ古狼お手製の『万葉歌がるた』。
 清矢の暗唱した和歌は志貴皇子の作で、下の句は『山のさつ男にあひにけるかも』。むささびが山で猟師に出会ったという素朴な歌意だが、妙にみんなの笑いのツボにはまってしまって、渚村では秘密基地の暗号に使われていた。
 夜空はすまなさそうに肩を縮めて「ごめん、もう忘れちゃった」と答えた。思い出話に花を咲かせるという態度ではない。清矢はそれ以上突っ込まず、本題を切り出した。

「それでさ夜空。月華神殿の批判は結構だけど、お前だって家の蔵から様々な物を父親に内緒で持ち出しちまった。それについてはどう思ってるんだよ? 日本に残った志弦はひどく責められたんだぞ」

 夜空は長い睫毛を伏せた。

「志弦か。彼女には迷惑をかけたよね……」

 しおりが「志弦さんって誰ですか?」と聞いてくる。祈月軍下の猛将、張本忠義の娘で、ロンシャンに行く前は夜空に惚れていたと説明する。彼女は「……そうですか」とだけ答えて、浮かない顔をした。

 張本志弦は夜空の出奔後味方もなく、代わりに失せた家宝の責任を問われつづけた。

 新参の詠が地元の仲間たちの意見を代弁する。

「迷惑どころの話じゃねぇだろ。夏目の家の文香だって怒ってたぜ。父親の形見までお前が持ってっちまったって……!」

 夜空は憂いを含んだ表情で、「彼女にも済まなかったと思う」と言った。
 通りいっぺんの謝罪に、詠は怒って𠮟り飛ばす。

「文香はややこしいけど男だろ、何でそんなことまで忘れちまってるんだよ!」

 そう、夏目文香は、名前こそ男女まぎらわしいが、夜空と同い年の男であった。白狼に変化するわざを使える若者だ。夜空の顔から一瞬、血の気が引いた。しかし、すぐに「ああ、そうだった。間違えたんだ」と取り繕う。
 清矢は首を傾げた。文香は夜空の守役を買ってでた渚村の古老、夏目雅の一人息子。当然、志弦とともに夜空の側をとりまいて、宮家の歴史や古典の勉強に共に取り組んでいた。正しい意味での竹馬の友だ。
 そんな人物の性別を、よもや忘れるはずはない。

 望月充希もさすがにおかしいと思ったのか背中に差した『満月刀』を取り出した。

「『新月刀』は持ってる? まさか失くしたなんて言わないよね」

 碧青の柄、からくり仕掛けの目貫き釘を外して、夜空に中の紋を見せつける。

「≪新月まではあと何夜?≫」

 それは、望月家と祈月家の間で使われる符丁だった。吸収できる魔力の残量を問う、妖刀にまつわる合言葉。
 夜空は懐から『新月刀』と思しき小刀をちらりと見せた。

「これ以外のものはロンシャンで取られてしまったよ」

 声には力なく、横顔も白い。
 その懐刀は赤い柄を持ち、黒漆塗りの鞘には蒔絵で桜の花びらが繊細にちりばめられていた。望月家に伝わる『満月刀』と対になる意匠。清矢もレプリカ以外を見たのははじめてだった。遠目には、不審点はないように思う。
 成り行きを見守っていた毛利諒が手を挙げて割って入った。

「経緯についてはこれで充分でしょう」

 夜空と清矢の間に身体を割り込ませ、やや急いた様子だ。

「誰にでも言いたくないことの一つや二つはあるものです。夜空どのも例外ではない」

 そして、暇も告げずに踝を返す。しおりも二人に従った。
 ……誰も深くは引き止めなかった。
 気まずい空気をやわらげるように、朱莉がわざと明るくつぶやく。

「夜空さんって、確か単身でロンシャンへ行かれたんですよね?」
「ええ、十一の頃です。ずいぶん昔だな」

 清矢は嘆息して空を仰いだ。
 だが、細かい違和感が感傷を阻害した。
 朱莉に向け、強いまなざしで疑惑を念押しする。

「だけどさすがに文香を女と勘違いするなんてな……」

 同じく疑念をもっていた充希が声を潜めて聞いてくる。

「あれって偽物ってこと? わざわざ見せつけてくれた『新月刀』も?」

 瑠美奈がうなずいて付け加える。

「月華神殿もあの人については怪しんでいたの。真偽がわからず困ったので、至極殿に連絡してあんたたちに確認を頼んだわけで……」

 清矢は万座を見回しながら核心を口にした。

「毛利の奴、替え玉立ててるんじゃねぇか?」

 本当ならかなり横柄な離間策だ。清矢は冷ややかに続ける。

「まったく手を煩わせてくれるぜ。もっと客観的な証拠もほしいところだが」

 清矢の疑念を聞いた朱莉はふらついて水柱にもたれかかった。

「われら蘭堂宮家と白透光宮家は、同じ厳帝から枝分かれした尊い血脈。諒さん、それを、替え玉だなんて……」

 詠が不安げにこちらを見つめている。
 替え玉だとして、あの夜空は何者なのか。
 毛利の策を白日のもとにさらして、断罪する法はあるのか。
 清矢は『水迷宮』の特殊ガラスに手を触れて、中を覗いてみた。
 その奥では無数の声なき魂が、水流にもまれてきらめいている。

4零時の任務

 翌日、清矢たちは炊事場の片づけを手伝わされた後、望月家に言われてとある旅館を訪れた。町家の意匠をそのまま残した高級宿に足を踏み入れると、広々とした玄関から続くフロントで、見知った顔が待っていた。

「零時! 久しぶりだな、一年ぶりか?」
「清矢くん。昨年はお世話になりました。月華神殿ではどうですか?」

 紗のグレーの袷に濃い紫の袴を合わせた旅装の少年が、ほがらかに微笑む。つややかな栗毛から白狐の獣耳がぴょこんと立ち上がり、相変わらず控えめな様だった。彼は古都山城県に住む土御門家の傍流で、一難去ってどうしているか、気にかかっていた。

 うすくれないのワンピースを着た零時の母、牡丹も頭を下げる。精神を病んでいた彼女も旅行ができるくらいには回復したらしい。興奮気味にカラー印刷のパンフレットを見せてくる。

「苗奈滝ってご存じ? 今日行ってきたんだけど、渓谷からの滝つぼにいつもふんわり虹がかかるの。涼し気で、ほんとに美しかった……みんなにも見せてあげたいわ」

 土御門家の内祝いも伝えられた。陶春渚村からかの家に嫁いだ永野松宵は、無事出産したようだ。

道時みちときって名付けたんです。零時さんと字を揃えてくれたみたい」

 彼女は照れくさそうにしていた。世間話まで可能だとは、清矢にとっても嬉しい驚きだった。

 付いてきた詠とともに、戦後の様子をあれこれ聞く。

 鷲津清隆率いる国軍の一部と、祈月軍閥の戦いは、海上でかたがついたために街は荒れていないようだった。ただし海路封鎖のため、魚介類などの値段が上がって、観光業も閑古鳥。零時の叔父の家は薬屋なので景気がいいようだったが、古都がもとの賑わいを取り戻すのは来年以降になりそうだ。

 零時は話の腰を折るように、「ちょっと」とフロントの籐椅子を立ちあがり、清矢だけを旅館の奥に誘った。見事な松の植えられた、玉砂利の中庭を歩く。松の木付近まできたところで、振り返って、深刻そうに用向きを告げた。今までとは打って変わって、声が乾いている。

「祈月軍閥の北条直正さんから、『夜空暗殺』の命を受けています」

 清矢はそのあまりに危険な響きに、息を止めて二、三度まばたきをした。確かに零時はかつて渚村の古狼、夏目雅を呪殺した人物の息子である。似たようなまじないが可能なのだろう。

 そして、夜空の存在は味方の結束を割りかねない。当主争いというややこしい状況を手っ取り早く整理するには、ありえる策だったが……。

 零時の生真面目な顔をまっすぐに見据え、高鳴る胸の鼓動を感じながら、首を左右に振った。

「そんなこと零時にはさせられない。こっちに協力する際に、俺はちゃんと約束したはずだ」

 清矢にとって、零時は不幸な友だった。父と同じ殺人の負い目を着せるなどということは、受け入れがたかった。
 零時はにっこりと屈託ない笑顔を見せた。

「そう言ってくれると思ってました。人質にされるのが嫌だったから、母さんを連れてきたんです。でも状況はどうなってますか? それだけはちゃんと北条さんに伝えないと……」

 清矢は毛利軍閥と月華神殿の不仲のこと、そして夜空の素性に不審な点があることを伝えた。零時は傍の庭石に腰を下ろし、指でこつこつと岩を叩いた。

「夜空の持っている『新月刀』って果たして本物なんですか?」
「だけど、どうやって証明すればいいか……」
「簡単です。『新月刀』は現在、お父上の血で動いてる。真偽は、誰かの魔力を吸い取ってみれば知れます。息子のあなたなら作動させられるはずです。式次第は、対の刀をもつ望月家に聞けばいい」

 零時は術師の家柄らしい博識を発揮し、家伝の刀についても策を示してくれた。懐から手帳を取り出し、清矢に確認してくる。

「月華神殿のほうの出方はどうですか?」
「毛利軍閥は鷲津と組んで月華神殿解体を主張してる。兵たちも警戒して睨みを効かせてるよ。絶対とは言えないが、俺たちを裏切ることはないと思う」
「分かった、少しの間母さんとここに滞在するから、困ったら言ってね」

 これにて味方との連絡は成った。フロントに戻った清矢は、待っていた詠と帰ることにした。

 真夏の昼間、笹林の合間、蜃気楼ゆらめく道を歩きながら、詠に次第を告げる。暗殺指令を聞いた詠は硬い顔をしたが、清矢が断ったのを聞くと、わしわしと頭を撫でてきた。

「それでこそ清矢くんだ。俺の命、預けるに足りるぜ」
「そうだ、だって俺は約束したんだ……そんな卑怯な策じゃなく、正しさで夜空をねじ伏せてみせる」

 きっぱり詠の顔を見て言った。しかし、内心には不安もあった。ふと立ち止まり、人の良さそうな恋人の顔の輪郭に指を這わせる。

 清矢は少女にでもなった気分で小さく甘えた。

「だけど……怖えな。軍閥の参謀の意見、無視しちまう」
「俺も一緒に怒られてやるよ」

 詠は優しい声でそう言って、清矢の両肩をがっしりと掴んだ。

「大丈夫だ、清矢。俺が絶対に守ってやる。側、離れんな」

 背中をふいに抱きすくめられて、清矢は一瞬、陶酔した。夏の深緑がまばゆい日光にきらめき、笹葉を掃く風の音すらさやさやと際立って聞こえる。時が止まったような感覚。軽く唇を合わせる。なまぬるい温度。香ばしい汗の香り。詠は離れていく途中、ぺろりと頬を舐めさえした。神経を直接なぞられたくらいの刺激を感じて、腰砕けになってしまう。蒼い木漏れ日の光と影が恋人の姿をいろどる。暑さにもかまわず、このまま抱かれていたくなる。

 そんな女女しさを……清矢は素直に表に出した。もう一度、自分から。顔をぶつけるようにキスをする。詠は腰をしっかりと支える。どちらともなく舌を出した。他人の唾液の味が、よもや甘いだなんて。痺れ薬でも入れられたかのように、全身がとろけていく。

「ん、清矢、もう大丈夫か?」

 細い黒髪に指を入れながら、詠が憎らしいくらいの余裕でつぶやく。こくん、と殊勝にうなずいて、そっと手をつないで宿舎へと急ぐ。

 少年同士の高まった熱を、爽風が吹き散らしていく。ビー玉のたわむれのような一時の夢が覚める。

(5-2につづく)