月華離宮の伏魔宴(第五話)水迷宮のプリンセス(2)

5 偽装されたラブストーリー

 月華神殿にたどりつくと、石膏塗りの玄関口で毛利諒が蘭堂朱莉と談笑していた。黒のシャツにループタイを締めた端正な立ち姿だ。濃紺のスラックスも洒落ていた。朱莉は巫女服のまま、自然に応対している。

 清矢はライヴァルに駆けよると、用向きを聞いた。

「夜空に何かあったか?」
「いえ、彼は俺の家で預かってます。今日は俺たちの政治塾にあなた方を招こうかと思いまして」
「とても勉強になるんですよ。近くの学生さんが参加なさるんです。西国での戦について、皆さんがどう思っているのか、聞きに行きたいです。ご一緒しませんか?」

 朱莉は夜空の替え玉疑惑など忘れているのか、楽しそうに誘った。詠が清矢の袖を引く。

「清矢くん。危ねぇかもしれねぇぜ」

 たしかに敵地に飛び込むということだが、朱莉を一人では行かせられない。了解して、宿舎に戻る。汗みずくの衣服を改めた。

 玄関口に集合すると、朱莉はちゃっかり、ふんわりしたドルマンスリーブのブラウスと、レモンイエローのフレアスカートでおしゃれしていた。ハーフアップの髪にリボンのバレッタをつけているのも愛らしいが、政治塾に赴く恰好としては若干浮ついている気がする。

 政治塾は町の中央部にある公民館の和室で行われていた。書生服の若人が十人ほど出席しており、清矢たちは素性を明かさずに参加することになった。偽名を名乗り、酒を持ち込んで弁をふるう学生たちに付き合う。

 学生たちは華やかな洋装の朱莉をうろんそうに見て、月華神殿の巫女たちについて批判を始めた。

「魔力ある少女を無理やり巫女として仕えさせるというのは一種の徴兵ではないかね? 男子ならともかく、女子にとはけしからん!」
「巫女服なんぞ着せてるが、神官長の助平顔が目に浮かぶようだよ。神殿が許さない自然な恋愛は『密通死罪』だってさ」

 自身が属している月華神殿や同僚の巫女たちを悪しざまに言われた朱莉の顔はみるみるうちに引きつっていく。こいつら、姫宮さまの御前と分かっててそこまで言うのかよ。議論の内容はともかく、清矢は腹が立った。

 やがて、毛利諒が長い猫の尾をぱたぱたと振りながら、口を開いた。

「ただの愚痴なら居酒屋でやればいい。ここは政策を議論する場だ。具体的な立案をしてくれ」

 みな、自然と黙りこくる。朱莉はすがるように諒を見つめた。清矢は流れを変えようと、西国の清涼殿について話すことにした。

「古都にある清涼殿では、崩御した『永帝』にいまも生贄をささげようとする狂信者がいたっていう。祈月軍閥はそいつらを掃討したって話だ。国が二分されてるのは承知の上だが、なんとか国内で協同して、理不尽な支配は改めていけないか?」
「理想論だね。鷲津と祈月は同盟なんかできないよ。今度の戦だって被害は甚大だって言うじゃないか……どうして地方軍閥が皇帝直属退魔軍の基地を私的に占拠したってのに、大逆罪にならないんだよ。今の政治はおかしいね。どこかに黒幕がいる」

 完全に黒幕側の清矢と朱莉は以降学生たちの放言を聞いているしかなかった。死後も魂を呪縛する『水迷宮』についても、気色悪いだの人権侵害だの、さもありなんという言われようである。定刻になり、学生たちは二次会のために町へ散っていく。毛利諒と清矢たちは同道せず、月華神殿への帰りを急いだ。

 田舎町の喧騒の中、朱莉は諒に向けて力なく、体制側の反論をする。

「月華神殿の巫女さんたちは確かに魔力を選抜されて強制的に仕えさせられているけれど、自分の意思で続けている子も多いんです。もちろん、厳しい修行や制約もあります。でも巫女に選ばれれば、教育や社交の機会が得られますし、身分を超えたご縁が生まれることだって夢じゃない」
「……」

 毛利諒は最前の学生たちのように一笑のち切り捨てるだろうと思ったが、返答は異なっていた。猫耳を寝せて、スラックスのポケットに両手を突っ込み、憐れむような視線で朱莉を見る。

 そして、意外な方向性の返事をした。

「あなたが月華神殿に入られたとき、俺はこの世の絶望を見たと思った」
「えっ? どういうこと……」
「魔力ある女の子が取り立てられて、神兵なんかの嫁になる。縁談は四神殿すべてに及ぶ。あなたはまだ幼くて、ひな人形のようだった。そんな光景を俺たちは何度も見てきました。自分の姉妹を守りたい……それは民の自然な願いです。俺はあなたのことを、妹のように思ってるんですよ」

 朱莉は目元までわかりやすく真っ赤になってうつむいた。

「そんな、諒さん、私だって……あなたのこと、ずっと……」

 そこまで言って、もう一言が言えずに顔を覆った。
 諒は清矢たちが見ているにもかかわらず、朱莉の片手をとって、指の関節にキスした。
 朱莉は眉間にしわを刻み、せかるる情を諒に告げる。

「本当なら皇太子なんかよりあなたと一緒になりたいのに」

 破戒のひとことだった。諒は黙ったまま、そっと指から唇を離した。スキャンダラスな光景に一瞬目がかすんだのか、その輪郭が滲むようにブレた気がする。清矢は私情を押し殺し、諒の手首をつかんだ。

「そこまで。貴殿の想いは分かったが、俺も冬宮から姫宮の監視を頼まれてる」

 朱莉は父親の名を出されて己の立場を思い出したのか、小走りでその場を逃げ出した。
 傍観していた詠が「おい、姫宮さま!」と後を追う。
 そろそろ夕刻だった。諒は「失敬」とだけ告げて、道を違えていく。真っ赤な夕日が、敵役の影を長く重く引いていた。

6 『風の歌』は響かない

 明け方、まだ太陽が手加減して、涼しいと言える頃合い。瑠美奈にたたき起こされた清矢は、琴の訓練に参加させられることになった。

 月華神殿の二階、十二畳の続き間で、早朝の白んだ光のなか、巫女たちが静かに琴の調律を済ませていた。
 誰も私語をしない。白絹の装束がきぬずれの音を立てる。
 夢幻のような現実離れした光景に、詠は圧倒されている。
 清矢は場違いな気まずさを覚えながらも、言われるがままに楽の輪に加わった。
 巫女長・白菊が言うには、今朝の訓練は単なる楽の稽古ではなく、魔力の発現を伴う「供儀の型」の確認であるという。
 清矢は一計を案じ、夜空も誘ってみてほしいと頼んだ。その提案に、巫女長・白菊はしかめつらしくうなずいた。毛利の家まで使いが出る。
 夜空が到着するまでの間に、白菊が再び語り出す。祈月家の始祖のひとり、「薄雪」の伝説について、巫女たちに厳かに講義をした。

「……薄雪さまは、風を聴き、月の夢を編んだお方。巫女長としてその身を神殿に捧げられ、やがて、かの辞世を遺されました。――『わくらばも縁ぞあれば華やがん、常世の春にかえるわれらぞ』。この歌に節をつけた旋律を、本日は学びます」

 白菊が見事な姿勢で手本を弾く。清矢はおそるおそる慣れない琴で巫女たちとともにその旋律をなぞる。まだ不器用な指遣いながら、自身の中で何かが噛み合っていくような感覚があった。

 通し稽古まで終わったところで白菊が手を叩き、続けて『風の歌』の自主練に移った。

 つむじ風を巻き起こす娘。そよとも風が立たずに泣く娘。白菊は見かねて、蘭堂朱莉に手本を頼んだ。
 朱莉は丁重に従い、やや前のめりに和琴をつま弾く。
 注意深く統制された柔らかな風が修行の間を吹き抜けていった。清矢も負けてはいられないと思い、琴で風を起こそうとする。

 ……自分は男だ。願わくば、父のような晴れやかな薫風を呼びたい。

 そのとき、襖がすっと開いた。

「お待たせしました」

 毛利諒が先に姿を見せ、続いて夜空が部屋に入ってくる。

 紺のスーツを身にまとい、銀のボタンが朝光を反射してきらめいた。長い黒髪はまっすぐ伸びてさらりと流れ、巫女たちが宮様めいたその姿にほうと感嘆する。場に不似合いなその服装も、一種の威厳を帯びていた。我こそは祈月家嫡男であると全身で語っているように、清矢には見えた。

 だが、夜空が琴の前に座らされ、手始めに『風の歌』を弾けと命じられると、ほころびが露見しはじめた。

 最初の一音は響いた。けれど次の指が止まる。三音目では誤り、彼の手が何度もつっかえる。
 十一歳までピアノをやっていたというのに、筋が悪すぎた。巫女たちの表情が曇る。見かねた清矢が助言する。

「右手だけで弾いてみろ。まずは主旋律を拾うんだ」

 夜空は小さく頷き、再び琴に手をかける。魔力発現の仕掛けが施された特製の琴。
 静かな部屋に、ただ音だけが虚しくこだまする。微風すら起こらなかった。
 誰も何も言えなかった。まるで時間までもが止まったかのような、重い沈黙。
 清矢は夜空を押しのけ、深呼吸して輪唱のように旋律だけを両手で奏でた。フーガとして連なるメロディ。ふわりと空気に流れが起こり、はかなく消え行く右手の音を追いかけるように、色のない風が吹き抜けた。それはどことなく桜を吹き散らす無情さを思わせ、ザッと音を立てて強く畳を掃く。
 清矢はひとしきり曲を弾き終わると、夜空に挑戦状を叩きつけた。

「――お前、一体、何者だ?」

 夜空は何も言わない。正座した膝の上で、拳を固く握りしめている。その背は丸まってかすかに震えていた。
 弱みを掴んだと確信した清矢は夜空の顔をのぞきこみ、非情に追い打つ。

「『新月刀』だって本物かどうか。まったく怪しいもんだな」

 その瞬間だった。

「清矢だって……鷲津では『魔物の子』だって言われてるくせに!」

 夜空が激高し、声を張り上げた。まなじりには涙が溜まり、視線は憎しみに燃えている。

「――『魔物の子』?」

 白菊が思わず聞き返す。夜空は震える声で続けた。

「……遠藤成親小隊を、残虐な術で壊滅させたって」

 そこに毛利諒が、蔑んだ声で畳みかける。

「国軍の兵士には、両足首を斬り落とされた者もいたと聞いています。そんなこと、とても人間が出来る所業じゃない」

 その術には覚えがある。仲間の風祭銀樹による、異次元へと現質を切り取る技である。しかし、この場でそんな責任逃れをしても仕方がない。黙っていると、毅然とした声が夜空をかばった。

「夜空さまの『新月刀』は、本物です!」

 毛利たちを率先して世話していた巫女、しおりだ。彼女は夜空と清矢の間に割って入り、屈辱に握られた彼の手に自分の手を添える。夜空はしおりの励ましにはかなげに笑った。

「……ありがとう」

 夜空は声を出さず、唇だけでそう言うと、そっとおのが目じりをぬぐった。
 悲劇のカップルと化したふたりに、瑠美奈がにやりと笑って人差し指をつきつける。

「ふうん。じゃあ、試してみたらどう? 刀が本物なら、魔力吸収の効果があるんでしょう? 誰か、実験台になってさ」

 彼女は一歩、清矢の隣に進み出て、すっと小袖の袖をまくった。

「あたしでもいいよ?」

 白菊は大きくため息をつき、緊迫した空気に一石を投じた。

「将来のある娘に生傷はつけられません。私相手ではどうでしょう」

 そして関係者を連れて、三階の拝殿に向かっていった。
 拝殿では、中央に飾り立てた祭壇に向かって神官たちが朝の礼拝をおこなっていた。
 率先して祝詞をあげていた神官長の霧森が立ち上がり、白菊に用件を尋ねる。
 彼はふんふんと事情を了解した。思ったよりも柔軟な人物らしく、即席のテストを執り行うことを周囲に告げる。
 擦り切れた金物のような瞳を夜空に向け、尋ねた。

「夜空さま。『新月刀』はお持ちですか」

 夜空はおそるおそる、背広の内ポケットから例の小刀を出した。霧森はうやうやしく受け取り、鞘から刀を抜いて、懐紙を敷いた長持に載せる。
 鉛色の刀身がキラリと光った。
 白菊がすっくと祭壇の前に正座した。犬亜種の彼女は、心を落ち着けるためか目を閉じていた。
 夜空は名を呼ばれると、うろたえて無駄なあがきをした。

「清矢が先にやればいいよ。偽物は彼のほうだ」

 生け贄を買ってでた白菊がカッと両目を見開き、夜空を一喝する。

「往生際が悪すぎる! 夜空さま、ほかでもない、あなたの真実が問われているのですよ。宮家嫡流らしく、堂々となさい!」

 霧森は有無を言わせず夜空の前に長持を突き出した。夜空は震える手で刀の柄を取り、白菊に対してふりかざした。居並ぶ神官が腰を上げ、印呪を結んで抵抗せんとする。近侍していた望月瑠美奈も夜空の手首を押さえて凶行を止めた。

「ちょっと待って。傷は小さいものでも構わないはずよ。手のひらを軽く切る程度でどう?」

 夜空はわなわなと震えながら指示に従う。白菊が差し出す手のひらにスッと刃が切り込みを入れる。血が滲んだのを確認すると、瑠美奈が叫ぶ。

「今よ。『全魔力接収』と刀に命じて! 白菊さまは術を使えなくなるはず」

 夜空は小さな声で符丁を繰り返した。白菊は目を細め、両手をパン! と打ち合わせると、癒しの祝詞を奏上しはじめた。術式が完成し、彼女の身体が清い光に包まれる。白菊は切られた右手のひらを開いて高々とかかげた。みるみるうちに、横一文字の傷が癒えていく。

「……どうやら作動しなかったようね。清矢さまも同じようにして」

 清矢は瑠美奈の指示に落ち着いてうなずき、今度は白菊の手の甲を切った。そして水平に刀を構え、望月充希がやっていたように小気味よく言い切る。

「『全魔力接収』!」

 白菊は笑顔でうなずき、同じように癒しの術を発動してみせた。
 清矢は手元に転がり込んできた『新月刀』を改めた。本物なら、『満月刀』と同じように、残りの魔力吸収量を示す月紋の仕掛けがあるはずだった。
 柄に目貫釘で留められた細工窓の奥に、その紋は隠れている。ひっくり返してためつすがめつしても、そんな機構は見つからなかった。清矢は結論した。

「この刀は偽物だな。なぜそんなものを携えてるかは……後でゆっくり話し合おうぜ」

 夜空はつかつかと檀前に進み出て、清矢から『新月刀』を力ずくで奪い返す。
 そして周囲をぐるりと睥睨して、拝殿を出て行った。

「夜空さま! お待ち下さい、わたくしが弁明します……!」

 しおりが青ざめた顔で夜空を追いかけていく。
 毛利諒も無表情で後を追おうとする。清矢はその肘を掴んで圧をかけた。

「昨日の政治塾での批判については、俺も考えてみる。だが、偽物を立てるのはやめてくれ。それは姫宮さまの血筋まで愚弄することだぜ」
「彼は本物の祈月嫡男だ。……昨日の政治塾? いったいどういうことだ」

 毛利諒は気味悪そうに清矢の手を振り払う。

「まったく人騒がせな」

 どよめきの声が収まらない。霧森神官長は清矢をもの言いたげに見つめた。

「……供の者と一緒に宿所でおとなしくしていてください」

 清矢は黙礼して詠とともにその場を引き上げた。

 神官長の命には逆らえない。夕刻まで宿所でくだを巻き、食堂まで足を延ばした後、汗を流して布団を並べた。
 夏の宵。蛍なのか、それとも雑霊なのか、窓の外の暗がりにはふわふわと微光が漂っている。夕涼みがてら窓にもたれかかって、浴衣姿の詠が言う。

「なぁ清矢くん。どうすんだ。あの偽夜空」
「毛利の策謀は分明だ。零時たちと一緒に帝都に戻って、次の策を練ろう」

 清矢の考えは簡潔明瞭だった。言い切られて安心したのか、詠は窓をしめて隣の布団にうつぶせる。
 どこかから橘をベースにした重たるい香りが漂ってきて、頭がぼうっと酩酊する。
 もしかして、今夜は何か特別な夜なのかな? だから香を焚いているとか……。
 物思いをしていると、詠が背中ごしに丸まって、聞いてきた。

「ここって、女の子多いよな」

 いきなり思春期の男子らしい卑近な話題だったので、清矢は苦笑した。

「清矢くんは、嫁にしたいと思った子はいたか? たとえばさ、瑠美奈ちゃんとか……」
「バカ。そんなこと考えるかよ。俺はお前の恋人なんだぜ? 詠以外、見えねぇよ」

 不器用に牽制してきた恋人に、甘い言葉をさらりと続けた。詠は赤くなりながら向き直って、手を伸ばしてくる。清矢も布団に横たわり、ふんわりと笑いかけた。橘の香は恋の名残りのにおい。さわやかなのに肉感的な、濃密な時間が演出される。

「清矢……だ、抱きしめていいか」

 たどたどしく詠が確認し、肩からするりと腕を撫でおろす。清矢も浴衣だから、前が盛大にはだけて、細身の胴がさらけ出される。清矢はくすりと笑って詠をからかう。

「詠のスケベ。俺にはおっぱいねーよ?」
「お、男にだって胸筋はあるぜ。清矢くん、もっと鍛えろよぉ~」

 詠は頬を上気させながらべっとりと胸を触ってくる。胸の筋肉の付き方を確かめ、手のひらを滑らせて、揉もうとしてくる。少年とは言え、普段は神兵隊で訓練もしているから、そこにはわずかな起伏があった。詠よりははるかに薄い。

 だから敏感だった。指の跡が胸の内側までなぞっていくようだ。清矢の白いなめらかな肌に、詠は無遠慮に触れた。詠は何も言わなかったが、触れ合いが性的な色を帯びていることに、清矢は気づいていた。ぼんやり温まるくらいまでマッサージして、脇の下まで触れてくる。夏なので、身だしなみのつもりで剃っていた。詠は皮膚の薄い汗ばんだそこをぐっと押し込む。体内に近い熱に煽られてか、とうとう頬にキスしてきた。

「はは、ヨミ、キス遅い……俺の身体でいいんなら、いくらでも触っていいよ?」
「清矢。誘うようなこと言うんじゃねぇ」

 詠の声は硬かった。ちゅ、ちゅ、と顎や鼻先にキスをして、でも右手でさわさわと胸をこするのはやめない。そのうち辛そうに眼をぎゅっとつぶって、深く恋人つなぎにしてきた。泣き言をこぼす。

「清矢を、ぜんぶ俺のもんにしたい……!」
「エロいことする? でも、ここ、誰が踏み込んでくるか……」
「しるしだけつける。誰にも清矢をとられたくねぇ」

 詠は独占欲をあらわにして、どこで覚えたのか鎖骨を食んだ。かりっ、と骨に歯を立てて、厚い唇でぢゅっと吸う。痕をつけられながら、清矢は引きずり込むような眠気に襲われて背筋をすくませた。同時に、好きなだけ好きなように、むさぼらせてやりたいと被虐の渚に沈む。

 俺を堕としてもいいのはたったひとり。この可愛い白狼の詠だけ。
 赤い痣はその証だ。鋭く吸われる鈍い痛みが、血に乗って全身にめぐる。
 鉄を溶かしいれたように心が重く満たされていた。

 首元にうっ血したキスマークを残すと、詠はぐりぐりと顔を押し付けてきた。きつく抱きしめ合う。互いの熱が湯ほどに熱い。息を荒くしながらもゆるゆると離して、詠は立ち上がり、おもむろに手洗いに立った。

 詠、悶々としちまったのかな。
 男だし、欲に駆られちまったら辛いよな。
 ちゃんと、俺で感じてくれたのかな……?
 混沌とした思考はすぐにふわりと漂う橘の香とともに闇に飲まれた。

 そのうち、猫のような親密さで誰かが腕に頭を乗せてくる。眠気で酩酊しながら、その頭を撫でようとする。詠の硬い短髪ではなく、しっとりと油を含んだ髪が指の間を流れた。ぎょっとして半目でとなりをうかがう。そこには、決意を固めた顔の娘が浴衣をはだけさせ、石膏のように白い女体を見せていた。清矢は怪訝に思い、身を引く。砂色の髪の娘がばさりと覆いかぶさって、清矢の身体を押さえつける。

 ……しおりだ。夜空と通じ合っていた巫女。

「い、嫌だ、やめてくれ、俺はそんなつもりは……!」

 なぜか声を張れない。寝込みを襲われているというのに凛と跳ね返せない。毛穴に砂を詰め込まれたようなけだるさが抜けず、清矢はずり下がりながら砂壁にもたれる。しおりは立ち上がって追い詰め、清矢の膝上に身をかがめた。

 外で詠がガタガタと引き戸を開けようとしている。つっかえ棒がかかっているらしく、やがてドンドンと扉を叩きはじめる。しおりは、清矢の口を手のひらでふさいで、自身のまたぐらに指を這わせ、わざとらしい矯声をあげる。

「んっ、あ、はぁん……清矢さま、あああっ、堪忍してくださいませ、清矢さまぁ……!」

 見え透いた演技に、清矢は露骨な嫌悪を覚える。詠が半狂乱になって戸に体当たりした。変事に気付いて夜回りの兵まで騒ぎ出す。しつこい口づけを拒否し、性器にからんでくる指を振り払っていると、扉が外されてなだれこんできた詠と目があった。彼は半裸で絡み合う清矢としおりを見て、からっぽになったように畳にくずおれた。

7魔物と人のハーフ

 『密通死罪』は、四神殿のうち月華神殿にのみ存在する掟だ。

 職員だけでなく、民にまで適応される。破った男女は水迷宮での水死が待っている。

 ここ月華神殿には、朱莉が見せた戦闘舞術『月流の舞』や、しおりが使っていた結界『絢秋界』など、女性専用術の伝統がある。薄雪や蘭堂朱莉の例に漏れず、皇族の姫宮が婚前修行をする場であり、自由恋愛は厳しく戒められていた。

 突然の椿事に、古参の術師や神兵隊長も深夜に召集され、一階の講堂形式の本殿にて、清矢は立ったまま吊し上げを食らった。

 霧森神官長は渋面をする。

「たとえ清矢さまが一時滞在であろうと、巫女と密通したとあっては処罰が通例。なぜ、このような次第になったのですか」

 香が抜けて、意識がはっきりしてきた清矢は弁明した。

「変な香を焚かれて、眠り込んだら襲われた。それに、性交までには至ってねぇ! しおりさんが演技してただけだ」

 神官長に対し、眼鏡をかけた老齢の神兵隊長が意見する。

「昔はこういった場合神兵隊で拷問して吐かせておりました。しかし、毛利との間で軍事的緊張がある今、祈月家の面子をつぶすのは得策ではありません」

 神殿側が味方をしてくれたことで、清矢はほっとした。いい機会と、政治塾の若者たちの意見を伝える。

「そもそも、魔力のある女の子をここに仕えさせて、結婚を管理し、術師の血統を維持するというシステムについては批判もある。こうして悪用までされる。俺は掟には従いたくねぇ」

 神官長はためらうかのような沈黙ののち、思慮深い顔をあげた。

「『密通死罪』も今の時代に重すぎるのかもしれませんな。ただ、私には若きおなごを預かっているという責任があるのです」

 そこに巫女長・白菊が、夜着に身を包んだしおりを引き立ててきた。彼女の上半身には縄がかけられていた。
 白菊は使命に燃えた目をしている。

「しおりの身体を調べたところ、男性の精液は発見できませんでした。ですが……医師の診断だと、妊娠しています」

 万座は水を打ったように静まり返った。
 清矢の後ろにぴったりと控えていた詠が、難しい顔でしおりを非難する。

「しおりさん、本当にこんな騒ぎ起こしていいのか。あんたが想いあってたのは全然別の人なんじゃねぇのか?」

 しおりは何も答えず、うつむいた。頬に一筋の涙を流れる。
 白菊は焦った様子で、しおりの夜着を肩まで引きずり下ろした。

「それに、左肩に何か奇怪な紋が……」

 尖った肩甲骨の上には、青黒い花の紋様が焼き付けられていた。上役が席を立って、しおりを囲んであれこれ検分した。気を取り直した詠が、隣から清矢を小突く。

「……清矢くん、注意しろ。さっきの橘の香りがするぜ」

 すると、しおりは突然下腹部を押さえて苦しみだした。上半身を折り曲げて浅い過呼吸を繰り返し、耐えきれずに嘔吐する。集まった者たちが後ずさると、そこには信じられない光景があった。

 平たかった腹がみるみるうちに球形にふくらみはじめ、まごうことなき妊婦の姿になったのだ。
 甘ったるくまとわりつくような重い匂いが混ざった、橘の強い香りに全員が気づいた。
 しおりを支えていた白菊まで、冷や汗を滲ませて手のひらで口元を覆う。
 議論は中断され、白菊としおりは医務室にとって返していった。

 翌朝も混乱は続いた。巫女長・白菊や、しおりを見舞いに行った友人の巫女たちが次々と不調を訴え、医務室が定員オーバーになったのだ。清矢たちの問題はいったん棚上げになり、監視がてら神兵隊の訓練に参加させられた。本殿の裏にある練兵場で、魔力で動く自動人形『木人』相手に模擬戦を繰り返す。汎用系魔法『ウィンドカッター』でかまいたちを発生させ、『木人』を切り裂く。

「ダメダメ、若いんだから、ちゃんと剣技で応戦しなきゃ!」
「いや、魔法だってとっさに使えなきゃ宝の持ち腐れ!」

 隊の兵たちは清矢の戦いぶりにあれこれ上から注文をつけ、楽しそうだ。
 そこに、三十代くらいの兵が小走りでやってきた。

「どうもあのおかしな香りは橋本しおりが元凶らしいぞ。今は牢に入れてる」

 詠はその情報に気をとられ、『木人』に斬られて胸に塗料をつけられた。
 兵たちは集まって、噂話をはじめた。

「橋本しおりは、例の祈月夜空と仲良くしていただろう。密通相手はあっちじゃないのか?」
「いや、毛利諒かもしれないぞ」
「あいつが狙っているのは姫宮さまじゃないのか」
「どちらにしろ二人とも密通死罪の嫌疑をかけて、拷問して殺してしまえばいいのに。昔はそれくらい当たり前だったんだろう?」

 清矢は気にしていない素振りで『木人』と斬り合いつつ、思案を巡らせていた。
 ここ月華神殿はいっぱいに反感が湛えられた水盆だ。毛利との間に、あと一つ、二つ雫が落ちれば、決壊して戦闘になる。その前に味方と連携して、朱莉とともにこの地から去らなくては……。
 清矢は両手を上げて『木人』との戦闘終了を宣言した。係の兵がからくり兵を止める。

「俺、ちょっと姫宮さまに巫女たちの様子、聞いてきます」
「おう。色男は辛いな」
「ホントにしおりにはハメてないんだよな?」

 気の抜けた笑いが起こる。好色な冗談には取り合わず、朱莉を探して二階まで上がっていった。
 彼女は二階の例の続き間で、今日は舞を練習していた。清矢と詠を見つけると、扇を畳んで部屋を出てくる。
 そして、声をひそめて早口で言った。

「……巫女長さままでが、想像妊娠をしているそうです」
「そんな、御年を考えればおかしいのでは?」
「しおりの身体から出る橘の花の香を嗅ぐと、おかしな気分になるだけでなく、腹が膨れてしまうんです。みんな恐々としています」

 清矢は異変を重く受け止めた。朱莉は頬に手を当てて、小さい声で訴えてくる。

「どうせ、しおりの密通は夜空さん相手でしょう? わたし……このまま座視はできません。毛利家に行って諒さんとお話してきます」

 もう片時も清矢からは離れない、と覚悟を固めた詠が止める。

「敵の本拠地に乗り込むってことだぜ。姫宮さま。危ねぇんじゃないかな」
「大丈夫よ」

 朱莉は左手をひらりと返し、薬指にはめた指輪を見せてきた。一粒石のシンプルなものだが、紋様の入った地金はずいぶんと重々しい造りだ。カボションカットされた宝石は、黒に近い紫色だった。ジジ、ジジと魔素の唸りを立てている。単なる装飾品でなく、何かの魔石のようだ。

「これがあるから」

 彼女は妙に自信ありげに、肩で風を切って歩き始めた。戦衣姿の清矢たちも、仕方なく後を追う。

 毛利参議の家は市街中心地から少し離れた一等地にあり、門にはライオンの石膏像が二体鎮座していた。黒服の歩哨が立ち、サングラスで周囲を威圧している。

 朱莉が黒服に取り次ぎを頼むと、格子のガラス窓つきの洒落た玄関ドアから、毛利諒が出てきた。麻のシャツにベージュのチノパンというリラックスした格好だ。

「姫宮さま、俺に会いにきてくれたんですね」

 彼はそう言って、おとぎ話にある騎士のように朱莉の右手の甲に口づけした。
 鼻白んだ清矢が本題を告げる。

「ごまかすな。しおりさんの件を夜空に問いただしたい」
「わかった」

 諒は妙に余裕たっぷりの微笑を浮かべていた。入ってすぐの応接間に案内され、待たされた。
 お手伝いさんがちゃぶ台に冷えた麦茶を出していったが、誰も口をつけなかった。
 諒は十五分ほど経つと戻ってきて、要件を伝えた。

「夜空どのも、白透光宮家の家督について、清矢さんと話し合いたいと言ってます。部外者の姫宮さまはいったん出ていてください」
「わかりました。清矢さん、上手くいくよう祈ってます」

 朱莉は止める間もなく諒に連れられて部屋を出て行ってしまった。
 二人きりになった部屋で、詠が懸念を口にする。

「姫宮さま、大丈夫かな……? 言うほど部外者じゃねぇと思うけど」

 清矢もしばらく待つが、夜空は来る気配はなかった。詠が「妙だな」とひとりごちる。清矢も一気に警戒を強め、朱莉の行方を探すことにした。

 邸内を歩くと、二階のとある部屋から芳香が漂ってきた。例の、甘くて芳しい、橘花の香りだ。それは異変のシグナルだった。白木づくりのドアを蹴破る。真夏の光をやわらげるレースのカーテンが外からの風でふわり揺れていた。同じく真新しい白木のデスク、そしてベッドには朱莉が黒髪を流して寝転んでおり、毛利諒が馬乗りになって、まさに不届きに及ぼうとしているところだった。

「姫宮さま!」

 清矢はハンカチで鼻を押さえつつ、慌てて叫んだ。毛利諒は信じられない反射神経で朱莉を抱えて窓際に飛びのき、彼女の首筋にあの偽の『新月刀』をつきつけた。
 朱莉は昨晩の清矢と同じく寝入っているようで、青白い顔でぐったりと諒に抱かれている。
 毛利諒は清矢たちをあざ笑い、猫亜種の尾を変化させた。
 ほっそりとした猫の尾に、四個の体節が刻まれ、ボコッ、ボコッとその合間が膨張する。毛がなくなって黒光りしたそれは、さそりの尾のように、先端に恐ろしい針を備えていた。清矢はとっさにロングコートに隠していたマンゴーシュを抜いた。丸腰の詠も身構え、魔法の詠唱を始める。
 サソリの尾は朱莉のほっそりとした腰回りに巻き付き……直角に曲がって狙いを定めると、平たい腹部を突き刺そうとした。詠の詠唱は間に合わないか!?

 ぎゃりん! と金属音がした。例の紫玉の指輪が青紫の光を放ち、朱莉の下腹部で攻撃を跳ね返したのだ。一瞬の驚きに諒が目を開く。次の瞬間、諒はまるで生皮がはがれたように、夜空の姿に変化した。
 しかしその身に白狼の獣耳と、弧を描く美しい尻尾はない。
 毛穴ひとつないと思わせる硬質の皮膚にはところどころ鈍色のうろこが浮いた。瞳孔は縦に裂け、金色に輝く。長い黒髪は濃すぎる魔素になびいている。愛くるしい細面には今までの気弱さなどどこにも見当たらない。
 夜空は、いかにも心外という口調でつぶやく。

「姫はのこらずわれわれの供物だというのに。蘭堂宮家め、気でも違ったのか……?」
「どういうことだ! 姫宮を返せ!」

 清矢は詠唱を止めて問い質した。夜空はからかうように笑う。

「おっと、白透光宮家のガキは黙っていろ。薄雪など所詮、永帝の側室になるのが嫌で、ここに逃げ込んだ愚かな女だ」

 やがて朱莉も気が付き、拘束から逃れようともがいた。
 夜空は陶酔した笑みのまま、少女の肢体をがっちりと羽交い絞めにし、柔らかな頬に指を這わす。

「しおりはおそらく月華神殿に殺されてしまうだろう。その前に、また誰か孕ませる必要があるからな……」

 濃密な橘の香りが脳の芯を痺れさせる。清矢はいったん部屋の外に引き、胸の専用ポケットから軍用ハーモニカを取り出して、麻痺のフレーズを弾いた。夜空が金色の目を細めて、笑う。

「そんな小細工が効くと思うか? 清矢、俺の邪魔をするなよ。この姫は俺の妾にする」

 詠の魔法が間に合って、炎の球が投げられる。夜空は朱莉をかかえて横に飛びずさり、難なくそれを避けた。清矢は戦闘を詠にまかせ、さらに情報を引き出さんとする。

「姫宮様をどうするつもりなんだ」
「産めよ増やせよ世に満ちよ、だ。……蘭堂宮家が代々清涼殿の『永帝』に生贄を捧げてきたのはなぜだと思う? あの繭の中で交配して俺たちのような『魔族』を作るためさ!」

 ついに正体を現した偽夜空……いや、『魔族』はけたたましく笑った。朱莉が指輪をはめた手を弱弱しくかかげ、『永帝』の父帝の名を呼ぶ。現在の皇統にも連なる、白狼亜種の帝だ。

宙宮そらみやにいます厳帝に、奏したてまつる。汝が末孫を護りたまえ……!」

 おそらく特別な術式があらかじめ仕込んであるのだろう。魔石は悲痛な呼びかけに応じた。朱莉を中心として紫の光がわっと円形に広がり、景色を波紋のように歪ませる。ぐらりと急な重力が発生して、偽夜空は床にぐしゃりと縫い付けられた。肩から床にめり込んで、苦痛にうめいている。清矢たちも急に発生した引力に引きずられそうになったが、マンゴーシュを壁に突き刺して、なんとか耐え抜いた。術者の朱莉は重たい引力にも関わらず、四つん這いから立ち上がり、よろよろと清矢たちに近寄ってきた。

「逃げるぞ!」

 清矢は朱莉の腕をひっつかむ。一気に重力が消えさり、見えない反動がきて壁にぶつかった。詠は廊下の壁にぶつかったが、痛みをこらえて立ち上がる。三人は一目散に階段を駆け下りた。玄関から出ようとすると、先ほどの黒服が立ちはだかった。懐から拳銃を取り出し、躊躇なく引き金を引く。清矢はマンゴーシュをかかげて叫ぶ。

「Reflect!」

 呼称詠唱まで練習した、汎用系・反作用の障壁魔法。このような局面では最高の働きをした。銃弾は跳ね返り、黒服は一瞬、たたらを踏む。詠はその隙を見逃さず、猛烈に走りぬいてタックルをかます。不意を突いた突撃は功を奏し、後ろを見ずに走り抜ける。舗装された道路に出ると、本物の毛利諒が、ちょうど用事からの帰りがけなのか、護衛の者とともに歩いていた。

 怪訝な表情は、どこまで事情を了解しているのか……。

「魔族と組むなんて、権力のためにそこまでするか!? 恥を知れ!」

 清矢はわざと大声で、すれ違いながら痛罵した。護衛がいきまいて三人を追おうとしたが、諒が止める。
 月華神殿は清矢たちの報告を受けて毛利側への警戒を強め、巫女たちは禁足が命じられた。
 夕刻、毛利方からの使者が来る。清矢たちも戦衣のまま、貴賓室で出迎えた。
 グレーのスーツをかっちりと着込んだ使者は、はじめは下手に出た。

「祈月夜空をこちらで調べたところ、魔族であるという月華神殿の訴えが本当であると確証がもてました。そちらの『水迷宮』で処分せよと、県令はおっしゃっています」
「了解です。神兵を派遣いたします。魔力枷をかけて引き渡していただきたい」

 霧森神官長がうなずく。表面上は穏やかだが、緊張は高まっている。使者はにやりと笑い、清矢のほうを見た。

「ですが、県令は清矢さまも同様の処分にせよとのご意向です。夜空さまが魔族だったというなら、清矢さまだって国軍からすれば『魔物の子』。同じ血を引いているのですからな」

 指輪をはめた手をぎゅっと握りしめていた朱莉が、弾かれたように叫ぶ。

「そのような中傷は決して許されません! 清矢さんは『風の歌』を奏でられる。それはまさに嘉徳親王から連なる破邪の血統の証!」

 使者は更に揚げ足を取る。

「では、なぜあの魔族を最後まで追い詰めなかったのですか? 我ら毛利もあれが魔族とは知りませんでした。お父上の源蔵どのも『魔王』と呼ばれている。どうやって潔白を証明なさる?」

 神官長は短くため息をつき、清矢たちにささやいた。

「話がややこしくなります。部屋に戻っていてください」

 朱莉とともに部屋に戻ると、詠がくやしげに畳を叩いた。

「あんな言いがかり、誰が信じるもんか! 清矢くんちの家系図は覚えてるぜ!」

 朱莉も険しい顔つきだ。すらすらと当主の名を暗唱して、同調する。

「嘉徳親王、季徳公、正徳公、祈月となって臣下に下って、耀さま……どの人だって伝が残っている。魔物なんかじゃありません」

 清矢は冷静に答える。

「毛利は時間稼ぎをしているんだ。姫宮に手をだした自分たちの責任から目を逸らすために」

 詠は拳を握りしめる。

「くそっ、政治家ってのはこういうことばっかり!」

 そのセリフにたがわず、毛利の手腕は素早かった。月華神殿が議論を重ねる一方で、県令に働きかけて勅令を出させたのだ。夜空はもちろんだが、清矢もまた『水迷宮』に入れ、処刑せよという。

 二日後の深夜、みなが寝静まったころに、望月充希が姿を現した。詠は部屋の外に出て、昼夜を問わず見張りをしている。充希が風呂敷を開くと、そこには縹色の地味な着物と、藍の女帯があった。

 充希は笑って言った。

「清矢くん、逃げよ」

 計画はこうだった。女装して逃げて望月家に入り、零時たちと合流して、観光客の振りをしたまま帝都まで戻る。神官長も巫女長も事情は了解しているし、急げば追っ手もかからず逃げ切れるだろうと。

 充希は清矢に女ものの小袖を合わせて、「綺麗だよ、俺のお姫様」と茶化した。

 かつて清矢を女の子と勘違いして、求婚までしてきた男だ。飄々とした少年は、こんな事態でも冗談を言う余裕を忘れなかった。

「本物の女の子だったらもっと危険だったね。姫宮さまもなんとか無事でよかった」

 清矢は鋭い美貌を曇らせる。

「俺がこのまま逃げたら、偽夜空についての沙汰もうやむやになっちまうんじゃないか?」

 充希はあきれたように笑って清矢の膝を叩く。

「まぁ、その可能性は大だねん。県令が味方でない以上、月華神殿は不利だし。だけど、零時たちは清矢くんが危険ならすぐ引き取ってくるように軍閥から言われてるみたいだよ?」
「あの夜空は滅さないといけない」

 清矢は重々しく言い切ると、ふっと表情をやわらげて首をぐるりと回した。凝っていた肩がこきりと鳴る。

「夜空は偽物で魔族。その力を使って毛利陣営の者に化け、娘を餌食にした。毛利だって、そんな危ない奴をずっと匿っていたいとは本音では思ってないだろう。あいつを裁きの場に引きずり出す。そして正道を示す。魔物から人を守るのが、白透光宮家に連なる者の使命だ」
「ま、そだね……確かに清矢くんが帰っても、俺たちが後始末するだけだ」

 充希はどっしりとあぐらをかいて、話を聞く姿勢を見せた。

 祈月と望月の密談はそのまま明け方まで続いた。

8 わくらばも、縁ぞあれば、華やがん

 試練は吉日を選んで行われた。痛いほど強く太陽が照り付ける中、清矢は『水迷宮』の前に縄をかけられて引き出された。特別な輿で水柱の上に引き上げられ、後ろ手に縛られた清矢の顔には、濃い影がさしている。

 水柱の上にたたずんだ霧森神官長が口上を述べた。

「これより、『水迷宮』を用いまして魔族を成敗する、『浄水宴の儀』を行いたいと思います」
 毛利勢も含めて、集まった観衆は固唾をのんだ。

 魂を捕えるために、瀕死の者を『水迷宮』で水死させる……そんな恐ろしい行為が、ここでは未だ行われている。 魂を保存して、特別な呪術に使う――しかしながら、水牢に閉じ込められた魂は、意思だけをとどめた魔素エネルギーの結晶であり、それは魔物の恰好の餌であった。誘蛾灯のように魔物をひきつける『水迷宮』は、国防術になど興味のない民にとっては、単なる邪宗のモニュメントであり、批判集まるところである。
 現在では犠牲は信心深い者や神殿関係者に限られていたが、人々の魂を保存するための、野蛮な行為であるのは確かだった。
 公に行われる水葬ショーに怖いもの見たさの群衆が群がる。しかも、今回の祈月兄弟はいわば時の人であった。
 ほんの二か月前に古都、清涼殿で呪術を用いて国軍を退けた、祈月軍閥の御曹司だ。
 それが実は魔族だったというのだから、これはちょっとした事件だ。
 脂っ気のない精悍な中年男が、諒とともに天を見上げている。彼は紺色のスーツを着込み、高そうなループタイをしていた。鷲津と通じる毛利参議だ。彼らにとっては勝利の儀式そのものだった。
 これからの北陸では、神殿の影響力は低下し、この水牢もやがて壊される……。

 民たちはうっすらとした希望をこめて儀式を見守っていた。

 霧森神官長が祝詞をあげる。清矢は蝋人形のようにおとなしく、睫毛を伏せてそれを聞いた。そして、正座から立ち上がって、ジェラルミン製の蓋の上から、渦巻く魔素水の中へ、ひたひたと裸足で歩いた。
 後ろ手を戒める縄は緩い。恐れはあったが、それ以上の矜持が清矢を動かしていた。祈月家の者として、恥ずかしい姿は見せられない。長い睫毛がいろどる、憂鬱な色にけぶる釣り目。それに水晶を砕いてはたいたかのような白い肌。さらりと流れる黒髪も涼し気だ。白狼の獣耳も、尾も、つややかに白い。

 事実、清矢は母親譲りの美しい姿をしていた。口角は寂し気に上がり、悲痛の貴種としてのはかない姿は、主に女性たちの心をかき乱しているようだった。

 清矢は足下の民たちの中に、見知った顔を探した。詠は背筋を正し、常春殿の鎧に身を包みながらも、だらだらと滂沱していた。吉田零時と吉田牡丹の親子も、祈りをささげている。望月家も、剣術道場をやっている父親や、鎖帷子を着込んで帯刀した充希などが腕組みして見守っていた。

 清矢は顎を上げて天を仰いだ。
 真夏の、あきれるほど濃い青空が、おかしいほど近くにあった。命を絶つには絶好の日和のように思った。深呼吸する。

 そして、綺羅光る魔素水の中に、頭から飛び込んでいった。ばしゃあん! と水音。清矢はばた足して、水底を目指した。しかし水流にもまれてうまく泳ぐことはできなかった。沈み込んで、浮き上がる中、水面からは天啓のように陽光がきらめく。生ぬるい水とともに、炭酸がはじけるような感触が肌を覆っていた。

 魂たちがわっと声を届けてくる。

「おお憎い、憎い……! 白透光宮家の英雄気取りめ」「わしは魔物退治に駆り出されて死んだ兵士じゃぁ」「あはははは、血も残さずに罰されるとは間抜けな若様」「わたしは悪くない! 愛する人と逃げただけなの!」「神殿に死後もこの身をお捧げします……!」「長らくお慕いしておりました、某も、お供します!」

 水柱の外で、和琴で楽が奏でられた。それは清矢の先祖の巫女長、薄雪が残した辞世の句の節回しだった。

「わくらばも、縁ぞあれば、華やがん、常世の春に、かえる我らぞ……」

 清矢は息継ぎのできぬ危険を冒して、その和歌の詞を繰り返した。
 病んだ葉も、再び生を得る縁があれば、美しく緑に華やぐでしょう。あの常世の美しい春の宮へ、わたくしたちは帰るのです。
 目を開く。数限りない水泡ときらめく心の残滓が見えた。こんなところでは終われない。魔族を滅そうという自分は正しい。力を得るために魔物と番ってしまっては、それが指揮杖をにぎるなら、そこはすでに、魔界。
 清矢は目じりに熱を感じた。それは『水迷宮』の魔素水ではなかった。体内から滲んだ、血を濾過した感情の雫。この世を憂う、涙だ。
 どこぞから鈴のような優美な声がした。

「あなたこそわたくしの同胞。水牢に生きながら入るとはおいたわしい。力をお貸しします!」

 その一声に応じて、水流のうねりが激しくなった。清矢の細い体を水面へと巻き上げはじめる。個々の雑念を送っていた魂たちも、やがてひとつの意思を告げる。

「我らにあるのは永劫なる幽囚。それは呪い。だがそれは力。生き延び、我らを解放せよ、親王の裔よ!」

 うろくずのように漂う間、清矢はあることを考えていた。
 ――永遠の生を得た魔物となるか、それとも己が命を賭して、儚い人の世を守るか。
 薄雪は、魔物として永劫の生を得ようとした叔父に抗弁するため、自ら進んでこの水牢に入ったのだ。
 さすれば、肉体は失っても、その意思は残り、戦い続けられる。
 表向きの残虐さに批判があろうと、死後も破邪のために身をささげる、その人々の志だけは、水牢が永遠に保存し、護りつづけていた。
 その想いが何代も越えて、今、清矢の中で蘇る。
 中の雑霊が笑い声とともにはしゃぎまわり、後ろ手に縛られた縄がばらばらと分解してほどけていった。
 両手が自由になった清矢はがむしゃらに泳いで水面に到着する。
 神官長が膝をついて手を貸した。

「『水迷宮』はもちろんあなたの生を選びましたな。薄雪様には感謝しましょう」

 清矢はずぶ濡れのまませき込んで、神官長の手を握った。
 群衆からどよめきが起こった。

「生きてる!」「助かっただって?」「魔族じゃなかったのか!」

 意外そうな声が広場に満ちる。
 詠は涙を拭いもせず、両こぶしを天に突き上げて歓喜の叫びを上げた。

「やったぜ、清矢くん!」

 零時と牡丹の親子は、手を合わせて『水迷宮』に何度もお辞儀をしている。
 しかし水柱の蓋には、もう一人の犠牲者――魔族と正体をあばかれた、祈月夜空が震えながら座っていた。こちらに対して、月華神殿は本気だ。二名の神兵が取り囲み、縄をきつくかけて、抜き身の長剣を構えている。
 神官長の顔つきが険しくなった。

 「さて」と夜空に向き直る。

「清矢さまは、見事にご自身の血筋を証明なさいました。あなたはどうですか?」

 夜空の返答は、呪詛だった。汎用系闇魔法を唱え、最後のあがきを始める。

「魔よこごりて獣歯となれ! 闇魔法・シャドウバイト!」

 とたんに闇元素が泡のように群れをなして神官長の左肩をえぐりとる。神官長はうめき声をあげて尻餅をつく。

「霧森さん!」

 清矢は叫ぶと、とっさに声高らかに歌い始めた。幼い頃、陶春で習った『退魔歌』。草笛氏に伝わる親王親衛隊由来の音曲術だ。清矢は喉の奥から力を込めて歌い始めた。

「立ち上がれ、天つ神! 照らせよ、邪を祓う光の矢! 輝ける太陽の司が、いざや渾沌を晴らさん!」

 何も武器を備えなくても、その詩の意味と、特別な節回しとが、魔族を退ける。
 その声に応じるように、神官長もよろよろと立ち上がり、同じ言葉を唱和し始めた。

「立ち上がれ、天つ神! 照らせよ、邪を祓う光の矢! 輝ける太陽の司が、いざや渾沌を晴らさん!」

 二人の声が重なるにつれ、夜空の体から黒い煙が立ち昇り始めた。
 その肌は焼けただれるように赤く腫れ上がっていく。

「は! この程度、ちょっとした日焼けに過ぎん」

 夜空は強がりを言って、不敵に微笑んだ。

 次の瞬間、えづくようにうなだれる。背中の皮膚を破って翼のような骨格が生じ、血にまみれたそれはみるみるうちに薄い膜を張る。肌は完全に虹色に光る鱗に覆われていった。瞳孔は縦に裂け、金色に輝いていた。
 四肢は黒く硬化し、指先は鉤爪へと変わっていく。
 もちろん、ホモ・ファシウスの人々と同じような、実験動物とキメラにされたが故の、特定獣種の耳や尾、それに羽根とは全く異質なものだった。
 魔族の本性を現した夜空は、高圧な魔素を周囲に循環させながら、帷子をはためかせて拳をかかげた。

「こんなものか? 人間風情め!」

 その風貌には凄絶な美しさがあった。魔物の王子、と言われれば、納得してしまいそうなほどに。
 夜空は高笑いすると、手から紫色をした魔力の弾丸を放ち始めた。神兵たちがとっさの結界術で防ぐが、一人は直撃を受けて悲鳴をあげる。

「新月刀も持たぬ者など負けるか!」

 夜空の罵声に、清矢は血相を変えた。神官長が再び詠唱を始めようとした瞬間、清矢は走り出していた。
 制止の声も耳に入らない。清矢はぽっかりと口を開けた水牢に向けて、夜空に体当たりした。

「お前の居場所はここじゃない!」

 清矢は夜空の胸倉をつかむと、もう一度水迷宮へと身を投げようとした。夜空は鉤爪で顔面を切り裂かんとする。額が切れ、血が流れて目に入った。
 夜空がにんまりと笑う。そこにどうっと衝撃が走った。神官長が腰だめに疾走し、夜空に体当たりしたのだ。
 不意をつかれ、夜空と清矢と神官長は、絡まりあって水面に落下していった。水はまるで意思を持っているかのように波立って三人を包み込んだ。とりわけ、魔族の夜空を、まるでぺろりと舐めとるように。

「ちはやぶる、神々 剣太刀、身に添え 葛の、真葛の、長らく巻きを巻きて、まそ鏡、月影を、さやかに磨きて、月読壮士、鬼病を討つ。御霊、御霊、ほのかたらいし、あの暁を、うつつの、この夢に乞わば」

 水中で神官長は抑揚のある声で奇妙な詔をあげる。

「魂たちよ、浄化せよ!」

 その声に応えるように、反射ではない光の粒子が無数に集まり始めた。それは水中に眠る無数の魂だった。光の粒子は夜空の肉体に食い込み、その魔力を吸い取っていく。じゅわぁ、と酸にでもさらされたような音がする。夜空の肌は黒煙をまき散らしながら食い破られるように溶けていく。

「やめろ! やめろおおおっ!」

 夜空の絶叫が水泡となって上がる。夜空の肉体、専門用語でいえば、「魔物の現質」に、魂たちはまるで肉食魚のように殺到し、侵食し、引きちぎり、核を壊していく。
 清矢は水中で目を見開いた。これが『水迷宮』の本当の力、魔を祓う浄化の力だったのだ。
 神官長に促され、清矢は再び水面へと泳ぎ上がった。今度は神兵の手を借りて、水柱から引き上げられる。
 水迷宮の中では、まだ夜空の苦悶の声が続いていた。
 清矢は輿に乗って、地上に戻ろうとする。突然、神兵が彼を蓋の上に引き倒した。
 地上から毛利軍閥の人間が拳銃で清矢を狙い打ったのだ。しかし、これは悪手だった。広場を警護していた神兵が、術師が、巫女たちが、望月家の面々が、吉田親子が、蘭堂朱莉が、そして詠が、毛利参議と諒を一斉に睨みつける。参議と諒はガードマンたちに守られながら高まった敵意の中を脱出し、人々は逃げ惑う。
 混乱がはじまっていた。水柱の上で立ち往生となってしまい、清矢は水底に視線を投げる。魔族の姿はすでに壊れていた。腕が、髪が、臓物が、ゆらめきながら漂っている。
 大盾を背負った詠が、いつの間にかはしごを上ってきていた。
 さっきまでボロ泣きしていたのが嘘のような勇敢そのものの顔で、無防備な清矢を抱きしめる。
 清矢は詠の胸に顔をうずめた。麦畑を渡る風のような、香ばしくてさっぱりした匂いがした。
 その匂いを感じた瞬間、怒号や喧騒は他人事になった。

「清矢くん、よく頑張ったな。後は俺に任せとけ」

 気迫に満ちた、どこまでも暖かい、相棒の声。
 清矢はこくんと子供のようにうなずいた。使命はきついが……俺はひとりじゃない。

「しばらくここにとどまりましょう! 地上のほうが危険です!」

 若い兵が水柱の上に陣取る味方に告げる。小さな戦いが、始まっていた。

 事態収拾には夏休みが終わるまでかかった。
 県令は事態の激化をおそれ、謝罪の使いを送ってきた。
 清矢たちは月華神殿から望月家に移り、朱莉とともに至極殿の迎えを待つことになった。
 瑠美奈が望月家に帰ってきて仔細を告げる。
 巫女たちの想像妊娠はしおりが原因だった。魔物の子を妊娠していたしおりは、バラの実のような黒い肉腫を産んだらしい。微細にうごめくそれは例の橘の香りの元凶だった。女を想像妊娠させて人間の男と結ばれるのを防ぎ、魔族に襲われても抵抗ができないように弱らせる。
 しおりは『水迷宮』に入水して浄化の禊を受けた。

「みんな、ショックを受けてる。ここ月華神殿の巫女は、由緒ある家柄に嫁ぐべく修行している人が大半だもの……毛利が本当に許せない」

 瑠美奈の表情は悔しげだった。本格的な戦争にこそならなかったが、まだ情勢は油断ならない。

 出立前夜、月華神殿への礼を尽くすため、朱莉自身による『風の歌』の楽奉納が行われた。
 月華神殿と至極殿の一部の兵に守られながら、花ござの上で朱莉が琴を弾く。
 白い小袖の上に、豪奢な紅の打掛を羽織っていた。
 夏の短夜に魔力で呼ばれた風が涼を運ぶ。どこかから飛んできた蛍が、ちかちかと信号のように瞬いた。
 演奏が終わると、朱莉は立ち上がり、深々と礼をして、別れの挨拶をはじめた。

「わたくしは蘭堂宮家の姫だというのにこの地の権力にひかれ、諒さんへの想いを魔族に利用されてしまいました。これを機に、自分の運命を受け入れ、魔族の脅威について、魔族と組んだ鷲津や毛利について、帝や皇太子にお伝えしたいと思います」

 てっきり形式的な麗句で終えるかと思いきや、朱莉は何もごまかさず、自らの言葉で語っていた。
 ――その横顔はもう、自虐的だった蘭堂朱莉ではなかった。
 巫女長の白菊が、少し涙ぐんで袖で目元を押さえた。
 清矢も椅子から立ち上がり、「必ず、この国に跋扈する魔族や魔物と戦い、勝利します」と意思を表明した。
 神官長もややさばけた言い方で若者たちに思いを託す。

「月華神殿も民の声を聴いて変わっていかなければならないですね。その未来を……みなと共に切り開いていってください」

 式が終わると、清矢は零時から花を受け取って、薄雪の墓に花を手向けた。

「俺は帰ります、常世の春、常春殿のあるふるさとへ……あなたの想いとともに、志を遂げてみせます」

 手をあわせ、祈りをささげる。一同、清矢に倣った。
 『水迷宮』の中では、変わらず魂がきらめいて踊っていた。

(了)