永久なる春の追悼曲(第六話)蒼天宮への逃避行

1 もう一人の男

 その男は清矢より7センチ背が高く、渦中の少年が求めるものすべてを備えていた。順和二十七年(ロンシャン歴After Katastroph 1309)八月末日、北陸新潟県月華神殿より帝都に帰還した祈月清矢を待っていたのは、祈月軍閥参謀、二十六歳の伊藤敬文元少尉だった。

 豪奢な内装の至極殿客室にて、魔法軍長官・蘭堂宮冬真が清矢たちを出迎える。護衛してくれた兵たちも整列して左右にザっと割れた。娘・朱莉より帰還報告を受けたのち、濃紺と紫、それに綺羅光る勲章つきの至極殿長官服に身を包んだ蘭堂宮冬真……『冬宮』とよばれる男は、清矢を見るなりこう言った。

「軍閥から迎えが着ているぞ」

 正装した兵たちの後ろからひょこりと現れたのは、ポロシャツにミリタリーベストを羽織った伊藤敬文だった。昨年の笠間橋の戦いに清矢たち青少年を従軍させた参謀である。

 倫理的追及は避けられなかったが、いわば祈月軍勝利の仕掛け人。

 思ってもいない邂逅に懐かしさが募り、「伊藤さん」と呼び掛けて歩み寄る。

 伊藤敬文は生真面目な面長の顔をほころばせた。

「これからはケイブンって呼んで。軍のひとたちと同じように……無事でよかった」

 そして、清矢を壊れ物のように抱きしめてきた。みっしり重たい長身が長旅の疲れごと包み込んでくれる。嫌悪感はない、それどころかこの一か月、果てしなくあった警戒心が氷解していく。

 グレープフルーツに似た爽やかで苦い香り。

 とっさに恥ずかしくなってしまい、「敬文さん、ダメ、あの、何してんの?」と身動きした。伊藤敬文は「呼び捨てでいいから。ごめんね、君が心配だった」といくぶん名残惜しそうに離す。

 冬宮の近くに控えていた至極殿副術師長・黒田錦が面倒そうに突っ込んだ。

「はいどうも、感動シーンをありがとう」

 吉田零時・牡丹親子とともに、流れに取り残された桜庭詠が間に入る。

「あ、あの、伊藤さん? 清矢はもう高校生だぜ。抱っこなんて変じゃん」

 伊藤敬文は気にした様子もなく、「すまない。月華神殿のこと話そうか」と笑みを浮かべる。ごく自然に清矢の肩を掴んで、目をそらさずに言い切った。

「危険な目に合わせてごめん。これからは俺が君を守るから。たとえ相手が魔族でも」

 彼は再会の段取りを終わらせるつもりがないとみえる。清矢は面食らう。

「守るって……そんな、敬文」

 詠の獣耳がぴくりと動き、いくぶん男を下に見た言い方をした。

「伊藤さん、無理しなくて平気だぜ?」

 敬文は首を横に振った。

「俺だって戦の中で汎用系魔術はいくらか身に着けた。剣にはもともと自信がある」

 詠をひとにらみしてから、清矢をまっすぐ見つめる。

「清矢さま。君はこれから、選ばなきゃいけない」
「選ぶ……?」
「誰とともにやっていくか。その選択こそが、君という人間をつくるんだ」

 全てを知悉しているかのような問いかけが清矢を動揺させる。振り返ると、はっきりした顔立ちの少年が腰に手を当てて立っている。

 桜庭詠。俺の幼馴染。友情は揺るぎない。

 針で刺すような痛みを覚えた。兵たちは私語すらしなかったが、吉田牡丹は息子・零時の袖を引いて、何やらうろたえた様子だ。黒田錦があきれ顔で注意した。

「わかったから後でやって。それで? 月華神殿の状況は?」

 蘭堂宮朱莉がこほんと咳払いをして、父宮に報告を始める。

「夜空さんは替え玉で、正体は魔族でした。辛くも倒せましたが、神官長霧森昴、巫女長白菊、ともに負傷です」
「鷲津め。どっからあんなもん連れてきたんだよ……!」

 怒りがぶりかえした詠が犬歯を見せてつぶやく。素朴な反応に、なんと冬宮自身が答えた。

「清涼殿だな」

 至極殿の威容に不安げだった吉田牡丹が、ついに落ち着かなく震えはじめる。

「零時さん、わたし真実を知ってるの……!」

 零時は困り顔で注意した。しかし牡丹は止まらず、「豹変台よ。豹変台から送ったんです。わたしも一度、操作をしたことがあります!」と半ば悲鳴のように打ち明けた。

 清矢はごくりと唾を飲み込む。陰謀の裏にはこうした無数の沈黙があったのだ。

 事情を了解しない至極殿の面々に補足を入れた。

「牡丹さんは独身のころは、清涼殿の巫女だったんだ。そんな秘密までご存じだったんですね」

 牡丹は清矢と目を合わせておずおずとうなずく。

 冬宮が細い眉をひそめた。

「豹変台は清涼殿と常春殿をつなぐ転送石だ。旧型のため、生身の人間が巫力を充填せねば使えぬが……」

 言いさした台詞の終わりを待たず、敬文が肩をすくめる。

「状況は良くはない。鷲津清隆総将は敗北したが、失脚はまだだ。最後のあがきで帝都にいる清矢さまを狙ってくるかもしれない」

 そして、ストレートな誘いをかけてきた。

「俺と一緒に帰りましょう」
「伊藤さんと?」

 意外な流れに背筋が伸びた。詠は口を引き結んで清矢の顔を見ている。敬文は「団体旅行は目立つからね」と柔らかく付け加えた。「じゃ、ここは出よっか」と黒田錦が一行を連れだす。

 市松模様のタイルが敷かれたロビーに戻ると、ようやく一息つけた気がした。

「で、どーするの? この白狐の親子と元気な子分は」

 黒田がふんぞり返って腕組みする。

 詠は律儀に皮肉を拾い、「子分じゃねえ。俺は清矢くんの……」と言いかけた。恋人? 親友? 幼馴染? どんな間柄を口にするかハラハラしたが、詠は勢いよく「相棒だ!」と胸を張った。態度のでかい副術師長に言い返せて、得意げだ。

 敬文は抑揚なく命じる。

「わかった、だけど別れてもらう。詠は吉田親子とともに古都へ向かって。源蔵様たちに月華神殿でのことを報告するんだ」

 容赦ない指示に、冷や水をぶっかけられた気がした。詠に後始末を任せ、自分だけ敬文に守られながら逃げろというのか。清矢は見かねて申し出た。

「敬文。その役目は俺がするよ。次期当主なんだから」
「ダメ」

 くだけた語調に、有無を言わせぬ力がこもっていた。

「三人連れは目立つし、鷲津の者が至極殿を見張っている可能性もある。今までは姫宮といた以上手は出せなかったが、別れたと見れば襲ってくるかもしれないだろ」
「だって詠たちに何かあったら……!」
「そうしたらどうするの? 君はもう歩けなくなるのか?」

 畳みかける声は存外に低かった。

「……俺はそれだけ、許さない」

 その口調は、かつて清矢の剣筋を見て、癖を修正したときのそれだった。憧れとも怖れともつかない震えが背筋をかけあがる。

 敬文は清矢の動揺を無視して、退屈そうな黒田を見やった。

「至極殿から人手を借りられませんか? 車でなら、詠たちを襲おうとしても手出しできないでしょう」
「古都までね。遠いけど、可能。清涼殿まで送ればそれでいいの?」

 打ち合わせはテンポよく進んだ。

 清矢は詠に軽く尾を振り、年下に言うように付けくわえた。

「詠。古都に着いたら常春殿に連絡して、お兄ちゃんに迎えに来てもらえよ」

 吉田牡丹がおびえた様子で息子によりかかる。

「零時さん……私、話についていけない。どうすればいいの?」
「おふたりは、至極殿の人に車で古都まで送ってもらってください。詠も一緒です」

 清矢は責任を感じ、心の病をもつ牡丹を気遣った。零時にも軽く頭を下げる。大事に巻き込んでしまったという申し訳なさがあった。

 敬文と黒田が手配を始める。駐車場に出て、三人分の手荷物を黒塗りのリムジンに積みこむ。芳香剤の人工的なミントの香り。いっぱいになったトランクを覗き込みながら、陰陽師見習いの友はさりげなく忠告した。

「清矢くん、気を付けて。敵は単なる魔物じゃなくて、人間と同等の思考をする魔族たちだ」

 それがどんなに厄介な事態か、清矢にはまだ完全に理解できていなかった。付き添いの兵とドライバーがやってくる。零時たちは後部座席に乗り込んだ。詠は敬文から細かい注意を受けている。話が終わったころに、清矢は声をかけた。

「詠、絶対にお父さんかお兄さんに迎えに来てもらえよ」
「……俺は平気だぜ。だけど清矢、ほんとに伊藤さんと二人で大丈夫かよ」

 詠は尾を振りながらも半信半疑の模様だった。軽く抱きしめ、頭を撫でてやる。

「大丈夫。俺、敬文のこと信じるよ」

 詠は名残惜しそうに清矢にきつく抱きつくと、走って車に乗りこんだ。きしんだエンジン音を立てて、車が駐車場を出ていく。

 詠は助手席の窓を開け、清矢に向かって叫ぶ。

「清矢ーっ! 絶対、陶春で会おうな!」

 清矢も手を振り返す。自分を勇気づけてくれていた幼馴染のまっすぐさ。一時的とは言え、離れ離れになるなんて胸がつぶれそうだ。

 詠は身を乗り出してまだ何か言おうとしていた。口が動いている。でも窓は遠隔操作で閉まってしまった。

「詠! 気を付けろよ!」

 そう叫んで数歩走りだすが、リムジン車はためらわずに遠ざかっていく。敬文は溜息をついて、清矢の肩に手を置いた。

「清矢さま、行くよ」

 急かされてとぼとぼ歩きながら、清矢は詠との別れをかみしめる。手を振る一生懸命な姿。寂しくて甘えるかわいらしさ。

「詠のやつ大丈夫かな。一人でそんな大役……」

 思わずつぶやくと、敬文は「詠の心配なの?」と軽く問いかけてきた。

 清矢は「うん、だって……本来俺がやるべき任務じゃん」と口をとがらせる。

 敬文は「じゃあ、詠って何のためについてきてるわけ?」と首をかしげる。

「何のためにって……」

 俺を守るため。二人で『耀サマみたいな英雄譚』をやりとげるため。どっちも何だか、子供じみていた。一応言葉にしてみたが、敬文は難しい顔だ。

「耀サマっていうのは清矢さまのお祖父さんだよね。俺は詳しくないけど……だけど、本当はもはやただの高校生を連れてきていていい領域ではない」

 突き放した認識に、清矢はショックを受ける。けれど反発心は生まれなかった。

 魔法軍総帥の蘭堂宮冬真、その娘の蘭堂宮朱莉。至極殿副術師長の黒田錦。月華神殿の霧森昴神官長や、巫女長・白菊……この夏で知り合った面子は錚々たるものだ。彼らとの間で行われる会話はまさに政治劇の中枢。敬文は続ける。

「詠をもう一度捕らえて拷問すれば情報がたんまり手に入る。そして君はまた、傷つくんだ……」

 去年の一学期に起きた『桜庭詠くん誘拐事件』の記憶が蘇った。清矢たち中学三年生を下限として、『常春殿特別兵』の身分を濫用し、若い学生を魔法兵として実戦投入したのは、この伊藤敬文だ。だが、清矢自身も行くと言いはった。素質のある兵を急に見繕えなかった軍閥も知らん顔をした。

 その流れに警鐘を鳴らしたのが詠の事件だ。鷲津の手先がハニートラップで詠を誘拐し、従軍を止めろと脅迫した。

 政治の動き。それは振り子のように揺らいで、国民をどちらかの極に連れさろうとする。汎用系魔法の輸入か? または鎖国状態を守るか? シビアな戦いのなかで人々の思惑は猜疑と打算に満ちている。たとえ鷲津の非道を叫んでも、やつらは半笑いで青少年のゲリラ従軍を責めるだろう。死んだ人間もいる。己の意思とは無関係に動員された国軍兵は数えきれない。祈月軍とて同じこと。ひとりひとりに家族があり、暮らしもあったのに。  清矢の手は、ピアノを弾く。今練習しているのはバッハの平均律クラヴィーア曲集。
 だけど魔法剣をふるい、光系統大魔法を詠唱した。

 斬られた敵や、焼かれた車。
 幼いころに憧れた祖父の昔話とは既に次元が違っているのだ。

「あの子を相棒にしているのが本当に正しいのか、しばらく俺と考えてみようか」

 敬文はそう言って、清矢の背に手を当てがい、至極殿本殿へと歩かせる。

 ――どうしてこの人は、いきなり距離を詰めてきたんだろう?

 詠と吉田親子を送り出して、清矢はようやく自身の困惑と向き合うことができた。思い当たるふしがあるとすれば……それはあの日の出来事だった。

2 思い出のシーグラス

 ――時は一年前、初夏。敬文は陶春県の若者たちを実戦に出すべく調練していた。
 中間テストも終わった頃だった。詠が帰ってこなくなって三日がたっていた。
 祈月家に乗り込んできた詠の母が清矢の母を叱咤する。

「雫さん! 今日と言う今日は言わせてもらうよ! あんたは、自分の子さえ無事ならそれでいいの? 詠は何度も清矢くんにくっついて危険な目にあってきた。たしかに清矢くんより特別じゃないかもしれない。でもね、あたしにとっては大事な子なの!」

 草笛雫。清矢の母は、白狼亜種の耳を平たく寝せて、無言で怒りを露わにしている。麗人と評判だった彼女は、家庭に入ってからは押しの強い周囲にないがしろにされがちだったが、いざ窮地となると案外、我を曲げなかった。

 祈月家に寄宿していた敬文が上司の妻をかばおうと進み出る。

「桜庭さん、落ち着いてください。詠くんが帰ってこないのは問題だと俺も思ってる。でもこの魔法兵の従軍は、起死回生の一手なんだ……!」

 苦しみのにじませて弁明し、頭を下げる。巻いた尾は普段と変わりなかったが、尖った犬耳まで伏せた姿ははたから見ても気の毒だった。

 同じく、祈月家に居座っていた望月充希までもが女同士の争いに割り込んでいく。

「清矢くんのお母さんを責めたって何も解決しないと思いますよ。調査は警察に任せて」

 なだめる口調は穏やかだったが、充希とて、高校一年生。月華神殿から派遣された若造に過ぎなかった。詠の母がショートボブの髪の毛をふりみだす。

「だって! 『常春殿特別兵』なんて身分すら、欺瞞じゃない。中高生を従軍させるための言い訳だ! 詠がいなくなったのは敵にさらわれたから。祈月さん、あんたたちの正義が問われてるってのに!」

 敬文の瞳から光が消える。清矢は歩み出て、祈月家代表としての台詞を言う。

「申し訳ありません。桜庭さんの選択は尊重したいと思います」

 だが、雫はかえって意固地になった。

「詠くんはもう戦に出なくていいわよ。代わりに、あたしが魔法を覚えて清矢を守る」

 啖呵を切って、叩きつけるように引き戸を閉め、鍵をかける。

 充希は天を仰いで敬文に「どうします?」と聞いた。

 敬文は気を取り直し、ため息混じりに答えた。

「神兵隊の若手によると、『みさき』って女が詠の恋人になって周辺を嗅ぎまわってたらしい。警察が居場所を突き止めるまでは打つ手もない。鷲津たちの思うつぼだな」

 充希は呆れかえる。

「詠ちゃん……こんな時期に怪しい女と付き合い始めるなんてさぁ」

 雫は「自業自得よ」と言いすてて、家の中へ引き上げていった。

 清矢も促されて自室に戻り、ベッドに横たわって物思いにふけった。

 詠がいなくなってしまった。『みさき』と付き合うことについては事前に反対したが、詠は呑んでくれなかった。望月充希との仲を嫉妬していたためだ。

 ……俺のせいか。

 簡単に、単純にそう結論づけた。詠は自分のことを相棒と慕っている。少なくとも三島宙明を捕えたときからずっと。でも、望月充希は清矢を求めてはるばる月華神殿からやってきてくれた人間だし、飄々としていて付き合いやすい。ここ陶春だけでなく、北陸で自分たちがどう思われているのかも知りたかった。

 多分、『みさき』との付き合いは、ぶん殴ってでも止めるべきだったんだろう。後悔で眠れず、寝返りを打った。

 すると、ドアがノックされた。充希かと思って「起きてるよ。勝手に入って」と声をかけると、伊藤敬文が入ってきた。憔悴した様子だ。ベッドから起き上がると、隣に無言で座ってきた。と思うと、深刻そうに口火を切った。

「……ごめん。やっぱり清矢さまは家で雫さまやさくらさまを守っていてほしい」
「どうして?」
「詠のお母さんが言ったのは正しいよ。とどのつまり、若年従軍なんか間違ってるんだ」

 清矢は握りしめられた敬文の手に自分のそれをかぶせた。敬文がはっとする。その顔を初めて、じっくりと見た気がした。切れ長だが鳩のような黒目。どことなく下がり気味の直線の眉。薄い唇に、通った鼻筋。頬はすっきりとして精悍だ。髪はちょっとはね散らかして伸びているが、一応はまだ軍人らしい。

 険しいだけではない。思慮深くどこか殺伐とした、だけど優し気な男だった。逡巡は当然だと清矢は思った。それなのに、どうしても、「うん」の一言が言えなかった。

 清矢は口ごもりながら反論した。

「だって……だって、でも。俺は行くよ。そうじゃなきゃみんなにケジメが付けられない」
「清矢さまに何かあったら取り返しがつかない。いくら君が魔力豊富でも……」
「ヤダよ伊藤さん。なんで、また弱気になっちゃったの?」

 笑って見せると、敬文は清矢の両肩を掴んできた。

「無理しないでいい。俺だってホントはダメなんだ」
「伊藤さんっ、俺そんなに子供じゃないよ、ダメって何が?」
「非情になんかなりきれない」

 男はそれだけ言って、清矢をまじまじと見つめて前髪を手櫛でかきあげた。

「勝利のために何もかも捨てるなんておかしい。君は大丈夫なの? たとえ親友が死んでも、その先にある未来のためだけに走り続けられる?」

 清矢は怯えを隠すこともできずに男と見つめ合った。
 その茶色い瞳は挑戦的というよりは、哀れみをたたえていた。
 だから弱音を吐けた。苦しく、あえぐように。

「詠……詠がいなくなっちゃって辛い」
「だよね。それは、俺のせいなんだよ」

 かぁっと目の下が熱くなった。清矢は厚めの胸板をとんと叩いた。

「違う。俺だっておんなじだよ。詠を止められたはずだった。伊藤さんだけのせいじゃない……!」

 敬文は黙りこくり、ジャケットのポケットからお守り袋を取り出した。紺色の地に、波紋が銀糸で刺繍されている。

「これ、あげる」

 袋の中から転がり出たのは、浅葱色のシーグラスだった。ころんと丸く、曇った表面には電灯の明りが淡く滲む。昼の海水を泡で固めたような美しい石。波が長い時をかけて磨いたささやかな贈り物だ。――血や火の匂いとは、まるで無縁の色だった。

「魔法石とかじゃないけど。昔、海で拾ったんだ」
「えと……あの、いいの?」
「また見つければいいから」

 伊藤敬文は寛大な返事をした。

「泣かないで。君の涙は……俺の心まで濡らしちゃう」

 清矢の鼓動が大きくなる。それは飾り気のない男が言うにはあんまりにも恥ずかしい台詞だった――なのに、どうしても笑いとばすことができなかった。瞳が潤んでいたのに気づかれていたから。ぐしぐしと拳で目元を拭う。敬文が注意深く声をひそめる。

「大丈夫、君のことはよくわかった」
「わかったって……何が?」
「詠のことも、俺のことも、責めたくないんだろ」

 敬文はポンと清矢の頭に手を置くと、シーグラスを握らせて、部屋から去っていった。

 角の取れた丸み。少しキシリと引っかかる手触り。波に洗われても残る誰かの記憶の核。ちょっと落ち込みがちで生真面目な、実は優しい人がくれた大事なもの。清矢は荒れる心をなだめたくて、石をずっと握りしめていた。

3 ワンペアの『ジョーカー』

 至極殿の制服を借り、黒田の家に向かう。やや狭めの家に案内されて、客間で着替えた。脱ぐのにまごついていると、半裸の敬文が聞いてきた。

「どうした?」
「え、っと。俺、何着ればいいかなって。充希には逃げるとき女装しろって言われてたけど……」

 敬文はくすりと笑って、清矢の獣耳を引っ張った。

「女の子と二人っきりじゃ、誘拐だって思われる。ちゃんと男の子らしくしててね」

 清矢は紅くなりながら半そでの夏服を着る。

 玄関では黒田錦が金時計の文字盤を見つめていた。清矢たちが来ると、ぱちんと蓋を閉めてポケットにしまう。そしてにやつきながら言った。

「オッケー、制限時間内でっす!」
「あと五時間くらいお邪魔してても良かった感じ?」

 清矢は生意気にふざけてみた。黒田はピンと清矢の額をはじき、さばけた感じで笑う。

「ヤバかったらここに戻ってきな」
「ありがとう。千葉の実家でしばらく身をひそめるつもりだ」

 大人たちは短く別れを告げ合う。

 外に出ると、夕立の後みたいな空気が熱っぽかった。敬文がやぶからぼうに聞いてくる。

「好きな季節は何?」
「……夏」

 清矢は日差しに焼かれながら今、この季節を選んだ。

 自分は春宮の末裔だが、とっくに貴族ではなくなっていた。そして敬文という人物はどこかしら夏の苦い風を思わせた。とびきりの暑さにはかない涼を添える。

 敬文は清矢の答えを聞いて、自らに言い聞かせるように繰り返した。

「ナツキ。君は今から伊藤ナツキだ」

 男がくれたのは親戚という仮面だ。自分は『祈月清矢』じゃなくなった。心細さが、甘えた声を出させる。

「ケイブン……俺、あの石家に置いてきちゃった」
「いいよ。帰ったら、どこにしまってるのか見せて」

 敬文はどことなく楽しそうに笑う。逃避行のはじまりだった。

 帝都からは列車一本。敬文の実家は外房線でたっぷり四時間揺られた駅からさらに三十分歩いたところにあった。すぐ近くが海みたいで、風は潮くさく、なまぬるい。歩調が遅れれば、即座に「ナツ、行くよ」と呼ばれ、小走りで横に並ぶ。その繰り返し。

 道中、説明された家族構成は漁師兼退魔師の父と、その妻である母、そして弟。弟は敬文より四歳年下で、二十二歳。

 広すぎる庭をもつ家に夕暮れ時にたどり着くと、ビールケースに腰かけて、父親と弟が網をつくろっていた。

「兄貴、どうしたんだ、その子は」
「俺の上司の息子さん。これから陶春まで送るんだ」

 その後たっぷり近況報告が続いた。清矢も登山リュックの上に座り込んで、早く麦茶でも出ないかなとちょっとばかしイライラした。

 父親はタバコをくわえて清矢をじろじろと見る。

「国軍クビになったと思ったら、こんな可愛い子を誘拐してくるたぁな」

 弟さんはカラッと笑って「のんびりしていきな」と清矢を撫でた。ふたりとも脂の抜けた感じの骨っぽいひとで、やっぱりどこか敬文に似ている。

 夕飯は鍋だったが、ざくざく切っただけの刺身を次々薦められて、美味しさに目をむいた。そしてお風呂まで借りて敬文の部屋で寝た。

「俺と同部屋で悪いね、ナツ」

 十歳年上の男は肘枕で笑う。清矢は旅館から失敬したと思しき浴衣を着てうつぶせて隣に寝そべる。腕を組んで顎を載せ、敬文を上目遣いで見た。

「フェリーで帰るルートを調べるから、そのへんの漫画でも読んでて」

 敬文はそう言って買い込んだガイドブックを覗きこんでいる。

「ケイブンたちは、国軍クビになっちゃったの?」

 脚をぶらぶら動かして無邪気に聞くと、敬文は「うん」と相槌をうつ。

「大社跡基地の血戦に負けちゃったからね。鷲巣清隆は総将の座につき、敵方を全員罷免した。だけど、木津川口の海戦では勝ったし、国軍には魔法軍とまで戦したくない連中も多いから、春には大多数が復帰できる見込みだ」

 あらためて伝えられる聞く現状に安堵しながら、「どうして国軍に入ったの?」と尋ねた。

 敬文はガイドブックを床に伏せて、よそ見しながら語る。

「……まぁ、世直しがしたくて。藤内総将暗殺後はゴタゴタしてたろ。最初は退魔科配属だったんだけど、拒否して普通科に行ったんだ。そこで君のお父さんと出会って、すぐに大社基地跡の血戦だった。そう考えると正式な軍人だった期間が短いなあ」

 身の上話を聞いて、ようやく敬文が最初鷲津に降ろうとしていたのを納得した。任官して即クビじゃあ、しょうがない。

 清矢はじゃれつくように質問を重ねる。

「魔法、どれくらい覚えた?」
「清矢さまの使ってたのくらいはできるようになったよ。俺も光属性があったから」
「リュミエールドイリゼも?」
「俺のは威力が君より出ないみたいだけど。反属性の闇があるからって説明されてる。退魔科に行ってたら汎用系魔法も本当はかなり入ってたみたいなんだけどね」

 ちょっと後ろ向きな性格の敬文は自嘲する。

「そっか……退魔科に行かなかったこと、後悔してる?」
「いや。だって、君に会えたから」

 まったく少女漫画みたいな気障な台詞だ。清矢は吹き出した。

「また、そんなこと言う~。俺のこと特別視しすぎだよ。もう敬文だって立派な魔術師じゃん?」
「魔法、普通科にも導入しなきゃダメだ。皇帝直属退魔軍という魔法軍がある現状では、兵数を確保するのが課題だけど……とにかく議論はもうやめだ。寝るよ」

 茶化したのに、敬文は恥じるでもなく、将来のヴィジョンなんか語ってみせた。

 布団を出してきて明りを常夜灯にする。修学旅行の夜みたいにそわそわして落ち着かない。並んで横たわりながら「ねぇケイブン」と用もないのに甘えてみる。情勢が緊迫し、祈月家次期当主として期待されていた今までは、あまり取れなかった行動。

 敬文は「どうしたの、ナツ」と構ってくれる。「ヤダ。清矢って呼んで」とだだをこねると、敬文は「清矢さま」と呼びなおす。互いの陣地から呼びかけ合う他愛もないやりとりがこそばゆかった。

「心配したんだよ。君がどんな目に合ってたか……」
「平気だったよ」
「本当に、生きた心地がしなかった」

 沈黙ののちに、過激な台詞が投げ出される。ハスキーだけど柔らかい声が、妙に楽しそうに告げた。

「……この気持ち、恋に似てるね」

 まるで裸にされたみたいにドキっとして、その後はふざけられなくなった。

「偽夜空、大丈夫だった? 君の口から直接、何があったか聞きたい」

 真面目な話題に戻る。清矢は気を取り直して報告する。

 偽夜空は人間に化け、巫女を孕ませた。巫女は他の女が想像妊娠する匂いを放ち、清矢も寝込みを襲われて密通疑惑をかけられた。

 話が際どくなってくると、敬文が怖い顔をしてこっち側に領土侵犯してきた。

「犯されそうだったってこと?」
「うん。だけど、セックスまでされなかったよ。たぶん、あの子もホントは嫌だったんだと思う」

 安全が確保された今なら冷静に振り返れたが、次の瞬間また驚きで跳ねそうになった。敬文がいきなり重なって抱きすくめてきたのだ。頬に手を添わされ、逃げられずに見つめ合う。

「危なかった。どこも異常はないの?」

 通った鼻筋も寂しそうな目元も近すぎる。ドッドッドッと速くなる鼓動をごまかしたくて、うつむいた。敬文も吐息を漏らして距離をとる。少しして、浴衣がはだけて露わになった胸板をまじまじ見られているのに気がついた。敬文の視線が、胸から腹をうろついて、そしてまた切なそうに顔に戻って――何だかちょっとえっちい感じ。清矢は襟をかき合わせて制止する。

「ダメ! 敬文のスケベ」
「あっ、えっと、そ、そうだな……やめよう。ゴメン。本当にゴメン」

 さすがに男は気まずそうにした。体の芯にまとわりつく密かな火照りがうっとうしい。  危うい感じだったのは初日だけで、続けての二日は平和だった。敬文が構築した逃亡ルートは、横須賀港からフェリーで九州門司港まで行き、そこから東進して日ノ本神話の地・陶春へとたどり着くというコースだった。

 出港時間は夜十一時。通勤客で込み合う列車を乗り継ぎ、書店で新聞や週刊誌を大量に購入した後に、フェリーに乗船する。ファミリー向けの和室を予約していた敬文は、すぐに中身を検分しはじめた。

 ――『月華神殿、神官長負傷』『魔族ヲ替エ玉ニ――人界震撼ノ事態』『魔族『い号』ト認定』『鷲津清隆総将ハ関与否定』『祈月夜空氏未ダ行方不明』。

 偽夜空事件に関する見出しが黒々と踊っている。

 敬文が眉根を寄せつつ右翼系の雑誌を差し出してくる。

「……これ、何のことだかわかる?」

 人差し指に沿って文字の羅列に目を走らせると、こうあった――『海百合党二疑惑 魔族『い号』製造拠点カ』『海百合党代表、魔血統差別ト抗弁』。

 清矢は息を呑んで解説する。

「海百合党……陶春の大社近くにあって、『日の輝巫女』って魔物に仕えてるっていう人たちの里だ」
「そっか。『日の輝巫女』については俺も陶春で注意された。人型の魔物だから、近寄るなって」

 ちょうど六十八年前、清矢の祖父である祈月耀が生まれた年に、退魔軍は嘉徳親王が討った大麗の魔物を歩き巫女に封じた。――彼女こそが『日の輝巫女』。老いることなく、時に信仰を集め、反逆者に牙をむいて、現在にいたるまで大社で命を永らえている人の戸籍をもつ魔物。『海百合党』は、『日の輝巫女』を崇める公然とした禁忌の集団だった。

 誰が聞いているでもないのに、声をひそめる。

「……魔物との合いの子だって噂、俺の周りはほとんど信じてる。本当はそういうのって差別だから、口にしちゃいけないんだけどさ」

 あぐらをかいた敬文は問題発言を咎めもしなかった。新聞を広げつつこめかみを指で押す。

「『海百合党』が疑わしいっていうのは吉田牡丹の話から言っても自然な気もする」
「魔族は作っただけじゃ使えないんじゃ? 夜空のこととか、人間の常識とか、どこかで教え込まないとすぐバレるじゃん」
「清涼殿で作って、豹変台で送って、海百合党で教育する。そんなルートかもね」
「俺の家の近くにそんな場所があったなんて……」

 推理が示す事の重大さには怖気がした。敬文はかぶりを振って申し出る。

「油断ならないね。しばらく祈月家に滞在するよ」

 その夜はフェリー内の施設を使い、風呂に入ったり軽食を食べたりして就寝した。穏やかな波揺れで熟睡できずにうとうとしていると、肩を軽く揺さぶられる。

「何? 俺眠いよぉ」
「起きて。どうせだし朝焼け見よう」

 寝ぼけ眼のまま着替え、デッキに出ると……ちょうど夜が明ける時間帯だった。海は鈍いグレーに染まり、空はラベンダーの朝靄がかかる。水平線の上に明々と太陽が輝き、海面に光がとろけていた。

「うわぁ……!」

 清矢は柵ぎりぎりまで駆け寄った。潮の匂いと絶え間ない波音。世界が生きて、呼吸している。

「綺麗だね。眠気も醒めた?」

 敬文が笑う。短い髪は風になぶられ、横顔が朝の光で浮き上がる。

「ありがと。俺、詠にも見せてやりたい」

 笑顔で訴えると、敬文は柵にもたれかかって手招きした。

「おいで」

 羽根でくすぐるような優しい声。頬にかすかに触れられる。

「あのさ……相棒なんだけど。詠じゃなく、俺にしない?」

 控えめながら究極のアプローチだった。清矢は半笑いのまま、息ができなくなる。

「どう思う? ナツ……いや、清矢」

 名前を呼ばれて、心臓がぎゅうっとすくみ上った。詠に対する裏切りのような気がして、涙が出そうになる。敬文は急かすことなく、静かに返事を待っている。朝日の光量は刻々と移り変わっていく

 この人の前なら素直になってもいいんじゃないか?

 ただの十六歳の少年でも許されるんじゃないか?

 清矢は顔を曇らせてはっきりと断った。

「俺、無理だよ……詠ならともかく、敬文さんを相棒とは思えない」/ 「それじゃダメだろ」

 即座に否定がくる。切りこむような口調で、敬文は諭す。

「俺と君は既に祈月軍閥の切り札……魔術戦の参謀と魔術行使の次期当主。歴史を動かしたワンペアのジョーカーだ」

 少し伏し目がちに、彼は続けた。

「……最後まで君と一緒に行く。それが俺の責任で、贖罪」

 強い暁光のせいで、まつ毛の影の長さまでわかってしまう。清矢はわなわなと震えている自分に気づく。

「そんなの……そんなのズルいよ敬文さん」

 男はまぶしそうに目を細めた。

「わかってる、嫌だよな……でも俺を避けないで。二人でやり抜こう。それだけ、約束して」

 ――詠の笑顔が遠ざかる。何もかも忘れてこの胸に飛び込みたかった。「一生懸命頑張るから、俺のこと守ってよ」。子供みたいにそう叫んで力一杯すがりつきたかった。清矢は唾を飲み込みながらねだる。

「……だ、抱きしめて」
「お安い御用だけど」

 冗談めかした台詞とともに、背中に腕が回る。大人の抱擁で閉じ込められる。

「俺、詠のこと……裏切っちゃってるよね?」

 自分の声が救いを求めて嘘みたいに媚びていた。敬文は清矢の髪を撫でて、きっぱり否定してくれる。

「違うよ。詠だって守られるべき存在なんだ。お母さんが心配してただろ」

 包み込んでくる体温や肌触りが安心をくれる。遮るもののない海風に吹かれながら、祈月軍参謀は次期当主の少年を説得する。

「敵に狙われれば、君まで動揺する。危険に晒したくないなら、相棒だなんて言えない。君はあの子とじゃなく、俺といるべきなんだ」

 清矢は答えを見いだせず、従順に抱かれていた。

4 清矢は優等生

 その日の夜に、船は門司港に到着した。一泊してから本州に渡り、陶春県まで国鉄に乗る。青雲駅を出ると、詠が書店の軒先で雑誌を立ち読みしていた。従弟の草笛広大も一緒だ。懐かしい顔ぶれ。ようやく故郷に戻ったという実感がわいてきた。

「清矢くん!」

 詠は清矢に気が付くと喜色満面の笑みでじゃれついてきた。清矢は抱き返すも、内心で焦りを感じる。

「詠、無事だったみたいだね。草笛くんも久しぶり」

 敬文は男子高校生たちにてらいなく挨拶した。広大は草笛家の人間らしく丁寧にお辞儀をする。そして顔を曇らせた。

「清矢、学校なんだけど……あんまり平和とは言えないぜ。手塚さんが月華神殿の事件のこと喜んでんだって」

 歓迎できない知らせだった。清矢も気やすく愚痴る。

「分かった、ありがと。何か、復帰したくねーな……」
「でも、もう授業も進んじまってるからなー。じゃ、俺っちはこれで」

 広大はそれだけ伝えると、自転車にひらりとまたがった。清矢たちの帰りを待ってくれていたのだろうか。見慣れた立ち漕ぎ姿が少々危なっかしい。

「手塚さんて誰?」

 敬文がすかさず尋ねてきた。清矢は溜息をついて答える。

「『海百合党』出身。あんまり仲は良くないけど、たまに話しかけてくる」

 クラスメイトの一員ではあったが、今や不安材料だった。敬文が心配顔で提案する。

「君まで誘拐されちゃ困る。学校は俺が送り迎えしようか?」
「ありがと。助かる……」

 詠は敬文の言葉に痛いところを突かれたらしい。気まずそうに謝ってきた。

「清矢、『みさき』のことはゴメン。俺も今度はちゃんと気を付けるからさ……手塚さんのこと、作戦練ろうぜ!」

 拳をかかげて、ニッと笑う。だが、敬文が静かに首を振った。

「大きな報道の後だ。何もかも油断ならない。詠は余計な事せずに自分の周りに集中して。清矢さまは俺が守るから」

 そう言って、勝手知ったる風に清矢の肩に腕を回した。清矢は敬文を不安げに見あげる。溺れるほど濃密だった逃避行の空気がふわりと漂った。

「な、なんか二人、距離近くね? あの、清矢……俺、話したいよ。一緒に帰ろうぜ」

 詠は驚いて、しゅんと尾を垂らした。敬文が「あのね……」と困り、清矢を見てくる。

 清矢は迷った。別に敬文と相棒になったからって、詠との恋仲まで諦める必要はない。だけどそれは非常に不実なように感じた。だからこそ、大人たちの期待通りの答えでとりつくろう。

「詠。あんまり俺たちだけで暴走するとお母さんが心配する。今日は戻ってくれ」

 胃がむかついたが、立ち話よりは家族との再会を急ぐべきだった。

 詠は突き放されて物言いたげにこっちを見ていた。微笑んだままでうつむいたが、「……じゃあな」と尾を軽く振って、夕暮れの街並みへと駆けだしていく。

5 荒れるA組

 翌朝、クラスに復帰するとたしかに雰囲気が悪かった。

 登校して自分の席に着くと、友人の徹がいそいそとチクってくる。

「清矢。手塚なんだけど、『海百合党』だし怪しいぜ。行方不明のお兄さんのニュース、すっげー喜んでた」
「確かに、いい気分じゃねーけど、喧嘩売るのはヤバい。いちおう父さんの軍の人がついてくれてるから、触らぬ何とかに祟りなしでいこうぜ」
「でもなぁ……」

 徹は鋭い目で窓際の席の手塚佳代を見やる。

 その翌日、またもA組教室。昼休みに清矢が机につっぷして仮眠をとっていると、手塚佳代が近づいてきた。

「祈月くん」
「……何?」

 清矢はうろんそうな目を向ける。佳代は髪型もおかっぱでどちらかというと地味なタイプだったが、友達は多いようで、クラス内でも賑やかにふるまっていた。紺色のジャンバースカートという野暮ったい制服を着崩しもせずに、にこりと笑う。

「どうだったの? お兄さんの事件。鷲津サマに抵抗するのは馬鹿らしいってわかったでしょ」

 清矢は彼女がわざわざ話を持ちかけてきたことに驚いた。隣の席の徹が即、切れる。

「おい、手塚!」

 佳代は鼻白んでひらひらと手のひらで顔を仰いだ。

「事実でしょ。鷲津様は国軍総将よ。逆らったって無駄。祈月くんも諦めれば?」

 清矢は少女をきつくにらみつけた。大きな釣り目でそれをすると、いかにも迫力があったが、彼女は得意げに含み笑いをしている。負けん気の強い清矢もふっと口元に微笑を浮かべると、学ランのポケットに手を入れて立ち上がり、わざとみんなに聞こえるように糾弾した。

「ああそうだな。鷲津清隆はB組の桜庭詠を誘拐したり、渚村の夏目先生を殺したり、そんな汚いことをずっとやってる卑劣な総将だからな!」

 教室中の視線が集まる。手塚佳代は反論できず、怪訝な顔をしている。言うべきことは言ったと思い、チャイムの後は姿勢を正して授業を受けた。

 放課後、B組の詠が心配そうにやってきた。使っていない資料室で話をする。ホコリくさい教室に入ると、詠は口角をあげて健気に謝った。

「一昨日は……悪かった」
「え?」

 詠は最近は別にミスをしていないので、清矢はうろたえた。

「敬文さんと仲良くなったのも当然だよな。だってずっと一緒にいたんだから……確かに油断しちゃダメだしな」

 空気はきしんでいた。清矢は下唇を噛んだが、何ひとつ打ち明けられなかった。詠はわざとらしく声色を変えた。

「俺の誘拐のこと言ったんだって? B組にも噂流れてきてる」
「詠。そうだな、あの、俺……」
「敬文さんは学校にまでは入れねえ。この件は俺たちで何とかしようぜ」

 詠は置きっぱなしになっている石膏の彫像を指で拭った。清矢は急に自信が戻ってきた気がして、うなずく。詠は腕組みして案ずる。

「考えようによっちゃチャンスだよな。手塚さん、『海百合党』の里出身みたいだけど、高校には来れてる。鷲津みてぇなことは、祈月は誓ってしてねぇんだし……考え、変えられねぇかな?」

 清矢は詠の前向きさに感嘆した。学ランの二の腕をポンポンと叩く。

「詠。やっぱ、お前すげぇよ。俺は手塚さんとの和解なんて思いもつかなかった」
「そんなんじゃねぇ」

 褒めてやると照れくさそうにした。拳で鼻の下をぬぐって、実に可愛らしい。

 三日目に事態は急変していた。清矢が詠とともに登校すると、黒板に心無い罵倒が書かれていた。『海百合党は出て行け』『学校通うな!』『魔族の手下』。昨日の清矢との悶着で、陶春県の人間が隠し持っている差別意識が表面化したのだ。徹はまだ来ていなかった。

「……ひどいな」

 詠が顔をしかめる。清矢は粛々と落書きを消した。しばらくすると、佳代が教室に戻ってきた。既に登校していたらしい。目が真っ赤に腫れていた。どこかに隠れて泣いていたのかもしれない。

 待ち構えていた詠が彼女の机に手を置いて、説得にかかった。

「手塚さん、俺、B組の桜庭。あのさ……偽夜空や誘拐犯たちのこと、知ってるなら警察に言ってみてほしいんだけど……」

 佳代は全身のトゲをふるいたたせ、気丈に突っかかってきた。

「あんたたち、わたしが『海百合党』だから退治してもいいって思ってるんでしょ?! 二人は常春殿の神兵隊に通ってるんだもんね。暴力反対!」

 清矢はむっとして、問題を切り分けようとした。

「そんなことがしたいわけじゃない。俺は手塚さんが鷲津についてどう思うかってことを聞きたいんだ」

 佳代は長く息を吐き、清矢の顔を見なかった。そしてきりりと表情を引き締め、鞄を持って教室を飛び出していく。

「わたしだって……魔法ぐらい使えるんだ!」

 負け惜しみともとれる捨て台詞に、クラスメイトはみんな呆気に取られている。でもその沈黙の中にも、きっと悪意は隠れている。普段手塚が仲良くしゃべっている奴らはどうして傍観してるだけなんだろう。清矢は詠とともに仕方なく彼女を追った。

 佳代は全力で走り、清矢のうちの近くの火喜山に入っていった。詠がじれったそうに歯噛みする。

「この山には弱えけど魔物出るぜ。手塚さん、平気か!?」

 登山路に沿って行くと、佳代がカゲウサギを前に身構えていた。カゲウサギは魔物だ。清矢たちはよく退魔の練習相手にしているが、一般庶民にとっては脅威だった。子熊くらいの大きさで、全身は黒く、原質は硬い。清矢は大声で叫んだ。

「手塚さん、下がってくれ! そいつ、けっこうしぶといぜ!」

 手塚佳代は清矢の注意も聞かず、左手のひらをカゲウサギに向けて、詠唱した。

「究極にして深淵たる、真のことわりの名のもとに! 魔術師としての資格と共に、我にあだなす全てを滅せ! 究極魔法・Magica!」

 その瞬間、紺紫色に透き通る魔力圧がさぁっとカゲウサギを覆った。

 呪文はどこで習ったのか間違ってはいなかった。だが、彼女は詠唱発動用の魔法陣を身に着けていない。身体に術式を埋め込んだというわけでもなさそうだ。それゆえか、本来無属性のはずの『マギカ』は闇属性らしき色を帯びていた。カゲウサギは激昂し、振り返って強靭な後ろ足で蹴らんとしてくる。清矢は彼女の前に走り出て、追撃に移った。

「手塚さん、その術は意外とムズイぜ! 俺に合わせて歌ってくれ!」

 『マギカ』は単純な効果のわりに熟練が必要だが、母の実家・草笛氏に伝わるこの旋律なら、素人でも魔物を弱化できた。清矢は何度もカゲウサギを倒してきていたから、自信もあった。

「立ち上がれ、天つ神! 照らせよ、邪を祓う光の矢! 輝ける太陽の司が、いざや渾沌を晴らさん!」

 独特な節回しの『退魔歌』だ。詠も唱和したが、手塚佳代は逆に苦しみ始めてしまう。

「痛い! やめてよ祈月! わたしは……わたしは、魔物じゃない!」

 佳代が喉元をかきむしりながら叫ぶ。

 清矢は歌をやめ、両手を体の正面で合わせて、ぶつぶつと詔を唱えた。子供のころ産土の神社で修行した『破邪の雷』。親戚の結城博士によると、聖属性の雷術らしい。ばあちゃんのさくらも、この術だけは使える。清矢は護身のためと言われて体に術式を埋め込まれていた。太い雷柱があやまたず魔物の上に落ちると、カゲウサギは原質を崩壊させ、風の中に消えていった。弱った手塚佳代は心臓を押さえながら清矢をにらむ。

「あんたは嘉徳親王の末裔で、皇帝直属退魔軍エリートの血がすべて入った男。だけどわたしは……」

 清矢は振り返る。『退魔歌』が効いてしまうなら、佳代はきっと……最悪の可能性が浮かんだが、はっきりさせる以外手はなかった。

「手塚さんは……どうなんだ?」

 手塚佳代は地面に膝を折った。おかっぱの長さの髪で横顔が隠れている。

「わたしは、『魔血統』。魔物から数えて五代で、『魔族』からその分類に変わる。そういう国際基準なんだって。『日の輝巫女』から若い結婚を繰り返して、ようやくヒト扱い……」

 佳代は整然と話して、えづくように泣き始める。

 疑惑が確証に変わり、清矢は無言で立ち尽くす。

「どうせあんたたちはわたしのことを汚らわしいって思ってる!」

 自棄を起こした少女を、詠が堂々たしなめる。

「違うぜ、手塚さん。俺たちがそんな事情で対立すんのは、鷲津たちの思惑どおりだ」

 だが次に手塚が明かしたのは、驚愕の真相だった。顔をあげ、目に異様な光を灯らせて、英雄気取りの二人組をあざ笑う。

「だって……祈月耀を殺したのは、あたしたちなんだから! あんたの祖父、『輝ける太陽の宮』が『海百合党』と『日の輝巫女』サマを潰せって言ったから! どう? 憎いでしょ? わたしたちのことが! わたしのことを退治すればいい。でもわたしは、戸籍もあるれっきとした『人間』だけどね!」

 真相自体は、考えてみると納得がいった。祖母たちは目まぐるしく動く情勢に気を取られて、裏事情を伝えなかったのだ。特に夜空が出奔してから、清矢に伝えられる情報は注意深く統制されていた。

 可笑しいことに、父方の祖父とは話したことすらなかった。清矢が生まれる前に暗殺されたからって、今更憎しみをたぎらせるのは無益に思われた。

 虚勢を張る手塚に、清矢は淡々と告げる。

「……だけど、手塚さん。あんたは、まだ罪なんか犯してないだろ」

 佳代は口を引き結び、清矢を真正面から見た。涙のたまった瞳は黒く、でも輝きを失ってはいない。

「鷲津清隆たちと同じになる必要はないと思う。誘拐や殺人を繰り返していたら、『海百合党』だってきっとまた……」
「そ、そうだぜ! 手塚さんには魔物に立ち向かおうっていう勇気があるじゃねぇか! その勇気、どうせなら汚ねぇやつらとの戦いに使ってみねぇか? たとえば、誘拐犯の逮捕とかさ!」

 清矢と詠は必死だった。大人たちには色々なしがらみがあっても、若い彼女になら自分たちの正義が伝わるんじゃないか? 清矢ははじめて手塚佳代と人間的に向かい合っていた。彼女は、自身は鳥亜種だと主張している。だけど翼がない。「断翼したんだー。ぜんぜん飛べないのに、寝るときとか不便でさぁ」という説明がホントかウソなのかわからない。確かめてやりたいとはもう思えなかった。

 ざっと、秋めいた風が吹いた。爽光で浮き上がった地面の葉影が揺れた。少女はしばらくうなだれていたが、大きく深呼吸をした。

 永遠とも思える何秒間かが過ぎた。

 手塚佳代はスカートのほこりを払って静かに立ち上がった。

「――わかったよ、堕ちきることはないか。たとえ、親が『魔族』でもさ」

 全てを諦めたような、不思議と明るい表情だった。

 後ろ手を組んで、「警察、行こっか。あたしの知ってること、話すよ」と微笑む。

 三人で市の警察署に向かい、刑事課で佳代の持つ情報を話してもらった。公衆電話で連絡をすると、敬文が急いで迎えに来てくれた。

 敬文は手塚佳代に礼を言った。

「情報提供、ありがとう。よければ俺にも内容をかいつまんで教えてくれ」

 祈月軍の参謀だと紹介すると、佳代は驚いたが、あくまで普通の女子高生らしく、ぎこちなく話した。

「桜庭の誘拐事件の黒幕としてあがってた澄名さんのことだけど……本当は『海百合党』の出身なんです」
「魔血統なのか?」

 清矢が尋ねると、佳代はうなずいた。

「私に、祈月たちについていい情報があれば連絡してくれって、電話番号渡してきてる。たぶん、祈月とあたしが同学年だから、利用しようとしてたんだと思う」

 手回しの良さには舌を巻いたが、清矢にはとある考えがあった。

「敬文。あのさ、これ、利用できない? 俺を餌にしておびき寄せて、逮捕するとかさ」

 幼いころ、結城博士たちとともに小さな復讐をした記憶がよみがえる。あの時も狂言誘拐でまんまと逃亡中の三島宙明を捕まえたのだ。敬文は険しい顔で断った。

「ダメだ。清矢さまを危険に晒すような策は俺はとらない」

 清矢は素直にうなずいた。まぁ、敵とて何度も同じ手にはひっかからないだろう。だが、佳代も考え込んで問いかけた。

「祈月じゃなくても、私なら?」

 敬文の眉がひそめられる。佳代は不敵に笑って作戦を立てる。

「たとえばさ、クラスに魔血統ってことがバレちゃって、いじめられてるって。祈月とは同じクラスだし、逃げだしたいって言って、澄名さんを呼び出すとか。あの人、けっこう『海百合党』の中でも浮名流してるよ。『海百合党』から出て行きたいって女の子、どこかに連れてっちゃうことがあるんだ……」

 詠は感心したように腕組みした。

「もしかしたら『みさき』もその線か? 行けるんじゃねぇか?」
「澄名本人が現れるとは限らないし、警察と常春殿の協力あっての話だ」

 敬文は乗り気ではないみたいだった。

「やります。あたしだって、正しいことがしたい」

 佳代は宣言して胸を張る。清矢は思わず身を乗り出した。

「手塚さん、大丈夫かよ。『海百合党』にとっては裏切りになるぜ」
「今まであの人が連れていった女の子だって、一体どんな目にあったんだかわからないよ」

 彼女は捨て鉢に笑った。もう一度刑事課に戻り、策をもちかける。澄名考は『桜庭詠くん誘拐事件』と『夏目雅殺害事件』の二件にかかわる容疑者であり、特別捜査班の編成も検討されるらしい。佳代はもっと詳しい話をと請われ、別室に連れられていった。

 その日は結局学校をサボることにして、帰途についた。詠も念のため、祈月家まで共に向かった。勇んだ調子で清矢の背中を叩いてくる。

「いよいよ澄名のやつを捕まえられるかもな!」

 敬文は相変わらず青少年の熱血ムードには冷淡だった。

「詠。家に帰っても、詳しいことは話さないでくれ。捜査の邪魔になったら困る」
「え? ……ああ、わかりました」

 詠はキョトンとして、常識的注意を飲み込んだ。清矢としても、何となく宙ぶらりんにされた気がして落ち着かない。

6 溺愛のプール

 その後敬文は昼間に方々尋ね歩いて、陶春の関係者と今後について話し合っているようだった。学校でのいじめは止んでいたが、警察からは何の音沙汰もなかった。

 十月に入り、小雨がちになった。手塚佳代は学校を休むことが増え、清矢は気になりつつも打つ手がなかった。夕食をとってから敬文の泊っている洋風の客間に行き、佳代について不安を訴えた。

 男は読みさした新書を閉じて、相変わらずの過保護な注意をする。

「清矢さまが気にすることじゃないよ」

 清矢は敬文をにらみ、あぐらをかいた膝をつかんだ。

「じゃあ何、敬文。俺はクラスメイトすら守れないっていうの? 今だって、手塚さんは囮役として危険な目にあってるかもしれないじゃん」
「君が誰かを守れるなんて思い上がりだよ。俺だってたったひとりで精いっぱいなんだ。お願いだから、落ち着いて」
「ヤダよ、俺、そんなんじゃごまかされない……!」
「大丈夫、大人たちを信じて」

 敬文は優しくそう言って、清矢を抱きこんできた。風呂上りの清潔な匂いがして、大きな手が背中を撫でる。一匙の抵抗もなく、清矢の細い体は男の胸に埋まってしまう。本当ならもう少し反抗したってよかった。社会への不信とか、自身の弱さとか、子ども扱いされてる不満とか、そういった感情を態度で現したってよかったのだ。だけどこの男は清矢を迎えに来てくれて、安堵と保護をくれた。その後もずっと傍にいて、事あるごとに抱きしめてくれて、愛されてるって錯覚まで見せる。

 肌寒いせいもあって、敬文の温かさが清矢のためらいを押し流す。わずかな強がりは、コーヒーに入れた角砂糖みたいに脆く溶けていく。

「俺……俺さ。もしかしたら、敬文のこと好きなのかな」

 清矢は言ってしまって自分でショックを受ける。

 敬文も目を見開き、「そ、そうか」と動揺した。頭をかきながらごにょごにょと言い訳する。

「別に構わないけど……って、いやダメだな。俺はかなり年上だ。いくらでも待つから、それまで傍にいさせて」
「敬文も、俺のこと好きなの?」

 胸がずきずき痛んだが、確認せずにはいられなかった。甘やかされて、心地よいプールに浸って、どっちつかずの関係でいるのは楽しかった。けれどそんなの卑怯だからだ。敬文は、詠に辛い。それはおそらく、嫉妬じゃないかと。

 参謀はあっさりと白旗を上げた。

「……いや、誤魔化してもバレバレだよな。そうだよ、君を何より大切だと思ってる……恋に似てるって言ったろ? だけど、ああ」

 感情をあふれさせた呻きとともに、敬文は清矢を抱きすくめた。カーペットの床に押し倒して、「お願い。大人しくしてて。俺の腕の中で眠っててよ」と懇願する。

 天井をバックにして、困りきった表情で、清矢の身体に覆いかぶさる大人の男。息が止まって体もきしんでしまう。どうしたってこの後に控える性的なことを想像してしまう。詠だって月華神殿で求めてきた。あの時清矢はされるがままで、詠も途中で止めてくれた。だけど敬文は明らかに成人だし、たぶん経験もあるんだろうし、情が高まって、押し流されてしまうかもと思った。詠との時にはなかった怯えと、肉体を走る電流みたいな期待。

 しかし、伊藤敬文は清矢の頭を抱きすくめて必死になだめすかした。

「確かに、この捕り物は世の中を動かす。でも君の出る幕はない。それでいいじゃないか」

 清矢はややほっとして、敬文の二の腕にすがりつく。

「けど、俺たちふたりでジョーカーなんでしょ?」
「今回は警察も本気だ。安心して」

 敬文はそう言って、清矢のこめかみにキスした。思わず瞼裏に涙がにじむ。どうして突き詰めずにはいられなかったんだろう。なんで踏み込んでしまったのだろう。でも答えはわかりきっていた。

 この人との接触や会話から受け取っていたのは確かに恋の悦びだからだ。

 自分が化け物にでもなった気がして、思わず泣き言を漏らしてしまう。

「俺……俺、詠が大好きだったはずなのに。詠の恋人だったのに」

 敬文は清矢の手を引っ張って起こし、きっぱりと命じた。

「分かった。これ以上は禁止だ。今夜は部屋に戻りなさい」

 清矢はおもむろに立ち上がり、操られたように自室に向かった。

 自室のあつらえは特にインテリアも考えられず、和室なのに学習机とシングルベッドが置かれていた。うらぶれた本棚に飾ってあるシーグラスを見る。今日もまた、敬文にねだったら力強く抱きしめてもらえた。「君が大事だから守る」と約束してもらった。危ない真似をするなと叱られた。今までどの大人もしてくれなかったこと……父ですらも。

 綺麗な石を手に取り、握りしめてみる。胸の痛みを吸い取ってほしくて、心臓に当てがった。石は硬く、清矢の体温ですみやかに温まっていった。

 窓を開けて夜闇を見通してみる。霧雨の降る秋の夜。やがて、母が様子を見に一階から上がってきた。引き戸のふすまを開けて、ちょこんと顔を出す。

「清矢、もう寝なさい。敬文さんは?」
「敬文も寝るって。あのさ、俺……正直もう、自分がわけわかんない」

 ありのままになんか言えなくて、感情だけ伝えた。雫はベッドに腰かけて「清矢。疲れてるのね」とささやいた。そして苦い笑みを浮かべながら、丁寧にねぎらった。

「去年からこの方、いろいろなことがあったもんね。戦に行ったり、清涼殿で捕まったり、父さんが鷲津との戦に勝ったり、月華神殿に偽夜空が出たり……それで今度は『海百合党』? 冗談じゃないわよね。全部、あなたのせいではないのに」

 やわらかな語尾から、母の愛ってやつが沁み込んでくるようだった。清矢は「だけど、俺は祈月の次期当主だよ」と力なく笑った。母は立ちあがり、闇を背にして窓枠にもたれる。

「それでも、あなたはまだ十六歳。一人で全部抱え込まないで」

 彼女はロングヘアーを耳にかけ、寂しげに呟く。

「母さんは弱い女だったから、夜空を守り切ることができなかった」

 慰めようかと迷ったが、母はすぐに顔を上げて、微笑みとともに清矢を見つめた。

「だから、せめてあなただけでもって思ってる。敬文さんも、さくらおばあちゃんも、草笛の家だって、あなたを支えようとしてる。その重圧は凄いでしょうね……でもね、誰かに頼るのは、悪いことではないのよ」

 母は戻ってきて、背中をさすってくれた。

「背負いすぎた荷物をいったん下ろしなさい。あなたが今出来るのは、肝心なことを黙り通して、日常を生き延びるだけ。世の中のもつれる糸を、全部自分がほどけるなんて思わないことよ」

 それはいかにもこの押しの弱い麗人、草笛雫の取っていそうな戦略でピンとこなかった。けれど……少年が剣で切り開いた未来なんて、所詮わずかな綻びで崩れてしまうジオラマにすぎないのかもしれない。

「それが母さんのいつも言ってる『芯の強さ』ってやつなのかな?」

 問いかけると、母は嬉しそうに笑った。

「カモミールティ入れてあげるから、ゆっくり休みなさい。明日も学校は行かないとね」

 会話はそれで終わり、雫は階下に降りていく。窓から雨の匂いがする冷気がなだれ込む。応援はありがたかったが、とてもじゃないけどやりきれなかった……だからって敬文には今夜はもう近寄れない。

 ただ詠のことを想った。これ以上、裏切りを重ねたくなかった。

7 共犯者

 廣嶋県某逢引茶屋。時刻は四時半。

 澄名考は革張りの二人掛けソファに背を預け、いかがわしいブルースを聞いていた。卓上のブランデーも氷が溶けて味が薄まっている。手塚佳代はまだ来ない。

 ――常春殿が『海百合党』を潰す、か。

 思いのほか急だった。一方、佳代の身の上にはとりたてて珍しさはなかった。魔血統がゆえにクラスでいじめられたなんてよくある話だ。今までも、出自を恥じて彼の手で帝都に逃れて行った女の子は何人もいた。堅気にしがみついた者もいれば、体を売るしかなかった娘もいる。だがみな、少なからず自分を支えてくれている。

 ……もう終わりにしよう。長年続けてきた祈月氏排斥もここらで取りやめだ。これからは守る側に回る。手塚佳代はその第一号になるはずだった。だから今後の段取りのためにも彼女には直接会わなければならなかった。

 煙草をくわえ、火をつける。

 『祈月清矢』と同じクラスか。

 あんな少年も結局は使い捨ての魔法兵器にすぎない。

 長男が行方不明である今なら、彼さえ消せば源蔵は消沈する。すぐにでも自宅に魔族を送りつけて惨殺してやりたかった。だがそれでは、二十九年前の暴発を繰り返すだけだ。月華神殿に偽夜空を送った企みは暴かれ、旗印と頼んだ鷲津清隆総将は解任寸前。下手を打てば、魔族や魔血統に対するヒステリーが増大し、虐殺へと傾く危険がある。

 効果的なのは、もうひとつの真相の暴露だ。

 蘭堂宮家の血筋だった『永帝』が魔族となる折に反対しなかったのは白透光宮家――祈月家の先祖ではなかったか? そして『日の輝巫女』が作られ、彼女が産んだ何人もの赤子は『魔族』と呼ばれた。

 D兵器や魔族を生み出した当事者のくせに、退魔の家柄だとおのれを誇る。――笑わせるな。蘭堂宮ごと滅ぼしてこそ日ノ本の未来は啓かれる。過去を断罪し、新しい秩序を刻み込むのは我々だ。

 紫煙とアルコールは不思議と郷愁を呼び覚ます。ほかに客はいなかった。

 母は、狐亜種の人間だ。魔族の血など入っていなかった。常春殿に強制され、魔族と番わされた可哀そうな私の母……我々は貴族たちの欲望の犠牲者なのだ。

 茶屋の扉が開いて、女の子が入ってくる。澄名は片手を上げ、少女を呼び寄せる。レインコートの女がソファの隣に座る。

「手塚佳代さんだよね、調子はどう?」

 彼女は少し濡れたおかっぱの髪をなおして、こくんとうなずいた。

 ブランデー水割りを頼む。酔わせたほうが後がラクになる。

 少女は澄名の原稿に興味を示した。

「これは?」

 澄名は甘い笑みを浮かべて、紙片を手渡す。

「未来の設計図さ。祈月家の罪を暴く、真実の記録だ」

 女はボストンバッグの中から眼鏡を出し、紙面に目を走らせた。

「これが『海百合党』の狙い……」
「うん。どうする? もっとじっくり教えてあげてもいい、ベッドの上でね」

 誘いをかけると、女は躊躇せずグラスを空けた。

 そして少しも応えていない顔つきで告げた。

「外に出ましょうか? 誘拐罪の共犯の疑いがかかっています」

 血が凍る。警戒心が限界を超えて引きあがる。澄名はジャケットをひっつかんで店を走り出た。待ち構えていた強面の男が澄名を取り囲んだ。

「フラッシュ!」

 汎用系光魔法の基礎術を唱えて目くらましをする。スーツの脛を蹴り飛ばし、何もかも放り投げて逃げ出す。ハメられていた。彼女は手塚佳代じゃない。たぶん、体格の小さい女刑事。鷲津清隆を通じて送っていた賄賂はすべて無駄になった。

 肌が冷や汗で濡れている。狭い路地の出口では札を構えた兵士が詠唱を終えていた。おそらくは常春殿兵!

「悪しきものよ、さばえなす、罪とがよ。常世の春に囚われて、永劫の夢に惑え! 夢幻結界、光陣!」

 とたんに、眼前が白く焼ける。輝かしい幾何学模様のラビリンスが澄名を捕える。振り返っても、上を見上げても、もちろん足元も、光のタイルで舗装されてしまった。誰かが背後から腕をねじり上げ、のしかかってきて横顔をアスファルトに押し付けた。その姿ももう目には見えない。視界は完全にハッキングされていた。禁術なみの幻惑だ!

 澄名は半狂乱で暴れたが、後ろ手に冷たい手錠がかけられた。忙しない足音が地面を伝って脳に響いてくる。

「ルートA、ホンボシ、確保しました! 使用術式はS。軍警とともに署へ一時連行します」

 男がどこかに通信している。澄名の頭には、胸ポケットに携えている毒薬の存在だけがあった。

 三日後、陶春日報に『桜庭詠くん誘拐事件容疑者逮捕』の文字が躍った。澄名考の逮捕記事だ。七年前の夏目雅殺害事件についても余罪が追及されるらしかった。祈月家の朝の食卓は吉報に沸いた。清矢は新聞を持って学校に向かった。

 近頃、欠席が目立っていた佳代は、何事もなく登校していた。清矢は真っ先に彼女の席に行き、礼を言って、深々と頭を下げた。

「ありがとう、手塚さんの協力のおかげだ」

 手塚さんは照れて、「や、わたし、警察に自分の知ってることを伝えただけだし」と笑った。徹も「手塚さん、やるじゃん!」と彼女を称えている。『海百合党』の裏切者となった彼女がどうなるか、一抹の不安もあったが……今は無邪気に喜んでいたかった。

 詠と広大のいるB組に赴き、事件の解決を祝った。

「やったな! これで夏目雅先生も浮かばれたな」
「被害者の名前って堂々と出ちまうもんだなー。母ちゃん、慌ててたぜ」

 二人はそれぞれの反応を示した。清矢は内心の抵抗を押し伏せて本題を切り出す。

「詠。大事な話があるんだ。あとで体育館まで来て」

 昼休み、詠は体育館の渡り廊下までやってきた。清矢は学ランのポケットに手を入れ、金属の柱にもたれていた。

 ポプラが黄色い葉を落としている。銀杏も植わっていて、鼻をつく実の匂いが生々しい。その臭気を嫌って、生徒たちはめったに近寄らない場所だった。詠が心配そうに問いかける。

「清矢くん、何かあったか」
「詠。お前ってさ……俺の恋人だよな」

 清矢は申し訳ない気持ちで確認した。

 詠は紅くなって「……うん。そのつもりだ」とうなずく。

 くどくど言い訳するつもりはなかった。だから、結論から打ち明けた。

「俺ね、月華神殿から帰ってくるまでの間で、敬文のこと好きになっちゃった」

 詠は息を深く吸い込んで、「なんとなく気づいてたけど」と答えた。清矢は目を合わせずに説明をした。

「自分で自分が分からねぇ。詠を裏切りたくないのに、他人に抱きしめられるのが気持ちいい。だからケジメつけたい。こんな状態で詠と付き合ってるのは不誠実だ」

 幼い恋は希望と愛に満ちていた。詠はいつでも自分を支えてくれたし、笑い合うのが楽しかった。だけど秋になって清矢は変わってしまった。自分勝手でズルくて臆病になった。性的なふれあいはしていないけど、汚れた、と思う。今までだって大人の都合に振り回されてきた。走ってこれたのは隣に詠がいたからだった。でも、敬文は……清矢を戦場に連れていった犯人は、清矢の隠れた依存心を引きずり出して、危うい恋の幻を見せた。三角関係。純情な詠をそんなぐちゃぐちゃな世界に引き込みたくはなかった。

「……俺じゃあ敬文さんにかなわないっていうのか?」

 聞き返す台詞はいくぶん落ち着いていた。

「違うよ。俺は詠が好きだし、危ない目には合わせたくない。だけど迷っちゃうんだ。なら、束縛しちゃいけない」

 涙もろい詠はすぐ泣いた。目元を拳でぬぐいながら、譲歩してくる。

「俺は『みさき』と付き合っちまった……これで、おあいこってことにならねぇか?」
「あれは、俺とくっつく前だろ。詠は悪くねぇよ。何も……悪くねぇよ」

 ソフトモヒカンの髪をわしわし撫でてやる。詠は感情をこらえられず、清矢に抱きついてくる。慈愛が高まる。敬文のときのひりつく欲望とは正反対の感情だ。清矢は穏やかに詠をあやした。

「耀サマみたいな冒険は、もう充分だよ。俺はお前に平和に過ごしてもらいたい」

 詠は跳ねるように後ずさった。

「そんな平和なんかいらねぇよ!」

 怒り混じりの泣き声だった。清矢は強い目で詠をにらんだ。

「ダメだよ、詠。お前は誘拐されて拷問されたんだ。戦にまで行ったし、いつだって俺の盾になろうとして……俺、お前を失った未来にこうしてちゃんと立ってらんない」
「……それは、俺だって同じだけどな」

 捨て台詞には拒絶の色が滲んでいた。詠は唇を噛み、険しい顔で引き上げていく。秋空はどこまでも深く澄んでいて、乾いた寂しさを清矢にもたらした。教室に戻り、味のしないのり弁当を食べる。手塚さんは頬杖をついて窓の外を見ていた。

 放課後、敬文が迎えにきた。彼は挨拶なんか抜きで目ざとく尋ねてきた。

「どうしたの。浮かない顔だ」
「俺……詠と別れちゃった」

 敬文は何も言わず、手をつないでくれた。「どっか行こうか」と微笑まれ、そのまま海まで歩く。国土を引いたとの神話が残る渚は、観光客もおらず、魔物の影もなかった。

 ふたりで砂浜に座って空と海を見る。清矢は問わず語りをはじめた。

「大事なのは詠なんだよ。でも俺、自分の事情でこれ以上あいつを傷つけたくない」
「分かってるよ。俺の理屈ってホントは私欲だから……」

 敬文は複雑に微笑んでくれた。気がわずかにラクになった。だが、彼は次の瞬間身を乗り出して清矢の心にまたナイフを入れた。

「――だけとごめん。別れてくれて嬉しい。今は君とだけの世界に浸っていたい」

 その告白は単純なスキなんかじゃありえない、罪とエゴにまみれた、生々しい執着だ。敬文は清矢のあごをとらえ、とうとう唇にまでキスをしてくる。背筋が震える。怖いのと、禁忌と、それ以上の欲望と。

 唇が触れ合っただけで清矢の思考は止まってしまう。しゃにむに抱いて、滅茶苦茶にしてほしいとすら思う。身体の奥が熱い。恥ずかしくなって「ケイブン」と名前を呼ぶと、彼は清矢の顔の輪郭をなぞりながら、飢えた目を潤ませて口説いた。

「こんなに綺麗な世界が君の死を見せてくるなら、俺だって一秒たりとも生きなくていい」

 そして清矢の手を包み込み……額をつけて祈るような仕草をした。

「この手が武器を取るのはもっと先で良かったんだよ。俺は誤った……赦してくれ」

 波音が複雑なコードを奏でていた。絶対音感なんかないからドレミには聞こえない。清矢は、重なった指にキスする。

 笠間橋の戦でのことが思い出された。自分に一直線に向かってきた敵隊長の殺意。

 敬文は素早く銃撃し、自分にとどめを刺させなかった。あの時は残念にも思ったけど、きっと俺の無事だけを考えてくれてたんだ。決定的な人殺しまではさせなかった。

 話題を逸らすためにわざと明るく話す。

「ホントはさ、高校生らしく、詠と付き合ってるべきなんだよね。放課後に楽しくしゃべってさ。剣で競い合ったり。ピアノ聞いてもらったりとか……」
「そうだね。でも、俺は君が好きだよ」

 自分はそこまで詠を束縛していいものだろうか? 答えは否だった。大好きな詠だからこそ、自分の意思で健全な道を選んでもらいたい。

 清矢は感情の処理ができずに制服のまま敬文にすがりつく。敬文は抱きかえしながら、何度も背中を撫でてくれる。この人はずっと一緒にいてくれるんだ、と無理やり納得しようとする。厚い体と燃えるような体温に抱きついて、清矢は涙を敬文のシャツにしみ込ませた。しばらくそうした後で、敬文は体を少し離した。

「だけどね、世の中には理ってもんがある……俺は君を独占してたいけど、結局最後は手放さなきゃいけない」

 清矢はショックを受けつつ「どういうこと?」と聞いた。

「だって、祈月家が続かないだろ。みすみす夜空のほうに権利を取られるわけにはいかない」

 この男は実際はどこまでもドライだった。清矢を愛の夢に酔わせる。けれど即座に現実に引き戻す。清矢は今やその急激な温度差を信頼しつつあった。

「最終的に君にふさわしい相手は俺でもなく、詠でもないんだ。その女性が見つかるまで俺で、っていうのはかなり卑怯だけど……」

 清矢は敬文を見つめる。本当に狡い人だ。狡くて悪くて……だけど正直だ。俺を騙そうとはしていない。清矢は今度こそ本音で笑う。

「……卑怯なのは、俺もだよ」
「え?」
「俺も敬文を利用してる。守ってもらいたい。政治的にも必要」

 清矢は人目を避けたくてもぞもぞと敬文にすり寄る。そして子供の武器を使った。

「一緒にいると気持ちいいんだ。もっと……先に行きたいって思う。これって、恋だよね?」
「……ああ」

 男は愛おしくてたまらないという表情で少年を見つめていた。清矢はハミングするみたいに続けた。

「だから、俺たち、おあいこだ。お互いどっか狡くて。それでも……」
「それでも?」
「今は敬文といたい」

 それが清矢の答えだった。あんなに一途な幼馴染を振って選んだのは十歳年上の軍閥参謀。どこにも褒められたものはない関係。応援してくれる味方だっておそらくはいない。

 伊藤敬文も切実な声で正解をくれた。

「ありがとう――共犯者。それが『ジョーカー』の真相だ」
「……うん」

 清矢は敬文の胸に顔を埋める。そうだ。俺たちは、罪を分け合ってる。戦に詠たちを連れてったことも、魔法で敵を殺したことも、極めつけにこの関係も……全部、二人ではじめた罪だ。敬文は苦しそうに告げた。

「でもその後も、俺は君を守るよ」
「……いつまで?」
「大人になった後も。君のお父さんが退役した後だって、俺は国軍にいるからさ」

 清矢は目を閉じる。静かで大きい打算が心の中で固まり始めた。でもそれは悲しみではない。この人となら、たとえ罪を背負っても赦し合える。

 マジックアワーは儚く終わり、つるべ落としのような短い夕暮れが来た。清矢ははっと我に返り、敬文を見上げる。

「『海百合党』ってこれからどうなるんだと思う? 手塚さん、やっぱり無理してる感じだ」
「そのことだけど」

 敬文はいきなり軍師の顔に戻る。

「鷲津清隆は澄名逮捕を切り抜けられないだろう。零時の父親にももう一度彼らの関与を証言させる。総将はスキャンダルで退場し、俺たちは春には国軍に戻れる。そしたら、『狩り』のはじまりだ」
「『狩り』って……」
「世論は魔族排斥に向かってる。耀サマの仇をとろう。『日の輝巫女』と『海百合党』の排除。それが俺たちの国軍退魔科での初仕事になるんだ」

 清矢は暗い気持ちで確認する。

「手塚さんはどうなるの?」
「こちらについた魔血統は保護。『日の輝巫女』に殉じるなら、そうさせてやるだけ。大丈夫だよ、手は打ってあるから」
「俺は戦に出なくていいの?」

 敬文は不安げな清矢を決然と一瞥して「二度と高校生に従軍なんてさせない」とあらためて誓った。

 その後、文化祭など楽しいイベントもあったが、清矢は注意を怠らなかった。母の忠告が指針だ。詠にも、もう『相棒』だからといって機密をばらさなくていい。それはある意味救いだった。

 意外なエンディングもあった。12月、期末テスト終了日に、手塚佳代の転校が担任から告げられたのだ。平穏を取り戻していたクラスは驚きに包まれ、お別れ会も企画された。清矢は帰ろうとする手塚を追い、別れを告げた。彼女は結局、魔血統への偏見を避けるために陶春県を去ることにしたらしい。突っ込んだ事情を聞くのは憚られた。引っ越し先は、敬文と束の間滞在した関東圏だった。

 手塚佳代はそんな通り一遍の身の上話をしたが、最後に真顔で質問した。

「祈月、あたしたち正しいことをしたんだよね?」

 実に重たい問いだった。清矢はうなずくしかない。彼女は握手を求め、清矢も応える。――何ひとつ、わかりあえていないと思った。でも、幼いころから命を狙われていた祈月清矢と、魔血統だという差別に耐え続けた手塚佳代。ふたりは案外、似たもの同士だったかもしれなかった。

 握った手は自分のものよりも華奢で、確かに人間の肌の感触をしていた。

「元気でな」
「祈月も」

 手塚は短く告げて、しっかりした足取りで去っていった。彼女は制服の上にマフラーをしており、深紅がやけに鮮やかだった。木枯らしがうそ寒い。

 本格的な冬が訪れていた。

(了)