永久なる春の追悼曲(第七話)紫天宮と罪の術式(2)
5 執行前の休暇
それから四か月後、十一月末。
儀式の三日前、よく晴れた初冬の日に、ふたたび望月充希がやってきた。充希は祖父に付き添われ、「やっ、清矢くん」と笑った。その軽い態度に、清矢は和ませられた。
さくらばあちゃんが、充希のじいちゃんとの再会を喜んでいる。
「御剣さん! いやぁ、久しぶりだねぇ」
「さくらさんも相変わらず美人だね。へぇ、あなたが源蔵の嫁さんか。ずいぶんなお嬢だって聞いてたけど……」
「やだ、お嬢は昔の話よ。ホントにあたし、昔は卵かけごはんぐらいしか作れなくって」
「和食はいまだにあたしが監督してるよ。調理師免許持ちをバカにするなってんだ」
大人たちは政治の話などせず、居間で酒盛りを始めている。
……でも、充希自身は何を思って作戦に参加してるんだろう? 清矢は充希を外出に誘った。「ふたりとも、あまり羽目を外すなよ」。充希の祖父が釘を刺す。
と言っても、誰が聞き耳を立てているかわからない街で作戦の詳細なんか話すわけにはいかない。結局、火喜山に行くことになった。「えぇー、一戦前にカゲウサギ倒しますって? ま、肩慣らしにはいいけど。清矢くんとの共闘も久々だもんね」と充希は笑い、背中に日本刀を背負う。
もちろん狙いは密談だ。中腹の休憩所まで魔物を適当に蹴散らし、よく晴れた空の下、作ってもらったおにぎりを頬張った。チェック柄の水筒から熱いほうじ茶を呑んで、とんびが舞うのをゆっくりと見る。季節はまた冬に向かっていた。乾いた蒼天を、所在なさげに飛び回る鳥。清矢は、頃合いと思い本題を切り出した。
「充希は、自分が政治の道具になってるって意識ある?」
「まぁね。清矢くん、それが辛くなってきたの?」
充希の答えはあっさりしていた。清矢はうなずき、話しはじめた。
「だって俺たちって本当は高校生だろ。こんな、時代の渦に巻き込まれてさ……」
「それがイヤならずっと逃げてりゃよかったじゃん」
さばさばと割り切った答えに、清矢は驚きを感じた。
「充希はそれでもいいの?」
「俺だって耀さまのパートナーだった御剣の孫だよん?」
充希はそう言って、木製のベンチに座りなおした。
「誰かがやらなきゃでしょ。今更父親や祖父ちゃんって……そんな時代でもない。俺にとってアルカディア魔法大への留学はチャンス。見返りは欲しいし、『日の輝巫女』や『永帝』を倒すためにはある程度悲しいのも仕方ない」
「……ホントは俺、めっちゃ悩んでる」
鬱屈とした内心を打ち明けると、充希は目を丸くして真顔になった。
「そうなんだ。だけど今更辞退はできないよね。っていうか、分かってる? 百年以上も日の本を荒らしてきた、大麗由来のD兵器を、ようやく無力化できるんだよ?」
それは大儀だった。最近、使命を説く者がいなかったので、目が覚めた気がする。
「手段が悪い、っていう批判もあるかもしれない。けどね、時計の針は進めなきゃいけないよ。俺はそのための刃だから。お国からしたらそんなもんだし、魔族を政治から排除できたなら万々歳じゃん」
落ち着いて考えれば充希は正しい。だけど、胸の中には違和感が残った。
「でも、ましろちゃんは? 彼女も魔族だから、犠牲になっていい?」
「ましろちゃんって?」
「次の『日の輝巫女』の器」
充希はふっと笑って、空を見上げた。その横顔は、十代の少年というには老成して見えた。まぶしそうに目を細めて、優しい声で諭す。
「犠牲になる人たちがいるってことだけは、覚えておこうよ。俺たちが道具として使われる。それでいいんだ。ただ、記憶だけは、誰にも奪われない」
「覚えておいて……それでどうすんの」
「ペンディング」
充希は一言で答えて、向き直った。
「将来何になるか、は分かんない。俺もさ、結城先生みたいに魔法の学者になってもいいかなって思うしね。何も国軍や魔法軍だけが人生じゃなし……」
ベンチに両手をついて、かかとで地面を蹴る。顔を上げると、ニッと歯を見せて笑った。
「でも、今回の件は、これからを考える材料でしょ。俺は、答えを出すのは大人になってからでもいいって思ってる」
「間違いだった、って結論で悔やんでも?」
「何もしないよりはいい。俺たちが大人になって、それが間違いだった時に、世界に裁きを下すのが、俺たちの記憶」
ちょっと冷ややかに言いきって、充希は背伸びした。
「そういや詠ちゃんは? 一緒にいないの?」
清矢は敬文から「詠は巻き込むな」と言われ、自分もそれに同意したことを話した。充希は首をかしげた。
「ま、今回ばかりは詠ちゃんも控えのほうがいいよね。でも俺たちも成長するよ。その時まで、敬文さんの甘やかし論理で何もかも押しとどめられるとは思わないけど」
「……そうだな。いつまでも守られてるだけじゃダメだ」
「詠ちゃんまでは、清矢くんの『良心』が許さなかったってことね。案外、それがパンドラの箱の底に残った最後の『希望』なのかも?」
背筋を正された気分だった。拳を握り、じっと見つめる。
「そうそう。あんまりウジウジしてると、清矢くんのこと置いてっちゃうよ?」
充希は楽しそうに笑い、片付けをして山を下り始めた。
6 儀式と危機
三日後、常春殿の地下四階にある〈桜花晶の間〉で儀式は行われた。壁材には秘密物質アルカヌム、つまり、「卑俗ならざるメルクリウス」と呼ばれる魔素を通す素材が錬成されていた。
封印陣・転移陣・天候陣・血印式……四方の壁には、古式術式が折り重なり、一定のリズムで光脈が明滅を繰り返す。まるで、人体を縦横につなぐ血管のようだ。 『桜花晶』は声もなく、内部の永久機関を巡らせて、膨大な魔力を軍事基地全体に脈動させている。
部屋の中心に鎮座するのが、『桜花晶』――一辺三メートルもの巨大な立方晶の魔石だった。淡紅の波紋を空間全体に放ちながら、日本国固有の術式を刻んだ面が時おり淡い白色に光る。国防術を増幅する、文字通り軍事施設の心臓だ。
術師長の森戸綱手が、手袋をはめて回路を操作する。
空間の外周には、至極殿の精鋭二十四名が立ち並び、黒田錦が指揮を執っている。
前方には、モノトーンの月華神殿神兵装束に身を包んだ望月充希が、敬虔に膝をついている。清矢は並んで立膝で座りこんだ。祖父・耀の着ていた鎧を装備している。
重々しい沈黙のなかで、桜花晶が低く唸った。
「キュウマルマルマル、降魔封印儀式開始」
至極殿の兵たちの列が二つに割れ、ひたり、と控えめな足音がした。葛葉寛が一礼し、後ろに立つのは――神事用の帷子を身にまとい、五色の組紐を帯に結わえた、『日の輝巫女』その人だ。獣耳と尾のない、ホモ・サピエンスの似姿。前髪を眉下で切りそろえ、長い黒髪を背に流した彼女は、天女のように悠然と歩いてくる。中心に作られた祭壇に立つと、場の空気を気にせず、ばさりと帷子を脱ぎすてた。三十代の豊満な肢体が真珠色に輝く。その裸身には、式の文様が刻まれている。朱と白の混じる線が、身体に宿る魔力を導いていた。
「清矢、久しぶりやねぇ。六年ぶり、いや、七年かしら? 季徳公は、私がこうなることを知っていたんよ」
「……え?」
話しかけられた清矢は怪訝な顔で彼女を見あげた。確かに、六年前。大社で迷った折に、詠とふたりで襲われたことがある。彼女は意地悪い笑みを浮かべ、皮肉な口調で語った。
「七十年近く前、『博麗王』を封じるため、私は器となった。永帝と季徳公は『国のため』とのたまうた。そして私を置き去りにした。半世紀の孤独を、ただひとり」
自分勝手な憐憫を、森戸術師長の低い声が切り裂く。
「あなたは祈月耀様を殺した。久雄大佐の父も殺した。孤独などと言いながら、人を魅了し、かしづかせて、その命を食らってきた」
「そうしないと生きられへんかったからな。ホモ・ファシウスかて、同じやろ? 魚や豚を食うとるやん。あの子が、私の罪まで引き継ぐ……うふふ、素敵だこと」
裸の女は、葛葉の背後に隠れている帷子姿のましろを見つめ、冷笑した。
清矢は『日の輝巫女』を、いや、長田千秋という女を睨みつけた。彼女は祖父の仇だ――『海百合党』を従え、政治的にも力を持ち、対抗する人物を殺した。それだけでなく、ましろのようないたいけな存在まで、何人も手にかけてきた。
葛葉寛がしかめつらしく礼をする。
「それでは、望月殿。よろしくお願いいたします」
「了解!」
充希がニッと笑って立ち上がり、『満月刀』を青い鞘から抜き放った。そして、鈍色にきらめく刃で、自らの喉笛を一文字に掻っ切る。血が噴出し、充希はくらりとのけぞる。だが、みるみるうちに傷は癒えていく。これが『満月刀』の真なる力! 彼は、呪いの力を統べる代償に、自らの声を差し出したのだ! 血走った眼ざしで充希が堂々名乗りを上げる。その声は、以前のつやのあるテノールではなく、酒焼けしたようにしゃがれている。
「我こそは望月家の新たなる当主、望月充希! 儀式を終えた今、『満月刀』の主として、血脈を受け継ぎ命ず!」
暴風のような激しさだった。地を蹴った充希は、長田千秋の胸元へと肉薄し、その刃を深々と突き立てた。
「全魔力接収!」
千秋の裸体が激しく震え、膨大な魔力が『満月刀』へと逆流していく。絶叫すら上げられぬままうずくまる千秋。充希が小刀の柄にあるからくり窓を弾いて開け、清矢へと見せつけた。
「新月まではあと何夜?」
「新月だ! 容量限界!」
中窓の中の月紋は、満月から削り取られ、今や限界まで痩せ細った新月となっている。だが、百年を生きる魔族の執念は、それしきでは枯れなかった。千秋は歪な笑みを浮かべたまま立ち上がり、無防備な充希へ死の抱擁をせんと躍りかかる。
「……させるか!」
清矢が掌をかかげ、術式の詠唱を始める。祖父を殺し、ましろを嘲笑い、自分たちの運命を弄ぶこの女に、最後の断罪を与えるために。
室内に白雲が集まり、魔素が力となって超常現象に凝縮する。『日の輝巫女』は異常を検知、恐るべき怪力で充希を壁に突き飛ばすと、清矢に躍りかかってきた。敬文が即座にアサルトライフルを構えて命じる。
「援護射撃、開始!」
敬文の号令が裂帛の気合を伴って響き渡る。狙いは極めて精密だ、清矢の背後から、退魔科の精鋭たちが放つ銀弾が千秋の肢体を壊していく。肘を、喉を、頭を、無残に貫かれた女の肉体は、それでもなお目覚ましい速度で再生と崩壊を繰り返した。女は清矢の方へ空しく指先を伸ばしている。
「夢幻結界、凍陣! 『日の輝巫女』、常闇の炎の契約者よ、永劫の氷殿で凍えよ!」
「撃ち方やめ! 術式S-58展開確認!」
魔物の処理班たちの指示に一切の慈悲はない。清矢は兵たちに助けられながら詠唱を完了させ、金切声で叫んだ。
「……嘆きの雨よ、降り注げ!」
体内の術式が、病的な熱を持って稼働する。天井部に雲としてたくわえられた雨粒がついに決壊して降り注ぐ。世代を超えた業と憎しみの総決算だ。冷たいカルキに似た匂い。聖属性の呪いのみそぎ。
「あ、ああああああああッ!」
長田は痛みに耐えきれないのか、胴をかきむしった。黒田錦が快哉を叫ぶ。
「よくやった清矢! 皆の者、我らもやるぞ!」
至極殿神兵隊が汎用系闇魔術『ノクターヴァ』を一斉に発動した。清矢の放った垂直な銀光と、兵たちが紡ぐどろりとした闇が、聖邪の化身を破壊するためにもつれあう。
そして長田の肉体は『博麗王』という圧倒的な魔をとどめる力を喪失した。
割けた腹部から鮮血の代わりに溢れ出したのは、底なしの虚無を溶かしたような、どす黒い流体。それが至極殿の兵たちが放った闇属性魔術を貪欲に吸収し、痙攣しながらのたくって、天井を突き破るほどの質量へと膨張していく。降りかかる雨糸を瞬時に蒸発させながら、巨大な蛇の姿へとわだかまる。三対の金色の瞳がぎょろりと兵たちを睨みつけた。
「……『博麗王』……!」
誰かが恐怖を押し殺した声で呟いた。
「いかん! 完全に顕現がなされるとは! ましろでは荷が重い、私が、新たな器となります!」
葛葉寛が決然と言った。祭壇にせかせかと進み出ると、抜け殻となった長田千秋を慎重に抱き起こす。彼女の足は魚類のひれのように溶けくずれて、魔物の尾と無残につながっていた。ほんの二十分前まで発散していた匂うほどの妖艶さは消えはて、百五歳相応に老いさらばえた、ただの残骸になっている。虚ろな目から流れ落ちた涙の痕が頬を伝っている。
ましろが「葛葉のおじちゃん!」と悲痛な声で叫ぶ。葛葉は気にもかけず、穏やかな表情で長田千秋に話しかけた。
「千秋さま。お役目をとうとう果たされましたな。私がお迎えに参りました」
その眼差しは何の感情によるものか、熱く潤んでいた。老婆の目は焦点が定まらず、口元からは黒い血が滴り落ちている。『博麗王』の蛇体だけが、しらじらと不気味にうごめいていた。葛葉は老婆の額に自らの額を寄せる。
「『日の輝巫女』と呼ばれた女よ。そなたの愛した男の末裔と、今交わらん」
葛葉は老婆の枯れた唇に自らの唇を重ね、静かに息を吹き込んだ。愛のためではなく、ウケイと呼ばれる儀式である。魂を削り、肉体をいう器を差し出すという聖なる誓い。
キスを終えると、葛葉は長田千秋を床に横たえた。立膝のまま、隠し持っていた守り刀で手首を切る。彼は老婆の口元に手首を持っていってその血を舌になすりつける。降魔封印術の最終段階だ。予想外の成り行きだが、全員が固唾を飲んで見守っている。
「『博麗王』、我が血液に導かれよ。汝の力を、新たな依り代に同化させん」
葛葉の体からカッと白光が放たれ、老婆の体からは黒紫色の霧が立ち昇った。『博麗王』のシルエットが霧に巻かれて徐々に縮小していき、人体という、か弱くも精緻な檻に引きずり込まれていく。
百十六年前に大麗から送り込まれたD兵器『博麗王』――嘉徳親王たちが命がけで討伐し、六九年前に長田千秋がその身に取り込み、そして順和二十八年の今、ふたたび封印される大妖蛇。一世紀の封印が往時の力を奪ったか、「クォオオン」という哀愁を帯びた鳴き声を残して、その姿が見えなくなる。ましろが葛葉にダッと駆け寄り、丸まった背にしがみついた。
葛葉は荒い呼吸を整え、ましろの身体に捕まって、のっそりと立ち上がった。ホモ・ファシウス狐亜種の証である獣耳と豊かな尾はなくなってしまっていた。その目もまた、爬虫類のような縦長の瞳へと変化している。
「『博麗王』は再び封じられました。私は大丈夫です。力を、制御できますよ」
その声には、かつての優しさも残っていたが、どこか異質な凄みが二重に鳴っていた。彼もまた、怪異の一人となり果てたのだ。清矢は儀式の思わぬ成り行きに、無力感を抱き後ずさる。敬文がその背を抱きとめ、何かの符丁を繰り返して、撤収にかかる。もう一人の退魔科の精鋭が倒れた充希を回収した。
敬文は清矢の肩を抱いたまま、地下一階まで階段を上り、司令官室に入った。多数の将官がうろつく中、父・源蔵と、魔法軍総監・蘭堂宮冬真が横長のテーブルの中央席で言葉を交わしている。報告を聞いて、冬宮は怪訝な顔をした。
「なに? 『ましろ』でなく葛葉寛が代わりの器になったと?」
源蔵は現場指揮官らしく眉ひとつ動かさない。
「まずいな。状況は?」
「葛葉殿の理性は強く、封印は機能しております。『博麗王』との戦闘は現在停止中」
敬文の言葉は正確で、澱みがなかった。蘭堂宮は満足げにうなずき、卓上の地図をなぞって指示を飛ばす。
「了解。では、黒田錦による『退魔の夜』術式の予定時刻は変更せず。『満月刀』および『新月刀』は別室待機とせよ」
「充希は篠崎中尉が救護室へ移動させました。清矢は引き続き、私が監督します」
敬文はそれだけ言い捨てると、敬礼もそこそこに司令官室を後にした。重い扉が閉まり、高官たちの会議が聞こえなくなる。
長い地下廊下の静寂の中で、足音だけが虚ろに響く。敬文は何も言ってくれなかった。撥水加工された軍服の硬い感触がよそよそしい。その横顔は清矢を見ておらず、ただ前だけを見つめている。
兵舎の待機部屋には、なぜだか日常がいた。常春殿兵装に身を包んだ詠が、パイプベッドに腰かけていたのだ。清矢は衝撃で一瞬、眩暈がした。
「ちょっと待ってくれ。詠がいるなんて聞いてない」
敬文は大股で歩み寄り、詠の腕を掴んで、無理やり立ちあがらせた。詠は気まずそうに笑い、慣れない敬礼をした。
「どうしてもって頼み込んだんだ。今日、家に籠ってるだけじゃ、永久に置いていかれちまう気がしてさ。なんか顔色悪ィけど……水、持ってこようか?」
敬文は詠をにらみ、短く溜息をついた。
「俺がやる。詠はここから動かないで。清矢さま、儀式の詳細は語らないで」
清矢は重い沈黙に耐えながら、窓の外を見やった。しばらくすると、部屋のスピーカーから切り裂くような警戒音が鳴り響いた。
「――常春殿総員退避。ヒトマルマルマル、術式『退魔の夜』起動。繰り返す、術式『退魔の夜』起動」
午前十時。曇り気味ながらも晴れていた空が、偽りの天蓋に包まれて、星光のない夜にじわじわと変わっていった。詠も異変に気づき、窓を開け放って怯える。
「な、何だ? 何が起こったんだ?」
眼下に広がる陶春の空が、音もなく紺青の闇に塗り潰されていく。それは救いではなく、魔族を根絶やしにするための、虐殺の幕開けだ。清矢はがなり立てて制止する。
「やめろ! 聖なる闇を陶春県全域に展開。これが魔法軍の切り札、『退魔の夜』術式だ」
詠はせわしなく瞬きをしながら清矢の方に振り返る。
「どういうことだよ、街のみんなは……!」
「ホモ・ファシウスは無事なはずだ。ただし、魔血統や魔族は……この夜の退魔効果に耐えられない。『海百合党』の里では今頃、己の魔性を制御できなくなった者たちが、サバトを繰り広げているはずだ」
「う、嘘だろう? あの、『日の輝巫女』はどうなったんだよ! そうだ、ましろの親たちは……?」
詠はそこまで言いかけて、真相に気づいて顔を硬くした。ガン! とパイプベッドを拳で叩き、部屋を走り出ていく。清矢は焦ってその後を追ったが、儀式でかなりの体力と魔力を消費しており、とても追いつけなかった。バタバタと伝令が行きかう中、詠は司令官室の扉前で兵に羽交い絞めにされつつ暴れていた。
「やめろ! 何を……何を始めてるんだ! ましろを騙してたのか!」
もがきながらも、善意の怒りで叫び続ける。そこに、冬宮が現れた。
「何事だ? 指揮は祈月少将が執っている。清矢、連絡なら私が聞こう」
兵はいよいよ詠を床に押し伏せた。詠が泣き声まじりで訴える。
「『ましろ』の親は裕福になるんじゃねぇのかよ! 『海百合党』は魔血統もいっしょくたに殺されるって言うのか!」
「汚れた者どもに同情しろと?」
冬宮の台詞は冷酷にもほどがあった。苦笑して、清矢に語り掛ける。
「まぁよい。真相を知らないのなら、浅薄な正義に酔うのも仕方がない。蘭堂宮家と白透光宮家は魔族政策においては、共犯だぞ。今からちょうど六十九年前。我が先祖である『永帝』と『長田千秋』はともに魔物に魂を売り渡し、永遠なる権勢を望んだ。その愚策を了解したのは我が祖父・明帝と、清矢の先祖、白透光宮季徳だ」
冬宮は地に伏せる詠をにらみながら、𠮟りつけた。
「これは我らが為さねばならぬ、過ちの清算だ。それとも貴様らは、この日ノ本に魔族が蔓延してもよいと言うのか!」
清矢は拳を握り、うなだれて懇願した。
「詠……もう、やめてくれ」
自分がいつも誇りにしている貴族の血統。それが急にどす黒い、呪わしきものに思えてきた。詠もあまりの衝撃に抵抗をやめ、光のない目で兵に連行されていく。清矢は冬宮の前に力なく膝をつき、最敬礼をとった。彼は不機嫌そうに司令官室へと引き上げていった。
どれほどの時が過ぎたろうか。一人取り残されていた清矢の前に、敬文がようやく姿を現した。ミリタリージャケットを脱いで彼を隠すと、急いで元の部屋に移動させる。扉が閉まるなり、清矢は敬文に抱きつき、しゃくりあげるほどに泣きはじめた。敬文は涙を舐めとり、髪に手櫛を入れて背中をさすり、パニック反応を抑えようとする。
「ケイブン、ケイブン……!」
清矢は羞恥を振り切るために唇を滅茶苦茶にぶつけた。敬文は清矢の装備を脱がせ、パイプベッドに横たえて赤子のように抱え込む。
「辛かったね。大丈夫、俺がいるよ。たとえ世界中が君を呪っても、俺だけは君を見捨てない。誓いは絶対だ。だから今だけは二人で耳を塞いでいよう。朝になれば、全ては終わってる……」
外ではのっぺりした『退魔の夜』が魔族たちの悲鳴を飲み込んでいる。源蔵が従えた国軍の者たちや、魔法軍の正規兵たちが、今この瞬間にも、掃討を行っているのだろう。機密作戦だったから、民だって狼狽えているはずだ。だが、この腕の中だけは、血の汚れも歴史の業も届かない、小さな聖域だった。清矢は必死で敬文にすがりつき、現実を拒絶して両目をつぶる。
7 永久なる春の追悼曲
凄惨な戦は終わり、高校も冬休みに入った。常春殿、琴の練習部屋。清矢と詠はそわそわとましろを待っていた。やがて、兵に付き添われて巫女服姿の少女がやってきた。
清矢は約束だったハープを聞かせてやる。ハードケースから楽器を取り出し、魔力発現スイッチを切って、基礎曲『風の歌』を爪弾いた。
「わぁ。すごい。この曲、巫女さんたちもよく琴で弾いているんです」
ましろは両手を合わせ、ぱぁっと顔をほころばせた。
「わたしも、習ってみようかな? だけど葛葉のおじさんは、もう教えてはくれない……」
声のトーンがふと、暗くなる。この子は徹底的監視の下、生かされている。自分に出来ることは、魔族の唯一の生き残りである彼女を見舞うことくらいだった。見え透いた励ましをする。
「悲しいことばかりだったろうけど、音楽をやるのはいいと思うな。葛葉さんは……残念だった」
ましろは年齢にそぐわない痛ましい笑みを浮かべる。
「うん。葛葉のおじさんが、『博麗王』の器になった。そして『海百合党』はみんないなくなった」
兵が「それ以上は」と会話を押しとどめた。ましろは兵を気にせず、勢いよく言葉を継いだ。
「今は、私が葛葉のおじさんのお世話をしているんです。葛葉のおじさんの先祖は、かつて長田千秋さんに恋をしてたんだって。私も、そのお役目で常春殿に仕えることができる」
殺されたはずの両親については、一言も触れなかった。まるではじめから、いなかったみたいに。
「そうだね。葛葉さんが、ましろちゃんの身代わりになってくれたんだ」
清矢はそれしか言えなかった。ましろの一挙手一投足に、胸の内側が切りつけられる。兵が「ふたりとも、今日はこれで」と短く命じて面会を切り上げた。とぼとぼと廊下を歩く。ましろが世を恨み、憎しみを育てていく可能性もあると思った。だから、ハープの約束を口実に、様子を見に行った。詠が天井を見上げながら、ポツリと零した。
「あの子、強えな」
清矢は急に自分が恥ずかしくなった。彼女は過酷な運命に耐え、健気に前を向こうとしていたのに。
詠がわざとらしく、明るい調子で話題を変えた。
「そういや、清矢と充希、アルカディア魔法大留学に内定したんだって?」
清矢はうなずき、「……ああ。学者になるかどうかは、分かんねぇけど」とあいまいな返事をした。
詠は立ち止まり、ためらいがちに前置きした。
「もしかしたら『付いてくんな』って言われるかもしれねぇ、って思ったんだけど……」
そして背筋を正し、真面目な顔で打ち明けた。
「俺も、あと一名の枠に応募してみたんだ」
清矢は意外に思って詠を見つめ返す。どんぐりまなこに、くっきりした顔立ち。清矢よりも伸びた背に、堅くなりはじめた体躯が頼もしい。詠は力強く励ましてくれた。
「俺だってあの日、魔法軍の一員として常春殿にいた。清矢は、好きであんな作戦に参加したんじゃねぇ。それは親友の俺がちゃんと分かってるぜ」
「……ありがとう」
瞼の奥が熱くなるのを感じながら、清矢は礼を言った。詠はくるりと前を向き、背中越しに語る。
「もう、ヒーローに憧れるだけはやめる。俺は、アルカディア魔法大で、ましろや葛葉さんを見殺しにせずに『博麗王』を倒す方法を見つけたい」
清矢は小走りで詠を追いかけた。その決意は、未来を照らす輝かしい指針だった。こんな自分にもまだ、青春の光は残っているのだと、そう思えた。
やがて、今年もカレンダー通りに十二月二十四日の夜がきた。人の罪を覆い隠すような粉雪が舞う。祈月家には、今夜も源蔵の姿はない。彼は帝都で作戦の後処理に忙殺されている。
清矢の母・雫は新年早々、単身赴任の夫に乞われて帝都の家に移る予定になっていた。今日の夕食は洋食好みの彼女が担当した。ちゃぶ台には温かなグラタンが乗り、ナッツを散らしたラディッシュサラダが用意された。駅前で買ってきたケーキも食べ終え、大人たちは赤ワインを、清矢は炭酸ソーダを飲み干す。クリスマスの宴はささやかに幕を閉じた。
母は洗い物を放置して、おもむろにアップライトピアノの前に座った。そして、モーリス・ラヴェルの曲を弾き始める。『クープランの墓』メヌエットだ。祖母のさくらも、両手を合わせて念仏を唱えた。透明感のある音は深みがあり、ピアニズムは哀感をたたえていた。母は演奏を終えると、何気なく清矢を誘った。
「ほら、受験勉強だけじゃなくて、たまにはピアノも弾きなさい」
そう言って青い表紙の『ブルクミュラー:25の練習曲』を渡す。そして『素直な心』のページを開いて、譜面台に乗せた。清矢は首を左右に振った。
「母さん。こんなタイトルの曲、今の俺には弾けないよ」
常春殿で、ましろにハープを聞かせた時は、迷いなく指が動いた。けれど、家の中に流れる平和な空気と、母の柔らかな香りが、背中に刻まれた術式を疼かせた。この指が何の曲を弾こうが、もはや音楽の神性を冒涜するだけではないのか?
母は清矢の手をとり、幼い頃のように、そっと鍵盤に乗せた。
「……弾きなさい。あなたが思うほど、あなたの音は汚れていないわ」
小学生の頃に終えた基礎的な曲だ。だけれど、指から自然に力が抜けてしまった。母は清矢の背をさすり、左手だけを弾きながら、合わせてくれる。たどたどしく、ハ長調の短い連弾が終わった。調べは素朴だが柔らかく、きらきらと可愛らしい。清矢は苦く微笑んで、無邪気に言った。
「ケイブンに聞いてもらいたいよ。それに、詠にも」
「充希にもね」
母は付け加えて、洗い物に立った。清矢は懐かしい曲集をおのずからさらいはじめる。テクニックや難しい楽典を考えずに、のびのびと。
ブルグミュラーの曲集を弾き終わり、ピアノの最後の音が、夜の静寂に溶けて消える。清矢は独り、縁側に出て、空を見上げた。
そこには、軍が作り出したあの不気味な紺色の幕はもうない。星も月も淡雪でぼやけてはいるが、どこまでも深い本物の夜が広がっていた。
清矢は、十本の指をそっと組み合わせた。加害者として。そして、踏みにじられた者たちの痛みを知る一人の少年として。
(何一つ、忘れてはいけない……いや、忘れたくない。レールから降りる勇気は、まだ俺にはないけれど)
目を閉じ、救いを求める祈りは、冷たい闇の中へと沈んでいった。
ロンシャン歴After Katastrophe 1310(順和二十八年)、冬。
世界樹が根を張り、竜たちの故郷たる、魔術師の遠き理想郷、ドラグニア。アルカディア魔法大学にて、清矢と夜空の兄弟が宿命の再会を果たすまで――あと五四七日。
(了)