盛夏の夜の魂祭り(第四話)草迷宮の開く宵(2)

6 至極殿よりの使者

 ビルにたどり着いて執務室に居残る参謀たちに危機を訴えると、若者たちは緊急で会議室に集められた。

 伊藤敬文は事態を憂う。

「至極殿紫天宮は帝都が管轄。鷲津とのつながりかもしれない。よくないな」
「祈月とこの地の同盟を阻もうとしてるんだ。また戦になったら、学校どうしよう……」

 志弦のぼやきは清矢にくっついてきた若手全員の代弁だった。

 だが、西行英明は落ち着いていた。

「ですが、至極殿は大丈夫じゃないですかね。現状、同盟ですから」

 帝都にある至極殿は、皇統から引きずり降ろされたばかりの『冬宮』がお飾りの長官をつとめている。白透光宮家の祖である嘉徳親王の弟の家系で、今は『蘭堂宮家』として生き残っている。『冬宮』は今のところ『鷲津・遠山の血戦』で敗残兵をとりまとめた祈月源蔵に同情的らしかった。

 だが、同盟には誓紙破りもつきものだ。至極殿が清涼殿に対立する理由もわからないために、清矢たちは厳重警戒の注意を受けた。

 西行英明が思い出したかのように清矢に向かって問いかける。

「明日重役が集まる会食がありますが、清矢さまも護衛という名目で参加しますか?」
「えっと……俺でいいの?」
「先着二名。美味しいごはんが食べられますよ」

 人選を迷ったが、西行はいつも忙しい。清矢はすぐ隣にいた詠に同行を頼んだ。

 翌日、午後十二時半。

 古都の老舗ホテルの宴会場・桜蘭の間では、予定通り祈月軍閥と虎雄氏、久緒氏との間での会食が執り行われた。
 天井にきらめくシャンデリアは小さな電球が密集した、桜花を模したデザインだ。壁面には蒔絵をほどこされた蘭の花鳥図。北側の窓からはレースカーテン越しいっぱいに光が差し込む。腰壁には白木が利用された、端正ながらも温かみのあるインテリアだ。カクテルビュッフェ方式に整えられたテーブルが料理を満載して林立する。

 清矢と詠は結城博士たちと同じ卓に居た。父親の手前か、楓も出席している。着込んだ訪問着は、白の地に薄くれないでしだれ桜が繊細に描かれた豪華なもの。

 結城博士はグレーのスーツにブルーとエメラルドの縞が入ったネクタイを合わせていた。オールバックに撫で付けた髪型も別人のように決まっていた。

 盛装した二人はいかにも似合いの年頃だった。博士がりんごのコンポートを取り分けてやったり、楓がマスカットティをすすめたりと、険悪だった仲も何だか打ち解けたようである。遠目にはカップルにも見えたろう。

 結城博士は呑気に世間話を始める。

「ご馳走ですね。戦勝記念といったところかな」
「先日何やら事件があったようですけど、会食も滞りなく開催できたようで。わたくし、安心いたしました」
「それにしても土御門家では『癒しの旋律』が効いて良かった。牡丹さん、医者にもかかるようになったらしいし、良い方向に向かってますね」
「隠し通したかった気持ちもわかるのですがね……」
「無理を通しても結局誰のためにもなりませんでしたよ。それにしても安部さまはどうなさるんですかね」

 楓はビシソワーズをすくう手を休めて、眉をひそめた。

「牡丹さんとの婚姻ですか? わたくしは、あの分だと彼女が安部さまのお子を産むのは難しいような気がしますけど」
「結局、約束は果たされないのか……」
「そうですね、はい……」

 結城博士は楓の落ち込みに気づかない様子で中央に視線を投げた。薔薇とペンタスで作られた、ダイヤモンド形のアレンジメントが飾られた長机の窓側、ちょうど上座に源蔵たちがいる。

 海軍の虎雄健氏と久緒宗光氏も取り巻きを伴って会談していた。楓の紹介によると、陸軍退魔科の天川勇躬大佐なども出席し、日ノ本安定のための策について話し合っているらしい。

 清矢と詠はとりあえず、学校の制服を着て参加した。護衛の名目だというのに、使い古した戦衣じゃあ招待客に失礼だと源蔵が怒ったのである。大人たちはそれぞれの歓談に忙しそうだし、するべきことは食べる以外なさそうだ。

 小づくりな細工のように贅を尽くしたフレンチ料理をおそるおそる口に運ぶと、複雑な味わいが折り重なって、少量であっても胃にもたれた。

 しばらく腹を満たした後、清矢は手洗いに立った。用足しを終えて、会場に戻らんとホテルの廊下を急ぐ。

 百七十センチ前後の足の長い男が目の前を歩いていた。

 彼はどこぞで見た紺色の詰襟を着ていた。カーマインレッドの腕章と、襟もとには昴を模した美しいバッジ、インナーこそ光沢のあるブルーグレーのシャツだったが、充希が『至極殿神兵隊の術師装束』と喝破したあの制服だった。つやのある深い黒髪からのぞく獣耳や、弓なりに反った尻尾はよくよく観察すると狼亜種のようだ。

 あのとき魂集めを襲った男と同一人物ではないだろうか? おのが疑惑に急かされて清矢は走り、背後から男の腕をとった。

「あんた! 昨日の夕方に清涼殿神兵隊に悪さしてた奴だな!? 一体、今度は何の用だ!」

 後ろ手をひねり上げようとすると、男は左手で金の懐中時計のネジを押した。有無を言わせぬ強制力が働き、一瞬遅れをとって、次の瞬間には彼は拘束から逃げ出していた。さしたる体術が披露されたわけでもない。まるで手品だ。

 光のない、だが大きな黒目をしばたたせて、男が苛立ったように問いかける。

「君は一体? 私はここでやってる会合の招待客だが?」
「俺は祈月の関係者だ。昨日の事件以来、みんな警戒してる。怪しい奴を源蔵さまのお傍に近づけるわけにはいかない!」

 男は清矢の剣幕に付き合わずに、こちらを観察してきた。そして少し笑って、楽し気に挑発した。

「今回の逃亡戦、けっこう高度な光系統の汎用系魔術が使われたと聞いてる。その隊には、若手が多数参加していたとか。もしかして君もその一員?」
「だったらどうなるんだ。光魔法がお好みか?」

 清矢が光の魔素を浴びせる『Flash』の術式詠唱をはじめると、男は身構えた。それでも不気味な余裕を崩してはいない。ポケットからカードを出して、清矢の前に見せつける。

「久緒氏みずからの招待客。重要ゲストは遅れて来るものでしょ」

 清矢は詠唱を切って、硬いカードを手に取って見た。本日の日付と会場が書いてある。久緒氏直筆の署名もあった。だが清矢自体は招待客ではないために、真偽が判定できない。

「じゃあ、久緒大佐に取り次ぐ。言っておくけど、不審な点があったら清涼殿まで連行するからな」
「おお怖い。でもさ……君は本当に魂集めたまあつめが正常な祭礼だと思ってるの? だとしたら認識を訂正すべきだな」
「どういう意味だ?」
「まさか『永帝』を信仰してるってわけじゃないよな? あれは単なる年一での捧げもの、魔物を暴れさせないための餌やりだよ」
「それって……」

 清矢はぼんやり、立ち尽くす。男は急かした。

「ほら早く。案内して。言っておくけど、紫天宮は『アレ』を認めない。祈月は我々とともに『アレ』を倒すんだ。今日はそのお話」

 黒田錦はそう言って、ポケットに手を入れ廊下を歩きだした。

 彼が招待客だと言うのは本当らしく、話を通すとすぐに久緒宗光が歓待し、中央テーブルに案内された、男は驚くべきことを口にした。

「至極殿紫天宮副術師長、黒田錦です。『冬宮』からも宜しくと仰せつかっております」

 源蔵は顔をほころばせ、黒田錦の手をとった。

「ようこそお出でくださいました。紫天宮の若き俊英との噂、聞き知っております。『厳帝』の魂の制御もお手の物、また宙宮飛散そらみやひさんの術もお使いになれるとか」
「血筋に過ぎませんよ。それはそうとして……この子は一体どこの家の出身ですか? 祈月の一員だと言うが、少々狂犬じみているというか、お行儀が悪い」

 顎をしゃくられて、清矢は戸惑いながらも出自を示し、謝った。

「祈月清矢と申します。すみません……仔細を存じ上げず、失礼いたしました」
「は? っていうことはお前、白透光宮本家か?」

 黒田錦の顔がひきつる。

「ちょっと待ちな。神兵隊の野良犬だとか、御庭番衆とかなら分かるけど、お前が本家の人間? 清涼殿の魂集めたまあつめすら何だかわかってないレベルで?」
「清矢。何かしたのか」

 源蔵が青ざめて聞いてきた。清矢は昨日の祭りでの顛末を述べる。黒田錦はがぜん上から目線できた。

「『満月刀』まで差し向けてくるもんだから本当に危なかった。さっきだってこの錦さま相手に汎用系の詠唱だしさ、序列ってもの分かってんの? ちょうどいい、どうせ故郷じゃ家の名かさに着て暴れてるんだろうから、紫天宮に来てみろ。行儀がなってないって毎日イビリ倒してやるから」

 まくし立てているセリフは穏やかでないが、どことなく楽しそうだ。清矢はこいつのひねくれた性格の一端を垣間見た気がした。源蔵が謝る。

「申し訳ございません。清矢はまだ十五でして……軍の情報をすべて与えているわけではないものですから」
「あのねぇ……いい年してパパに謝ってもらうって恥ずかしくないの? おねだりでパーティーにまで出席しちゃってるし。生き残り考えたら、今すぐ錦さまの靴の先舐めるくらいは当然だよな? いや、やってもらっちゃ困るけどさすがにさー、『満月刀』はないだろ『満月刀』は。何、望月を従えて意気揚々ですってか? ざんねーん、お前はこれから俺の舎弟ですっ」

 黒田錦はようやく嫌味を終えると、子ども扱いで頭をぽんぽんと叩いてきた。今度ははっきり腹が立った。清矢はまっすぐにらみつけて反論した。

「でもあの時、小学校に集まっていた人々は混乱に陥ったし、事故になってもおかしくなかった」

 黒田錦はにやっと笑って言い返す。

「あの時清涼殿神兵隊が集めてた御霊の中には、集まってた人達の先祖や家族の霊もいるかもしれなかった。それが『永帝』に食われてもいいっての?」

 見かねた伊藤敬文が清矢の肩を抱き寄せる。

「黒田さん、申し訳ございません。先に皆さまとの会談を願います」

 会談に水を差してしまった清矢は気まずい思いで頭を垂れて退散した。

 楓のいるテーブルに戻ると、詠が心配そうに声をかけてきた。

「清矢くん、どうしたんだよ。あいつ、何? 至極殿の服着てたみたいだけど」

 清矢はここでは地を出した。

「えっと、すっげーヤな奴!」

 結城博士ももぐもぐとマリネを食べながら言った。

「常春殿の神官連中によると至極殿の神兵隊はお高くとまってて嫌な感じだそうですよ。葛葉さんも森戸さんもいつもぼやいてる。とくに、副術師長が高飛車で嫌味な感じなんですって。何でも若いのに術が得意だって理由だけで副術師長なんだそうです。そんで、お父さんが術師長。そんな人事してるからボス気取りで、同じ術師長候補でも常春殿の若手たちとは人格的に雲泥の差だとか」
「あの。結城先生……その悪口、もうちょっと小さい声で言ったほうがいいかも」

 清矢はおそるおそる中央テーブルの方を振り返った。黒田錦は打って変わってスマートな態度で源蔵たちとやりとりしている。

 そんな厄介な男は会談が引けたあと、さっそく清矢たちを見つけて絡んできた。どさりと後ろから肩を組んできて有無を言わさない。

「二次会行こっか? あーでも、オジサマたちと一緒のほうがイイ思いできるかなぁ。清矢も一緒に料亭行く?」

 堅物な楓がぴしゃりと断る。

「もってのほかですよ、清矢。わたくしたちは帰りましょう」

 清矢も内心イライラしており、そうすべきだと分かってはいても尻尾を振りはしなかった。後ろからかぶさる重みを、ややぞんざいに突き放す。

「俺はお金なんか持ってないですよ」
「何、『オゴリ要求』? ありえねえだろー白透光宮本家が黒田に奢るのが本来だろー?」
「まだ清矢たちは高校生にもなってませんからね……ってコレ私も付き合わないとダメな感じですかね」
「キレイどころも揃ってるしカフェーでも行きますかー?」

 黒田錦は副術師長というしかめつらしい肩書きが嘘のように軽薄なノリで盛り場を指定した。詠が清矢にささやく。

「あとは結城先生たちに任せて俺たちは帰ろうぜ」
「おおっとそこ! 聞こえてるからな? ……というかね、普通に困るんだよ。常春殿の神兵隊がその程度の認識だって言うのが」

 凝った作りの和建築が並ぶ狭苦しい石畳を知った風に抜けながら、黒田錦はにこやかにウィンクした。

「おにーさんの言うことを聞いておけば悪いようにはしないからさ♪」

 街中で騒ぎ起こしといて兄分ヅラするんじゃねぇよ。
 内心で毒づきながらも、清矢は同行することにした。

 選ばれた喫茶店は半地下で、客層はビジネスマンが中心だった。
 煙草とコーヒーの入り混じった苦いにおい。
 タイル壁は落ち着いたキャメル色だ。皮のソファは臙脂色で、まるで列車の一等車両に乗り合わせたかのような重厚な雰囲気だった。
 レコードからは小さくベートーヴェンの室内楽がかかり、壁には後期印象派のレプリカが飾られている。
 着飾った大人たちが我が物顔でボックス席に座を占めた。詠だけはスツールを動かしてテーブルに横付けしてもらう。
 黒田錦がテーブルに頬杖をついてメニューをパラリと開く。

「レモンティーにしようかな。どうしよっか、ナポリタンも頼んじゃおうかな」

 ウキウキと鼻歌まじりだ。やっぱりあんまり性格のよろしくない祈月清矢はここぞとばかりにからかった。

「ホテルではあんなにご馳走が出てたじゃないですかー」
「食うしか暇つぶしがなかったジャリガキとは違ーう。そもそも清矢さぁ、俺が『冬宮』の代理だって分かってるの? 『冬宮』は至極殿の長官も兼務だろ……祈月のガキは望月連れてイキがってる不良少年って報告しちゃってもいいんだよー?」

 おおよそ三倍の量を言い返される。体面を気にする清矢は蒼白になって首を左右に振った。同席したメンバーは思うところあるのか詠まで失笑している。

 にぎやかなやり取りも料理が運ばれてくると穏やかになった。黒田錦がナポリタンのパスタをフォークに巻き付けながら、問いかける。

「ところで清矢は『清涼殿の魂祭りたままつりについては何も知らなかったワケだ?」
「俺は父上の窮地に参陣しただけですよ。清涼殿は後ろ盾になってくれる味方のはずで、敵じゃない」
「まぁ今回だけならそうだけど。祈月は国軍に復帰したくないの?」
「それは……」

 今日の会合の細かい内容はどうなったのだろう。清矢たちは末席の賑やかしに過ぎなかった。

 詠が不思議そうに言う。

「俺たちは決定事項に従うだけなんじゃねぇの?」
「じゃあ単なる民間軍事会社に成り下がるって? それはこっちも困るんだな。『冬宮』は、鷲津との対立を終わらせるために陸軍に復帰してほしいと思ってる」

 黒田錦は自分も若手だけあって、清矢たちにも情勢を教えてくれるようだ。参謀たちは決定事項を通達するだけだし、西行英明なんかは清矢たちを完全に戦力としてだけ扱い、普段は議論すらする気がなさそうだった。
 清矢は高鳴る胸をごまかすためにブラックコーヒーを一口飲みこんだ。『冬宮』の意向はありがたい。祈月軍閥の現状は、様々な勢力の利害の上でかろうじて成立している空中楼閣のようなものに思えたからだ。

 結城博士はこんもりと盛られた真っ白なかき氷にしゃくっと匙を入れる。

「そのためには、しなくてはならないことがあるはずですよね」

 黒田錦はくっくっと笑ってナプキンで口をぬぐった。

「本当、子守りお疲れ様です……まぁ、その通り。『冬宮』が願うのは、蘭堂宮家の軍事的後ろ盾になってほしいということと、『永帝』の撃破」
「『永帝』の撃破?」

 楓も驚いた顔だ。クリームソーダを食べていた詠が、不安げに言った。

「『永帝』? 『日の輝巫女』じゃなくて?」

 黒田錦はようやく真面目くさって答えた。

「『永帝』と『日の輝巫女』は繋がってるよ。『永帝』は、退位記念の『春夏秋冬の宴』の際、宣伝役として歩き巫女をつとめた『千秋』とおなじく、魔物化して永遠の命を得ているわけだ。他国で『D兵器Damon Arms』と称されてるものの日ノ本プロトタイプ」
「『D兵器Damon Arms』……他国でも魔物を兵器として使ってるってことか」
「上手く扱えれば戦車や魔法銃なんかよりもコスト安だからね」

 黒田錦がレモンティーをすする。そして話を続けた。

「だけど当時の政府の失敗は、単なる兵器に名のある人物の権力を付与したことだ。例えば、清涼殿は現状の蘭堂宮家よりも『永帝』の意思をお告げとして重視してる。馬鹿強い魔物と合身させたから、かえって言いなりになっちゃったんだな」
「じゃあ、日ノ本の現状は、魔物が権力を持って人に命令してるっていう状態なわけか……」
「そ、それって、ある意味魔物が支配してるってことじゃねえか!」

 清矢と詠がそれぞれたっぷり絶望すると、黒田錦はうなずいて、真剣なまなざしを万座に巡らせた。

「……おにーさんとしては、祈月軍の若造にはそれくらいに魔物を憎む思考回路を持ってくれると嬉しいかな。実際厳帝から枝分かれした元・宮家が首輪を外されて各地を放浪してるっていうのは歓迎できる状況じゃなくてね」

 清矢は膝を打った。とっくにブラックコーヒーは飲み干していた。

「だから帝国陸軍退魔科の大佐なんてもんが出席してたのか」
「そ。『冬宮』は、祈月軍を退魔科の範囲にとどめるつもり。それで鷲津の批判をかわそうって腹だ。実際、魔法装備がない鷲津軍では、『永帝』どころか『日の輝巫女』すらも倒せる当てがないからね。鷲津は魔法兵器を輸入すればいいって主張するけど、超高額な代物だし、海外との利権狙いだよ。なんなら複数術式には対応てきないしさあ……」

 清矢はこの会話で錦への認識を変えつつあった。今まで悶々と疑問に思っていた流れが全部クリアに説明されていく。常春殿でも、いまだ汎用系装備を渋る兵がいるというのに、この若者ははるかに先を行っている。清矢は興奮を覚えながら身を乗り出した。

「じゃあ、マジシャンを養成する意味はあるんですね?」
「『永帝』の放つ術すべてに対応ができる全自動魔法要塞が作れない以上はね」
「さすがに無理ですよね。魔力のない人も使えるようにするには魔力炉内蔵以外ありえないし。回復術は兵器で代替しない方がいいですし」
「……夜空がロンシャンに留学したがったワケが分かってきたよ」

 自分のあまりの専門知識のなさに清矢は嘆息する。
 錦はナポリタンを平らげて、口直しのミントコーヒーを注文していた。

「留学くらいならさせてやれるよ?」

 ソファに沈んでラフに脚を組みながら、遠足にでも誘うような気軽さで、とんでもないことを言う。詠があっけにとられて清矢を見る。
 清矢は時勢の最先端に立つ自覚にワクワクしながら、年相応の無邪気さで話に乗った。

「ホントか? ロンシャンに留学すれば、そっちで行方不明になった兄の状況も探せるんじゃないかって思ってるんだ」

 結城博士もうなずく。

「いい考えですね。私たちの代の留学は、残念ながら一人帰国できていないんだけど……本来アカデミーと陶春魔法大は兄弟校ですし、斡旋できるといいですね」
「俺はロンシャンアカデミーより、あの天川大佐の出身校がおすすめだけどね。そろそろ年数的にだれか派遣しないと間に合わないと思ったな。本来ならこの俺が行くべきなんだよ? あー、あと五年若く生まれればよかったなー」
「それは、どこですか?」

 清矢は目を輝かせて尋ねた。錦が答える。

「アルカディア魔法大」

 耳慣れない地名だった。錦は黒い尻尾を大きく揺らして、清矢が食いつくのを待っている。結城博士がその間を遮った。

「アルカディア魔法大は私もよくは分からないなぁ、サニー・エン・サチパス先生は大学院はそちらで学ばれたらしいけど」
「えっ、じゃあ聞けば教えてくれるのかな?」
「そう思う。しれっと国費留学生の申請を出して通っちゃえばありがたいんですけどね~」
「別に、いいんじゃない? 鷲津がこの国のすべてじゃなし」

 大人たちが軽い感じで話をまとめる傍らで、クリームソーダを飲み終えた詠が、不穏な空気を醸し出す。

「……清矢くん。ロンシャンにしようぜ」

 楓も同調する。

「わたくしも同意です。いなくなった夜空の捜索はどうなるんですか? それを放置してアルカディアとやらに向かおうなど……無責任ですよ」
「夜空ってのは何なの」

 錦の問いかけに、清矢は一応機密だと止めようと思ったが、部外者の楓がすらすらといきさつを話してしまった。もちろん、差し向かいに座っている結城博士への批判は欠かさない。彼は獣耳を掻いて、憤然とする。

「夜空のことは反省してますよ。アカデミーのあるボルトウィングは留学生も集まるからあまり治安がよろしくない。それを考慮すべきでした」
「『新月刀』も持ってっちまったんだ」

 詠までが、いらいらと尾を振りながら秘密をばらす。錦は何の気なしに現状を切った。

「……じゃあ、今のままだと清矢が白透光宮本家だって言えなくなっちゃうわけだ」
「家督を鷲津にも利用されかねません」
「それだけじゃない、『冬宮』から魔力失効措置の要請を送っても受けられないし……だからわざわざ望月を引き連れてたわけか。利用価値が減ったな」

 やや冷淡な口ぶりに、結城博士は唇を引き結び、決然と言った。

「わたしが来年の休暇で夜空の住所を訪ねます。それに、天河泪くんも協力してもらう。彼もまた、行方不明ではありますが、グリーク魔法大にまだ『待機魔術師』として登録があるようですから、ロンシャンとは関係ないルートから連絡して夜空を捕まえる任務を与えます」
「俺たちがロンシャンに行くよ、結城先生」

 清矢が力なく請け負うと、結城博士は普段とは打って変わって厳しい口調で諫めてきた。

「お前たちの留学って、それは何年後になる話? あの手紙の書きぶりだと、『新月刀』だけはまだ夜空の手元にあるようだった」
「先生ひとりで行くってのか? 危険じゃねぇ? 夜空は『新月刀』持ってんだぜ」
「わたしだってマジシャンの端くれだよ、詠くん」

 結城博士がじっと清矢と詠のかんばせを注視する。

「大丈夫。もしもの時のために、天河さんにハーモニカも習っていくつもりですよ。魔法銃も一丁持ってるし」

 普段頼りない博士の笑みには、年下を安心させようという自負が垣間見えた。清矢たちも、やや不安げにうなずく。楓はしばらくぼうっとした感じでお茶のカップを手に取り、はじめて下手に出て言った。

「その、私も同道してよろしいでしょうか。夜空には、もう一度会って説教をしたいんです」
「えっと……まぁそうですよね、だけど未婚の男女が海外旅行ってどうなんでしょう」
「それは……」

 楓はしばし口ごもった。

「……でもわたくし、あなたを監視しなくてはなりません。また夜空のときのように、地元の人たちの絆を引き裂く選択をしたら困りますから!」

 黒田錦は何となく楓の心配を見抜いたようにほくそ笑んで、コーヒーカップからミントの葉をつまみ出す。

「婚前旅行と言うわけですね。末永くお幸せに」

 気まずい沈黙が場を支配する。無邪気なからかいはかつて結婚を許し合ったふたりの地雷を踏んだらしい。

7 清涼殿の陰謀

 清矢は詠を連れて翌日ふたたび土御門家を訪ねた。牡丹に曲を聞かせるために、ハープまで持っていったのだが、零時は浮かぬ顔だった。

「昨日は酷いことを言ってしまってすみませんでした……」
「気にしてねぇよ、牡丹さんの言ったことはやっぱ零時にとってはキツすぎたと思うし」
「ありがとう。だけど、母さん結局昨日は帰ってこなかったんですよ」
「どういうこと? またどこかに行っちゃったのか?」

 不安になって問いかけると、零時もしょげた様子で言った。

「あの後、伯父さんたちと迎えに行ったんですけど、清涼殿は『行が必要だから』って言って返してくれなかったんです」
「行って何?」
「さあ。月末の魂祭りの儀式には人手が必要だからって繰り返すだけ。母さんはそりゃあ日常生活は問題なく送れているけど、店になんか出したこともなかったし、とても一人前に仕事がつとまるとは思えないです」
「帰明さまとの結婚を意識させたのが良くなかったんだろうな。もう一回迎えに行ってみようぜ」

 零時はうなずき、全員で清涼殿に向かった。神兵隊たちが調練をしているのを、隊長の新発田が檄を飛ばしている。はっきり言って近づきたくない人間だが、彼以外に清涼殿で顔見知りはいなかった。まごついていると、零時が勇んで話しかける。

「吉田牡丹の息子の、零時です。昨日と同じ用件で恐縮なんですが、母は精神を病んでいて、本当はとてもお勤めができる状況じゃないんです。どうか返していただけますか?」

 新発田はちらりと零時を見て黙りこくった。たっぷり三分くらいは無視をしてから、おもむろに断る。

「今年の魂祭りに参加するから斎戒が必要なんだ。名誉な役目なんだよ」
「牡丹さんに必要なのは魂祭りなんかより脳の医者にかかることだよ。新発田さん、どうにか頼めないですか?」

 清矢が加勢すると、新発田はじろりと睨みつけてきた。腰に片手を当てて、口ひげのあたりがひくついている。左手が高く振り上げられ、清矢は運命を悟った。気を付けして歯を食いしばる。卑屈な態度だが、ここで避けたら怒りに火をくべるだけだ。
 脳天が痺れる重たい平手が右頬を打った。零時が怯えて後ずさり、新発田は大きく息を吐いた。剣の柄に指をかけ、怖い顔で脅す。猫をかぶって媚びを売っていた態度はついに豹変してしまった。

「魂祭りなんかとは何だ。神事を愚弄するつもりか?!」

 調練に参加している他の知り合いもトラブルに勘づいて、こっちに注目してきた。祈月軍閥はあくまで間借りしている身分だ。本性をあらわにした新発田に、皆が当たり散らされるのも良くないと思って、いったん引き下がることにした。速足で清涼殿の正門を抜けて、心底情けない気分で零時に言い訳する。

「……ごめん、しょうがないから父親に頼んでみるわ」
「僕こそごめん、でもありがとう。本当に助かります」

 根城に戻って社長室に陣取っている源蔵にかけあってみたが、彼は首をひねった。

「魂祭りは清涼殿にとって一年のうち最大の祭事だからな。働いてくれるなら、牡丹さんの手であっても借りたいんじゃないのか?」
「父さん、忖度してるだろ。土御門家は牡丹さんを外に出したくないんだよ」

 そう訴えたが、父親は難しい顔をしてうなずいた後、清矢たちを追っ払ってしまった。請け負った手前、一応言ってはくれるだろうが、この分だと後回しにされるおそれがある。追い詰められた清矢は、兄分ヅラしていた黒田のことを思い出した。別れ際、彼からはホテルの滞在先を知らされていた。「パシリで呼び出しちゃうかも」と笑っていたが、軍閥ではまともな話ができるとも思えない。所詮清矢は子ども扱いなのだ。

 ビルを出て、駅舎を通りすぎ、帝国ホテルの301号室にたどり着いた。青いつややかなカーペットの敷かれた豪奢な部屋だ。錦は歓迎してくれた。

「ちょうど暇してたところだったんだよねー。清涼殿に妨害がバレるとヤバいかもしれないしさ、どっこも行けないでやんの」

 軽口を無視して、牡丹のことを訴えると、黙ってじっくり聞いてくれた。
 しかし、清涼殿の意図については、厳しい見解を示した。

「そりゃ、魂祭りで贄にするつもりなんじゃないの?」

 あまりにも残酷な推測に、清矢ですらも表情を硬くした。錦は続ける。

「清涼殿の『永帝』狂信者のすることだもん。大っぴらにやると民が怒るから、生きてる人間を食わせたっていう話は最近は聞かないけど……」
「どうすれば牡丹さんを返してもらえるかな?」

 清矢が素直に相談すると、錦は「代わりの人物を献上するとか?」と答えた。そんな非道な手段はいくら何でも取れない。

 清矢は困惑しながらつぶやいた。

「いっそ『永帝』を倒しちまえば……」
「それは無理。カゲウサギなんかとはレベルが違う。何年物の魔物だと思う? 魂も現質も百年越えだよ。単独行で祓えるとは思えない」

 錦の意見はもっともだった。常春殿では嫌われている『日の輝巫女』ですら、あれこれと理由をつけて討伐を先延ばしにしているのだ。頭を振り、妙案をひねり出そうとする。

「あとは他の人に頼むとか?」
「どうやって?」
「俺が儀式を手伝うって言うよ。そして内部から他の人に手引きする」
「しゃあないな。じゃあ俺もしばらくこっちに滞在するから。くれぐれも無理はするなよ」

 錦に協力を取りつけたところで、零時とは別れた。後は社内の根回しである。詠とともにビルに戻って、参謀たちのたむろす執務室に入り込む。伊藤敬文が手招きをしてくれて、用向きを聞いてきたので、錦の懸念も含めてあらためて牡丹について話した。隣の席の西行英明も耳を傾けてくれていたようだ。席を立って、話に入ってきた。

「『魂祭り』に協力すると言って、内部に潜入するのはいいかもしれませんね」

 伊藤敬文はすぐに反対する。

「『永帝』に生贄をささげるなんて正気じゃないぞ。反対するにせよ、もしもの時には清矢さまを人質に取られてしまう。止めたほうがいい」
「牡丹さんが生贄にされるというのはあくまで黒田さんの推測にすぎませんから」

 西行はさらりと悪い考えを否定して、初めて清矢に議論をふっかけてきた。

「清矢さま。『永帝』とは、どのような皇統ですか」
「どのようなって、今の『冬宮』と同じだろ。二十六年前に藤内大将軍によって弑逆された銀帝の家だよ」
「皇位についた経緯はどうでしたか」
「俺たちの先祖の、嘉徳親王が位につくのを辞退されたためだけど……」
「そう、つまり白透光宮家を追いやって生まれた皇帝が『永帝』です。その『永帝』が葬られている清涼殿草迷宮に仕える者たちは、黒田さんの言うように『永帝』を信奉していますから、内心で祈月家を警戒している可能性がある」

 西行は思慮深く微笑んで、大胆な計画を提案した。

「そう思えば、清矢さまの潜入は不穏分子のあぶり出しに役立ちます。祭りまでの間に、牡丹さんを生贄にしようとしているという証拠が掴めたら、あらためて県令の耳に入れ、問題にしましょう」

 清矢ははじめて自分が彼に認められた気がして、晴れやかにうなずいた。
 途中から立ち聞きしていた北条直正がコーヒー片手に警告する。

「気を付けてくださいよ、若。若にもしものことがあったら、ロンシャンの夜空の思うつぼですよ」

 伊藤敬文をはじめ、他の人間はみな心配そうだった。

8 永遠を生くるもの

 明くる早朝、詠たちとともに清涼殿に練兵へ向かう途中、詠が不安そうに清矢に視線を送った。

「あのさ。清矢くん。清涼殿への潜入だけど……俺じゃだめ?」
「どうしたんだよ、詠」
「だって危険だろ。そんな目に合うのは俺でいいよ」

 充希も冗談めかして同調する。

「それもそうだよね。この中じゃ一番強いし、いっそ俺にしない?」

 清矢は不機嫌になって口をつぐんだ。清矢のプライドからすれば許せない選択だった。大切な詠や充希を危険にさらして、後方から手柄を独り占めだなんてありえない。たとえ夜空であっても、そんな清矢を批判するだろう――やつは一応、祈月氏の将来を憂いて国すら捨てたのだ。

 清涼殿に到着すると、兵士たちは神殿の周囲を走り込みながら基礎訓練に励んでいた。汗をかきながらも真剣な眼差しで、号令を聞き、整然と動いている。清矢は意を決して、新発田に殊勝な態度で近づいた。

「新発田隊長、昨日の件ではご迷惑をおかけしました。反省の意を込めて、俺たちも牡丹さんのように魂祭りの儀式をお手伝いさせていただきたいと思います」

 新発田は昨日の怒りが嘘のようにニコニコと上機嫌になった。

「牡丹ちゃんのようにか、それは、それは、素晴らしい……! 祈月源蔵殿にも感謝しないといけないね」

 だが、その場にいた隊員のひとり、坂井が口を挟んだ。盆踊りの日、清矢が治療してやった猫亜種の優美な兵士だ。

「魂祭りの手伝いなんて部外者はやめておいたほうがいいと思うけど……」
「おい! 不謹慎なことを口にするな!」

 叱責する新発田の目は血走っていた。
 詠と充希は儀式当日の護衛として配置され、清矢は神官たちとともに儀式の手伝いを命じられた。清矢は内心の不安を押し殺したまま、白装束に着替えさせられ、寝殿の中で斎戒に当たることになる。まずは、体を清める潔斎が行われた。

 風呂場に案内されて、湯舟に張られた水を使って身体を清めるよう命じられた。二拍一礼し、掛け水をしてから湯舟に浸かって、白の手ぬぐいで身体をこする。その後拝殿に移動し、見守りの神職とともに末座に座って、大祓儀式に参加した。常春殿で耳に馴染んだ大祓詞が唱えられる中、清矢は警戒心を募らせた。今までは神道に則ったただの神聖な儀式。尻尾を見せるとすれば、ここからだ。

 次に、担当につけられた神官から言い渡された。

「ただいまから『参籠』に入ります。戒律を守ること。音を立てない。刃物等の光り物を避ける。声高に話さない、頭髪も爪も伸ばしたままで。もちろん女人との接触も、飲食も慎みます。喪人のようにお過ごしください」

 見守りの神官はそう告げて、ふすまを閉じた。外側から南京鍵がかけられたことに気付く。
 生贄の証拠をつかむはずだったが、軟禁されてしまった。
 戒律を守るには、じっと座っているか寝ているかしかなく、その茫漠さはまさに精神修行であった。居室には明かり取りの窓が手も届かない上部に設けられているだけで、ぼんやりと薄暗い。

 清矢はため息をついて畳の上に寝転んだ。

 『永帝』のことを考える。嘉徳親王に位を譲られた弟宮。かれは退位ののちに『春夏秋冬の宴』を催して、平穏に逝ったのだと思っていた。それなのに『日の輝巫女』と似たような魔物に堕したとは、永遠なる権勢でも望んでいたのだろうか? ここ清涼殿草迷宮は永帝廟だといわれている。だが、近隣に廟らしき場所は見えなかった。

 夜は布団にくるまってみたが、ろくに動かないせいで、目がさえてしまって眠れなかった。

 牡丹はどこにいるのだろうか。大祓儀式に彼女の姿は見えなかった。魔法は使えそうだったから、事を起こして脱出するという手もあったが、もしかしたら錦の考えは本当に杞憂で、牡丹は無事なのかもしれない。その場合、強硬手段に出てしまえば、軍閥と清涼殿の関係は甚だしく悪化してしまう。それに今は、武器も防具もなく完全に丸腰である。神兵隊員や神官や術師隊が無傷で詰めている拠点から、安全に脱出できるとは思えない。

 軟禁が三日に及ぶと、疑惑はだんだん確信に変わってきた。

 清涼殿には裏がある。年に一度の大祭に、参籠が必要なほどの大役を余所者の清矢に任せるとは、いかにも不自然だ。詠と充希のことが心配になった。彼らは自分の身代わりを申し出たが、もし同じように捕まってしまっていたらどうしよう。清矢が帰ってこないことは味方も分かっているだろうが、果たして動いてくれているのだろうか? 信じて待つことはできたが、退屈と食事の粗末さで、焦れる身からも心からも、どんどん精気が失われている感じがした。

 三日目の夜に、零時が現れた。南京錠が外され、紙燭を持った栗色の髪の少年が、悲壮な顔つきで入ってくる。同じく白装束姿で、布団を運び込んできた。閉じ込められた後、清矢は声をひそめて聞いた。

「一体、何があったんだよ。詠や充希や牡丹さんは?」
「彼らは無事です。母さんとは、たぶん男女の別で部屋を分けられているだけ」

 ほぼ真っ暗な部屋の中、膝がぶつかる。「すまない」と謝る声が、異様に大きく響いた。零時は内緒話のために近寄ってきて、耳元でささやいてくる。

「これは『永帝』への生贄の儀式で当たりのようですよ。僕の家にある清涼殿関係の資料に全容がありました」
「……穏やかじゃねぇな。魔物に食われるなんてごめんだ」
「それで、僕が自分も母とともに『永帝』の供物となりたいと申し上げたら、あっさり通りました。本当なら生贄は多ければ多いほどいいんでしょうね」

 零時は薄く微笑んだ。暗がりの花のようなその笑みに、清矢は不安をかき立てられる。

「きっと外のみんなが助けてくれるよ。諦めちゃダメだぜ」

 相変わらず、カラ元気の励まし。零時は膝をかかえてうずくまった。

「そうだね。でも僕も、もしもの時には母さんと一緒がいいから。たとえ愛されない息子でも……」
「何を話している! 破戒は懲罰だぞ!」

 引き戸の奥に人がいたのか、ガチャガチャと錠が外された。年寄の神兵隊が見張っていたようだ。清矢の首根っこを力任せに引き回して、したたかに壁へと打ち付ける。肩が芯まで痛んで、よっぽど魔法を使おうかと思ったが、兵は剣をぞろりと抜いた。鎧の金属音がして、新発田が走ってくる。鬼の形相だった。

「何度も何度も手間取らせやがって……下手なことをすると吉田牡丹を殺すぞ!」

 清矢は屈辱に歯噛みした。二人がかりで手錠をかけられ、尻を蹴とばされる。尾をぐいっと引っ張られ、痛みで背骨から宙づりにされた気分になった。

「このガキは今生帝・・・にとって最上の獲物だ。どこまでも我らの信仰を馬鹿にした奴らめ……当日まで監禁しておけ!」

 そして地下牢に連れていかれた。

 今度は完全に罪人扱いだった。地下牢は常春殿と同じく拷問にも使われる石造りの部屋で、拘束のための鎖や枷を取り付けるフックがひどくおぞましかった。石壁にはところどころ苔が生え、床も冷たく湿っていた。血や排泄物のにおいがぬぐい切れずに残っていて、呼吸すら不快だった。魔法も封じられたこの場所では、ただ時間が過ぎるのを待つことしかできない。

 あぐらをかいて眠らないように祓詞を唱えて努力していたが、一度落ちてしまうと途絶は深かった。ハッと目を開けると、ツートンカラーの鎧と兜をつけた神兵隊員が外に立ち尽くしていた。『永帝』の前に引き出されるのかもしれない。溜息をついて座りなおすと、神兵隊員がこちらを振り向いた。面貌を上げて、語りかけてくる。

「坂井です、覚えていらっしゃいますか?」

 清矢は助けだと直感して、鉄格子までにじり寄る。彼は小声で言った。

「今日は儀式前日です。自分が身代わりになりますから、あなただけでも逃げてください」
「それは……!」

 願ってもない助けだったが、清矢はとまどった。

「あなたを騙して犠牲にしたら、『永帝』を討つ機会は失われるでしょう。逃げて、御父上とともに国軍退魔科と組み、鷲津もいつか説き伏せて、あの魔物を倒してください」
「坂井さん、あんたは……『永帝』の信者じゃないのか?」
「今が未だ『永帝』の世だなんて信じている者たちと一緒にはしないでください。それでは魔物に仕えているのと同じです。私は断じて、そうではなかった」

 坂井は澄んだ瞳で清矢を見据えた。彼は実に心ある兵のようだった。

 口惜しさに声が震える。坂井はしゃがみこんで一つずつ脚絆から鎧を外し、格子ごしに清矢に渡した。受け取りながら、清矢は尋ねる。

「零時や牡丹さんはどうなるんだ?」
「ふたりは助からないでしょう、おそらく自分も隊律違反で……」

 彼は綺麗な顔でそれだけ言った。清矢は迷ったが、外には仲間がいることに思い至って気を取り直した。

「……絶対に助けにくるから信じていてくれ」

 彼はうなずき、腰に付けた鍵束で牢を開けてくれた。
 鎧を身に着けて兜をかぶり、今度こそささやき声で尋ねる。

「脱出経路は?」

「ここまでの道はすべて鍵を開けっぱなしにしてあります。できるだけ急いでください!」

 清矢は生唾を飲み込み、面貌をとりつけて静かに歩き出した。

9 草迷宮の開く宵

 地下室への階段をひたひたと上がる。鎧のガチャつく音がいやに大きく響き、背中に冷や汗がにじむ。拝殿では鈴が鳴り、巫女が踊り狂って、大勢で祝詞があげられていた。かけまくもかしこきちょうきゅうのおおかみ、つきうらにかくれて、あしはらのなかつはらをつかさどりまつる。そうめいきゅうのひらくとき、すべてのにえがはらわれん。むじょうれいほうおんてんしゅじょう……神兵たちは、それぞれおごそかに持ち場を守っている。一度、声をかけられたが、詰所に用があるとごまかした。

 ようやく楼閣を出る。帝国ホテルの黒田の部屋を訪ねた。

 黒田は清矢を入れてくれ、シャワーに入るよう背を蹴とばした。急いで身体を洗い、ルームサービスで腹ごしらえをしてから、ふたりで祈月軍閥のビルに戻ることにした。

 ビルに戻ると、人質を回収できたと兵たちは歓喜した。詠が出てきて泣きながら清矢を抱きしめる。

「ばかやろう、ばかやろう、だから俺でよかったのに……!」

 清矢は詠の動揺を抑えるために短髪をがしがしと撫でまわしてやった。きつく抱き返してやってから、清涼殿での体験を伝える。零時、牡丹、そして坂井が生贄とされてしまうことを。

 緊急事態でビルに詰めていた北条が腕組みして振り返る。

「どうする。議会にかけるって正攻法じたいは取れますけど……」

 伊藤敬文は首を左右に振った。

「時間がない。それに、すでに強襲の計画はできてる」

 零時が事前に土御門家から資料を届けていたようだった。儀式のスケジュールや神殿内の地図、きわめつけには土御門家の井戸から内裏や各地の寺社につながる地下道の存在までが明らかになっていた。

 鎧の上に自らの戦衣を羽織った清矢は、自分も行くと言い張った。

「『永帝』とも対峙するかもしれない。魔法が使える人間が一人でも多く必要だ」

 黒田錦がポケットから白手袋を出して、きゅっと嵌める。

「しゃーない、お兄さんも付いていってあげましょう。そだ、これ付けといて」

 そして鎖を通して首に下げていたラピスラズリの指輪を清矢に渡した。清矢はうなずいて、それを人差し指にはめた。

 儀式は丑三つ時、清涼殿地下、草迷宮にて行われる予定であった。

 簡単にブリーフィングをした後に、清涼殿へと討ち入る。本隊が正面から陽動し、土御門家の資料にあった地下道から草迷宮に入り込む予定であった。清矢たちは救出隊で、敬文とともに十人ほどで忍び込むことになった。

 地下道は古都の主要な宗教施設を縦横に結んだ迷宮だった。土御門家の庭にある古井戸が、カモフラージュされた入口のひとつだ。蓋を開けると冷たい風が吹き上げてきて、清矢は身震いした。奥底からのぞく漆黒の闇が不気味に口を開いている。隊員が一人、また一人と闇の中に消えていく。清矢は深呼吸し、井戸の内壁に据えられたはしごに手をかけた。冷たい金属。湿った空気。生理的な恐怖を押し殺し、足場を確かめながら、ゆっくりと降りていく。

 地下道に足をつけた瞬間、懐中電灯の光が闇を切り裂いた。
 石壁に刻まれた不気味な紋様が、おぼろげに浮かび上がる。
「前へ進むぞ」。感情のない敬文の声に、隊は静かに動き出した。

 突如、地下の静寂を破って、巨大なゴキブリが猛スピードで飛び出してきた。黒い羽が不気味に震え、甲殻をてらてらと光らせながら、こちらに向かってくる。敬文は一瞬の迷いもなく手をかざし、鋭く「ライトニングボルト!」と叫んだ。閃光が暗闇を切り裂き、ゴキブリの甲殻に炸裂した。

 彼は出会ってからのごく短い期間で、その技を習得していた。清矢は内心で快哉を叫ぶ。

 ゴキブリは無様にひしゃげ、キイっと高い断末魔が響いた。道の先から生ぬるい風が吹いてくる。静寂が戻ったかと思いきや、再び異変が起こる。ゴキブリの声が眠りを呼び覚ましたのか、行く手の奥から目が血のように赤く光る女が現れた。

 彼女はブリッジをした姿勢を保ちながら、異様な速さで熱源に向かって迫ってくる。ヒタヒタと生々しい足音が地下道全体に響き渡り、不気味さに背筋がすくんだ。

「来るぞ!」

 清矢が叫び、すぐさま水魔法の「バブル」で女の足を止めた。全員が武器を構え、後方からの警戒を強めた。

 女の怪異は、足を硬い泡で包まれたにも関わらず、唸り声を上げながら飛び上がり、その距離を一瞬で詰めてきた。鋭いかぎ爪をもつ鳥に似た手足が、獲物を切り裂こうとバタつく。清矢は手持ちのマンゴーシュをかかげた。

「破邪の雷!」

 剣に刻まれた常春殿の術式が瞬く間に炸裂する。清めの雷が白銀の閃光となって闇を裂いた。怪異の身体は抵抗も虚しく二つに裂け、ケタケタと異様な笑い声と共に地下道がまばゆい光で一瞬白く染まる。

「まだ終わりじゃない……気を抜くな!」

 敬文が鋭い声で警告する。

 その直後、今度は蛇の目傘が四方八方から飛び出してきた。捨てられた傘に怨念が宿った付喪神。日ノ本で人が昔から恐れてきた唐傘お化けだ。隊員の一人が囲まれ、地下道に絶叫が響いた。清矢は慌てず、光属性の基本魔法を詠唱した。

「フラッシュ!」

 空気中の魔素が輝いて燃焼し、地下道がぱっと明るくなる。詠は清矢の光にタイミングを合わせ、即座に詠唱を始めた。

「灼熱の業火よ……我が手に集え、燃えさかる憎しみと共に敵を滅ぼせ、ファイアブラストっ!」

 傘の布に炎が燃え移り、個々の敵が見えやすくなった。みなが一斉に切りかかる。先ほどのブリッジ女もまた現れた。乱戦である。

 唐笠お化けはピョンピョンと高く飛び上がり、大きく開いて内側から黒い雨を降らす。それは肌を切り裂く呪いの雨で、浴びた肌はきしきしと痛み、身体に糸を埋め込まれたように動きが鈍った。

 とたんに澄んだグリッサンドが響き渡る。細く震えるトレモロの旋律を、左手が巧みに支える。吊りさげられた身体の動きが滑らかさを取り戻す。広大がハープで草笛氏に伝わる解呪曲を弾き、皆を癒したのだ。

 デバフを封じられた唐笠お化けは案外と物理攻撃に脆かった。隊は群れを壊滅させると、清涼殿への道をひた走った。清矢の心臓は早鐘のように鳴る。こんな雑魚に苦戦していては、儀式が始まってしまう……!

 もう少しで清涼殿の地下へ出る頃合いで、しゃんしゃんと鈴の音が聞こえてきた。闇の中にかすかなライムグリーンの蛍光がちらつく。神秘的で不吉さを帯びたその光が、地下道全体に冷たい緊張を走らせた。照らしてみると、それは清涼殿の神兵隊だった。異変を感じ、警護に来たのだ!

 当然ここでも戦闘になった。充希が前に出て果敢に斬り込んでいく。日本刀が振られるたびに、妖しい霧が斬撃の傷に染み込み、動きを鈍らせる。懐を狙われれば素早くバックステップして、剣を水平に振りぬき、剣気を飛ばす。飛ばした剣気を追いかけるように飛び掛かり、体重を乗せた袈裟切りにして返す刀を蹴り返す。縦横無尽な攻めで剣筋を読ませない。

 肉弾戦では不利と見たか、奥で様子を見ていた術兵は風の術を使ってきた。

 風圧が鎌のように唸り、敵を切り裂いて前進する。その後ろから、風の壁がごうごうと唸りをあげて、数メートルの空間を巻きあげる。術兵はその奥だ、とても迂闊には踏み込めない。前に出ていた神兵隊はさらに、持っていた十字戟をぐるりと回して放り投げた。車輪の刃が、つむじ風に運ばれて滅茶苦茶に飛び交った。皆の肉が断ちきられ、血しぶきが飛ぶ。

「ぐああっ!」
「い、痛った……!」

 多くの悲鳴が闇をつんざく。回復術で癒えるとはいえ、清矢は自分まで切り刻まれたように胸苦しくなる。

「だめだ、防御陣形で後退!」

 敬文は混乱を察し、即座に号令した。言われたとおりにピラミッド型に集合して後ろに下がる。神兵隊員はそれ以上近寄ってこなかった。狭い地下道では鉄壁の守りだろう。背後から魔物に襲われたら挟み撃ちだ。先頭の敬文が声を張り上げた。

「虎雄氏や県令は生贄をやめろと言ってるはずだ!」
「今生帝の聖餐は止められぬ!」
「何が今生帝だ……狂信者め!」

 政治交渉も通じないようだ。清矢は『リュミエール・ド・イリゼ』を詠唱するか迷った。あれは広範囲の攻撃魔法だ。術師まで届けば勝算はある。

 隣を見ると黒田錦も、細剣を構えてぶつぶつと詠唱していた。柄にはめられた紺色の宝球が明滅している。身体の周囲には漆黒の魔素圧が生まれ、髪は大きく浮いていた。

 視線に気づいたのか、こちらを見て自信に満ちた目顔でうなずく。意図に気が付き、清矢は高らかに叫んだ。

「前方散開! 魔法詠唱用意!」

 魔法軍にとってその号令は絶対だった。錦の口元に薄笑いが浮く。

「全ての端緒と終焉たる純なる闇よ応じたまえ。すべての魔を祓い尽くし、とこしえなる安寧を招じたまえ。闇の波動は果てなき暗渠、深淵の枷を刹那にほどきて、光を断ち切り、地をえぐり、風を吹き消し、炎を消し去り、水をこごらせ全てを虚無へと沈めよ! 汝は日ノ本の華族に連なる者、星帝の血を受け宙を操る、紫天宮の調律師、黒田錦。魔術師としての我に応じ、魔を還元しつくせ! 闇極大魔法・ノクターガ!」

 詠も大学で『ノクターン』や『ナイティ・ナイティ・ナイトリィ』を教えられていた。だから清矢もそれらの威力は想像がついた。だが系統最強の魔法は格が違った。紫がかった闇の波動が土石流のような規模で直進し、敵の神兵隊員を無慈悲に洗いつくしたのだ。二人はぼろきれのように赤黒く染まって地にあおのいた。

「先に進むぞ」

 錦は犠牲者など一顧だにしなかった。プレートに刻まれた『いー01』の表記を確かめ、はしごから上に上る。マンホールが開いており、薄緑の微光が漏れて、垂れ苔がぶら下がっている。地図どおりならここが清涼殿地下のはずだ。

 ……そこは地下だというのに緑なすドーム状の空間で、木々が異常成長して天井までをまがりくねって覆っていた。葛も旺盛に生い茂り、足元にはぜんまいや野菊がひょろひょろと伸びている。光が差さないはずなのに濃い魔素に満ちた小さな庭園ができていた。

 中央の噴水には立方体のような薄荷色の魔法石が埋まって、吹きあがる水流を爽やかな光できらめかしている。後部の壁には繭のような発光体が張り付き、人ひとり分の大きさのあるそれを根や枝が縦横に包んでいた。

 内部には十数人の神兵隊員――もちろん隊長の新発田と、術師長らしき老人もいた。噴水前で、零時と牡丹、それに捕まった坂井が死に装束で縛られて膝をついている。

 それはまさに処刑の瞬間だった。牡丹がおとなしく頭を垂れる。深緑のスカーフを巻いた黒装束の兵士によって、白刃がその首に振り下ろされる。

 ――間に合わなかった! 惨劇の予感に思わず目をつぶる。数秒の間、清矢の耳には何の音も届かず、悲鳴も詠唱も止まっていた。おそるおそる瞳を開けると、喜劇でも演じているかのように、処刑人がぴたりと静止していた。いぶかしく思っていると、地下抗から這い出てきた黒田錦が懐中時計のネジを押したままかかげる。今まで彼を捕えることができなかったのは、この時計の力のせいだったようだ。

「はやく! 動けるのは指輪をつけてるお前だけだ!」

 細かい仕組みはわからないが、指示に従って、急いで生贄の三人の縄を切った。

 六十秒後、時が動きだすと、儀式に参加していた新発田が清矢を指さし、「あれだ! 嘉徳親王の血筋の生贄!」と叫んだ。

 神官がかまいたちを起こし、新発田が切りかかってくる。清矢は剣技で応対するが、多勢に無勢で押されがちだった。最後尾からマンホールを上ってきた広大が新発田の姿を見るなりハープでスタッカートの特殊コードを弾く。すると、兎亜種の人間がみなウサギの姿に変わってしまった。新発田もウサギの姿に縮み、鎧を跳ねのけて後ろ足で立ち、なおも噛みつかんと襲いかかってくる。清矢はわずかな哀れみを感じながらそのウサギを蹴り飛ばした。獣亜種変化コードの強力さには改めて舌を巻く。

 丸っこいウサギたちは弾丸のように人間の足元を走り回る。攻めこんだ救出隊は勢いに乗じた。

「『満月刀』を!」

 敬文の鋭い声に、充希が機械のように動いて応じた。

 主任術師とおぼしき神官の顔を『満月刀』で切り裂く。血もぬぐわずに水平に構えなおして、「全魔力接収!」と叫んだ。

 すると繭が発光をやめ、するすると蔦や蔓、巻き付いた枝がほどけていった。

 打ち合わせは済んでいたのだろう、「逃げるぞ!」と敬文が叫び、全員で地下道を降りようとするが、牡丹がその場にうずくまってしまった。悲痛な叫びが戦場をつらぬく。

「いや! 帰りたくない! 私は『永帝』の御許でひろあきさんを待つの!」

 零時が舌打ちしながら腕を引くが、彼女は床を這う枝にしがみついて泣いている。

「贄になれば永遠に生きられるのに! ひろあきさんと一緒に、眷属になってずっと……!」

 彼女にとって現世は針の筵なのだ。

 あまりにも若すぎた密通。恋人との結婚は許されず、罪の結果の私生児の出産……細い神経は度重なる悲しみに耐えられなかった。彼女の側に立てばいくらでも甘い言葉をかけてやることができる。清涼殿がそうやって贄になるよう言い含めたのだろう。壊れた心の洗脳など赤子の手をひねるようなものだったに違いない。

 しかし清矢はかっとなって牡丹の頬を張った。そんな逃避の裏で、零時はどれだけ寂しい涙を流さねばならなかったと思う? 父にも、母にも甘えられずに、親戚の家でたった一人で。小さな零時の悲しさは清矢自身のものでもあった。同世代の若者としては、全面的に息子を擁護してやりたかった。

 険しい声で、一喝する。

「恋に逃げこむのもいい加減にしろ!」

 牡丹は信じられないという泣き顔で清矢を見上げている。

 清矢は零時を指さした。

「命がけであんたを救おうとしてる息子のほうを信じろよ!」

 それ自体は心を病んでいる病人相手に、飽きるほど繰り返された正論だった。

 だが今回に限っては……これまですべての運命を諦めていた零時自身も涙を流して頼み込んだのだ。

「母さん、お願い……僕と一緒に生きて!」

 息子の哀願に牡丹ははっとなったようだった。混乱に騒ぐ周囲を見回し、一心不乱に駆けだして、魔法石に触れてぶつぶつと祝詞を奏上する。薄荷色の魔法石が明滅し、ほどけかけていた木々が再び繭に巻き付いていった。

「主任術師の魔力は奪ってる。今のも多分気休めだ、すぐ離れるぞ!」

 敬文の言葉に従って、地下道へ戻り、撤収を図る。

 地下道の中は行きと同じく魔物があふれていた。パニックになって逃げてきた敵兵とも共闘しながら、命からがら走り抜けた。なんとか土御門家の井戸まで到着して全員が引き上げてくると、当主の土御門隆明が待ち受けており、井戸にふたをして『要石』を置き、しめ縄をかけて封印した。

 清涼殿の神兵隊が嘆く。

「『永帝』がお目覚めになったら一体どうなるのか……」

「他にも術師はいるだろ、制御できないんだったら廃棄の運命だよ。あれは単なる『D兵器』」

 黒田錦は冷ややかに突き放した。

 一晩あけて、被害の内訳が明らかになった。あの後結局『永帝』が暴走し、草迷宮にいた十三名は逃げた者を除きすべて殺されてしまった。清涼殿は『永帝』を再封印する必要に駆られ、祈月軍の陽動に対応できなくなって、やむをえず停戦となった。西行英明は県議会に向け生贄の非道さを訴えかけた。坂井のように、清涼殿内部で『永帝』の存在に疑問を抱いていた者も脅威を強調した。何でも、繭に封印された眷属の数がゆうに百を超えているらしい。県令や虎雄氏は高官を失った清涼殿よりは祈月軍閥との関係を重視し、『永帝』狂信派の意見を退けた。

 会議室で戦後報告が少数の重役の前で告げられたのち、源蔵はあらためて清矢を眺めてため息した。

「今回は英明が命じたことだから仕方がないが……」

 そう前置きし、負傷兵のリストに視線を巡らせながら諭した。

「お前は祈月の跡継ぎなのだから、もう少し危険を避ける行動をしたらどうなんだ?」

 清矢は苦い唾を飲み込む。自分が捕まらなければ、逃亡戦から引き続いての被害など出なかったのだ。

 だが、どうしても父親とすり合わせておきたい認識があった。

「だけど、魔物が権力を持ってる状況なんていいと思うのか?」

 源蔵は驚いたように語気を荒げた。

「それは許せん。それに今回の事後処理には、至極殿にもずいぶん世話になってしまった。退魔科へのコンバートは断り切れないかもしれん」

 西行英明本人は、少し居心地が悪いのか、何も言わず源蔵を見ていた。代わりに北条直正が場をまとめる。

「とりあえず、清矢さまはもう陶春に帰ってください。学校も始まるでしょ? 鷲津の調略には気を付けてくださいね」

 会議はそれで終わりとなり、人々が席を立って思い思いの話に耽る中、リュックを背負って旅支度した充希も清矢の頬をつついた。

「俺もずいぶん休んじゃったから、そろそろ故郷に戻ろうと思うよ」
「本当か? ……大丈夫かよ、道中」
「『満月刀』、魔力吸いすぎで満タンになっちゃってるからね」

 充希は何げなくそう言って、『満月刀』を取り出した。

 柄に打たれた目貫釘を外し、中にある隠し扉を開いて、清矢に見せる。そして逆手に構えて聞く。

「新月までは、後何夜?」

 周囲の野次馬が口々に答えたが、充希の懐っこい瞳はただ清矢だけを見ていた。

 うつむいていた清矢も視線を合わせる。『満月刀』の隠し扉の中では、中の青い満月紋が限界まで痩せて、祈月の新月紋と酷似したかたちになっていた。自信がなかったが、清矢は答える。

「多分新月だと思うけど……?」

 充希は組みひもで刀を首にさげ、ニッと笑った。

「満願成就! 感謝感激それでは失礼!」

 両手をパンと打ち合わせ、そしてフッと消え去った。集まっていた面子がどよめく。
 源蔵が説明をする。

「『新月刀』も同じ仕組みらしい。吸った魔力の総量で隠し窓の紋が変化し、満ちると今のように、ふるさとの神泉に還れるようだ」

 北条は感心して「ぜひ、ロンシャンの夜空から取り返したいですね」と唸った。

 軍閥は清矢を長らく山城県に置くのは危険と考えたのか、早々と故郷へ送り返すことにした。
 国鉄の故宮駅ホームには、吉田牡丹と零時が見送りにきてくれた。
 零時は折り目正しい学生服のまま、まばゆそうに清矢を眺めた。

「ありがとう。君が来なかったら……僕と母さんはいつまでも『親子』になれなかった」

 清矢はうなずき、牡丹に目を移した。彼女は年相応に落ち着いた藤色の着物を着ていた。これからは投薬で様子見をすることになったらしい。清矢も祈月軍が退魔科として国軍に復帰するかもしれないと世情を伝える。

 そしてきりりと表情を引き締め、零時を自らの道に誘った。

「いつかきっと一緒に、『永帝』を倒そうぜ」

 零時は眠りを覚まされたかのようにはっとして、やがて毅然とした表情で清矢を見返してきた。

「わかった……僕の力を正しく使って」

 清矢は黙って手を差し出した。零時がその手を取る。握り返したその手には、これまでにない力強さがあった。彼の中に生じた新たな希望を、清矢自身も感じ取ることができた。

 車掌に切符を切ってもらい、汽車に乗り込む。席は車両の一番奥だった。

 詠と隣り合い、背を落ち着けると、詠がよそ見をしながら手を握ってきた。

「どうしたんだ」
「俺も、片時でも離れねぇって思ってるから」

 詠はそう答えてくれた。その健気さに微笑が漏れる。

 自問してみれば、清矢だって詠がほしい。

 もう充分に独り占めしていると思っていた。恋にまで介入しては嫌われるとおびえていた。賢しらぶったそんな分別はかえって彼を傷つけただけだった。素直に心を眺めたら、取るべき行動は決まっていた。清矢は無邪気な気持ちで詠の頬にキスをした。

 詠は照れ笑いを含みつつも、やや残念そうにこぼした。

「でも、唇にはナシなんだよな……」

「俺も詠が好きだよ。どこにだってキスしてやりたい」

 清矢はふっと笑って、中腰になって唇に触れるだけのキスをした。驚く詠に、清矢は言った。

「このキスに誓いとか重い意味持たせんなよ。俺はお前にキスがしたかった。お前も俺にキスしたかった……だから唇を触れ合わせた」

 しみじみとした想いが心に広がる。自分たちの触れ合いには、これからは理由なんていらないのだ。

「そのほうが何倍も素敵だろ?」と胸を小突くと、単純な詠は毬が弾むように清矢に抱きつく。

 紆余曲折があったにせよ、清矢にとっては凱旋だった。戦勝のほうびは、一瞬のつたないキス。青春をひた走るふたりには、それ以上は必要なかった。

 ――以降、日ノ本の情勢は目まぐるしく動くことになる。

(了)