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あおうま
#鬼の研究 #読書

§二章 鬼を見た人びとの証言

1 鬼に喰われた人びと

◎阿用の一つ目鬼『出雲国風土記』「大原郡阿用郷」
・日本の書物にはじめて「鬼」が登場。阿用郷は現在の島根県大原郡大東町。八岐大蛇で有名な斐伊川に合流する赤川と阿用川の流域。モリブデンを産する大東鉱山などがある。
古翁の伝へていへらく、昔或人、此処に山田を佃りて守りき。その時目一つの鬼来りて、佃る人の男を食ひき。その時、男の父母(かぞいろ)、竹原(たかはら)の中に隠りて居りし時に、竹の葉動(あよ)げり。その時、食はるる男、動(あよ)、動(あよ)といひき。故、阿欲といふ。

『倭人伝』などに記された卑弥呼のように〈鬼道〉に仕える巫女の権勢が一地方を風靡する傾向のなかで、神儀にえらばれたしるしとして片目をつぶされた一つ目の男が、ある時よこしまな暴力をもってふいに民衆の収穫を奪い去ることは考えられぬことではない。阿用郷の事件は抵抗した若い農民が殺されてしまった惨劇であるとの想像も可能である。阿用の鬼は神への供物として一つ目にさせられた一眼の人であった。神に付随するものとして、類似の力を発揮することが許され、人びとは神への敬虔な畏れからのみこの横暴を黙視し、このような者を〈おに〉と呼んだ。『日本書紀』には素戔嗚が姉の田をねたみ「秋は捶籤(くしざ)し馬伏す」と書かれている。「捶籤」とは所有権を主張して他人の田に串をさすことで、この阿用の目一つの鬼も、かつては神にささげられ、神串に突かれた一眼者であり、神田を主張して農夫の田に神串をさしに来たのだと考えられる。やがて村落の発展とともに、目一つの鬼をふくむ〈おにびと〉たちは神祠の拠点をもつ山間に孤立化していく。

・〈一つ目小僧〉に関する柳田国男の調査 『一目小僧』
一目小僧は多くの『おばけ』と同じく、本拠を離れ系統を失つた昔の小さい神である。見た人が次第に少なくなつて、文字通りの一目にかくやうになつたが、実は一方の目を潰された神である。大昔いつの代にか、神様の眷属にするつもりで、神様の祭りの日に人を殺す風習があつた。恐らくは最初は逃げても捉まるやうに、その候補者の片目を潰し足を一本折つておいた。さうして非常にその人を優遇し且つ尊敬した。犠牲者の方でも、死んだら神になるといふ確信がその心を高尚にし、能く神託予言を宣明することを得たので勢力を生じ、しかも多分は本能のしからしむる所、殺すには及ばぬといふ託宣をしたかもしれぬ。兎に角何時の間にかそれが罷んで、ただ目を潰す式だけがのこり、栗の毬や松の葉、さては箭に矧(は)いで左の目を射た麻胡麻その他の草木に忌が掛かり、これを神聖にして手触るべからざるものと考へた。目を一つにする手続もおひおひ無用とする時代は来たが、人以外の動物に向かつては大分後代までなほ行はれ、一方にはまた以前の御霊の片目であつたことを永く記憶するので、その神が主神の統御を離れてしまつて、山野道路を漂泊するこおになると恐ろしいことこの上なしとせざるを得なかつたのである。

◎初夜の床に喰われた女 「女人悪鬼に點(けが)されて食噉(は)まるる縁(えに)」(『日本霊異記』『今昔物語』)

大和国十市郡菴知(あむち)村の東、鏡作造の娘、名を万(よろず)の子と呼ばれた女が犠牲者。容貌は端正で、「高姓の人(身分のよい家柄の人)」に請われたが、断って年月が経っていた。そのことが評判となり、「汝(なれ)をぞ嫁に 欲しと誰。あむちのこむちの万の子。南無南無や。仙さかもさかも持ちすすり。法(のり)申し山の知識。誠に誠に」と童謡にまで謳われるようになった。万の子は多くの男の申し出を断ったが、やがて「彩(しみ)の帛(きぬ)三つの車」という染帛の財を贈られた。父母は富裕に引かれ、その人へ娘をやることにした。初夜の夜半、閨から「痛きかな」という叫びが三度に渡って聞こえたが、親は「いまだ効(なら)はずして痛きなり」と語り合って寝てしまった。女はその夜、鬼に喰われてしまい、閨には小さな白い指が一つと、頭が喰いのこされていた。その上、彩の帛は獣骨となり、車は茱萸の木となって投げ出されていた。親たちは女の頭を高価な「韓筥(からはこ)」に納めて仏事をいとなんだ。人々は「神怪」ともいい「鬼啖」とも評した。

・不吉な童謡「お前を嫁にと いうは誰。あむちのこむちの万の子。南無や危いそのようす。仙さかもさかも持ちすすり。法を申すは山ひじり。まことにまことにご愁傷」というような意味。童謡にはもともと呪的な不明な部分がふくまれているのが普通。叛乱の前兆として謳われた記録もある。
-『日本書紀』「岩の上に 小猿米焼く 米だにも 食げて通らせ 山羊(かましし)の老翁(をじ)」(山背大兄王の「ふふき」たる頭髪の類似から暗示した警告)
「法申し山の知識」とは、仏事を営むような結末を見通した加害通告ともみられ、また、山の聖自身がこの事件にかかわっていたことの傍証であるとも疑える。
高姓の地方豪族のプライドと、中央直轄の伴造の矜持、それにばくぜんたる村落全体の男たちの憧憬と憎しみ、そして験力をもった山の聖、そうした雰囲気に醸し出された凶悪事件を〈鬼啖なり〉と結論して丁重に葬り去った集団の力。目一つの鬼であった神領の男の例にもはやく表れているが、人々は鬼というものが、因不明の怪であるとしても、けっしてまったくの神意であるなどと思っていたのではない。〈鬼〉とはおおかた、このような、理由のつけられぬ、あるいは理由をいうことがはばかられるような場合に口にされた〈理解の符牒〉であり、いったん人びとによって〈鬼〉の行為と評されたことがらには、被害者の反論が許されぬような重みがあった。

◎あぜ倉に喰われた業平の思い人 『伊勢物語』第六話

業平は年経て思いわたった二条后高子(たかいこ)(その頃はまだ年若くただ人で、いとこの染殿の后明子(あきらけいこ)のもとに同居していた)を盗み出し、芥川を渡ってはるばると行ったが、夜も更け、雨も降り、雷さえ鳴りはじめたので、女を蔵のなかに入れて守っていた。夜の明け行くほの明かりに見ると、女はすでに鬼に喰われて形もなかった。

・『伊勢物語』「御兄堀河の大臣、太郎国経の大納言、まだ下らふにて内へまゐり給ふに、いみじく泣く人あるをききつけて、とどめてとりかへし給うてけり。それをかく鬼とはいふなり」公の力としての鬼。〈みやび〉の秘事となって伝授されるようになる。

Cf.唐木順三『無用者の系譜』「この懸相に己がいのちをかけることもできる。いのちをかけても勝利のよろこびを味わへないことはここでは既にわかつてゐる。高子には高子を守る鬼どもがついてゐるのである」

高貴の血筋にありながら、「体貌閑麗、放縦にして拘せず。略才学無し、善く稚を作る」(『三代実録』)人物であった業平の為した〈みやび〉の道は、優柔なものではんく、せいいっぱいの抵抗に支えられた反社会的なものであった。業平は「用なき」身の者だけがなしうるきわめて人間的な抵抗として、政治のために存在する高貴の女としての高子を盗み出し、禁忌を犯すのである。政治的危機と、それゆえに盛り上がる情緒、そして敗北ののちに訪れる長い失意の時を思えば、業平は超自然的とまで言える圧倒的な政治力の持ち主を基経・国経という実名のもとに認めることは苦痛であったろう。「それをかく鬼とはいふなり」という結語には、惟喬親王の悲運に殉じた挿話をひくまでもなく、和歌を楯としてそうした政治権力に抵抗した業平自身の情感がこもっている。

・『今昔物語』たんなる猟奇的事件として簡潔に記される。場所も北山科の山庄のあぜ倉となり、女の遺骸は頭ひとつが残っていた。(頭部に魂が戻るという考えが広まり、体の中でも神聖な部位と考えられた。)「されば雷電霹靂にはあらずして、倉に住みける鬼のしけるにやありけむ」(雷電の跳梁が、結果的にみて鬼であった=山の雷神を想定するあり方)近藤喜博氏(『日本の鬼』)の説では、土俗的信仰のなかに生まれた自然への畏怖が業平伝説に付会された水辺説話の型を保つ説話と考えられた。河水渡渉地点が古代生活における重要地点をなしていたことから、芥川の渡渉地点でで大切な女を犠牲にとられたことは、水と生活とのかかわりのなかで自然の威力たる雷を畏れる説話の系譜に入る。

◎武徳殿松原に喰われた女 仁和三年〔八八七〕の怪奇譚(『三代実録』『扶桑略記』『今昔物語』『古今著聞集』)

仁和三年八月十七日(八八七年、光孝天皇代)、月のたいそう明るい夜に、午後十時ごろ、武徳殿の東の松原を、みめよき女房が三人うち連れだって歩いていた。松の木陰からみめよき男がひとり現れて、女房のうちひとりの女の手をとって話しかけ、女も色よく応じたので、ほかの二人はしばらくへだたったところで待っていた。時間のたつほどに話し声もしなくなってしまい、不審に思って行ってみると、先の女房の手足だけが地に落ちていた。驚いた二人は右衛門の陣に走ってこのことを告げた。陣の者がかけつけて見ても死骸は見つからず、男の姿もなく、人々はこれを鬼の仕業と考えた。

・この事件は特別視され『三代実録』『扶桑略記』に記録された。仁和三年八月という月にはこの種の陰惨な鬼の事件が三十六種類の大きにおよんで人口にのぼっていた。この武徳殿松原の女房惨殺事件は、それら一連の鬼の噂に止めをさすべく、人心不安の解消の手立ての一つとして、ことにも手厚く、敏速に供養された。

・仁和二年には、陸奥・出羽・上総・下総・安房などの俘囚(帰順させられたへき地の反抗者)叛乱が起き、鎮圧のため治安強化策がとられていた。食糧の徴発がきびしくなる一方で、国司は名誉と利益だけを私有化して任地にもおもむかず、納税すらしないという社会的混迷があった。翌三年には国司の俸給を減らす政策がとられている。地方には地方の事情にあった自衛の力が生まれようとし、それは中央政治への不信につながるものであった。この時代の鬼はいずれも内裏近辺に出没し、あるいは内裏に侵入の気配さえみせている。内裏近い武徳殿松原の月明りを散策する若い女房とはすなわち、為政者の心ゆるびを象徴するものである。『今昔物語』『古今著聞集』などに記された原因不明の怪異はほとんどこの時代の前後のものであり、例外なく内裏近辺を舞台とした単発的示威行為として突発している。

◎官の朝庁で喰われた弁官 「官の朝庁(あさまつりごと)に参る弁鬼のために噉はるるものがたり」(『今昔物語』巻27第9話 清和天皇年間)

今は昔、宮の司には朝庁(あさまつりごと)というものが行われていた。早朝の政務で、火を灯す仕事で午前五時ごろから正午ごろまで務めたらしい。太政官の弁は文官で三等官、史(さかん)はその下役である。遅刻した史が上司の弁を恐れつつ参入すると、弁はただひとり惨殺されており、鬼に喰われるにいたった事の次第が扇に書き残されていた。

・鬼に喰われた<ことのしだい>は伝わっていない(テキストには書かれていない)→「弁と史との名の部分だけを、かっきり削って空白にしているこのものがたりは、政治的にも重要な意味をもっていた朝庁の場においての殺害事件であり、藤原体制醸成期の暗黒部を象徴する事件の一つであったといえる」。※一つの社会不安の幻影としての鬼の出現。刹那的に「加害者の喜び」を共有した。

2 鬼の幻影

◎幽霊と鬼

・幽霊と鬼のちがい:危害を加えるか否か。死者は、祀られていようが遺棄されていようがおそろしいものではなく、生きた人間に危害を加えるものではないと信じられており、単なる哀れなる対象にすぎなかった。⇔<鬼>は、「現実に生きて行動する何かが必要でありながら、決して実体を人前に晒してはならないという鉄則があった」。いちど実体を明らかにすれば、それは超人間的な力を持ち、時には油断に乗じて、あるいは驕慢を憎んで現実に反抗した何かではなくなり、ただのみじめな犯罪者となり下がる故である。

-『今昔物語』二十九巻十八話「羅城門ノ上層ニ登リテ死人ヲ見タル盗人ノ語」・「盗人これを見るに心も得ねば、これはもし鬼には有らむ」と思て怖けれども、「もし死人にてもぞある。恐して試みむ」と思て……」

◎鬼の足跡と衣冠の幻

・醍醐・朱雀二天皇の治世(八九八~九四五)…いわゆる<今昔時代>の前駆で、記録に鬼の幻影が散見される
-柳田国男「天狗の話」「我国には一時非常に怪奇な物語を喜び、利口な人が集つては、所謂空虚を談ずるといふ一種デカダン気風の盛な時代があつた。この時代を我々は仮に今昔時代といふ」

・延長七年〔九二九〕四月二十五日…『扶桑略記』『古今著聞集』
延長七年四月廿五日夜、宮中に鬼のあとありけり。玄輝門の内外、桂芳坊のほとり、中宮庁、常寧殿のうちなどにぞありける。大きなる牛の跡にぞ似たりける。そのひづめのあと、あをくあかき色をまじへたりけり。一二日の間に次第にうせけり。北陣の衛士が見けるには、大きなる熊、陣中にいりてすなはちみえず。其鬼のあとの中に、をさなきものの跡まじりたりけりとぞ。おそろしかりけることかな。

-cf.柳田国男「赤子塚の話」赤子の足跡は、建造物の犠牲となった幼児のものともされ、三輪明神の子であるなど、特別な神聖さをもってみられることもあった。近世に至ってもしばしば語られ、河童の足跡などとも呼ばれる。

・延長八年〔九三〇〕七月五日
右近陣につとめる下野長用という人が殷富門より入り武徳殿まで来かかると、太刀を帯びた黒衣のものが人を捕えてゆく。誰だろうと思ってついて行ってみると、じろっと振り返ったその人は白い笏をもった官人であった。右近の陣までついて行ってみると、内より三位のもの(近衛大将相当)が出迎え、さらに誰かのおいでを待つらしく控えている。松明をもった者もりっぱな摺衣などを着ていた。長用は不安に耐えず、思わず殷富門まで走り返ったが、みると百ばかりある火がぼうっと点っていて、久しくしてからふっと消えた。
・醍醐治世の頃
仁寿殿の台代の御燈油(みあかしあぶら)を夜々に来て奪い去るものがあった。源公忠は三月の霖雨(りんう・ながあめ)の暗闇にまぎれ、夜半に南殿の北の脇戸に立ち窺っていると、丑の刻におよんで御燈油が点ったまま宙に浮かんで奪われていった。公忠は走りかかって激しく蹴り上げたが、足音は南に走り去った。夜が明けてみると、ものの血は南殿の塗籠におよんで流れ止まっていたが、すでに何者も潜んではいなかった。

-源公忠(天暦二年〔九四八〕没。放鷹にすぐれ、和歌にも秀でていた。従四位下・右大弁・近江守)「兵の家なんどにはあらねども、心賢く思量(おもひはかり)ありて、物恐ぢせぬ人になむありける」(『今昔物語』)

・承平元年〔九三一〕六月二十八日
弘徽殿の東の欄に変化の物があらわれる。六月二十八日の夜半に、衣冠をつけた一丈あまりの鬼神はしばらくあって消滅したが、前後十日ばかりは暁ごとに八省院と中務省の東道との間に人馬の声が多く聞こえた。

・天慶八年〔九四五〕八月五日
宣陽・建秋両門の間に、おびただしい馬の音がして内裏に数刻を経て引き入れ終わる気配だった。百人ほどの人声と万を超すかとも思う群馬の音は左近衛付近の人の耳には焼き付いているのだが、実際には何事もなかった。

・天慶八年〔九四五〕八月十日朝
紫宸殿前の桜の木より永安門までの間に、鬼の足跡、馬の足跡などが多く乱れついていた。

一、出没地はいずれも内裏に近く、弘徽殿や仁寿門まで侵入してきており、出入りできないところはないといわんばかりの跳梁をみせている。
二、群馬の音、群牛の跡などと共に必ず衣冠の人の幻が行動している。
→地下者の個人的私怨や、民衆の思い付きの犯行ではないことの強調。

-cf.近藤喜博『日本の鬼』油と妖怪の怪異端

◎征矢の調伏

・「桃園の柱の穴より児の手を差し出して人を招くものがたり」『今昔物語』二十七巻
世尊寺(藤原行成邸)がまだ寺院にならず、西宮左大臣源高明が住んでいた頃のこと。寝殿の母屋の柱の木節の穴から、幼児の手が差し出されておいでおいでをした。人々は恐れつつしんで、成仏できぬいたいけな魂の仕業だと、仏の絵像や経巻を柱に結び付けてみたがいっこうに止まなかった。そこである者が思い切って、一本の矢を突きこんでみたところ、ぴたりと招くのが止んだ。

征箭…魔除けに特効。鳴弦の儀など。

「もともと日本の鬼は、民俗的な古い<鬼>の信仰とはべつに、摂関政治の興隆繁栄とともに形象化をとげていった一面があり、それが鬼の性格の一要素になっていることは前にも述べた。そして、この話は一本の矢の威力という魔除けの信仰が、支配力や、その安定を守る力と一体化されるなかで、鬼や妖怪の制圧に一役買って出てくるそしてそれが成功するごく最初のものであろうと思われる」

・藤原氏一門の他を圧倒した台頭と繁栄とその裏にあった隠然たる怨念→藤原一族の鬼との邂逅譚。征箭と仏教に守られた貴族の全盛期、それを是とできない人々の心。

-西三条殿の若君・忠行が百鬼夜行に遭った話「西三条殿の若君、百鬼夜行に遇ふ事」(『古本説話集』など)

-その甥・太政大臣忠平が鬼に太刀のしりをつかまれた話
九三〇年代、醍醐・朱雀の世移りの前後のころ、宣旨を賜った忠平は左近陣のほうへ歩んでいた。その途中、南殿の御帳のうしろを通ろうとすると、もののけはいがして太刀の石突が何者かにつかまれた。さわってみると「毛はむくむくとおひたる手の、爪ながく刀の刃のやうなるに、鬼なりけりといと恐しく思したれども」平静をよそおって毅然と問うた。「おほやけの勅宣承りてさだめにまゐる人捉ふるは何者ぞ。ゆるさずばあしかりなむ」すると、手は慌てだし、丑寅の隅に逃げ去ってしまった。

「基経の四郎君である忠平にとって、姉穏子は醍醐の后であり、朱雀は穏子の腹に生まれた甥に当るということになれば、いわば『おほやけ』とは自分みずからをさす以外の何者でもない」→藤原氏権力の強大化とともにそのアンチとして具体性をもって造形される「幻影の鬼」
cf.水尾比呂志『邪鬼の性』法隆寺講堂の四天王邪鬼など、このころの仏像彫刻にみられる邪鬼の姿勢(しだいに高姿勢に変化)
「踏鬼の形をとっていても、その性質には、実は四天王を無視する不遜な性が育ってきた。不遜な性は反抗の姿勢となって表立ってくる。この傾向は、藤原時代にはさらに強まったと思われる。」http://www.horyuji.or.jp/garan/kondo/det... 踏みつけられている邪鬼に注目

-その子師輔が百鬼夜行に遭った話

3 百鬼夜行を見た人びと

◎一条桟敷鬼のこと

・『宇治拾遺物語』臆病の幻影?
ある男が一条大路に面した桟敷屋に女と泊まっていると、夜半ばかりに風が吹きはじめ、ひどい嵐になってきた。その音にもまぎれず「諸行無常」と唱えつつ大路を行く者があるので怪しみ、蔀を押し上げて見て驚いた。蔀の前に、桟敷作りの家の高い軒をも圧するほどの大男で、馬面をしているのが一人立ちはだかっていたのである。それは馬の顔をしている鬼だった。男は恐ろしさのあまり蔀を下すと奥に逃げ込んだが、馬頭鬼はやおら格子を押し上げ、野太い声で言った。「よくごらんじつるな。よくごらんじつるな」男は太刀を抜き、女をかばっていると、馬頭鬼は「よくよくごらんぜよ」と長い顔をさらに体ごとさしこむようにして、たちまち雨夜の闇に去って行った。男は「百鬼夜行だ」と怖れをなして、二度と一条桟敷には泊まらなかった。

◎百鬼夜行とは

<百鬼夜行>の信仰…もともとは大乗仏教の思想的副産物で、草木国土悉皆成仏の裏側として仏教思想が俗化して生じた生命の幻影。動物はおろか植物まで、または家具什器、さらには人間の欲望や憎悪の情念という抽象的なものまでが、すべて生命をもちうるという考え方のなかに百鬼を生む根源がある。物質が鬼となるためには年月が必要であったことが特色的条件といえる。「人間の老人が尊敬されるように、古いということ、永く存在した強さということがひとつの権威感を生む」(阿部主計『妖怪学入門』)
cf.『礼記』「鬼は老物の精也」
→もう一つの夜行グループである地獄鬼のイメージ(生命の危機)「こうした夜行の鬼を見たものは、この世ならぬ世界を見たものとして、魂をあのよに導かれやすいと考えたのである。」畳む