永久なる春の追悼曲(第七話)紫天宮と罪の術式
1 祝祭と密約
五月、盛春を過ぎたゴールデンウイークの休日。諦念も悲嘆もすべて飲み込んでしまいそうな蒼い空の下。陶春県青雲市、永春大社にて、とあるビッグカップルの結婚式が行われた。白透光宮家傍系の結城疾風博士と、地元の有力者である海軍大佐・久雄氏の長女、久雄楓。夜空を探してロンシャンへ旅立った二人は、その過程で互いへの想いを深め、今日めでたく結ばれることとなったのだ。
せっかく探してくれたというのに、夜空からの手紙にあったクリスタル・ウィングの教会の住所に、彼の姿はなかった。牧師たちには現住所も分からないと言われ、最終的には警察まで呼ばれたらしい。格調高い結婚式は、清矢たちにとってはせめてもの慰めであった。
手塚佳代が転校した数か月後。清矢は高校二年生になっていた。
式には、伊藤敬文も正装で参加していた。彼が国軍に戻り、帝都に行ってしまってから久々の再会である。二次会は、かつての帝の離宮、結城博士の父親である瑞樹が会長をつとめるホテル春宮でおこなわれた。清矢はようやく親族席から解放され、手持ち無沙汰そうにしている彼に駆け寄っていった。
新しい恋人は、清矢を見ると「話があるんだ」と笑い、庭園に清矢を誘った。まだ浅い夜である。藤棚がライトアップされ、古式ゆかしい紫が浮かび上がっていた。夕方にちょっと降られたせいで、なんとなく湿っぽいベンチに腰を落ち着ける。
敬文は物珍しそうに離宮の花園を評す。
「山吹も咲いてるんだね。白っていうのが清潔だ。春の終わり、夏の始まり……清矢さまは白透光宮の、末裔なのか」
清矢は苦笑する。
「そうだけど、もうウチは春爛漫ではないよね」
半そでの学生服が少し肌寒かった。剥き出しの二の腕をさすると、敬文はジャケットを脱いで、清矢の肩にかけてくれた。お気に入りなのか、相変わらずシトラスの爽やかな香りが滲む。
「敬文。楓さん、綺麗だったね」
ジャケットの前をかきあわせて、型通りに花嫁を褒めたが、敬文は浮かない顔で頬に触れてきた。
「そうだね、結局、ふたりは結ばれるべき同士だったってことだろう。俺たちと同じ、盤面の駒にすぎないのか、それとも……」
敬文の語尾が落ちたあと、庭園の暗さが、ほんの一瞬、濃く沈んだ気がした。清矢は小さな声で確認した。
「……夜空、ロンシャンの教会にいなかったんだって」
「うん。十八歳は過ぎちゃったから、教会には居られなくなるんじゃないかと踏んでたけど、予想通りになったな」
敬文はネクタイを緩めながら溜息をついた。横顔の輪郭がライトに照らされて、独特の色気がある。清矢はまだ夢の中にいるみたいな気分だった。
「だけど、身よりもない国でたった一人。どうやって暮らしていくつもりなんだろう」
彼がひとりごちた内容は深刻だった。ロンシャンの現大統領、ゴールドベルク氏に仕えている、という情報もあったが、それは十年近く前に、陶春魔法大の愛野京教授が伝えたことだ。夜空の手紙にもそう書いてあったが、結城博士たちの訪問では、真相を確かめられなかった。
「夜空については、何もかも後手に回ってるね」
「……果たして俺が口出しする領域かは分からないんだけど、『新月刀』とかは返す気がないってことなのかな。無断での持ち出しだから、警察に被害届出して刑事事件にしちゃってもいいと思う。晴れの日にはふさわしくない話題だけど、清矢くんからお父さんに言ってみたらどう?」
「それって、夜空を犯罪者にするってこと?」
「捕まったら起訴は取り下げればいいんじゃないか。だって、持ち出しの総額を考えてもみなよ。結構、深刻だよ」
「……うん。俺、父上に話してみる」
実際、夜空捜索に関しては、諦めムードが漂いはじめていた。たとえ前科がつく恐れがあろうとも、警察の手を借りなければ何も取り戻せないのかもしれない。清矢の脳裏には、去年の澄名考逮捕事件のことがあった。凶悪誘拐犯・澄名と鷲津清隆の繋がりを身内が週刊誌にリークし、年度末には鷲津総将も共倒れした。
情勢は動き、源蔵たちは大きな障害もなく国軍に復帰した。
ジャケットを借りてもやっぱり寒気がきて、清矢はくしゃみをした。敬文が何も言わずに肩を抱き寄せてくる。
「風邪ひいちゃったかな。昼間は暑かったのに、今は冷えてるもんね……」
柔らかな声。身体が重たるいのは、熱っぽいのかそれとも恋の陶酔か。
清矢の白狼の獣耳にそっとキスをしてから、敬文は声を低めた。
「清矢くん……あのね、謝らせてほしい。俺は、君を宿命から守ってやれなかった」
清矢は唐突な謝罪に面食らった。
「あの……敬文。一体どういうことなの?」
「本当にすまない。全部、俺のせいにしてくれ」
「そうじゃなくて。一体何がどうなってるの?」
「大麗の置き土産のD兵器『博麗王』を現在の人柱からほかに移す。その儀式に、君の力が必要とされてる」
苦しそうな表情だった。清矢の獣耳を撫でながら、敬文が焦りをにじませて言う。
「だけどさ。君がどうしてもイヤだって言えば……覆せるかもしれない。学業や部活だとか、そういう理由だって構わない。もう一度粘ってみるよ」
「……いい。もう、父上と直接話す」
清矢はそう言って、ジャケットを敬文に返すと、立ち上がって会場に戻ろうとした。
追いかけてきた敬文が後ろからぎゅっと抱きすくめてくる。
「ゴメン。清矢くん。俺が嫌いになったよね?」
「……ケイブンの嘘つき」
堅苦しいジャケットじゃなく、生き物の温かさが、清矢を包む。体中に沁みて来る甘いラストノートに胸がうずいた。敬文の肘をきゅっと抑えながら、自分でも驚くほど弱弱しい声で告げる。
「でもね。ただ逃げてるだけの傍観者でいいの?」
「いいんだよ。俺が泥をかぶるよ」
「……大丈夫。夜空のこともあるし、父上と話してみるから」
清矢はそう言って、腕の中から敬文を見上げる。犬耳の男は切ない眼差しで清矢だけを見つめていた。
家に帰るなり、清矢は父・源蔵に詰め寄った。
「なんで、俺が『日の輝巫女』の再封印になんか関与するんだよ。高校生は使わないって、敬文は約束した。父上たちは、後ろ暗いことはしないって――それで、これかよ」
母・雫がドレス姿のまま、夫の肩を軽くはたく。父はしぶしぶ着替えを途中で切り上げて、一階の自室に清矢を招き入れた。
「……確かに、なぜ青少年を危険にさらすのかと責められると、苦しい。だが、私にはお前ほどの暇がないんだ。それに、望月家も今回は充希を使うと言ってる」
「充希まで?」
清矢が大きな釣り目を細める。源蔵は革張りのチェアを引き、飴色のデスクの前に腰かけた。宮家時代から受け継がれてきた、物々しい机である。
「私でも替われる役目ではあるが、全体の指揮をとらねばならない」
「父上がやりなよ」
源蔵は口を真一文字に引き結んで首を振った。
「できない。お前ほどの魔力もないし、術式習得に時間も割けない」
その言葉にはあの清矢に特別甘い男のようにすがる余地などなかった。源蔵は深く息を吐き出し、覚悟を決めたように息子を見つめた。
「清矢。移す先は『ましろ』という『海百合党』の少女だ」
「『海百合党』の……?」
「戸籍がない。特殊な境遇で育った子だ」
源蔵は言葉を選ぶように間を置いた。
「詳しいことは常春殿から聞いてくれ。儀式の技術的な面も含めて、説明してくれる」
「あっそ。また俺の魔法が必要ってわけね」
清矢は机のへりを叩いた。天板の硬さが拳に反動として返ってくる。
「敬文はあんなに苦しんでいるのに、父上は疑問に思わないんだ。夜空のことだってさ……父上が戦だとか政治だとかで始終いないから、見つからないんじゃん。ホント、どうするんだよ」
そして、敬文と話した刑事告訴案について伝えた。源蔵は眉間にしわを寄せる。
「……それは、すまん。祈月家当主としてどうなのかとなじられれば、頭は上がらない。だがな、夜空のことは私事で、D兵器の再封印は国家の大事だ。どのみち、私たちだけではもう手がかりがない。夜空が前科者になるのは辛いが、婆さまや母さんに言って、被害届を出しておいてくれ」
「ったく……偉そうにしても、家のことは、何にもやらねぇんだな」
憎まれ口に、父親は反論しなかった。ワーキングチェアに座る背が力なく丸まっている。清矢は茶の間に出ていって、祖母や母と夜空について話し合った。
「窃盗で訴えるって言うのかい。かなり前の話だけど、時効にはならないのかねぇ?」
「時効だけはふざけてるでしょ。夜空は私たちみんなに黙って宝物をたくさん持ち出して行ったのよ。大方、ロンシャンで売っちゃったんだろうけど、捕まえて裁きだけは受けさせないと」
女たちはそれぞれ熱弁をふるっている。
清矢は自室に戻って、古いレコードをかけた。フォーレのバイオリンソナタ二番。嘆きのバイオリンが、落ち着かない夜に熱情的に響く。制服からパジャマに着替え、学習机に座って宿題をやろうとしたが、ペンが進まない。
花嫁はとても綺麗だった。年代物の白無垢も重みがあったが、お色直しで披露した浅葱色の打掛はクールな彼女に似合っていた。
祈月一門の結城氏と、この地で鷹使いの音曲術を伝える海軍大佐・久雄氏の婚姻。それは、陶春県にとって輝かしい記念日となる。楓と疾風、二人の婚姻がここまで遅れたのも夜空の事件がきっかけだった。
「あいつ、無事なのかな……?」
急くような旋律が不安を掻き立てる。鎌倉彫の卓上棚に飾ってあるシーグラスを見つめた。敬文はきっとあの様子じゃあ帝都で板挟みだったろう。父は大佐格での招聘と聞いていたが、ふたを開けてみれば退魔科の少将という大層な地位についた。
たしかに、そんな人物が術の修行なんかやってる時間はないのかもしれない。
反発心は疼いたが、父の都合を聞くと、テスト勉強程度の理由で断れるのかどうか怪しく思えてきた。気づくと音楽はすでに第三楽章に入って、ピアノがバイオリンの不安定な旋律を追いかけている。
どのみち、自分は政治の領域へのアクセスのために詠よりも敬文を選んだのだ。それに彼は、曲りなりにも清矢を守ろうとしてくれた。風邪気味なのを言い訳に、勉強を切り上げて、休むことにした。翌日、清矢は敬文の宿泊するホテルへと向かった。
名刺の裏に走り書きされた部屋番号を訪れ、ベルを鳴らす。「どうした?」と敬文が顔を出したので、ぶつかるように抱きついた。
「あ、あの」
「――昨日はゴメン。敬文が喜んで俺を作戦に参加させるわけないもんな」
空元気で笑うと、敬文は黙って分厚いドアを閉じた。窓際にたたずんで、伏し目がちになる。
「言い訳はしないよ。俺が無力なのは本当だから……」
清矢は窓際の一人がけソファに座って、「まず、俺は何をするの?」と聞いた。
敬文が参謀らしく要点を整理する。
「この儀式は、『博麗王』という大麗が放ってきたD兵器を長田千秋から別の人間に移すのが目的だ。生きていれば百五歳になる老女が三十代のうら若い姿のままでは魔族ですと宣伝しているようなものだ」
敬文は感情を切り分けて、淡々と説明を続けた。
「『博麗王』と癒着している長田千秋の魔力をなくしたいが、祈月家には『新月刀』が欠けてる。だから、代わりの術式を作りたい、って常春殿の術師長が言い出した。森戸綱手さんっていう人」
「森戸さんか……俺のピアノの先生の旦那だぜ」
「そっか、じゃあ話は早かったな。充希が『満月刀』である程度長田の魔力を吸い取って、清矢くんが新術式で残りの魔力を洗い流すって寸法」
清矢はため息をついて苦笑いした。
「あの、それ、どうして俺じゃなきゃダメなの? 別に、森戸さんがやればいいんじゃあ……」
敬文は難しい顔をする。
「そうなんだ。もともとは清矢くんの家の季徳公が作った術でね。魔力を洗い流したあと、先祖代々の呪いで封じ込める仕組みになっている。この術式を応用して、『新月刀』や『満月刀』といったS級魔装具が作られた」
清矢は物事の順序ってやつを飲み込んだ。敬文は薄く微笑む。
「でも、『新月刀』は夜空のせいで失われちゃった。常春殿は、ベースになった術式を進化させて、清矢くん自身に装備させようとしている、というわけ」
敬文は小首をかしげ、本物の兄のように親身な態度で清矢を守ろうとする。
「だけど、どうする? 体に魔法陣まで刻むって話だ。俺はね、『新月刀』って、ないならないで構わないと思う。そんな役割いちいち進んで引き受けなくてもよくないか?」
清矢は怜悧な美貌でぶっきらぼうに聞き返した。
「デメリットは?」
伊藤敬文はやや硬い声で答えた。
「冬宮、つまり皇帝直属魔法軍長官・蘭堂宮冬真のことだが、彼の覚えは確実に悪くなるね。あと、清矢くんで運用できれば今後は源蔵さまにも装備させたいと国軍側は考えてる。魔術総監にはふさわしい術式と言えるからさ」
彼は『高校生だから』と清矢を守る一方で、政治的な事情も晒した。上から命じるだけの父とは違う。敬文と清矢は、ジョーカーの裏表。
清矢は冷静になった頭で計算する。昨日は裏切られたショックで感情的になってしまったが、何より自分の将来を考える必要があった。
冬宮の覚えが悪くなるのは明らかにリスク。鷲津総将がスキャンダルで罷免されたとはいえ、父・源蔵の立場は、彼のはからいで成立しているに過ぎない。
『新月刀』の代わりの術式が手に入るというのも、実際悪くはない。望月家のバックアップというかたちかもしれないが、国家的役割が手に入る。
それに、何も今回は詠や広大、志弦たちまで戦場に引きずり出すというわけではないのだ。充希と自分だけである。充希に関しては自分より年上で、高校生といえど18歳。
「あとね、これはちょっと報酬と言えるかもしれないんだけど……冬宮は清矢くんと充希をアルカディア魔法大に留学させてやるって言ってる。ちょうど、前回の留学生がお偉方になってる頃だから、蘭堂宮家主催で計画が始まっててね」
全体的には損ばかりの話ではないようだった。敬文は清矢の意を伺うようにこちらを見つめてくる。清矢はソファに背を預け、束の間思索にふけった。
夏目文香や張本志弦は、教員になりたいと言ってる。
文香は父をなくしたから、大学院に行きたいが、無理だなぁと笑っていた。クラスメイトの冴草くんは、歴史家になりたいと。そして自分はかつて、ピアニストなんか夢見ていた。だけど、時勢は厳しく、発表会なんか出られずじまい。可憐さんたちピアノ仲間の誰かがその夢は果たしてくれるんじゃないかと思っている。それに自分はもう人を傷つけた。その手で平和を訴える曲を弾いても、救済への哀願にしか聞こえないだろう。
じゃあどうするべきか?
やはり退魔の道に進むのがいいんだろう、と思う。先祖の薄雪さまにも、そう誓った。世の乱れを正したい、という父と同じ気持ちは清矢にもあった。でも、鷲津の主張が正しいのか、それとも敬文たちが正しいのか、論じるだけの弁が必要だった。そのためには強さももちろんだが、賢くあらねばならない。
大麗が侵攻目的で投下したD兵器、『博麗王』とそれを封印して魔族化した『日の輝巫女』。その真相を見届ける。
父と同じく、剣をとる。あるいは銃だって。強大な術式だって身につけてみせる。
清矢はかつて敬文と決闘したときのように勝気な笑みを浮かべた。
「俺、やるよ」
「本当に? 危険ではあるよ」
「ケイブン。俺を甘やかしすぎだよ。今回逃げちゃうと、きっと五年後はもうあなたの隣に立ってられないと思うんだ……」
清矢は男の子らしく、後ろ頭を両手で支えながら背もたれにのけぞる。伊藤敬文はしばらく目をしばたたせ、清矢の前に回ってきて華奢な肩に両手を置いた。
「うーっ、清矢さま……!」
黒の巻き尾があわただしく振られ、立ち耳が少し前のめりに倒れる。十歳も年上の男は床にしゃがみこみ、ぎゅっと清矢の胴に抱きついてきた。
「な、なにしてんの敬文?」
「ダメ、ダメだよそんな健気なこと言っちゃあ……! 清矢くんはちょっと生意気でワガママじゃないと……!」
おなかに頬ずりしてくるのがくすぐったくて可笑しくて、清矢は男の外はねの髪をぐしゃぐしゃ撫でた。敬文はその腕を掴んで、ソファの底面に膝をついておとがいにキスしてくる。今度は清矢が音を上げる番だった。
「あ、け、敬文……お、俺抵抗できないよぉ」
顎の輪郭をなぞった唇は、鼻の頭を経てようやく唇へ。その後は首筋に頭がうずめられ、ぺろりと素肌を舐められた。なまめかしい接触に腰がひきつる。無防備に抱きつき、清矢からも敬文の首にかじりつくと、彼はおずおず離れていった。
「あぁ……本当に君は秘密兵器だ。可愛い、って言ったら怒る? 俺だって何でも言うこと聞いちゃうよ」
甘い台詞に清矢は恥ずかしくなった。赤くなりながら伝える。
「じゃあ、敬文……俺ね、詠は参加させたくない」
「詠? そっか。今のところ名前は上がってないけど、誰かが欲を出さないとも限らないな」
「文香も志弦も参加はナシだよね?」
「それどころか、関根さんところの寛太くんも、張本のお兄ちゃんの譲くんもナシ。士官学校生だからね」
「俺がイヤって言えば、充希もやらないで済むのかな?」
懸念の表情を浮かべる清矢を、敬文は真顔で見つめた。
「そうだね。学生参加はなしにしてほしい、と再度訴えることもできる。だけど、充希自身は報酬目当てでやる気を見せてるらしいよ」
「……わかった、俺も参加するよ。術式は常春殿のほうでつけてくれるんだよね?」
「その予定だ。おそらく森戸さんが行うだろう。でも万が一はないとは言えない。充分用心してね」
話がまとまり、ホテルから帰った清矢は、父に了承を伝えた。祖母さくらは複雑な顔で「耀サマも十六ぐらいから任務をやらされていたけど、清矢もなんだね」と呟く。敬文は、術式習得の確認のために夏ごろこちらに戻ってくる予定だった。
2 器の少女
六月に入ると常春殿から召集がかかった。術式訓練の開始を告げる指令だ。詠も清矢の付き添いとして、同行を許された。術師長の森戸綱手が迷路のような廊下を案内する。いつも和気あいあいとしている調練場とは違った、張りつめた空気。ここが魔法軍の基地なのだと、改めて実感した。
巫女や神兵が琴を練習する部屋の前で、森戸が襖に手をかけた。
「まず、彼女に会ってもらうね」
襖が開け放たれると、十歳くらいの幼い少女が巫女服を着てちんまり座っていた。『日の輝巫女』の世話役という不名誉な職務をあてがわれている術師、葛葉寛も一緒だ。
大人しい顔立ち。素朴なショートの黒髪はつやがある。彼女は清矢を見ると三つ指をついて深々と頭を下げた。左肩だけが僅かに落ちている――彼女は片翼だった。父が言っていた「特殊な境遇」という言葉が、急に重みを持って蘇った。
詠がぶっきらぼうに首をかしげる。
「この子は?」
葛葉寛が淡々と説明した。
「次の『日の輝巫女』となる予定の子です」
少女は居住まいを直し、可愛らしい声で話しかけてきた。
「清矢さま。私は『ましろ』と申します。初めてお目にかかります。よろしくお願いいたします」
口上は丁寧だったが、たどたどしさがあった。
森戸綱手は満足そうにましろを見つめている。
「『海百合党』からできるだけ低年齢で魔力の高い子をと選んでもらった。長田千秋自身も『博麗王』をこの子に移すこと、了解している」
清矢は何とも言えない気分になった。この子はまだ幼く、危険な存在には見えない。それどころか、もう少し年上だと思っていた。『日の輝巫女』になるという過酷な未来を、理解できているはずがない。
清矢はつい、事情を探ってしまった。
「えっと……聞いていいか。ましろちゃんは、魔力が高いからこのお役目に?」
「はい。父さんと母さんが、もっと良い暮らしができるようになるって」
少女は無理やりに微笑んだ。
「それに……『日の輝巫女』さまに食べられるより、ずっと名誉なことだって、みんな言ってくれます」
清矢は一瞬、くらりとした。幼子の口にしたあまりにも残虐な真実。魔物が人を食らう。それはあくまで日常からはみ出した悲劇のはず。にもかかわらず、ましろの口調は昔話でも語るように素朴だ。詠が焦って会話に割り込んできた。
「待ってくれよ、食べられるってどういうことだよ……!」
葛葉寛がやんわりと口をはさむ。
「あのね。ふたりとも、質問は慎重にね」
森戸綱手は懐から出した櫛で少女の髪を梳いてやっている。慈しむような声色で言った。
「『海百合党』の中でもこの子は悲惨なんだ。もともと『日の輝巫女』の餌として生まれ、出生届も出してないから戸籍がない」
清矢は唾を飲み込んで口をつぐむ。詠が立ち上がる。
「ふざけんな! 人を魔物の餌にしてたって……大社もどうせグルだったんだろ。『日の輝巫女』なんて、長田千秋と一緒に滅ぼしちまえばいいじゃねぇか!」
葛葉寛は詠を軽くにらんだ。
「滅多なこと言わない。『日の輝巫女』を信仰してる人だっているんだから」
溜息をついて、苦い笑みを浮かべながら内情を漏らす。
「長田千秋さまも、ようやく決心してくれたよ。いくら戸籍があるといっても、百五歳という高齢であの姿は、ヒトじゃありませんと宣言してるようなものだから。犠牲になった人も多い。再封印して依り代を変えなければ、警察も軍も黙っちゃいませんって」
「その後、長田千秋はどうなるんですか?」
清矢は目の前の残酷さから逃げたい気分でそう聞いた。葛葉はややぞんざいに返す。
「魔物の力を失えば、ただの老人です。親族が引き取るか、それとも……どちらにせよ、もう表には出てこられないでしょう」
重い沈黙。ましろが、きっぱりと言った。
「私は、ヒトは食べません」
誰も返事をしなかった。ましろは決まり悪そうに微笑んだ。
「あのね……お願いがあるんです。清矢さま。わたしに、漢字を教えてほしいの。他の巫女さんたちみたいに、少しでも、賢くなりたいから」
葛葉が「それはウチでやってあげるって言ってるでしょ」とあきれ顔だ。
この子は、もしかしたら学校にも行けていないんじゃないか、と痛ましい気持ちになった。
「……いいぜ。本を持ってくるから、少しずつ学んでいこう」
「ありがとうございます! 清矢さま。わたし、お役目、果たします」
無邪気な声がみぞおちを刺してくる。
会話が落ち着くと、森戸は清矢たちを部屋から追い出し、笑顔で手をひらひらと振った。
「今日のところは彼女との顔合わせで終わりだよ」
詠は廊下を歩きながら、周囲を警戒しながら囁いた。
「やばくねぇか。戸籍もない子を生贄に捧げてたとか。清涼殿より酷いぜ」
清矢はうつむいた。
「悪習がなくなるきっかけになればいいんだけどな」
切実な願いだった。詠も深刻にうなずく。
帰宅して、即座にベッドに寝転がる。どうにもまだ、裏があるような気がした。
清矢は律儀な少年である。習い事で多忙な身ながらも、学校帰りに常春殿に一時間だけ寄り、ましろと本を読みはじめた。『エルマーのぼうけん』『トムは真夜中の庭で』『飛ぶ教室』……母に買い与えられた児童書を貸してやる。ましろが音読でつっかえるたびに、小学生用の辞書を引いて、ゆっくりと読みすすめていく。音曲練習室は、ささやかな図書室になった。
ある日、ましろは清矢に摘んできたたんぽぽを差し出した。驚いたが、「押し花にして、大事にするよ」と微笑んだ。
「清矢さまは、ハープも弾けるって聞いてます。恰好いいなぁ……」
ましろは無防備な憧れさえも素直に言葉にする。清矢もこそばゆい気持ちになって、「今度弾いてあげるから」と約束する。
『飛ぶ教室』はちょうど、少年たちの雪合戦のエピソードだ。
文中に出てきた「捕虜」という名詞を辞書で引く。ましろは何気なく尋ねてきた。
「清矢さまは、『日の輝巫女』さまのことが怖いですか?」
「うん、怖いかな。……人を食べるって本当なの?」
ましろは硬い顔でうなずく。
清矢はとうとう聞いてしまった。
「ましろちゃんは、怖くないの?」
「怖いです。でも、私が『日の輝巫女』さまになったら、絶対に誰も食べない。そうすれば、みんなが幸せになれるでしょ」
清矢は彼女を犠牲にすることに根本的に疑問を感じた。そもそも、常春殿はどうして清矢とましろを交流させているのだろう。儀式の際に、ましろの怯えが少しでもマシになるように? その後も引き続き監視をさせるんだろうか。黙って、彼女の頭を優しく撫でた。
そこに、葛葉寛がやってきた。
「葛葉のおじちゃん!」
ましろが顔をほころばせる。葛葉寛は清矢達の傍に座ると、ちゃぶ台に懐紙でくるんだおまんじゅうを乗せた。
「ありがとう!」
「さ、清矢くんもご相伴。『日の輝巫女』さまの器ねぇ。こんなおさな子でいいのか……」
「わたし、お役目は果たしてみせます」
「そう? うーん、どうにか、私が代われたらいいんだけどねぇ」
食欲などなくなってしまった清矢はまんじゅうを持ち帰り、たんぽぽを母の少女漫画に挟んだ。
3 First Love is Over.
術式訓練は、まず『銀針驟雨』という、雨の退魔術からスタートした。
この基本術式に、魔力失効の効果と一族による呪いとが付加される予定である。
術師長・森戸綱手が調練場で解説をする。
「俺も清矢くんも闇属性がないから、聖属性の雨術にしてみた。最初は魔法陣発動からね」
見学に来た公平は「清矢専用かよ、いいなぁ」と貧乏ゆすりをしている。詠はなぜだか緊張しており、年上の銀樹は新技をナメてかかっているような大きな態度。
「雨術ができるかどうかチェックからだよ。清矢くんは白透光宮家の直系。三代目の正徳公は雪も降らせたから、大丈夫だと思うんだけど……ちょっと試してみよう」
清矢は教えられた詠唱を唱え、地面に書かれた魔法陣で術式発動させる。
降り注ぐ雨糸の一本一本に、魔物を刺し貫く冷酷な鋭さが備わり、聖水の清い匂いが鼻をつく。まさに名前の通りである。
「発動したか~。よしよしイイ感じ♪ いやぁ、術式開発は楽しいなぁ」
綱手はニコニコと笑って魔法陣の欠けを直す。
「俺にも開発してよ~!」
公平が無邪気にねだる。
「予算が出ればねっ。あと、神兵隊か国軍に就職してもらうよ? 常春殿開発術で退魔の自営業やられちゃ困るからさ」
「お、俺も……特別な術が欲しい! ちゃんと就職するから!」
詠も身をのりだして森戸に詰め寄った。森戸は得意げだ。
「誰か一人だけの専用だとピーキーだからさぁ。今回のは、ワタシも使える術ってことで! 『天恵雨』の森戸ですから!」
そう言って、ブイサイン。日の本は汎用系魔術の導入こそ遅れがちだが、固有術式で作られた国産術に関しては魔法軍が開発・運用を続けていた。
「森戸さんは、俺が真面目に練習してなくってもぶったりしねぇよな?」
清矢も詠たちの輪に混ざって、生意気に聞く。
「奏さんは厳しいからな……ってか職場で妻の話はやめなさい」
森戸の妻の奏は、清矢のピアノの先生だった。指導は厳しいので有名だ。
「あと、銀樹くんも。やってみて」
風祭銀樹。白透光宮家御庭番の家柄で、清矢よりは五つ年上。大学にはいかず、常春殿に務めた。お株が回ってくるとは思わなかったらしく「え? 俺?」と面食らっている。
「水属性はあるよね?」
「はい、白狼村の人間として有磯神社で海契約したけど…」
「じゃあ銀樹くんも詠唱」
銀樹も術式を発動できたが、水属性のない公平・詠では、何も起こらなかった。清矢はくつくつと笑う。
「やべぇ。これでますます銀樹伝説のヤンキーじゃん」
「あのね……一般人に術は使っちゃダメだよ。家の術で番長に成り上がったってすごくはないじゃん。全員、見習わないでね」
銀樹は気まずそうに後ろ頭をかいた。
「あーはいはい。グレてたのは悪かったよ。清矢サマ守るためだって」
「それ言い訳だろ!」
――その日は『銀針驟雨』発動のみでお開きとなった。今後もしばらくは銀樹とともに雨術の練習をしていくらしい。更衣室で着替えながら、詠が寂しげに呟く。
「銀樹はさ、もともと白透光宮家の御庭番衆だろ。それで、『銀針驟雨』もできる……」
名前をあげられた銀樹が、軽く頭を振った。
「なんだよ詠。嫉妬かい? だけどお前さんは火属性。家が決めてることだろ」
「そうじゃなくて。俺、このままじゃ……置いていかれちまうような気がして」
公平が眼鏡をハンカチでぬぐって、あくびをする。
「気にすんなって。俺もホントは将来神兵隊に務めるかビミョーだし」
清矢は柔らかな表情で、友を励ました。
「だけどお前の火力はすげぇって魔法大のマルコ先生も褒めてたじゃねぇか。俺は火属性の術はできないし、おあいこだよ」
詠は開襟シャツのボタンを閉め終わると、不安そうに言った。
「いや。なんていうかさ。清矢、俺はもういらねぇのか?」
「いらないってことはねぇだろ。味方は一人でも多いほうがいい。な、清矢サマ?」
銀樹は単純な論理で話を流してしまう。清矢はなんだか後ろめたくなり、帰りに詠を誘った。
観光客に人気の甘味屋で、詠はあんみつを頼んでやや肩を小さくしている。
敬文への恋心を告げ、清矢が勝手に恋人関係を終わらせてから、詠は口を聞いてくれなくなった。だが、高二に学年が上がると、清矢の辞書を毎日借りにくるようになった。返すたびに英和辞典に手紙を挟んで、気持ちを伝えてくる。「恋人に戻りたい」「腕がちぎれそうだ」――清矢は「親友じゃダメか」と返事をし続けた。最後に挟まれていたのは単語カードだった。「Lament, Love is Over(愛は終わったと嘆く)」。学校指定の単語帳の例文。それ以来、詠はもう、辞書を借りに来なくなった。代わりに、友人として笑い合える程度に、関係は修復した。少なくとも、清矢はそう思っている。
「おごってもいいよ、詠。お前がいらないなんて決してないから」
気さくに笑って、呼び水をかける。
詠は弾かれるように顔を上げた。
「清矢。俺たち、やりなおせねぇか?」
あまりにもまっすぐに尋ねられた。清矢はドキっとしつつも平静を装う。
「やりなおすって、恋人として?」
詠はうなずいた。頬が赤くなっている。本当に可愛い、と今でも思う。しかし、清矢はすでに別人を選んでしまった。男は将来を舗装して、清矢の手をとって一緒に来てと頼む。明るい道ではないだろうが、行くしかないのだ。
――それだけか?
もう答えは出ていた。頬を撫でられる、抱きしめられる。包み込まれる、愛される。受け身の幸せというものを、敬文は存分に与えてくれる。詠とは、春風の中を、どこまでも走っていけるような気がしていた。敬文のくれる、わずかな夏の苦味が香る、温かな陰影は……全然別物だったが、清矢の歪な部分に怖いほどぴったりと寄り添った。
恋っていうのも果たして残酷なものだ。今は詠といるのに、あの人の不在が苦しい。清矢は困り笑いで諭した。
「詠。敬文とはたしかに今、離れ離れだけど……でもやっぱ、逢うと嬉しいし、俺は恋してるなって思うんだ。そんな状態で、詠とやり直すなんて変だろ。俺たちって、キスしてなきゃ、ダメなのか? 詠が俺以外の相手選んで幸せになるの、俺は応援できるよ」
詠は会話のキャッチボールを無視して、やぶからぼうに聞いてきた。
「敬文さんとは、キスしてんのか」
清矢はうつむいて、何と答えようか迷う。敬文と清矢は年齢差がある。高校生と退魔科少尉だ。世間に問うたら、三分の二くらいは否定してきそうだった。
詠が言いふらしたら、敬文の立場が悪くなるかもしれない。そこまで考えが至って、清矢は完全に自分の本心に気づいた。
「キス……してる。だけど、言いふらさないでくれ」
頼み込む声はかぼそかった。詠はたっぷり黙って、お冷を飲み干す。
「わかったぜ。でも、敬文さんが清矢を傷つけたら、そん時は俺が許さねぇ」
「……ありがと、詠。そんでさ、ついでだから言っておくんだけど……」
清矢は深呼吸して自分も隠していた想いを伝えた。
「『日の輝巫女』再封印の儀式には、参加しないでほしい」
詠はてっきり怒るかと思ったが、あんみつに手を出しながら聞いてきた。
「どうしてだ? 危険だからか?」
「そうだ。常春殿でのお付きを頼んじゃってて悪いけど、儀式、たぶん危険だと思う」
詠は無言であんみつを平らげた。じっくり腕組みをして考えたあと、思いもよらない問いを発した。
「俺が弱いからか」
「違う。詠は充分、強えよ。でも、傷ついたら俺、動揺しちまうだろうし……」
「それは敬文さんでも同じじゃねぇか? 清矢の心の問題だろ」
「詠はまだ高校生だ。儀式に引きずり出されるのは俺だけでいいよ」
「清矢だって同い年だろ。だけどさ……駄々こねて付いていっても何もねぇんだろうな」
清矢は心の曇りが晴れたような気がした。自分が注文したバニラアイスが溶けるのもかまわず、熱弁する。
「そうだよ、詠。確かに儀式に参加すれば、常春殿や大社のいろんな秘密が分かる。だけど危険だ。何か裏まであるかもしれない。俺、その時に詠のことまで失っていたくないんだ。それに……これ以上高校生を政治に引っ張り込む前例、作りたくねぇよ」
「ただでさえ『ましろ』が次の『日の輝巫女』になるっていう曰く付きの儀式だもんな」
詠は真剣な顔で清矢を見つめていた。手のひらを制止するように突き出し、結論する。
「わかったぜ。今回ばかりは引いておく。だけど、代わりに敬文さん、清矢のこと守るんだよな? それが出来ないなら、俺だって黙っちゃいられねぇぜ」
清矢ははっと気づき、「そう……だな。敬文に電話して確認してみる」と答えた。
常春殿での術式修行について、細かく連絡をとっておくべきだ。まさか、詠に気づかされるなんて。
その晩、清矢は敬文に電話してみた。
彼が国軍に戻って帝都に行ってしまってから、週一程度の習慣だった。しかしながら、たいてい敬文の「清矢くん俺今日疲れたよ……お願いだから『ケイブン大好き』って超可愛く言って!」というような他愛なさすぎる要求に面白がって応えているだけで時間が過ぎていった。IQの下がったやりとりは楽しく、重苦しい現実を忘れさせてくれたが、今日は真面目な報告をしないといけない。
呼び出しベルが鳴り、期待と不安で胸が高鳴る。
「清矢くん、どうした」
今日の敬文は勤務もさほど辛くなかったのかわりとまともだった。
「うん。術式、練習させられてる。まずは雨の退魔術で『銀針驟雨』っていうやつ。どーも、森戸さんが『天恵雨』っていう回復術の家柄だからじゃねーかって思うんだけど……」
「じゃあ完成するのも雨術になるのかな」
「そうなるんじゃない? 国軍か魔法軍に就職しろって言われちゃったけど……」
世間話の流れの中で、重要な情報がさりげなく確認される。ましろと交流してることに関しては、「儀式の前に互いに慣れさせておこうって腹かな。良い子に見えても『海百合党』だから、ほどほどにした方がいいけど」。詠が儀式から一歩引いてくれることに関しては「よかった。『日の輝巫女』が当日暴れないとも限らない。万一を考えて、俺も含めて多数の護衛がつく予定だけど、心配の種は少ない方がいい」と相変わらず清矢びいきの意見だった。このヒトは、確実に計算できる味方のひとりなんだ。
「それでさ、清矢くん」
敬文の声が用心深く低くなった。
「魔力失効術なんだけど……俺が実験台になる」
耳元で囁かれたその言葉は、清矢の脳天を冷たく射抜いた。
「え?」
「ヒト相手での確認は必要だから。森戸さんと冬宮が立ち会う予定だ」
「そんな、敬文……大丈夫なの?」
「気にしないで……って言っても、優しい君じゃあ、無理だろうけど」
声は励ますように明るい。清矢はか弱い少女みたいな気持ちでだだをこねた。
「やだよ敬文……俺、敬文を傷つけるなんて」
「大丈夫だよ。療養の時間はとってもらえるし、その間は陶春にいる。君が看病してくれるならそれで充分だよ」
まるで何でもないことのように言い聞かせてくる。献身の重さに清矢は泣きたくなった。
「敬文、俺無理だよ。だって、魔力がなくなっちゃったらどうするの?」
「解呪の実験もまとめてする予定だよ。『新月刀』の代替術式だから、蘭堂宮家も注目してる。緊張するだろうけど、清矢くんなら問題ない」
そう言いきった後に、わざと甘ったるく、いつもみたいにデレてきた。
「うさぎ林檎、食べさせてほしいな。形が悪くってもいいから、清矢くんが剥いたやつを」
「敬文、そんなこと言ってる場合じゃないでしょ?」
「他の誰かが買って出て君に想いをかけられるのが嫌なのさ。無関係な誰かだって批判のタネになる。俺ならその心配はないんだから」
敬文は問題を恋愛の領域に落とし込んで矮小化し、「じゃあね、清矢くん」と電話を切ってしまった。ツーツーという無機質な切断音に、憎らしささえ覚える。清矢は受話器を置き、しばらく廊下に立ち尽くして動けなかった。
4 嘆きの雨よ、降り注げ!
冷たい手術台の上に乗せられる。
局所麻酔をかけられて背中に彫り物をされる。
清矢が体に刻む術式はこれで二つめだ。最初のは『破邪の雷』。ばあちゃんの家系の付き合いと、魔物への自衛ってことで夜空がいなくなってすぐに右肩に埋められた。
次は今施術している『嘆きの雨』。
白透光宮季徳による血族の呪いと、魔力を洗い流す聖属性の雨術を組み合わせた長大な術式だ。手術が終わってもうつぶせで寝ていなくてはならなくて、麻酔がとけた後のズキズキする痛みから気を逸らすために里見八犬伝の犬士たちを一から数えたりした。
『破邪の雷』は退魔術。
だけど『嘆きの雨』は……人にふるう断罪の武器。祈月家が失った『新月刀』の代わりの魔力失効術。
友達たちには何も、話していない。もともと軍機でもある。
とうに一学期は終わっていた。
一週間前の修了日、部活に入っていない清矢は友達と喫茶店に行き、打ち上げとしゃれ込んだ。みんな、パフェやアイスカフェオレで涼をとって成績を愚痴りあっている。「清矢くん、俺に物理教えてくれよ~」と泣きが入っている詠。広大は「俺っち、魔法大への進学をあきらめて、音大の準備にシフトするべきかも」と深刻ぶる。徹も同じく「俺は数学ってやつを憎んでる。でもこれが出来なきゃ文系でセールスマンになるしかないじゃねーかよーー!」と叫び、ちょい気の弱い冴草くんは「僕は歴史家になる予定だし、日本史専攻するから、英語は必要ない」と意外にも開き直っていた。
そんな中、ひとり愛想笑いだけして場をやり過ごしていたのが清矢だ。詠は「清矢、数学と英語の評価、五かよ! やばくねぇ?」と成績表を覗き込んでおののき、徹は「清矢ってそういうとこあるよな~。えっ、大問2解けなかったの? 三角関数の基礎問じゃん? みたいな」。冴草くんは「僕も清矢くんのそういう所、たまに呆れる」とハッキリ言った。
――だって勉強さえしてればみんな褒めてくれるだろ? それが清矢が言いたくてもこらえたことだった。この術式埋め込みもそれとおんなじことなんだ。そう自分を納得させたかった。
「清矢は夏休み、どっか行くの?」と呑気に聞いてきた徹に、「どこにも」と愛想なく答える。徹は気まずそうに黙り込んだ。冴草くんは「あのさー清矢くん。空気とか読もうよ、そんなにバッサリやらずに」と生真面目な苦言を呈し、広大は「俺っちは、九州行く」と浮わついている。
ああ、でも、瞼を閉じればあの穏やかなのに少し殺伐とした男の、悲しそうな佇まいが思い出される。憂いのある整った顔立ちで、体躯はわりと大きくて、優しい声で清矢を恋へと誘い込む、甘い毒みたいな守ってくれる人。
敬文にこの術式を叩き込む。
遠い国では、子供を兵士として使うときに、まず親を殺させると聞く。そこまで恐ろしくもないけど、趣味が悪いのはどっこいどっこいだった。
三日程度で手術の痛みは引いた。母は険しい顔でずっと傍にいてくれた。ばあちゃんも、『破邪の雷』を入れた時より深刻そうだった。
「清矢。お役目のことだけど、やっぱり結城先生に代わってもらったらどうだい。三代目・正徳公までなら、祖先も共通だ」
「ばあちゃん、もう遅いよ。それに結城先生だって結婚したばっかりだろ」
「夜空が『新月刀』を持っていっちまったせいで、清矢がこんな扱いになるとはね……あたしゃ、今更情けないよ」
じゃあ、実験台の人選をやりなおしてよ。そう訴えたかったが、しょせん耀の嫁ではいかんともしがたい。誰か別の人物だったらいいのに、と思ったが、それはそれで酷い考えなんだろうと、必死に悪態をこらえた。
清矢の祈りは届かず、退院の際にはなんと敬文が会いに来た。
「清矢くん。大丈夫? 手術は終わったって聞いたけど……」
「大丈夫だったみたい。問題があるようならすぐに中止させるって、愛野先生もおっしゃってくれてる」
昨年護衛代わりに滞在してもらったことで、すっかり気を許した母が伝える。清矢は負い目で甘えられない。だが、敬文は家族の前なのに清矢の前髪をそっと手櫛でかきあげた。
「深く気に病むことないよ。魔物に攻撃されるより君からのほうがずっと楽だ」
「敬文!」
たまらず、胴に抱きつく。身体が武器になったおぞましさを忘れさせてほしかった。どうも敬文の前では清矢はいつもより子供っぽくなるみたいだった。
実験は三日後に行われた。常春殿地下の、特別実験室。そこは、冷たい蛍光灯に照らされた空間。 壁一面には魔力を数値化するオシロスコープが並び、中央には手術台のような処置台が置かれている。
目の前に特殊防護服を着た敬文が引き出されてくる。術者の清矢が動揺することを恐れて、目隠しをされている。暴れないように後ろ手に手錠までかけられ、まるで罪人だ。清矢はごくりと唾を飲み込み、祖父・耀譲りの神兵隊特別兵の鎧を着せられて、二メートル半離れた場所から詠唱する。体内の魔法陣がその語の連なりに反応し、術が使い手の意思により発動する。
「我が一族の怒りと恨みよ、数多の白雲として凝集せよ。大和は国のまほろば、我がふるさとを蹂躙した、白き雨よ、透徹な光よ、桜花の名の下に砕けし魂……我らの切なる願いを叶え、魔素を洗い流し、ありし日の人に返せ。降り注げ、嘆きの雨よ!」
皇統を叔父に奪われ、この地で宮として魔法政策を進める立場となった、二代目季徳。彼の人の恨みつらみが移ったような詠唱である。そう唱えた瞬間、体じゅうの血がさっと抜けていくような感覚に、息が詰まった。
ザッ――と周囲の魔素がおぞましく反応した。気配の高まりはもはや物理的な質量を伴い、空間そのものをきしませた。
そして、銀針驟雨に似た銀白色の雨が、犠牲者を斬りつけた。
空気が澱み、半径一メートルほどの範囲で容赦なく降り注ぐ。白く、透明に、光り輝く雨糸の影は暗く、濃く、刻まれる呪いが自分の眼にも焼き付くようだ。
敬文は背をまるめ、息を荒げているが、激しい雨音にまぎれて呻き声も聞こえない。輪郭さえもけぶる雨に隠されてブレて見える。清矢は吐き気がした。喉奥が嫌な感じに焼け、我慢しようとしても涙がにじんでくる。今すぐ自分もその檻の内側に入って、抱きしめてかばってやりたい。世の中の非道を告発し、神のような存在に救われたい。
だが、至極殿の精兵に守られた冬宮と、森戸術師長、そして常春殿神官長など、要人の見守る中で、そんな無謀な行動には出られなかった。
世にも清らかで無情なシャワーが終わると、濡れネズミの敬文がいた。実験室には、電子機器のビープ音だけが響く。物理ダメージは抑えられ、ただ敬文の魔力だけがきれいに洗い流されていた。清潔そうなオゾンの匂い。森戸術師長が感情なく述べる。「魔力減衰、確認。計測結果、0.23ルーン」。それは一般人よりもはるかに低い危険値だった。事前に計った結果では、清矢は312ルーン。敬文は276ルーンはあったはずだ。
「ほぼ全失効だな。素晴らしい術式だ!」
冬宮の感嘆の声に、清矢の憎しみが搔き立てられた。森戸術師長は「今後十日間、回復術を使わず様子を見ます。敬文さん、話せますか? 魔素ダメージはかなり強いはず」と呼び掛けた。伊藤敬文ははぁはぁと息を荒げながらも、「大丈夫。強烈にだるいだけです。動くのは、無理そうだけど……」と返事をしてみせた。救護班が傍について、被害者を連れて行く。清矢はは、と息をついて、自分の手のひらをまじまじと見た。ぐらりと地面が揺らいで、思わず足指に力が入る。
冬宮は勲章をつけた紺基調の軍服を着ていた。至極殿の美々しい戦装束。清矢の肩を叩き、愛でるような視線で激励する。
「祈月清矢。見事だった。やがて逃亡中の夜空にも、この術式を見舞ってやりたいものだな」
「……はい」
清矢は褒められて涙ぐみながらも返事をしてしまった。敬文! 敬文! 敬文! 本音では何もかも放り出して被害者に抱きついて泣きじゃくりたかった。後ろで見張っていた葛葉寛が清矢を別室に連れていく。そして、水と睡眠薬をくれた。清矢はすがるように薬を飲み干した。
その日は常春殿の救護室で休ませられた。強大な術式は清矢の魔力の八割を消耗し、また精神的ショックも大きかった。医師免許を持つ陶春魔法大の教授、愛野京が詰めてくれた。
十日後、陶春大医学部に入院した敬文との面会が許された。敬文は個室を与えられており、清矢を見ると浴衣姿で起き上がった。タッパ―に入れて持ってきた、不格好なうさぎ林檎を見せる。
「俺が作ったんだ。母さんに習って……敬文、食べれる? 大丈夫?」
「体力のほうは平気。でも、魔力はダメだな。まるで血がこごったみたいだよ。清矢くん……こっちにおいで」
清矢は素直に敬文のベッドに座る。敬文は軽くその体を抱く。
「会えてよかった。明日は解呪式だ。たぶん、ラクになるだろうね」
「敬文……うさぎ林檎、食べないの?」
清矢はそう言って、フォークにさしてうさぎ林檎を敬文の口元に持っていく。敬文の頬がわかりやすくゆるむ。
「えへへへへ……恋人に『あーん』してもらえるなんてね。どれどれ、美味しいかな」
そう言ってかりっとうさぎのお尻をかじり、咀嚼した。わざとデレデレしている姿を見ているとまた泣きたくなってきて、清矢は素直に謝る。
「敬文、ごめん。俺のせいで……!」
敬文は皮ごと林檎を食べ終わると、口をぬぐってタッパーをベッドサイドに置き、仰向けに寝転がって清矢の首を捕まえた。清矢は敬文を見下ろす。
「謝らないで。これは俺の選択だよ。それに、君の方が傷ついてる」
そう言って、清矢の半そでシャツのボタンをはずしていった。性的なふれあいかと思い、ドキドキする。
「敬文……?」
「背中、見せて。術式の痕、痛まないか確認したいんだ」
熱のにじまない、いつもの優しい声だった。清矢は素直にシャツを脱ぐ。敬文の指先が、背中に刻まれた『嘆きの雨』の魔法陣をなぞる。
「……痛い?」
「少しだけ」
「清矢くん。辛かったね。俺こそ本当にごめん」
敬文はそう言って清矢を抱きこんだ。心臓がじくりと痛む。でもその痛みは、甘い熱まで帯びていた。
「愛してる」
その言葉は細いチェーンのように清矢の心にもつれた。拘束が心地よく、愛情がせりあがってきて、清矢は自分から敬文にキスした。しゅっとした頬にも、髭でざらついた顎にも。
敬文は目を細めて微笑んだ。
「ずるいな。俺、まだ魔力戻ってないから、力が入らないんだよ」
「敬文……俺ね、もう人相手にこんなこと、したくないよ」
この人には、弱音を吐いてよかった。
「そうだね、たとえ罪人であっても……そのためには魔法軍じゃなく、俺のいる国軍退魔科に来たほうがいいのかもしれない」
「『新月刀』がなくても、こういうことはさせられるんだよね」
「それが血の呪縛、ってやつなのかな。清矢くん、無理なら、逃げてもいいよ。術式は代わりに結城先生にやってもらってさ」
「敬文、本気で言ってるの?」
清矢は敬文から体を離し、彼の顔を覗き込んだ。この時点で音を上げれば、冬宮はどう思うだろう。父も困るだろう。いきなりお株が回ってくる結城博士だって、清矢に呆れるだろう。
敬文は清矢の目を見つめ返す。その目には、抗いがたい苦悩が浮かんでいた。
「本気だよ。この儀式は、清矢くんや、ましろちゃんにとって、名誉ある役目なんかじゃない」
敬文は清矢の背中にある魔法陣をそっと撫でた。
「長田千秋の内にいる魔物をましろちゃんに移した直後、『海百合党』は根絶される。それが、軍と大社の裏の取り決めだ」
清矢の呼吸が止まった。ましろの「父さんや母さんがもっと裕福な暮らしをできるから」という無邪気な言葉が、脳内で薄っぺらく反転する。
「裏があるとは思ってたけど……ましろちゃんの親は、裕福になるんじゃないんだな」
「真っ赤なウソだよ。軍が狙ってるのは『日の輝巫女』体制の完全な崩壊。再封印は、そのトリガーに過ぎない。ましろちゃんの親族だって魔族だから、巻き添えになって結局は……」
敬文は清矢の手を握りしめ、苦痛に顔を歪ませた。
「この真実をどうしても打ち明けたかったから、実験台を買って出たんだ。『退魔の夜』作戦……これこそが最大級の機密」
敬文はそこまで言い切って、清矢のけもみみにそっと囁いてきた。
「清矢くん、やっぱり辞退しよう。罪を背負うにしてもこれは重すぎる」
清矢は押し黙り、カーゴパンツも脱ぎ捨てて、下着まで脱いで裸になった。「ちょっと、何してるんだ」と敬文があわてる。清矢はそのまま敬文の上に覆いかぶさる。
「敬文はさ、俺のこと可愛いって言うよね。なら、抱ける?」
「今はそういうシーンじゃなかったろ。ふざけてもごまかされないよ」
「逃げるって言うなら、抱いてよ。俺を完全にあなたの恋人にして」
「無理だよ、十七歳と寝る趣味はない」
「嘘つき」
清矢はそう突き放して、敬文の首に浮いた腱を舐める。
「だって逃げるって……そうしたら俺は何になればいいの。俺ひとりがボイコットしたって何も止まらない。ただ敬文とふたり、本物の裏通りに落ちてくだけでしょ」
月華神殿で、充希に言われた時は、まだ逃げてもその先に居場所があった。でも、今の俺には、敬文の腕の中にしか安住の地はない。逃げたって、愛しい人の魔力を奪った手の汚れが消えるわけでもない。清矢の目はぎらついていた。敬文は一瞬、清矢の裸の腰に触れたが、悔しそうに舌打ちして、強弁する。
「じゃあ俺は、君を再度罪にまみれさせるっていうのか? 無理だよ、その上ホントに抱けなんて……どこまで最低になれって言うんだ」
「ふたりで、だよ。俺だって選ぶんだ。何も犠牲にせずに平穏っていう果実を手に入れるわけにはいかない。共犯者ってそういうことでしょ?」
敬文の話した真実は血塗られていたが、だからって『日の輝巫女』を野放しにしてもおけなかった。ならば、敬文とともに錘をつけて沈んで、ともに罪に溺れるまでだ。
それにもう一つの懸念。あの浜辺で、敬文が約束してくれなかった未来。
「だって俺、おんなのこじゃないもの……敬文のお嫁さんになれば一生守ってもらえる、ってわけじゃない。とことん行くしかないよ」
その台詞は敬文を打ちのめしたみたいだった。彼は短く溜息をつく。そしておでこにキスして、両腕の中に閉じ込めた。剥き出しの背中を慈しむようにゆっくりとなぞる。罪の刻印に触れられている。清矢の尾てい骨のあたりがツン、とひきつった。
「……君の覚悟はわかった。みんなが何を言っても、俺だけは味方だから」
儀式本番を前に、心は決めておきたかった。何せ相手は百歳越えの魔族。怯えて迷っていては、きっと祖父みたいに陥れられる。
清矢は敬文の肩に顔をうずめた。
「地獄行きだよ、マイダーリン」
耳元に甘く囁くと、敬文は強く抱きすくめて何度も頬ずりをしてきた。
5 執行前の休暇
それから四か月後、十一月末。
儀式の三日前、よく晴れた初冬の日に、ふたたび望月充希がやってきた。充希は祖父に付き添われ、「やっ、清矢くん」と笑った。その軽い態度に、清矢は和ませられた。
さくらばあちゃんが、充希のじいちゃんとの再会を喜んでいる。
「御剣さん! いやぁ、久しぶりだねぇ」
「さくらさんも相変わらず美人だね。へぇ、あなたが源蔵の嫁さんか。ずいぶんなお嬢だって聞いてたけど……」
「やだ、お嬢は昔の話よ。ホントにあたし、昔は卵かけごはんぐらいしか作れなくって」
「和食はいまだにあたしが監督してるよ。調理師免許持ちをバカにするなってんだ」
大人たちは政治の話などせず、居間で酒盛りを始めている。
……でも、充希自身は何を思って作戦に参加してるんだろう? 清矢は充希を外出に誘った。「ふたりとも、あまり羽目を外すなよ」。充希の祖父が釘を刺す。
と言っても、誰が聞き耳を立てているかわからない街で作戦の詳細なんか話すわけにはいかない。結局、火喜山に行くことになった。「えぇー、一戦前にカゲウサギ倒しますって? ま、肩慣らしにはいいけど。清矢くんとの共闘も久々だもんね」と充希は笑い、背中に日本刀を背負う。
もちろん狙いは密談だ。中腹の休憩所まで魔物を適当に蹴散らし、よく晴れた空の下、作ってもらったおにぎりを頬張った。チェック柄の水筒から熱いほうじ茶を呑んで、とんびが舞うのをゆっくりと見る。季節はまた冬に向かっていた。乾いた蒼天を、所在なさげに飛び回る鳥。清矢は、頃合いと思い本題を切り出した。
「充希は、自分が政治の道具になってるって意識ある?」
「まぁね。清矢くん、それが辛くなってきたの?」
充希の答えはあっさりしていた。清矢はうなずき、話しはじめた。
「だって俺たちって本当は高校生だろ。こんな、時代の渦に巻き込まれてさ……」
「それがイヤならずっと逃げてりゃよかったじゃん」
さばさばと割り切った答えに、清矢は驚きを感じた。
「充希はそれでもいいの?」
「俺だって耀さまのパートナーだった御剣の孫だよん?」
充希はそう言って、木製のベンチに座りなおした。
「誰かがやらなきゃでしょ。今更父親や祖父ちゃんって……そんな時代でもない。俺にとってアルカディア魔法大への留学はチャンス。見返りは欲しいし、『日の輝巫女』や『永帝』を倒すためにはある程度悲しいのも仕方ない」
「……ホントは俺、めっちゃ悩んでる」
鬱屈とした内心を打ち明けると、充希は目を丸くして真顔になった。
「そうなんだ。だけど今更辞退はできないよね。っていうか、分かってる? 百年以上も日の本を荒らしてきた、大麗由来のD兵器を、ようやく無力化できるんだよ?」
それは大儀だった。最近、使命を説く者がいなかったので、目が覚めた気がする。
「手段が悪い、っていう批判もあるかもしれない。けどね、時計の針は進めなきゃいけないよ。俺はそのための刃だから。お国からしたらそんなもんだし、魔族を政治から排除できたなら万々歳じゃん」
落ち着いて考えれば充希は正しい。だけど、胸の中には違和感が残った。
「でも、ましろちゃんは? 彼女も魔族だから、犠牲になっていい?」
「ましろちゃんって?」
「次の『日の輝巫女』の器」
充希はふっと笑って、空を見上げた。その横顔は、十代の少年というには老成して見えた。まぶしそうに目を細めて、優しい声で諭す。
「犠牲になる人たちがいるってことだけは、覚えておこうよ。俺たちが道具として使われる。それでいいんだ。ただ、記憶だけは、誰にも奪われない」
「覚えておいて……それでどうすんの」
「ペンディング」
充希は一言で答えて、向き直った。
「将来何になるか、は分かんない。俺もさ、結城先生みたいに魔法の学者になってもいいかなって思うしね。何も国軍や魔法軍だけが人生じゃなし……」
ベンチに両手をついて、かかとで地面を蹴る。顔を上げると、ニッと歯を見せて笑った。
「でも、今回の件は、これからを考える材料でしょ。俺は、答えを出すのは大人になってからでもいいって思ってる」
「間違いだった、って結論で悔やんでも?」
「何もしないよりはいい。俺たちが大人になって、それが間違いだった時に、世界に裁きを下すのが、俺たちの記憶」
ちょっと冷ややかに言いきって、充希は背伸びした。
「そういや詠ちゃんは? 一緒にいないの?」
清矢は敬文から「詠は巻き込むな」と言われ、自分もそれに同意したことを話した。充希は首をかしげた。
「ま、今回ばかりは詠ちゃんも控えのほうがいいよね。でも俺たちも成長するよ。その時まで、敬文さんの甘やかし論理で何もかも押しとどめられるとは思わないけど」
「……そうだな。いつまでも守られてるだけじゃダメだ」
「詠ちゃんまでは、清矢くんの『良心』が許さなかったってことね。案外、それがパンドラの箱の底に残った最後の『希望』なのかも?」
背筋を正された気分だった。拳を握り、じっと見つめる。
「そうそう。あんまりウジウジしてると、清矢くんのこと置いてっちゃうよ?」
充希は楽しそうに笑い、片付けをして山を下り始めた。
6 儀式と危機
三日後、常春殿の地下四階にある〈桜花晶の間〉で儀式は行われた。壁材には秘密物質アルカヌム、つまり、「卑俗ならざるメルクリウス」と呼ばれる魔素を通す素材が錬成されていた。
封印陣・転移陣・天候陣・血印式……四方の壁には、古式術式が折り重なり、一定のリズムで光脈が明滅を繰り返す。まるで、人体を縦横につなぐ血管のようだ。 『桜花晶』は声もなく、内部の永久機関を巡らせて、膨大な魔力を軍事基地全体に脈動させている。
部屋の中心に鎮座するのが、『桜花晶』――一辺三メートルもの巨大な立方晶の魔石だった。淡紅の波紋を空間全体に放ちながら、日本国固有の術式を刻んだ面が時おり淡い白色に光る。国防術を増幅する、文字通り軍事施設の心臓だ。
術師長の森戸綱手が、手袋をはめて回路を操作する。
空間の外周には、至極殿の精鋭二十四名が立ち並び、黒田錦が指揮を執っている。
前方には、モノトーンの月華神殿神兵装束に身を包んだ望月充希が、敬虔に膝をついている。清矢は並んで立膝で座りこんだ。祖父・耀の着ていた鎧を装備している。
重々しい沈黙のなかで、桜花晶が低く唸った。
「キュウマルマルマル、降魔封印儀式開始」
至極殿の兵たちの列が二つに割れ、ひたり、と控えめな足音がした。葛葉寛が一礼し、後ろに立つのは――神事用の帷子を身にまとい、五色の組紐を帯に結わえた、『日の輝巫女』その人だ。獣耳と尾のない、ホモ・サピエンスの似姿。前髪を眉下で切りそろえ、長い黒髪を背に流した彼女は、天女のように悠然と歩いてくる。中心に作られた祭壇に立つと、場の空気を気にせず、ばさりと帷子を脱ぎすてた。三十代の豊満な肢体が真珠色に輝く。その裸身には、式の文様が刻まれている。朱と白の混じる線が、身体に宿る魔力を導いていた。
「清矢、久しぶりやねぇ。六年ぶり、いや、七年かしら? 季徳公は、私がこうなることを知っていたんよ」
「……え?」
話しかけられた清矢は怪訝な顔で彼女を見あげた。確かに、六年前。大社で迷った折に、詠とふたりで襲われたことがある。彼女は意地悪い笑みを浮かべ、皮肉な口調で語った。
「七十年近く前、『博麗王』を封じるため、私は器となった。永帝と季徳公は『国のため』とのたまうた。そして私を置き去りにした。半世紀の孤独を、ただひとり」
自分勝手な憐憫を、森戸術師長の低い声が切り裂く。
「あなたは祈月耀様を殺した。久雄大佐の父も殺した。孤独などと言いながら、人を魅了し、かしづかせて、その命を食らってきた」
「そうしないと生きられへんかったからな。ホモ・ファシウスかて、同じやろ? 魚や豚を食うとるやん。あの子が、私の罪まで引き継ぐ……うふふ、素敵だこと」
裸の女は、葛葉の背後に隠れている帷子姿のましろを見つめ、冷笑した。
清矢は『日の輝巫女』を、いや、長田千秋という女を睨みつけた。彼女は祖父の仇だ――『海百合党』を従え、政治的にも力を持ち、対抗する人物を殺した。それだけでなく、ましろのようないたいけな存在まで、何人も手にかけてきた。
葛葉寛がしかめつらしく礼をする。
「それでは、望月殿。よろしくお願いいたします」
「了解!」
充希がニッと笑って立ち上がり、『満月刀』を青い鞘から抜き放った。そして、鈍色にきらめく刃で、自らの喉笛を一文字に掻っ切る。血が噴出し、充希はくらりとのけぞる。だが、みるみるうちに傷は癒えていく。これが『満月刀』の真なる力! 彼は、呪いの力を統べる代償に、自らの声を差し出したのだ! 血走った眼ざしで充希が堂々名乗りを上げる。その声は、以前のつやのあるテノールではなく、酒焼けしたようにしゃがれている。
「我こそは望月家の新たなる当主、望月充希! 儀式を終えた今、『満月刀』の主として、血脈を受け継ぎ命ず!」
暴風のような激しさだった。地を蹴った充希は、長田千秋の胸元へと肉薄し、その刃を深々と突き立てた。
「全魔力接収!」
千秋の裸体が激しく震え、膨大な魔力が『満月刀』へと逆流していく。絶叫すら上げられぬままうずくまる千秋。充希が小刀の柄にあるからくり窓を弾いて開け、清矢へと見せつけた。
「新月まではあと何夜?」
「新月だ! 容量限界!」
中窓の中の月紋は、満月から削り取られ、今や限界まで痩せ細った新月となっている。だが、百年を生きる魔族の執念は、それしきでは枯れなかった。千秋は歪な笑みを浮かべたまま立ち上がり、無防備な充希へ死の抱擁をせんと躍りかかる。
「……させるか!」
清矢が掌をかかげ、術式の詠唱を始める。祖父を殺し、ましろを嘲笑い、自分たちの運命を弄ぶこの女に、最後の断罪を与えるために。
室内に白雲が集まり、魔素が力となって超常現象に凝縮する。『日の輝巫女』は異常を検知、恐るべき怪力で充希を壁に突き飛ばすと、清矢に躍りかかってきた。敬文が即座にアサルトライフルを構えて命じる。
「援護射撃、開始!」
敬文の号令が裂帛の気合を伴って響き渡る。狙いは極めて精密だ、清矢の背後から、退魔科の精鋭たちが放つ銀弾が千秋の肢体を壊していく。肘を、喉を、頭を、無残に貫かれた女の肉体は、それでもなお目覚ましい速度で再生と崩壊を繰り返した。女は清矢の方へ空しく指先を伸ばしている。
「夢幻結界、凍陣! 『日の輝巫女』、常闇の炎の契約者よ、永劫の氷殿で凍えよ!」
「撃ち方やめ! 術式S-58展開確認!」
魔物の処理班たちの指示に一切の慈悲はない。清矢は兵たちに助けられながら詠唱を完了させ、金切声で叫んだ。
「……嘆きの雨よ、降り注げ!」
体内の術式が、病的な熱を持って稼働する。天井部に雲としてたくわえられた雨粒がついに決壊して降り注ぐ。世代を超えた業と憎しみの総決算だ。冷たいカルキに似た匂い。聖属性の呪いのみそぎ。
「あ、ああああああああッ!」
長田は痛みに耐えきれないのか、胴をかきむしった。黒田錦が快哉を叫ぶ。
「よくやった清矢! 皆の者、我らもやるぞ!」
至極殿神兵隊が汎用系闇魔術『ノクターヴァ』を一斉に発動した。清矢の放った垂直な銀光と、兵たちが紡ぐどろりとした闇が、聖邪の化身を破壊するためにもつれあう。
そして長田の肉体は『博麗王』という圧倒的な魔をとどめる力を喪失した。
割けた腹部から鮮血の代わりに溢れ出したのは、底なしの虚無を溶かしたような、どす黒い流体。それが至極殿の兵たちが放った闇属性魔術を貪欲に吸収し、痙攣しながらのたくって、天井を突き破るほどの質量へと膨張していく。降りかかる雨糸を瞬時に蒸発させながら、巨大な蛇の姿へとわだかまる。三対の金色の瞳がぎょろりと兵たちを睨みつけた。
「……『博麗王』……!」
誰かが恐怖を押し殺した声で呟いた。
「いかん! 完全に顕現がなされるとは! ましろでは荷が重い、私が、新たな器となります!」
葛葉寛が決然と言った。祭壇にせかせかと進み出ると、抜け殻となった長田千秋を慎重に抱き起こす。彼女の足は魚類のひれのように溶けくずれて、魔物の尾と無残につながっていた。ほんの二十分前まで発散していた匂うほどの妖艶さは消えはて、百五歳相応に老いさらばえた、ただの残骸になっている。虚ろな目から流れ落ちた涙の痕が頬を伝っている。
ましろが「葛葉のおじちゃん!」と悲痛な声で叫ぶ。葛葉は気にもかけず、穏やかな表情で長田千秋に話しかけた。
「千秋さま。お役目をとうとう果たされましたな。私がお迎えに参りました」
その眼差しは何の感情によるものか、熱く潤んでいた。老婆の目は焦点が定まらず、口元からは黒い血が滴り落ちている。『博麗王』の蛇体だけが、しらじらと不気味にうごめいていた。葛葉は老婆の額に自らの額を寄せる。
「『日の輝巫女』と呼ばれた女よ。そなたの愛した男の末裔と、今交わらん」
葛葉は老婆の枯れた唇に自らの唇を重ね、静かに息を吹き込んだ。愛のためではなく、ウケイと呼ばれる儀式である。魂を削り、肉体をいう器を差し出すという聖なる誓い。
キスを終えると、葛葉は長田千秋を床に横たえた。立膝のまま、隠し持っていた守り刀で手首を切る。彼は老婆の口元に手首を持っていってその血を舌になすりつける。降魔封印術の最終段階だ。予想外の成り行きだが、全員が固唾を飲んで見守っている。
「『博麗王』、我が血液に導かれよ。汝の力を、新たな依り代に同化させん」
葛葉の体からカッと白光が放たれ、老婆の体からは黒紫色の霧が立ち昇った。『博麗王』のシルエットが霧に巻かれて徐々に縮小していき、人体という、か弱くも精緻な檻に引きずり込まれていく。
百十六年前に大麗から送り込まれたD兵器『博麗王』――嘉徳親王たちが命がけで討伐し、六九年前に長田千秋がその身に取り込み、そして順和二十八年の今、ふたたび封印される大妖蛇。一世紀の封印が往時の力を奪ったか、「クォオオン」という哀愁を帯びた鳴き声を残して、その姿が見えなくなる。ましろが葛葉にダッと駆け寄り、丸まった背にしがみついた。
葛葉は荒い呼吸を整え、ましろの身体に捕まって、のっそりと立ち上がった。ホモ・ファシウス狐亜種の証である獣耳と豊かな尾はなくなってしまっていた。その目もまた、爬虫類のような縦長の瞳へと変化している。
「『博麗王』は再び封じられました。私は大丈夫です。力を、制御できますよ」
その声には、かつての優しさも残っていたが、どこか異質な凄みが二重に鳴っていた。彼もまた、怪異の一人となり果てたのだ。清矢は儀式の思わぬ成り行きに、無力感を抱き後ずさる。敬文がその背を抱きとめ、何かの符丁を繰り返して、撤収にかかる。もう一人の退魔科の精鋭が倒れた充希を回収した。
敬文は清矢の肩を抱いたまま、地下一階まで階段を上り、司令官室に入った。多数の将官がうろつく中、父・源蔵と、魔法軍総監・蘭堂宮冬真が横長のテーブルの中央席で言葉を交わしている。報告を聞いて、冬宮は怪訝な顔をした。
「なに? 『ましろ』でなく葛葉寛が代わりの器になったと?」
源蔵は現場指揮官らしく眉ひとつ動かさない。
「まずいな。状況は?」
「葛葉殿の理性は強く、封印は機能しております。『博麗王』との戦闘は現在停止中」
敬文の言葉は正確で、澱みがなかった。蘭堂宮は満足げにうなずき、卓上の地図をなぞって指示を飛ばす。
「了解。では、黒田錦による『退魔の夜』術式の予定時刻は変更せず。『満月刀』および『新月刀』は別室待機とせよ」
「充希は篠崎中尉が救護室へ移動させました。清矢は引き続き、私が監督します」
敬文はそれだけ言い捨てると、敬礼もそこそこに司令官室を後にした。重い扉が閉まり、高官たちの会議が聞こえなくなる。
長い地下廊下の静寂の中で、足音だけが虚ろに響く。敬文は何も言ってくれなかった。撥水加工された軍服の硬い感触がよそよそしい。その横顔は清矢を見ておらず、ただ前だけを見つめている。
兵舎の待機部屋には、なぜだか日常がいた。常春殿兵装に身を包んだ詠が、パイプベッドに腰かけていたのだ。清矢は衝撃で一瞬、眩暈がした。
「ちょっと待ってくれ。詠がいるなんて聞いてない」
敬文は大股で歩み寄り、詠の腕を掴んで、無理やり立ちあがらせた。詠は気まずそうに笑い、慣れない敬礼をした。
「どうしてもって頼み込んだんだ。今日、家に籠ってるだけじゃ、永久に置いていかれちまう気がしてさ。なんか顔色悪ィけど……水、持ってこようか?」
敬文は詠をにらみ、短く溜息をついた。
「俺がやる。詠はここから動かないで。清矢さま、儀式の詳細は語らないで」
清矢は重い沈黙に耐えながら、窓の外を見やった。しばらくすると、部屋のスピーカーから切り裂くような警戒音が鳴り響いた。
「――常春殿総員退避。ヒトマルマルマル、術式『退魔の夜』起動。繰り返す、術式『退魔の夜』起動」
午前十時。曇り気味ながらも晴れていた空が、偽りの天蓋に包まれて、星光のない夜にじわじわと変わっていった。詠も異変に気づき、窓を開け放って怯える。
「な、何だ? 何が起こったんだ?」
眼下に広がる陶春の空が、音もなく紺青の闇に塗り潰されていく。それは救いではなく、魔族を根絶やしにするための、虐殺の幕開けだ。清矢はがなり立てて制止する。
「やめろ! 聖なる闇を陶春県全域に展開。これが魔法軍の切り札、『退魔の夜』術式だ」
詠はせわしなく瞬きをしながら清矢の方に振り返る。
「どういうことだよ、街のみんなは……!」
「ホモ・ファシウスは無事なはずだ。ただし、魔血統や魔族は……この夜の退魔効果に耐えられない。『海百合党』の里では今頃、己の魔性を制御できなくなった者たちが、サバトを繰り広げているはずだ」
「う、嘘だろう? あの、『日の輝巫女』はどうなったんだよ! そうだ、ましろの親たちは……?」
詠はそこまで言いかけて、真相に気づいて顔を硬くした。ガン! とパイプベッドを拳で叩き、部屋を走り出ていく。清矢は焦ってその後を追ったが、儀式でかなりの体力と魔力を消費しており、とても追いつけなかった。バタバタと伝令が行きかう中、詠は司令官室の扉前で兵に羽交い絞めにされつつ暴れていた。
「やめろ! 何を……何を始めてるんだ! ましろを騙してたのか!」
もがきながらも、善意の怒りで叫び続ける。そこに、冬宮が現れた。
「何事だ? 指揮は祈月少将が執っている。清矢、連絡なら私が聞こう」
兵はいよいよ詠を床に押し伏せた。詠が泣き声まじりで訴える。
「『ましろ』の親は裕福になるんじゃねぇのかよ! 『海百合党』は魔血統もいっしょくたに殺されるって言うのか!」
「汚れた者どもに同情しろと?」
冬宮の台詞は冷酷にもほどがあった。苦笑して、清矢に語り掛ける。
「まぁよい。真相を知らないのなら、浅薄な正義に酔うのも仕方がない。蘭堂宮家と白透光宮家は魔族政策においては、共犯だぞ。今からちょうど六十九年前。我が先祖である『永帝』と『長田千秋』はともに魔物に魂を売り渡し、永遠なる権勢を望んだ。その愚策を了解したのは我が祖父・明帝と、清矢の先祖、白透光宮季徳だ」
冬宮は地に伏せる詠をにらみながら、𠮟りつけた。
「これは我らが為さねばならぬ、過ちの清算だ。それとも貴様らは、この日ノ本に魔族が蔓延してもよいと言うのか!」
清矢は拳を握り、うなだれて懇願した。
「詠……もう、やめてくれ」
自分がいつも誇りにしている貴族の血統。それが急にどす黒い、呪わしきものに思えてきた。詠もあまりの衝撃に抵抗をやめ、光のない目で兵に連行されていく。清矢は冬宮の前に力なく膝をつき、最敬礼をとった。彼は不機嫌そうに司令官室へと引き上げていった。
どれほどの時が過ぎたろうか。一人取り残されていた清矢の前に、敬文がようやく姿を現した。ミリタリージャケットを脱いで彼を隠すと、急いで元の部屋に移動させる。扉が閉まるなり、清矢は敬文に抱きつき、しゃくりあげるほどに泣きはじめた。敬文は涙を舐めとり、髪に手櫛を入れて背中をさすり、パニック反応を抑えようとする。
「ケイブン、ケイブン……!」
清矢は羞恥を振り切るために唇を滅茶苦茶にぶつけた。敬文は清矢の装備を脱がせ、パイプベッドに横たえて赤子のように抱え込む。
「辛かったね。大丈夫、俺がいるよ。たとえ世界中が君を呪っても、俺だけは君を見捨てない。誓いは絶対だ。だから今だけは二人で耳を塞いでいよう。朝になれば、全ては終わってる……」
外ではのっぺりした『退魔の夜』が魔族たちの悲鳴を飲み込んでいる。源蔵が従えた国軍の者たちや、魔法軍の正規兵たちが、今この瞬間にも、掃討を行っているのだろう。機密作戦だったから、民だって狼狽えているはずだ。だが、この腕の中だけは、血の汚れも歴史の業も届かない、小さな聖域だった。清矢は必死で敬文にすがりつき、現実を拒絶して両目をつぶる。
7 永久なる春の追悼曲
凄惨な戦は終わり、高校も冬休みに入った。常春殿、琴の練習部屋。清矢と詠はそわそわとましろを待っていた。やがて、兵に付き添われて巫女服姿の少女がやってきた。
清矢は約束だったハープを聞かせてやる。ハードケースから楽器を取り出し、魔力発現スイッチを切って、基礎曲『風の歌』を爪弾いた。
「わぁ。すごい。この曲、巫女さんたちもよく琴で弾いているんです」
ましろは両手を合わせ、ぱぁっと顔をほころばせた。
「わたしも、習ってみようかな? だけど葛葉のおじさんは、もう教えてはくれない……」
声のトーンがふと、暗くなる。この子は徹底的監視の下、生かされている。自分に出来ることは、魔族の唯一の生き残りである彼女を見舞うことくらいだった。見え透いた励ましをする。
「悲しいことばかりだったろうけど、音楽をやるのはいいと思うな。葛葉さんは……残念だった」
ましろは年齢にそぐわない痛ましい笑みを浮かべる。
「うん。葛葉のおじさんが、『博麗王』の器になった。そして『海百合党』はみんないなくなった」
兵が「それ以上は」と会話を押しとどめた。ましろは兵を気にせず、勢いよく言葉を継いだ。
「今は、私が葛葉のおじさんのお世話をしているんです。葛葉のおじさんの先祖は、かつて長田千秋さんに恋をしてたんだって。私も、そのお役目で常春殿に仕えることができる」
殺されたはずの両親については、一言も触れなかった。まるではじめから、いなかったみたいに。
「そうだね。葛葉さんが、ましろちゃんの身代わりになってくれたんだ」
清矢はそれしか言えなかった。ましろの一挙手一投足に、胸の内側が切りつけられる。兵が「ふたりとも、今日はこれで」と短く命じて面会を切り上げた。とぼとぼと廊下を歩く。ましろが世を恨み、憎しみを育てていく可能性もあると思った。だから、ハープの約束を口実に、様子を見に行った。詠が天井を見上げながら、ポツリと零した。
「あの子、強えな」
清矢は急に自分が恥ずかしくなった。彼女は過酷な運命に耐え、健気に前を向こうとしていたのに。
詠がわざとらしく、明るい調子で話題を変えた。
「そういや、清矢と充希、アルカディア魔法大留学に内定したんだって?」
清矢はうなずき、「……ああ。学者になるかどうかは、分かんねぇけど」とあいまいな返事をした。
詠は立ち止まり、ためらいがちに前置きした。
「もしかしたら『付いてくんな』って言われるかもしれねぇ、って思ったんだけど……」
そして背筋を正し、真面目な顔で打ち明けた。
「俺も、あと一名の枠に応募してみたんだ」
清矢は意外に思って詠を見つめ返す。どんぐりまなこに、くっきりした顔立ち。清矢よりも伸びた背に、堅くなりはじめた体躯が頼もしい。詠は力強く励ましてくれた。
「俺だってあの日、魔法軍の一員として常春殿にいた。清矢は、好きであんな作戦に参加したんじゃねぇ。それは親友の俺がちゃんと分かってるぜ」
「……ありがとう」
瞼の奥が熱くなるのを感じながら、清矢は礼を言った。詠はくるりと前を向き、背中越しに語る。
「もう、ヒーローに憧れるだけはやめる。俺は、アルカディア魔法大で、ましろや葛葉さんを見殺しにせずに『博麗王』を倒す方法を見つけたい」
清矢は小走りで詠を追いかけた。その決意は、未来を照らす輝かしい指針だった。こんな自分にもまだ、青春の光は残っているのだと、そう思えた。
やがて、今年もカレンダー通りに十二月二十四日の夜がきた。人の罪を覆い隠すような粉雪が舞う。祈月家には、今夜も源蔵の姿はない。彼は帝都で作戦の後処理に忙殺されている。
清矢の母・雫は新年早々、単身赴任の夫に乞われて帝都の家に移る予定になっていた。今日の夕食は洋食好みの彼女が担当した。ちゃぶ台には温かなグラタンが乗り、ナッツを散らしたラディッシュサラダが用意された。駅前で買ってきたケーキも食べ終え、大人たちは赤ワインを、清矢は炭酸ソーダを飲み干す。クリスマスの宴はささやかに幕を閉じた。
母は洗い物を放置して、おもむろにアップライトピアノの前に座った。そして、モーリス・ラヴェルの曲を弾き始める。『クープランの墓』メヌエットだ。祖母のさくらも、両手を合わせて念仏を唱えた。透明感のある音は深みがあり、ピアニズムは哀感をたたえていた。母は演奏を終えると、何気なく清矢を誘った。
「ほら、受験勉強だけじゃなくて、たまにはピアノも弾きなさい」
そう言って青い表紙の『ブルクミュラー:25の練習曲』を渡す。そして『素直な心』のページを開いて、譜面台に乗せた。清矢は首を左右に振った。
「母さん。こんなタイトルの曲、今の俺には弾けないよ」
常春殿で、ましろにハープを聞かせた時は、迷いなく指が動いた。けれど、家の中に流れる平和な空気と、母の柔らかな香りが、背中に刻まれた術式を疼かせた。この指が何の曲を弾こうが、もはや音楽の神性を冒涜するだけではないのか?
母は清矢の手をとり、幼い頃のように、そっと鍵盤に乗せた。
「……弾きなさい。あなたが思うほど、あなたの音は汚れていないわ」
小学生の頃に終えた基礎的な曲だ。だけれど、指から自然に力が抜けてしまった。母は清矢の背をさすり、左手だけを弾きながら、合わせてくれる。たどたどしく、ハ長調の短い連弾が終わった。調べは素朴だが柔らかく、きらきらと可愛らしい。清矢は苦く微笑んで、無邪気に言った。
「ケイブンに聞いてもらいたいよ。それに、詠にも」
「充希にもね」
母は付け加えて、洗い物に立った。清矢は懐かしい曲集をおのずからさらいはじめる。テクニックや難しい楽典を考えずに、のびのびと。
ブルグミュラーの曲集を弾き終わり、ピアノの最後の音が、夜の静寂に溶けて消える。清矢は独り、縁側に出て、空を見上げた。
そこには、軍が作り出したあの不気味な紺色の幕はもうない。星も月も淡雪でぼやけてはいるが、どこまでも深い本物の夜が広がっていた。
清矢は、十本の指をそっと組み合わせた。加害者として。そして、踏みにじられた者たちの痛みを知る一人の少年として。
(何一つ、忘れてはいけない……いや、忘れたくない。レールから降りる勇気は、まだ俺にはないけれど)
目を閉じ、救いを求める祈りは、冷たい闇の中へと沈んでいった。
ロンシャン歴After Katastrophe 1310(順和二十八年)、冬。
世界樹が根を張り、竜たちの故郷たる、魔術師の遠き理想郷、ドラグニア。アルカディア魔法大学にて、清矢と夜空の兄弟が宿命の再会を果たすまで――あと五四七日。
(了)