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あおうま
Twitterが名称変更でいよいよ別物になっていく感だね。
私はツイは「よるほー」とか言ってた時代から使ってるんだけど
今はゲーム関連や情報収集と自作の宣伝がメインになっているので
Google検索が死んでる今、代替がないのは本当困ってしまう。
Misskey.designとくるっぷ、ディスコードにもアカウントもあるんですけど、
これらではオタ活動やコミュニケーションの代替とはなりえても今ツイッターでやっているような情報収集はできない。
ノートやメモ替わりに使えない。
創作に関してはサイトが宣伝できるならもうそれでいいのかもしれないな。じゃあ拡散力的にもツイでいいじゃん。

個人的にMisskey.designは合わなかった。
一次健全で盛り上がりたい人はいいかもしれません。
繋がってくれた方はありがとうございました。
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あおうま
W・シヴェルブシュ著・加藤二郎訳『鉄道旅行の歴史 19世紀における空間と時間の工業化』法政大学出版局

産業革命時のイギリス、フランス、アメリカを例に、技術の進展に従って知覚が工業化されていく一連の過程を解き明かした本。テーマは体験的、個別的であった伝統的知覚から「パノラマ的知覚」への変容であるが、蒸気機関の開発からイギリス、アメリカでの発展を追った具体的な歴史の本としても読める。理論としてはウォルター・ベンヤミンのアウラ論とジクムント・フロイトの精神分析に立脚している。この本が面白いのは事項的歴史から人々の内面の変化を描き出そうとするところ。例えば鉄道旅行における人間の知覚の発展は次のように具象化される。

鉄道旅行の真実新たな刺激(、、)の一つは、その速度であり、それは近くにある対象に対する知覚の喪失、時間と空間の抹殺感を、結果として将来したものである。この新しい刺激は、最初は馬車の昔の速度に慣れていた旅行者をいらつかせた。だが次第に、この新式な速度と関連のあるもののすべてが、旅行者の心理に同化してゆく。フロイトの用語で言えば、刺激がいわば意識の表皮層をくまなく焼きあげ、「ある深さまでそれを変え続け」たのである。十九世紀の鉄道旅行者が列車の中で本や新聞が読めたのは、旅行が全感覚中枢を刺激する時間・空間的な冒険であったために、旅行中の読書など思いも寄らなかった初期の鉄道旅行者よりも、厚い表皮層を持っていたからである。後期の旅行者が、本を読まずに車室の窓から外を見る場合は、初期の人たちとは全く違う目で見たのである。われわれがパノラマ的見方と名付けた見方の発生は、刺激による意識の表皮層の「焼きあげ」が意識を変えるさまを、最も明瞭に示している。(二〇一頁~二〇二頁より引用)

またヨーロッパでの鉄道の歴史に特有なものとして、駅馬車での旅行を模すために市民階級はみなコンパートメント(個室)で移動するという特徴がある。一方階級意識の薄い米国では輸送は水路で行われるものという前提があった。したがって、車内は客船を模し、平準化されて大部屋のような開放的空間としてデザインされていく。この違いが非常に面白い。一八六〇年代にはフランスでのポワンソ裁判長のコンパートメントでの殺人事件を期に、社会不安まで巻き起こっていく。
列車の中での密室殺人、という想像力は一九三四年『オリエント急行の殺人』まで続いていくような気がする。大好きなエラリー・クイーン『Xの悲劇』(一九三二年)も鉄道殺人だったが、こちらの舞台はアメリカ、ニューヨーク。コンパートメントや寝台ではなく混雑した車両内での出来事。ほぼ同時代にスター作家によって書かれた推理小説だが、この本で論じられたヨーロッパと米国との鉄道の差異がいまだ残存している感じがある。

産業革命の象徴としての「鉄道」が当初人々に与えた不安感を、圧倒的な技術が環境と共に塗り替えていく。
AIに皆が期待といりまじった不安を覚えている今だからこそ読み応えがあり非常に面白い本。おすすめ!!
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あおうま
#[創作BL版深夜の60分一本勝負] #[流砂を止めることができれば]

お題「麦茶」「汗」社畜営業リーマン×百歳超え吸血鬼(若見え)

「麦茶」「汗」

 営業が終わって直帰になった俺は滝山の家に転がり込んだ。滝山の家は実家から十五分、今じゃ公民館になっちゃった神社に隣接した平屋だ。夏、たしかに殺人級の暑さで、火の玉みたいになった身体をようやく日陰に押し込める。滝山の家は日本人の古くからの悪習でいちいち鍵をかけない。ガラガラと引き戸を開けて、靴箱と沓脱のある石敷きの玄関につっぷした。
「あ、真司お帰り。麦茶あるよ」
 滝山は居間から四つん這いで玄関を覗きこんできた。客が俺だとわかるとニコっと笑った。今は翻訳やらデータ入力やらの内職で身を立てている、らしい。着ているのは年代物の絣だ。藍が褪せて、それでもさらりと着心地よさそうに見えた。
 俺は靴だけとりあえず揃えて部屋の中にもぐりこんだ。この部屋にはクーラーはついてない、それでもアスファルトの照り返しよりはマシだ。古い間取りだから縁側なんていう代物まである。すだれの作る影はやわらかく、風鈴の音が風に涼を添える。
 滝山はお盆に麦茶のグラスを乗せて持ってくる。すとん、と膝を折ってきれいに正座。前髪を微妙に残した刈り込みでない素直な髪型。深い二重の大きな瞳と通った鼻にふっくらした唇。誠実とか清純を絵に描いたような風貌だった。明治初期の書生と言えばぴったりくる。
 滝山は接待のつもりか、袖を押さえてぱたぱたと団扇で扇いでくれた。この家は冷房もなく暑いはずなのに、汗ひとつかいていない。少しかすれた柔らかい声がすすめる。
「おかわりもあるから全部飲んでね」
 俺はカラカラとマドラーで氷をかき混ぜ、自分でも驚くほど一息に麦茶を飲みほした。ただの水よりも飲みやすく、乾いた喉にさらさら染み込んでいく。水分補給したせいか、どっと汗が噴き出る。畳に仰向けに転がって、埃じみた蛍光灯を眺めた。ふと思い出してカバンからタオルハンカチを出す。ざっと、有無を言わせぬ強さで滝山が手首をつかんだ。
「……ダメ。勿体ないから俺にちょうだい」
 滝山はそう言って俺の首筋に覆いかぶさって、湿った肌に唇をつけた。粘膜のはずの唇はやけに冷ややかで、歯を立てずに俺の汗じみた肌をすする。謙虚そうで誠実そうで実直そうな青年が若い男相手にそんなことをやってる、ビジュアルは正直やばいと思う。
「ん……美味しい、真司の血から染み出た味」
「それだと大抵の体液は美味しいってことになるけど!?」
「実際、美味しいよ。そりゃあ一番はアレなんだけど」
 何度も首筋を甘噛みし、目を閉じて喉を鳴らして塩の味を確かめてる。滝山はフラフラと起き上がり、ちゃぶ台に突っ伏して日陰の花みたいに笑った。
「いつか死ぬときは俺のとこに来てね」
 幼い頃たむろしてた親切なお兄ちゃんは百年を生きる吸血鬼だった。片親だった俺はたまたま入り浸ってしまって秘密を知るに至り、滝山の数十年単位のお楽しみとして、まだここに来ている。滝山が何歳なのかは知る由もない。生活様式からしたら、たぶんすれ違いもしなかった人だが。擦り傷を舐められたことで始まった関係は、厳密にいえば児童虐待とかそういう話にもなるんだろうが、滝山が他の誰かの血だか何だかを欲しがるだなんて俺には耐えられなかった。
 庇護者に準ずる存在への子供じみた執着。
 彼はいつまでも麗しいし、俺はいつかガキから社畜になって家庭でも持ってジジイになる。滝山の百年を通り過ぎていったにんげんたちの一人になる。
 死ぬときに、俺はようやくこいつに血をあげられる。でもその瞬間まではあと何秒ある? とても待てない。返事をせずに、押し倒す。アブラゼミの声、溶ける氷。秀麗な瞳が細くなって補食対象を値踏みする。じんわりと白檀に似た品のある香り。
 この魅惑的なひとでなしの、半分死んでるようなひやりとした肌触りを、俺はひたすらにむさぼる。(了)
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あおうま
J.K ローリング『ハリー・ポッターと不死鳥の騎士団 』Kindle版

PS5を買ったんでホグワーツ・レガシーをやるためにハリーポッターを全履修しようと思っているんだけど、前の「炎のゴブレット」あたりから一巻が長くなってきていてシンドイ。
今回はハリーもようやく十五歳という年齢になり、思春期まっさかりでイラついている描写が延々と続く。アンブリッジ尋問官も絵に描いたような悪役で嫌な気持ちにさせてくれるw
ただし、魔法省・ダンブルドアたち不死鳥の騎士団・ヴォルデモート卿と三つ巴になってから読み応えは増してきた。また、今まで単なるいじめられっ子に過ぎなかったネビルの活躍も目をひく。この巻でも登場人物の退場があるのだが、なんだかあっけない感じもあった……前の巻とは違って栄えある犠牲にすらなれない。ほんとうに悼んでいるのもハリーのみのような気がして救いないのがリアル。ずっとポジティブな希望を与えてくれていた父親・ジェームズや周囲の友人たちの無遠慮な残酷さみたいなシーンもあって人間模様が複雑。
こんな真実はいままでの幼いハリーじゃ受け止められなかったろうと思う。ただ、スネイプ少年に同情してくれてありがとう、ハリー。やはり物語のヒーローは優しくなくちゃね。
全体的にスカっとするエンタメなシーンは少ない。それにしてもバトルものは魔法中心だと叫んでばっかりになりがちで工夫しなきゃならないなぁと思った。

#ハリーポッター
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あおうま
石原千秋『名作の書き出し ~漱石から春樹まで~』光文社新書422 kindle版

「漱石から春樹まで」の十五作の文学作品をテキスト論で文学史含めて分析。「作者の意図」だの「作者の実人生」とひたすらに関連させて文学作品を読解する風潮は薄れたとは言い難いのでいまだにこの種の啓蒙書の意味はあるのかと思う。完全な「作者の死」を夢想したくもあるけど、それは現実なかなか難しい。とくに古典やってると
それにしても文学作品ていうのは、不倫あり近親相姦あり娼婦あり同性愛あり偽装婚ありセックスありドラッグありで大変だ。ここにあげられた十五作品に、どの要素も含まない規範的なものは存在しない。どれもかなり性的な匂いが強い(もしくはそういうふうな面を強調して選別している)
山田詠美の処女作である『ベッドタイムアイズ』って視点人物はドラッグには否定的だし、「わりとおとなしいよな」って思ってしまうほどであるwww

ポルノグラフィと文学の境界はどこにあるんだろう? 「自慰用のツール」としてつくられてはないって部分かな~と思うが。フェミニズム文脈でのポルノグラフィの定義だと一方的すぎてずれてしまう(→参考 関西大学学術リポジトリ 「<ポルノグラフィ>批判とポルノグラフィを消費する経験との間で」http://purl.org/coar/resource_type/c_650...

あとトポス論として『痴人の愛』(谷崎潤一郎著)に対して『たけくらべ』を引き合いに出したりしているのだけど

千束町と言えば、文学にとって記憶されるべき町だった。樋口一葉『たけくらべ』の舞台で、 しかもその主人公は「美登利」だったのである。こういう背景を考えれば、「奈緒美」という 名前が「美登利」から連想されたものであることは、当時の読者には自明のことだったろう。そして、 譲治が暗示しているように、千束町といえば遊郭に近接した町である。 そこの子供たちを書いたのが、『たけくらべ』だった。だとすれば、 十五歳で女給に出されたナオミの将来は、ほぼ決まっていたも 同然だったのではないだろうか。

(石原 千秋. 名作の書き出し~漱石から春樹まで~ (光文社新書) (Kindle の位置No.383-388). 光文社. Kindle 版.)

こういう読解がいわば緻密なリサーチから遊離した職人的技術のようにみえて、浅い若者(私のことです)は憧れるわけ。結論自体はよいとしても、傍線部あたりの論はかなり乱暴だし、こういう部分を客観的に埋めていくのが研究であるという教訓を忘れないようにしたいところですね。