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あおうま
#鬼の研究 #読書

馬場あき子『鬼の研究』ノートです。とりあえず「序章」と「一章」を本文の表記を尊重しつつまとめたもの。空読みしてしまうので作成していきます。

§序章 鬼とは何か

「鬼は帰ナリ」と説明された中国の鬼は、死者の魂の帰ってきた形と考えられているが、この〈鬼〉の字を〈おに〉と訓じたとき、中国の〈鬼〉と日本の〈おに〉の微妙な混淆がはじまったと考えられる。

以上のような、鬼の原像追及のなかに民俗学の一分野を見ることは、今日ではすでに常識となったようであるが、これにたいして、日本の鬼が土俗的束縛を脱し、その哲学を付与されたのは、中世において鬼女〈般若〉が創造されたことをもってはじめとしてよい、と考える。

中世における〈鬼の哲学〉…『今昔物語』二十七巻、「狂言」『御伽草紙』の鬼
中世における〈鬼の哲学〉の成立は、過去の時代に跳梁跋扈し、またつぎつぎに消滅・誅戮の運命に服した鬼どもへの深甚なる哀悼追慕の挽歌であったともいえるのである。

鬼とは…王朝繁栄の暗黒部に生きた人びとであり、反体制的破滅者ともいうべき人びと
王朝期とは、このような人間的な鬼と土俗的な鬼と、仏教的な鬼とが同居した時代であり、数限りない妖怪譚と呪術合戦を生むにいたった時代でもあった。

鬼の原像
(1)日本民俗学上の鬼(祝福にくる祖霊や地霊)を最古の原像 「神道系」
(2)(1)の系譜につらなる山人系の人びとが道教や仏教をとり入れて修験道を創成したとき、組織的にも巨大な発達をとげてゆく山伏系の鬼、天狗 「修験道系」
(3)仏教系の邪鬼、夜叉、羅刹の出没、地獄卒、牛頭、馬頭鬼の跋扈 「仏教系」
(4)放浪者、賤民、盗賊など。人生体験の後にみずから鬼となったもの 「人鬼系」
(5)怨恨・憤怒・雪辱などの情念をエネルギーとして復讐をとげるために鬼となることを選んだもの 「変身譚系」

近世にいたって鬼は滅びた。苛酷な封建幕藩体制は、鬼の出現をさえ許さなかったのである。そこでは、鬼は放逐される運命を負うことによってのみ農耕行事の祭りに行き、折服され、誅殺されることによってのみ舞台芸術の世界に存在が許された。

§一章 鬼の誕生

1 鬼と女とは人に見えぬぞよき (女と鬼の共通項)

・「虫めづる姫君」…平安末期『堤中納言物語』「鬼と女とは人に見えぬぞよき」
価値観の破壊と転換への積極的な自問の姿・爛熟しつつある王朝耐性の片隅に生き耐えている無用者の美観。〈虫めづる〉姫君が、さすがに「人に見えぬ」という女の掟を破り得なかったところに、〈羞恥〉の伝統の堅牢さがある。良俗に反して生きるという、背水の地に立つ姫君の防衛本能が、無名の鬼として生きるものの韜晦(とう‐かい〔タウクワイ〕【×韜×晦】 の解説[名](スル)1 自分の本心や才能・地位などをつつみ隠すこと。)本能と重なる。隠士鬼谷(世をしのぶ隠士の中国での通称)による作である本書は、女と鬼との反世間的抵抗を二重うつしとして、その生きがたさを領ち合っている。
・『大和物語』五十八話「みちのくの安達ケ原の黒塚に鬼こもれりと聞くはまことか」…平兼盛が源重之の妹たちの美貌に心を動かされて贈った歌。貞元親王の孫にあたり、父兼信のとき(天暦四年〔九五〇〕『歌仙伝』、『皇胤紹運録』などとは異なる)源姓を受けて臣籍降下し、重之は三十六歌仙に数えられた。平兼盛も父・篤行の時、臣籍降下した一族で、三十六歌仙のひとり。兼盛は同様の運命にさすらうものの共鳴と、こころ懐かしさの情から歌を送った。二人の仲は娘の年が若すぎるという反対を受けて終わったが、その〈黒塚の女〉は夫を得て京に上り、兼盛が別れに贈った「はなざかりすぎもやすると蛙なく井出の山吹うしろめたしも」という歌を「みちのくの土産」と称して兼盛自身に届け、不実をなじったとされる。源重之と平兼盛は「尊貴の系譜につらなる血の重さを、天賦の歌才のみによって生き耐えねばならぬ」という苦しさという点で共通していた。両者に可能な実力は、せいぜい和歌をもって世にまじわり、女とのみやびに心をなぐさめることであり、あるいは流離物語の生きざまを、みずから生きてみせる以外にはなかったのではなかろうか。「春ごとに忘られにける埋木は花の都を思ひこそやれ 重之」(春つかさめしを思ひやる)。貧寒たる現実に侵されず保っている血の誇り、塔のように屹立する反世俗の矜持、流離のうちにも保ってきたそれら魂の美しさを〈鬼〉と呼ぶことは、ほのかな自嘲をまじえた合ことばでもあり、互いの生きざまを照応しあうときの無上の賛辞でもある。
・『藤原基俊家集』「仏供養し奉りしに四条院の筑前の君、忍びて聴聞すと聞きて車ひいひいれ侍りける 唯一つ門の外にはたてれども鬼こもりたる車なりけり」…後冷泉洗脳永承七年(末法第一年)。摂政藤原頼通の娘、皇后寛子は寵幸を得て「四条宮」と称されていた。その女房である一流のみやびめ「筑前の君」に関しての歌。身分をかくすように打ちやつして立っている牛車は、一見心やすげに見えながら、乗っているのはなかなか手ごわい名流の女房で、矜持も高く、うっかり手出しはできませんという一首。女を「鬼」と呼んで反応をみようという挑発的な気分もふくまれている。
末法の世の魂の救済を求める欲求は低きにも高きにも仏事をさかんに営ませる風潮をなしつつあった。頼通は翌年、宇治の別荘を寺院とし、「平等院」と名付けている。基俊の家でも仏供養が行われ、説法聴聞の人々が集まった。「筑前の君」の姉・大姫は常陸の豪族多気太夫に見初められ、盗み出されて東に下った。「筑前の君」がその後一時常陸守の妻になったときに姉の忘れ形見の姫に体面したが、「筑前の君」の帰京には二百頭の荷駄と二十頭の駿馬を贈ったという。
・二例どちらも〈埋もれ隠れ得べくもない女〉が世間を忍んでいる姿への呼びかけであり、「虫めづる姫君」の場合は〈女〉と〈鬼〉とが〈羞恥〉と〈反世間〉というそれぞれの属性によって「人に見えぬぞよき」という共通項をもっていたことによる表現。

◎「倭名類聚抄」の見解(王朝期の〈鬼〉の概念)
・源順『倭名類聚抄』(承平年間〔九三〇〕年代)…わが国最初の字書。「鬼(異体字)魅類第十七」和名は「於爾」、「於」は「隠」が訛って発音されたという説も。「鬼ハ物ニ隠レテ顕ハルルコトヲ欲セザル故ニ、俗ニ呼ビテ隠ト云フナリ」。

?中国の「鬼」字と、和名の「於爾」とが、いつ頃、どのように結びつき、一体化していったのか。

2 〈おに〉と鬼の出会い
◎鬼・神同義説
・折口信夫「信太妻の話」https://www.aozora.gr.jp/cards/000933/fi...「一体おにといふ語はいろいろな説明が、いろいろな人で試みられたけれども、得心のゆく考へはない。今勢力を持って居る『陰』『隠』などの転音だとする漢音語源説はとりわけこなれない考えである。聖徳太子の母君の名を、神隈とも鬼隈とも伝へて居る。漢字としての意義は近くとも、国訓の上には、鬼をかみとした例はない。ものとおににきまってゐる。してみれば、此は二様にお名を言うた、と見る外はない。此名は、地名から出たものなるは確かである。其地は、畏るべきところとして、半固有名詞風に、おにくまともかみくまとも言うて居たのだろう」
・聖徳太子の母の名…穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)(『日本書紀』その他より)穴穂部は安康天皇の名代として雄略天皇十九年におかれた。間人皇女は欽明天皇の皇女で、「欽明紀」には泥部穴穂部皇女(はしひとのあなほべのひめみこ)とある。穴穂という呼称は穴太ともかかれ、この皇女の墓は大和平群の地を占めて築かれているので、穴穂は山沿いの洞穴の多い地形の名であったとも考えられる。その異母妹、磐隈皇女は伊勢大神祠で、「夢皇女(ゆめひめみこ)」の別称。
・折口信夫『鬼と山人と』「おにの居る処は古塚、洞穴などであるらしい。死の国との通い路に立つ塚穴である。――鬼隈の皇女などといふ名も巌穴、洞穴にかんけいありさうだ」(穴と鬼との連想)
・「おに」という語が、中国産の「鬼」(『説文解字』や『設問通訓定声』)とは全く別個に、独自の土俗的信仰や、生活実感として存在していた。

◎鬼と日本の〈おに〉
・「鬼」字登用のはじめ:「出雲国風土記」(元明天皇和同六年)大原群阿用郷(おおはらぐんあよのさと)の名称起源説「昔或人、此処に山田を佃りて守りき。その時目一つの鬼来りて佃る人の男を食ひき」。「斉明紀」(『日本書紀』)「朝倉山の上から〈鬼〉が笠を着て斉明天皇の喪の儀(よそおい)を見ていたという記事もあるので、六百年後半ごろから〈おに〉と〈鬼〉の一体化がすすみつつあった。
・いろいろな鬼:『倭名類聚抄』餓鬼・瘧鬼(えやみのかみ)・邪鬼(あしきもの)・窮鬼(いきすだま/生身を離れて霊のみが浮遊する)・魍魅(すだま、こだま/老物の精、年を経た木石に精霊が宿るという考え)・魍魎(みづは/水精)・醜女・天探女(あまのさぐめ)⇔『箋注倭名類聚抄』(棭斎狩谷望之、文政十年)「窮鬼は人をこらしめるものだが、いきすだまとは源氏物語の葵巻などに見える生霊のことで、帰するところのない魂である窮鬼を、これにあてて考えるのはまちがいである」「『あしきもの』『もののけ』の〈もの〉は『日本書紀』の「邪鬼」という表記にあたる」折口信夫「よるべのない魂は〈もの〉であり、〈たま〉はたんに浮遊しているだけのもの」
・『日本書紀』邪鬼(「神代紀」高皇産霊(たかみむすび)が瓊瓊杵を葦原国に派遣しようとした時の国情観察)「彼(そ)の国に、多(さは)に蛍火の光(かかや)く神、及び蠅声(さばへ)なす邪(あ)しき神あり。復(また)、草木咸(ことごとく)に能(よ)く言語(ものいふこと)あり。――吾れ葦原の邪(あ)しき鬼(もの)を拂(はら)ひ平(む)けしむと欲(おも)ふ」…ここで「もの」とよまれている「鬼」とは、「蛍火の光く神」や「蠅声なす邪しき神」「咸に能く言語」がある草木など「よろずの、まがまがしき諸現象の源をなすもの」の総称。〈鬼〉の概念に近いもの。畏るべきものであり、慎むべき不安でもあった根源の力。

>>天照大神之子正哉吾勝勝速日天忍穗耳尊、娶高皇産靈尊之女𣑥幡千千姬、生天津彥彥火瓊瓊杵尊。故、皇祖高皇産靈尊、特鍾憐愛、以崇養焉、遂欲立皇孫天津彥彥火瓊瓊杵尊、以爲葦原中國之主。然、彼地多有螢火光神及蠅聲邪神、復有草木咸能言語。故、高皇産靈尊、召集八十諸神而問之曰「吾、欲令撥平葦原中國之邪鬼。當遣誰者宜也。惟爾諸神、勿隱所知。」僉曰「天穗日命、是神之傑也。可不試歟。」於是、俯順衆言、卽以天穗日命往平之、然此神侫媚於大己貴神、比及三年、尚不報聞。故、仍遣其子大背飯三熊之大人大人、此云于志、亦名武三熊之大人。此亦還順其父、遂不報聞。(「神代記」下 http://www.seisaku.bz/nihonshoki/shoki_0...

・他の『日本書紀』の「鬼」字について(⇔『古事記』がまったくこの文字を捨てている)「強い民族意識を表だてつつ、討伐の記事にみちている『日本書紀』が、誅されるべき運命に対して結果論的に〈鬼〉字をあてたことは、日本に定着せしめられつつあった初期的な鬼の概念をものがたるものでもある。」
-「山に邪しき神あり、郊(のち)に姦(かだま)しき鬼あり」(「景行紀」)鬼は邪神と対を為す同系のもの。
-「諸(もろもろ)の順(まつろ)はぬ鬼神(かみ)を誅(つみな)ひ」「かみ」は先住者の国つ神たちだが、邪神と「おに」は近似したものと考えられていたためまとめて訓じられた。
-「十二月に、越国(こしのくに)言さく、佐渡嶋の北の御名部の碕岸(さき)に、粛慎人(みしはせのひと)有りて、一船舶(ひとふな)に乗りて淹留(とどま)る。春夏捕魚(すなどり)して食(くらひもの)に充(あ)つ。彼(そ)の嶋の人、人に非ずと言す。亦鬼魅(おに)なりと言して、敢て近づかず」(欽明天皇五年)→阿部比羅夫の北方遠征(粛慎人の討伐)アイヌとも、ツングースであるとも推測され、虜囚の異風から受ける印象や、比羅夫の報告話などによって獰猛果敢な蛮族の印象が定着していた。忌避すべき鬼のイメージは、辺境異風の蛮族としての側面を加えつつあった。
-「朝倉山の上に、鬼有りて、大笠を着て、喪の儀(よそほひ)を臨み視る」(「斉明紀」斉明朝の政治そのものへの危惧や疑問、躊躇などの負の心性が影響。
>>秋七月甲午朔丁巳、天皇崩于朝倉宮。八月甲子朔、皇太子奉徙天皇喪、還至磐瀬宮。是夕於朝倉山上有鬼、着大笠臨視喪儀、衆皆嗟怪。

・『万葉集』の「鬼」
-「大夫(ますらを)や片恋せむと嘆けども鬼(しこ)の益らをなほ恋ひにけり」(『萬葉集』巻二、一一七番歌)鬼の面貌が「醜」(「予母都志許売/古事記」「泉津醜女/日本書紀」)につながることが、一般的な訓を導き出しており、中国的な〈鬼〉の概念がすでに広く流入していたことを思わせる。
-「生録未だ半ならず、鬼の為に枉殺せられ、顔色壮年にして病の為に横困せらるるをや」(『萬葉集』山上憶良「痾(あ)に沈みて自ら哀ぶ文」)抗すべからざる死病の苦しみに鬼の力を感じている

・早期の日本文学(上代文学)にあらわれた鬼の六例:(1)異形のもの(醜なるもの・体の部分のそこなわれたもの)(2)形をなさぬ感覚的な存在や力(〈もの〉と呼ばれた力)(3)神と対をなす力をもつもの(邪しき神、姦しき鬼)(4)辺上異邦の人(異風の蝦夷や粛慎人、荒々しい性格と体躯のちがい等)(5)笠に隠れて視るもの(朝倉山より喪を視る鬼)(6)死の国へみちびく力(鬼のために枉殺せられ)←中国の「鬼」とは?

◎鬼の面貌
・「鬼」字はまさにみにくい面貌に関する象形文字であるという説(cf.貝塚茂樹『神々の誕生』、永沢要二『鬼の正体』)
-『説文解字』(許慎/後漢和帝永元十二年、AD100)の象形文字説
「鬼」字は「人」「甶」「ム」の三つからなる。
「ム」「金文」には字がないために、後世になって付け足された音を示す符号である。
「甶」鬼頭の象徴である。鬼頭とは、貝塚説では「のっぺらぼうの、目鼻もないようなもの」であり、加藤常賢説では「死者の頭部に似せて長毛をつけ、さらに臂(ひじ)をつけた形」である。「子」の籀文の意の一つ。
「儿」鬼頭を蒙(こうむ)った子どもが足をまげて坐っている姿とも人が跔っている姿とも言われている。鬼頭は招魂の儀の主役として坐した少年の蒙る死者の面で、それに魂が寄り来ることが「帰」。cf.朱駿声『説文通訓定声』「人帰ストコロ鬼トナス」「鬼ハ帰ナリ」
-加藤常賢『漢字の起源』形声文字説
「ム」は「シ」の音をもち「賊害」の意をもっている。この部のない字は「甶」のシ音を持つ声符を併せた形声文字。「儿」は「仁人」、句僂(くる)人のことだが、それに似せた祭祀の中の人)のこと。「甶」は唐韻で「フツ」といい、神頭のことを言う音借字。「鬼」の唐音は「キ」だが、古音は「シ」であった。字義は、人が死者の鬼頭を蒙って、しゃがんで神の座にいる意味。鬼頭は死者の東部なので、死者をも「鬼」というようになった。
=「鬼」字は招魂によって帰ってくる死者の魂。「シ」(「死」「漸」風葬によって白骨になった「水つきる」状態)を迎えた人物の「魂」(「云」は「雲」)は上昇してうしなわれ、「魄」(「白」は「晒された状態」)のみがのこった躯となる。この躯は、いつの日かふたたびもどってきた「魂」のよりどころとして祭祀をうける。「魄」を祀られぬ魂が、永遠に場所をうしなってさすらう様に悲怨の鬼が想定されていく。

◎西行人を造る 高野の西行に、真言密教の秘儀を付会した、中国の招魂の原型を残す話。
・『撰集抄』「西行高野奥に於いて人を造る事」…招魂の儀がさらに進められた密教的反魂の術の秘話。西行は花月の情をわきまえた友を欲するばかりに、昔聞いた荒野の鬼が人を骨から復元するという話をたよりに人を造ることにした。月明りをたよりに死人の骨を集め、頭から手足まで元通りに並べ、砒霜という薬を塗る。苺とはこべの葉をもみ合わせた汁を与え、藤づる、糸などで骨をつなぎ合わせる。それから骨骸を何度も水で清め、髪の生えるべきところにはさいかしの葉とむくげの葉を焼いて取り付ける。土の上に新しい畳ござを敷き、風雨を避けて動かぬように半月おく。そして沈香を焚き、反魂術を行う。術は失敗し、西行はそれを遺棄して己の浅はかさを悔いた。

3 造形化のなかの鬼

◎〈おに〉の訓を得た〈鬼〉字

・「鬼」字の訓は「もの」「かみ」「しこ」「おに」など様々で、「おに」に落ち着くまでは時間がかかった。平安末におよぶまで「もの」「おに」と二様に読まれていた。
-『日本霊異記』「若汝記鬼耶」(もし、汝ものにくるへるか)
-『今昔物語』「もし鬼(もの)のつきたるか」

・「もの」明瞭な形をともなわぬ感覚的な霊の世界の呼び名。「もののけ」「ものおそろし」「ものすごし」。深層心理に眠る原始的な不安や畏怖感に導き出された幻影。
「おに」目に見えなくとも実在感のある、実体の感じられる対象に向けての呼び名。しだいに形象化され、憎悪と不安のなかに、なぜか不思議な期待を持たれつつ成長し「かみ」と「おに」の体系の分離が行われていく。

・大笠に身を隠した鬼のイメージ(古い民俗学の鬼の形)。なお神性の名残がある。
cf.折口信夫『夏の祭』「此の群行の神は皆蓑を来て、笠に顔を隠していた。謂はば昔考へたおにの姿なのである」(蓑笠による体の隠蔽が鬼にも神にも共通の条件であった)
-『躬恒集』「師走のつごもりのよるの鬼を 鬼すらも都の内と蓑笠をぬぎてや今宵人にみゆらん」〈まれびと〉的祖霊であり、三番叟(さんばそう)的地霊に対応する翁的役割の祖霊のすがたである。後年の「追儺の鬼」とは異なる。

◎造形化される鬼…兇悪な威嚇の表情をもちはじめる所以
・語呂合わせ的俗説「鬼門(艮)に居坐するため」
陰陽道では艮の隅(東北)を魔神の出入りする方向とする。畏敬や祭祀の対象となり得ない死者の魂のゆきどころである。これは鬼星のある方向で、〈鬼北〉と称する風の吹く方向である。この艮の方向を、牛と虎の要素から造形されてゆく鬼の塑像の原因にあてた。祀られぬ魂が存在する方角については二論ある。
-艮(うしとら)すなわち東北の方にあつまっていると考える東方説
-西北天 西にむかって招魂するので西北にいると考える西方説
cf.阿部主計『妖怪学入門』太陽神崇拝の思想から考えると、陽気を育てる春の太陽は東から昇り、これと争う地霊は西の海へ追落される。江戸時代まで季節の分かれ目に行われた厄払いも、すべて西の海へさらりと払う唄をもっていた。
cf.『歳時記』「鬼市」「務本坊西門鬼市、或風雨曛晦(ケンカイ)、皆聞其嘯聚(ショウジュ)之声」
・角つきの獣皮をまとう者が持つ圧倒的な力への空想
『山海経』には獣皮をまとった山の主神がかぎりなくあらわれる。これは山の主神としての威厳を保った扮装であった。(Cf.貝塚茂樹『神々の誕生』)山に棲んでいる獣と神との区別が形の上から明瞭でなく、祭祀は主神の好む獣の毛色をえらんで供するのがその礼であった。
-『応神紀』諸県君牛(もろがたのきみうし)の逸話(角つきの鹿皮を来た部下と船で海に出る)

◎『山海経』の影響
・『山海経』の神がみ…「西山経」地方の山やまで、崑崙山を中心とした異郷思想があらわれている。竜蛇・鳥・牛・馬・未・虎・豹・豕(いのこ)、それに角を戴くという扮装を組み合わせたもの。
-簡潔に記されたもの。「竜身鳥首」「人面蛇身」「馬身人面」「馬身竜首」など。
-不自由な神状。「人面牛身四足而一臂(ひじ)操杖以行」
-槐江之山の天神。「其状如牛而八足二首馬尾其音如勃皇」
-崑崙の丘の神。「虎身而八尾人面而虎爪」
-西王母。玉の髪飾りをしている。「其状如人豹尾歯而嘯蓬髪戴勝」
-天山の渾敦。「六足四翼」「無面目」←面貌のそこなわれていること。
-剛山の夔(き)。「獣身一足一手」
そこなわれた面貌や、不具な体に、苦渋にみちた底知れない神の力と知恵を感じ、敬虔な想いを広げていった精神史の一端。鬼や神は「容姿端正(かほかたちきらきらし)」きことと、「醜(しこ)」なることとが、表裏一体をなす条件として考えられた。
-魃(ばつ)黄帝の逆臣蚩尤(しゆう)が叛いて兵を催したとき、風伯・雨師を招いて大暴風雨をおこしたので、青衣の女人・魃に命じてそれを止めさせ、討伐を完了した。しかし魃は天上に帰れなくなり、大旱して人々を逆に苦しめることになったため、叔均という賢臣が奏上して、僻地赤水の北方に置くことになった。(「大荒北経」)
・鬼は群聚するものではない←祀られず慰められなかった死者の心は飢えており、それが怨みや憤りに転化した。鬼は常に孤独であり、時には孤高ですらある。
-百鬼夜行 天台密教の汎仏思想に誘発されたもの畳む