万聖節の夜物語 アルカディア魔法大学逃亡編(1-2)

第一章

4

 気が付くとそこは懐かしき日ノ本の渚村、草笛屋敷だった。

 古びたアップライトピアノが置かれた六畳の個室で、洋風にしつらえられている。職人手製のオルゴールからは『風の歌』の旋律だけがノスタルジックに流れていた。部屋の中は明かりもなく薄暗い。窓から刺す午後のやわらかい光の中に座っていたのは、守役の白狼亜種、夏目雅だ。大柄で壮健な男で、左右の瞳の色が少しばかり違っていた。神秘的なまなざしでじろりと見すえてくる。だが、その眼光を夜空が恐れることなどついぞないのだった。『風の歌』を奏でればいつでも再会できる、懐かしき父性。

 夜空は、自分がもはや死んだと思った。雅は六年前に夜空をかばって亡くなったし、背をえぐる魔素のじりじりとした感覚もまだ背中に残っていたからだ。絨毯を引かれた床にあぐらをかいている雅の膝ににじり寄り、あきらめたような笑顔で訴えた。

「ごめん、雅。俺……故郷を出たっていうのに、夢すら叶えることができなかった」

 雅は険しい顔を緩めずにただうなずき、大きな硬い掌で夜空の頭を撫でようとする。いたわりの仕草だった。夜空はとっさに後ずさった。

「お前を死なせた俺にそんな資格なんかない、ダメなんだ!」

 拒否した瞬間目が醒めた。生ぬるい夢の感触は意識に残っていたが、背に感じるのは冷たい石造りの寝台の感触だった。代わりにしげしげと夜空を覗き込んでいるのは倒れる寸前に駆け寄ってきた金髪緑眼の少年だ。犬亜種で、クリーム色の犬耳はおとなしく垂れている。

「ドクター・ライオネル。気が付いたようです」

 少年が報告すると、猿亜種の医師が近寄ってきた。数を数えさせたり、人差し指を目で追わせたりと簡単な意識チェックをする。傍らにはもう一人、あの銀狐亜種の担当試験監督、ヒョウガもいる。

 部屋は四畳ほどの狭さで、白を基調とした石づくりだった。窓もあるが閉ざされており、内壁をくりぬいたアルコーブを寝台として利用している。床はよく磨かれたタイルだった。アルコーブの横には目隠しのための几帳がおかれていた。ヒョウガの切れ長の瞳が夜空をにらむ。

「ロンシャンはどういうつもりだったのか答えてもらおうか」

 夜空は人耳の軟骨をいじった。気絶している間に取り去られたのか、そこにもうピアスははめられていない。

「侵入者を刺客だと判断し、首輪魔術師『サンド・シー』の命令に従って学長及び私の近辺から魔法攻撃で排除しました。あの少年はアルカディア魔術大学なりのロンシャンへの返礼ですか?」
「アルカディアは彼とは今のところ無関係だ」

 ヒョウガは強く言い切って視線をそらした。猿族のドクターが続ける。

「どうせ帰ったらこの子は命がないんだろう。だからこうまで吠える。ロンシャンのやりそうな手口だ」

 夜空は躍起になって叫んだ。

「ボスが私をここに送ったのは親善のためだ! ……わかりました、アルカディア魔術大学には和解の意図すらないんですね」
「人を攻撃しておいて君はそれしか言えないのか?」

 意識が途切れる直前に駆け寄ってきた少年が割って入った。ヒョウガは同調し、蔑んだ目つきをした。

「実技入試は貴様のせいで最後まで実行されていない。日ノ本には祈月という汚らわしい一族がいる、ということだけは衆目に知れたがな」

 夜空は一瞬、侮辱に打ちひしがれた。しかし、大学側の言い分は不手際もある。実技試験の乱入者に迅速な対応をとれていない。大麗ダイリー からの国際留学生を正式に護衛してきたロンシャンに対して、事態の説明責任があるはずだ。それに加えて、縁もゆかりもない人物からの度重なる侮辱は耐えがたかった。スラム街にいた時ですら、先祖までまとめて否定されたことはない。獣耳が前に倒れ、らんらんと瞳が燃える。夜空は問いかけた。

「『満月までは、あと何夜?』」

 二人の職員は謎かけに何の答えももたなかった。

「それも知らない下郎の分際で我らを詰るな! 父の代はいまだ、新月だ!」

 実技入試の名乗りと同じく、滑稽なだけの空威張りではあった。夜空は膝を叩くと以降は沈黙を貫いた。気位の高そうなヒョウガは挑発を返されて憤激しながら治療室を出て行った。ライオネルと呼ばれたドクターは動揺はせず、まだ仕事が残っていると言い残し、少年にいろいろ言い聞かせてヒョウガを追った。後には、意識が途切れる寸前に心配顔で駆け寄ってきた、カナリアのように繊弱な色合いの少年が残された。どうせ、懐柔策だろう。

 少年は意地を張る夜空のとなりに座ってきた。ぱちりと目が合う。月龍ユエルン に勝るとも劣らない美少年だった。陰の魅力をもつ彼とは対照的に、神から愛されたような美々しい造形だ。明るい緑色の吊り目は大きく、鼻筋もすっきりと通っている。唇も形が良く、生真面目そうに閉じられていた。硬い金髪は刈り込まず、前髪を作って切りそろえられ、育ちがよさそうな印象を与える。夜空は自分の薄汚さが嫌になってきた。

「寄り添いたいの?」

 とっさに口をついた台詞は何だか不自然なものだった。少年は呆れたように答えた。

「それは君の方だろう?」

 そして、夜空の知りたかった情報を与えてくれた。

「試験を妨害したシリル・クーリール・ド・リュミエールには大学によって蘇生術が施された。君は一応無罪ということになるな」
「蘇生術って……俺はあとすこしで殺人犯になるところだったってこと?」
「その通り。先ほどの言動を聞くに、どちらかと言えば君よりあちらに応急処置をすべきだったか……そんな危険な君を監視するのが、同級生になる予定の私だ。ウィリアム・エヴァ・マリーベル。福音たる、婚姻のベル」

 夜空はうつむき、自嘲して少し笑った。

「そうか。君が気の毒だ。俺みたいなやつの起こした騒動に巻き込まれて……まるでカナリアみたいだな」

 夜空からすれば、大学側にはあまり信用は置けなそうだった。ウィリアム、と名のった少年は意外そうに首をかしげた。

「君にもそういう心があるのか。カナリアという鳥にどういうイメージを?」

 夜空はあの金色の雀を思い出して、故郷の古い調べを歌った。

「歌を忘れたカナリアは柳の鞭でぶちましょか? ……いえいえそれは、可愛そう。歌を忘れたカナリアは象牙の船に銀の櫂。月夜の海に浮かべれば、忘れた歌を思い出す」

 感傷的な旋律に随分残酷な歌詞が乗るものだ。夜空はウィリアムに向き直り、彼の立場を評した。

「炭鉱に持ち込まれて最初に中毒になる鳥。それくらいに気の毒な役回りだ」

 彼は困ったように笑って言った。

「それは見た目だけだ。幸せの青い鳥とでも言ってほしい」

 そして、驚いたことにさっと頬にキスしてきた。夜空は固まってしまう。西欧人は挨拶でキスすることもあると聞くが、今まで付き合った同世代の者たちはそんなお上品な振る舞いはしなかった。ロンシャンでは同性愛が一般的なため、その気のない者はかえって過剰に同性との身体接触を避ける。少しつめたい唇の柔らかさは、頬にじんわりと残って夜空を気恥ずかしくさせた。ウィリアム・エヴァ・マリーベルは歌うように言った。

「魔術とはいったい何だろうな。人を殺し、蘇らせもする」

 夜空はまだその問いへの答えを知らなかった。体内を流れる魔素と外界の魔素との接触反応。知っているのは入試問題のテキストで解いた丸暗記用の答えだけだ。

「過ちを悔いる心があるなら私はもう責めない。少しこの島を見回らないか?」
「出歩いていいの?」
「無論、私と共にならば。君と話をしたいという人もいる」

5

 そして夜空はウィリアムに支えられながら廊下を歩いた。天を見上げると建物はドーナツ状になっており、中央部には屋根がない。建物はちょうど真ん中を吹き抜けにしてそこに魔素の葉ゆたかな大木を茂らせ、壁も床も山を切り出したかのような無骨な石造りだった。受付とおぼしきカウンターの前には、黒い巻尾の老人が座っている。夜空に母親の出自を聞いた、あの犬亜種の天山人だ。彼は夜空の姿を認めるとせわしなげに立ち上がった。

「もう歩けるのか! 若者の回復力はすさまじいな。ワシは佐野元晴。この大学では教授をしておる。実技試験ではお母上のことを聞いてすまなかった。ドクター・ライオネルから注意を受けたが、ロンシャンではデリケートな話題らしいな」
「いえ、私の母は賤業にはついていませんでしたから。貴方の質問からは侮蔑の意識は感じなかった。それをしたのは他の方です」
「二、三聞かせてもらうことがある。まったくヒョウガも何をやっておるのか……それが終わったら宿屋まで送ろう」

 乱入してきた少年と知り合いだったかどうかを聞かれた。答えはもちろんノーだ。続けての質問は、ロンシャン側の事情についてであった。夜空の選抜理由は魔力量の高さも理由だったが、従叔父である結城疾風ゆうきはやて の博論がアルカディア魔術大学との間で物議をかもしたせいでもある。親族の夜空が調停に向かうのが自然という縁故であった。夜空が疾風の名を口にすると、教授の顔色は曇った。

「ううむ。かつて、と言ってもほんの十年ほど前だが、ロンシャンに出前授業に赴いたことがあってな。その時、最前列で居眠りをしていた太い奴がおった。それが確か、結城疾風と言ったと思ったが……」
「それは……すみません」
「儂の不肖の弟子、天河泪 (てんがなみだ) というマジシャンがひどく憎んでいる男でもある」

 夜空は従叔父の肩を持った。

「俺にとって結城疾風はロンシャン留学への便宜を図ってくれた親戚です。泪という人物は知らないけれど、確か、祖父の相棒が天河って名字だったから、もしかすると初代のプリンスにお仕えしていた方かも? 疾風殿は今、日ノ本にあるロンシャン・グリーク共同出資の国立魔法大学で教鞭すら取っていますよ。頭は切れるけれど、人と争うような男じゃない」

 佐野元晴はどんぐり眼を大きく見開いた。

「事情通じゃな。儂が日ノ本を出たのは十を少し越そうかという頃じゃった……だから国内情勢についてはほとんどわからんのじゃ。何であれ、ありがたい。そうか、疾風くんは今やそこに勤めておるのか。泪についてはまあ、気にするな。奴も相当人格には問題がある男じゃ」

 話はすぐに終わり、佐野教授の案内で山を背にした学院中枢部を抜けていった。夜空は二日間ほど眠っており、その間に随伴者のサンド・シーと大学側との間で話し合いがもたれていたのだった。乱入者シリル・クーリール・ド・リュミエールは色彩魔術師としての興味から、夜空の使った『激光 (ジーグン) 』という術に惹かれただけだという稚拙な供述を繰り返しているらしい。佐野教授は太い体を揺すって「困ったことじゃ」と愚痴をこぼし、夜空がどうやってマギカを身に着けたかを知りたがった。夜空は端的に答えた。

「魔法陣の埋込みです。俺の場合は右手です」
「呼称詠唱で発動できるほうが使い勝手のいい魔法じゃからな。儂はマギカが専門なんじゃ。詠唱はできるかね?」
「詠唱は……ええと」
「覚えておかんといかんぞ。一言一句を頭に刻むように」

 学院前のハンプティ大通りを抜けながら、佐野教授は一句ずつ区切って『マギカ』の詠唱を並べた。

「『究極にして深淵たる/真のことわりの名のもとに。魔術師としての資格と共に/我にあだなす全てを滅せ。/究極魔法・Magica』。詠唱通りのことが起きるとすれば恐ろしい魔法じゃな。魔術というものの不自然さを思い、いつも正しい時に正しい力の用い方をしなくてはならない。その厳しい自己批判の精神が、この詠唱には表れておる」

 『魔法』というその名のとおり、汎用系の代表格たる呪文だとロンシャンでは習った。個体に備わる属性反応を消去して純粋な魔素ダメージを敵に与えるのだという。夜空は話を脳内で嚙み砕き、考えを述べてみた。

「祈月一族の二代目、親王の息子であった季徳すえとく 公は、その昔叔父の永帝を歓待するため、我が故郷、渚村で十日ごとに季節を変えてみせたと言います。伝承を紐解くと、それは私が実技試験で演じた楽を用いた集団音楽術とも言えるものでした。予算の無駄だとかいうつまらない批判もありましたが、当年の作物は不作だったとも聞きます。魔法とは小規模な天変地異を起こすもの……そうも言えるのでは?」

 佐野教授はまた丸い目をむき、才気ばしった議論に顔をほころばせた。

「君はなかなかに利発じゃな。確かに、『契約と修行によって風の精の力を借りる』だのもっともらしく言う派もおるが、水、風、火、土といった四大元素の魔法は全て君の言うとおりの側面があるじゃろう。……いずれにせよ、おこがましいとは思わんかね?」

 聞き役に回っていたウィリアムが口を挟んできた。

「それは神にも等しい技だと?」

 佐野教授は顔をこわばらせ、何度もうなずいた。ペースを戻し、正面から問いかけてくる。

「ところで夜空、君が実技試験でシリル・クーリール・ド・リュミエールを攻撃したのは正しかったかね?」

 石畳の道はゆるやかに曲がりつつも市に続いていた。空は快晴、ちょうど昼飯どきで、煮炊きの香りも漂ってくる。荷馬車が悠々と通り過ぎ、競りや客引きの声がやかましい。島の平穏な暮らしに埋没してしまうと、命令ありきとは言え、あのような戦闘を引き起こしたことに対して自責の念が生まれてきた。夜空はサンドシーの命令に盲目的に従った自分を恥じた。

「俺は既に自身の魔法を披露し終わっていた。たとえ刺客だったとしてもヒステリックにならず、周囲のマジシャンに任せるべきでした」

 佐野教授は短くうなずき、無言で先を急いだ。港を抜け、実技入試が行われた砂浜に降りていく。島民や観光客が点々と座ってくつろいでいる。佐野教授もまた黒っぽいローブ姿のままに、構いつけず砂浜に座りこんだ。夜空とウィリアムもそれに倣った。漁師のボートが波でまぶしく洗われている。

「お前を攻撃したのは儂じゃ」

 教授の告白は穏やかだった。だが、組み合わされたずんぐりした手指は小さく震えていた。

「あの時点ではどちらが刺客か大学にはまともに判断できんかったからな。だが、神にも等しい強権を振るうのだから、判断を誤った罰は重い」

 佐野教授は夜空をまっすぐに振り向いた。その目には挑むような光が宿っている。

「儂も無論、故国を出てからは使われの身でたくさんの人を虐げてきた。強烈な力に蹂躙される口惜しさ。理不尽さ。お前のような魔力の強い若者を単に兵器として放置しておきたくない。ロンシャンを警戒する声もあるが、だからこそ同じ日本人としてお前を入学させたいと思う。君は儂の弟子になるんじゃ」

 潮風に髪をなぶられながら、夜空はじっと佐野元晴教授の相貌を見た。時は容赦なく頬や額に深いしわとなって刻まれている。だが瞳だけは夜空とおなじく黒々と今もつややかだった。祖国を出て、砂漠すら越えたはるかなる異国の地で、思いもよらず同郷の人物と巡り合った偶然に、夜空は強い運命を感じた。

 海岸で無防備に背を丸めている老人を見ていると、彼が伝えたがっていた特権の重みも改めて胸に迫ってきた。それはロンシャンで夜空に魔法陣を埋め込んだマジシャンがついぞ口にしなかった大切な教えだ。夜空は左胸に手をあてて、離心なきことを示した。

「その長き苦難の旅路を尊敬いたします」

 佐野教授はうなずいて、夜空の両肩に手を置いた。そして、顎をしゃくってその後ろに控えているウィリアムを指した。

「儂に魔法を撃たれて倒れたお前に、回復魔法をかけてくれたのはこの子じゃ。感謝しなくてはならんぞ」

 夜空はあふれる喜びに急かされ、傍らのウィリアムを抱きしめた。

「君はすごい! あの状況下で俺みたいなやつの命を救おうととっさに動けただなんて。俺は医者志望なんだ、君を本当に尊敬する!」

 ウィリアムはくすぐったがったり、初めて笑顔を見せた。夜空の二の腕に手を添え、照れつつ告げる。

「もう人をいたずらに傷つけるようなことはやめてくれ、悔いることになる」
「そうだね、命令がなければいいんだけど」
「だから医者志望か。うむ。上手い抜け道ではある」

 佐野教授は表向きそう納得し、再び真面目な顔になって連絡事項を述べた。

「学長は特に君の入学を疎んじたが、儂を初めとして、ロンシャンとの関係回復のためには受け入れるべきという意見もある。ピアスでの軍部とのテレパス通信は多めに見るが、ペナルティとして再度の筆記試験が課される。それでいいな?」
「ご温情感謝します! その恩義に報いるよう、励みます」

 夜空は興奮して立上り、目の前の老教授に深々と首を垂れた。

6

 三日後。実技試験で目測された魔力選抜の順番が張り出されて受験生が足切りされた。ルーシャンの人とおぼしき『アレクセイ・P・ヴェルシーニン』が一位、『祈月夜空』は何と二位。そしてすぐ次席に、命を救ってくれた『ウィリアム・エヴァ・マリーベル』の名があった。随伴していた首輪魔術師の『サンド・シー』は驚きもしていなかった。

 夜空は実技での騒動を重くみられ、ヒョウガ・アイスバーグ試験官の特別監視下で再度の筆記試験を受けた。アルカディア魔術大学中央学舎、世界樹治療室にてドクター・ライオネルに診察されたのちに、ヒョウガと二人きりで筆記試験を受ける。

 科目は当日と同じく、世界の歴史、魔術式を含めた魔法学、自然科学と物理化学の三教科だった。論述も二か国語を要求され、より高度な内容となっていた。

 私語はひとこともなかった。

 試験が終わり、用紙を手渡す。夜空は会話のとっかかりを捜した。

「お手数をおかけしています。……ところで、『ヒョウガ』というお名前は日本語ですよね。何か謂れでもおありなのですか?」
「母が日ノ本出身なので、祖母が因んだだけだ。それより、貴様の実技試験はいまだ完遂されていない。教職員の前で今度は属性ごとの基本最小詠唱をしてもらう。カードを渡すので、暗記しておくように」

 ヒョウガの態度は心なしか先日よりも和らいでいるように感じた。夜空がカードを見て暗記に努めていると、声を潜めて話しかけてきた。

「結城疾風という男はどんな人物なんだ? 天河泪は私の旧友でもある。泪自身は、出自を鼻にかけた嫌味な男だと言っていた。ふたりにはずいぶん遺恨があるようだったが……」

 夜空はカードを見るのをやめ、従弟叔父である疾風について知らせた。ぼんやりした風貌の、上背のある白狼亜種の男で、結城氏という古い武家の嫡流である。結城の一人娘を嫁取りした祈月三代目、夜空の曽祖父・正徳 (まさとく) 公の言いつけで、十六年前ロンシャンに留学させられた。以降、天山陶春地方の留守は、夜空の父親である祈月氏・源蔵と、疾風の父親・結城瑞樹が預かっていた。

「そのころ日ノ本はロンシャンとグリークの出資を受け、我々祈月氏が根を張る陶春地方に魔法大学を作った。転送石を置いて、箱を建設したまでは良かったのですが、肝心の教員がいない。日ノ本は今もまだ魔術といえば神殿や寺院が管理する秘術が中心ですからね。疾風殿は教員候補生としてロンシャンへ留学されたのです。私の出産時に母を診てくれた愛野医師の息子さんも共に行かれたとのこと。疾風殿のお人柄は正直、よく知らないけれど、知的で誰かと争うようなタイプではありません。先祖が厳帝なのは私と同じですが、出自を鼻にかけるだなんて……ロンシャンではそんな評判は聞きませんでした」

 ヒョウガ・アイスバーグは腕組みをして、とっくりと聞き入った。

「おそらく、泪も結城殿に随伴した日ノ本のマジシャン候補生の一人だったのだろうな。性格こそ破天荒だったが、魔力は群を抜いていた。今はやつの方こそ行方不明……軍律違反のマジシャンとして『賢人機関』に探される身だ」
「『賢人機関』?」
「ここアルカディア魔術大学の上意機関だ。マジシャンの国際ギルドと考えてもらっていい。しかし……泪のやつ。なぜ私に己の出自を何も話さなかった!」

7

 ヒョウガ・アイスバーグは拳を握り、卓を叩いて憤りを露わにした。ちょうどその折、部屋の扉がノックと同時に開いた。ウィリアム・エヴァ・マリーベルに先導され、長丈のローブをまとった魔法使いたちが入ってくる。狭い室内はすぐに満杯になった。

 試験時には見なかった人物もいる。髪を逆立て、サークレットを身に着けた筋骨隆々の狼亜種の男。白髪をオールバックに撫でつけ、黒の背広をりゅうと着こなした猿族の男。彼等はそれぞれビリジアン・グリーンと漆黒のマントを羽織っていた。佐野教授と、実技入試の際に唯一味方をしてくれたシオン図書館長の姿もあった。図書館長は様子を見るやいなやすぐにヒョウガに注意をした。

「ヒョウガ・アイスバーグ。ロンシャンからの正式な受験生に対して一度ならず二度も三度もの諍いはよくありませんね。話は後にして、早く属性系の確定を」

 図書館長はどうやら仕事優先の人物のようだ。夜空は渡されたカードにさっと目を通すと満座を見渡して詠唱を始めた。

「四元素の根元たる水の元素よ応じたまえ、我が指先に集結し、天地を流るる涙となりて、生誕と死とを司り、穢れを祓い清めたまえ。水魔法・AQUA」

 驚くべきことに、魔法陣も埋め込んでいないのに夜空の指先には水滴がしたたった。

「次、火!」

 ヒョウガの号令に急かされるまま、炎魔法・『Ignis』を詠唱する。果たして、呪文の願いのとおり指に小さな灯がともる。そのまま風、土と進む。窓を閉め切られた部屋の中で微風が生じ、しかし土の呪文には何のきざしもなかった。続けて、黒マントの男がほくそ笑みながら命じた。

「水、火、風属性に反応ありか。つづけて光!」
「……自然と人とを超越する光の波よ応じたまえ。原初の闇を消し去りて、正邪を分かつけじめとなりて、あまねくを照らしたまえ。拡散せよ! 光魔法・LUX!」

 夜空の願いに応じて、白い光が五指から強く放たれた。佐野教授が指示を出す。

「放った光を操れるか?」

 夜空はさっと消えていく光線のひとつを『激光ジーグン 』の術の要領でじっと睨んで呼び戻し、手のひらで包んでみせた。ビリジアン・グリーンのマントの男は目を輝かせた。

「先の試験の話は聞いた! 天空を統べる資格があるかが肝要だ。必ず我の授業には出席すること!」
「まだ合格通知は出ていませんが」

 シオン図書館長が苦笑しつつとどめる。佐野教授が間に入る。

「闇と光の基本最小詠唱には締めがあるぞ。光は『光あれ!』。続けては闇じゃが、これを行わんと暗くなったままなのできちんと解呪するように。『闇に謝す』じゃ。」
「そう。吾輩がアルカディア魔術大学闇属性塔の王こと、アントン・”ヴラド”・カルリーニだ。最後の関門は闇属性。魔術の根源。対峙してみせよ」

 得意げなカルリーニ伯爵の前で、夜空はねばついた唾を飲みこみ、闇属性の基本最小詠唱をはじめた。

「全ての端緒と終焉たる、純なる闇よ応じたまえ、残照をあまさずかきはらい、ただひとときの夜となりて、迷い苦しむ魂に、無限の安息を与えたまえ。闇魔法・Nox」

 夜空は呪文を唱えながら、砂漠のあのどこまでも広い天蓋を思い出していた。苦難の旅のさなか、遮るもののない満天の星空は圧巻の織物であった。照り輝く星光は神秘に満ち、ひとりの造物主が奇跡的に配材したという聖書の神話を思わず信じたくなったものだ。魔法が発動し、部屋全体がさっと不自然に暗くなった。たしかに、この状態を放置は無責任なのだろう。天山の風習で両手を合わせ「闇に謝す」と解呪のことばをつむぐと、元通りになった。

「では、予定通り闇塔所属ということで」

 シオン図書館長の言葉に、カルリーニ伯爵と佐野教授が礼をする。ウィリアムの姿を探すと、彼は灰色の修道服を着て、入り口近くで事の次第を見守っていた。シオン図書館長はしなやかな猫の尾をくるりと巻くと、隠しから銀色のピアスを取り出して夜空に見せた。

「実技試験、お見事でした。あなたがつけていたピアスですが、ロンシャンとのテレパス通信が出来るようですね。私にはその力はないのですが、しばらく預かっておきます。また、あなたは日ノ本の祈月氏の人間だと言いますが、その身分を証明するものはお持ちですか?」

 夜空は少しためらった後、グレーの軍作業服の中から首に下げていた短刀を出した。鐔のない合口拵え。黒蝋色塗の鞘にはほんのわずかに弓を張った新月紋と螺鈿の桜が描かれている。柄は鮫皮を着て底は黒漆で染め、目抜き釘も横雲のかかった月紋の彫刻である。下緒は紅、白、藤紫の組紐だ。抜かずとも美々しい武具の登場に、一堂は目を見張った。

「これが『新月刀』、祈月の護り刀です。……同じ紋付の陣羽織も携えてきています。我ら祈月一族は皇族の出でしたが、近隣の神殿、常春殿に巣食う『日の輝巫女』という魔物による排斥と、政敵・鷲巣氏との攻防により、今や危急の時を迎えています」
「それも儂は知らなんだ。穏やかでないようじゃな」

 夜空は陶春府制海長官である久緒 (ひさお) 氏の宗盛を食い殺した不老の女、『日の輝巫女』についてもっと訴えかけようとした。だが、カルリーニ伯爵がシオン図書館長に水を向けたことでその機会は失われた。

「結構。それでは話を済ませてしまおう」
「はい。結城疾風殿はご親族とのことなので打ち明けますが、アルカディアとロンシャンとの国交が冷え込んでいるのは、ロンシャン側でアルカディアの教育の評価が低いこともありますが、とある博士論文の内容が物議を醸したからなのです」
「その内容というのは?」

 ウィリアムが片手を上げて質問する。シオン図書館長はちらりと彼を睨むと、夜空に向き直り説明を始めた。

「タイムトラベルや運命操作に関する実験報告です。アルカディアでは禁じられている内容ですから、博士号は認められないと突っぱねました」
「その著者が夜空の親族の結城疾風くんというわけじゃ。ちなみに、ロンシャンでの儂の出前授業で居眠りをしていた太い人物でもある!」

 佐野教授は些細な失点をしつこく繰り返した。戸口にいるウィリアムまで真剣な顔で相槌を打っているために、夜空はフォローを諦めて引き下がった。

「その論文は俺も写しを持っています。確かに結末は皮肉なものだったけど、アルカディアでは禁域研究だったのなら……ご判断は妥当です」
「物分かりが良くて何より。当時、ロンシャン側からは圧力があったのですが、あなたの言うとおり、彼のドクター号は認められない。随伴の『サンド・シー』殿にも伝えましたが、あなたを入学生として受け入れる代わりに、その決定を再度ロンシャンにも了解してほしいのです。祈月一族や『日の輝巫女』という魔物に関してはこの大学にも資料があるかもしれませんが……急いては事を仕損じます。入学後ではいかがでしょうか」

 いくら空威張りをしてみても、所詮は騒ぎを起こし、実技試験の運営を滞らせた身であった。シオン図書館長の決定はありがたい。話はまとまり、魔術師たちは部屋を後にした。ウィリアムだけがその場に残る。ふたりで治療室を片付け、多少緊張しつつも宿屋『海鳥亭』への帰途についた。

8

 新古典主義様式で作られた大学中央学舎を仰ぎ見て、ほんの少し風の強い青空の下をウィリアムと行く。空を行く鴎の数を数えつつ、夜空は少し自身を茶化した。

「ロンシャンを出たと思ったら、故郷や一族の話だなんて、まるで亡霊に追いかけられてるみたいだな」

 修道服をかっちり着込んだウィリアムは軽く相槌を打っただけで話題を変えた。

「しかし君は凄いな。音楽術だけでなく、あんなに様々な属性魔法を操れるとは」

 夜空は今までそれを褒められたこともなかったので何か身の丈に合わない服を着たような気持ちになった。黙っていると、ウィリアムは身の上の質問をしてきた。

「もう日ノ本には住んでいないのか? ロンシャンには何歳で渡った?」
「うん、ロンシャンには亡命したって思ってる。十一歳のころかな。鷲巣っていう軍閥とが幼い俺を人質にしようとしたから、抗いきれなかったんだ。それからは、ロンシャンのヨハネス・ゴールドベルク大統領、俺たちはボスって呼んでるけど……そのお方の世話になってるよ」
「君の実技試験での演奏には興味をもった。だから、今祖国にいないのは意外だな」

 ウィリアムは早足で市を通り抜けようとしている。少し土産でも買いたかった夜空は袖を引っぱって止めた。荷台に積まれた一杯の林檎が赤赤と照っている。昼食代わりにいくつか買い込み、行儀悪くかじって歩いた。

 夜空はウィリアムに気に入られたい一心で、故郷、渚村での暮らしを面白おかしく話した。

 乳兄妹の娘と行動を共にしていたせいで、久緒氏の年上の姫君にふられたこと。鈴なりになった柿を木登りして取って、みなが渋柿だと止められたのに欲張って口に入れ、騒ぎになったこと。「正確無比なテクニック! 時には非情なまでに!」が合言葉の厳しすぎるピアノレッスン。結城氏でついた剣術指南役・兵藤のほら吹きぶりや、久緒氏から頂いた鷹狩用の『白彗』号。荒磯神社主催の水練に大商人の息子が母親同伴で参加した話。神殿から課せられる重すぎる苦役。

 貴族の息子が話す物語にしては庶民じみていたが、どの話にも守役の夏目雅の登場があり、その息子である文香 (ふみか) 、それに乳母の夏口翠、乳兄妹の志弦 (しづる) や、母の実家草笛の従弟、広大 (こうだい) などの側近が夜空を取り巻いていた。唯一、弟の「清矢」の名だけは取り上げられなかったが、ウィリアムは興味深げに聞きいり、時に年相応な笑顔を見せた。

「まったく、君はずいぶん破天荒な若君だったようだな!」
「父上が朝廷に出仕するせいであまり俺を見られなかったからね。常春殿に献上する作物を奪おうって計画まで立てたこともある。神様への供物という面もあるから本当はいけなかったんだけど……神殿の大巫女はね、串田とかいう超古代の風習を持ち出して、勝手に畑を収奪していくんだよ。それも不作の年に限ってだ。じゃあもう供物は必要ないだろうって! 君のほうはどう? 俺は、一日中だってしゃべり続けられるけど」

 ウィリアムは興が乗ってしまった夜空の話をやんわりとさえぎった。

「話は多少戻るが、私も実際は故国のクイーンズアイランドには仕えず、カソリックに改宗してバチカンの退魔軍に行きたいと思っているんだ。だから君の境遇もそんなに他人事ではないな」

 彼は市を物色しながらそう語った。燭台を買おうかどうか吟味しているウィリアムの横顔を見ながら、夜空は尊敬に胸を熱くしていた。それはロンシャンで必要に応じて培ってきた人間関係とは根本から違う性質の感情だった。

「そうか、君も……」

 興味のない古い皿などを見ながら、夜空も将来の希望を何気なく述べた。

「俺はここで魔法での医療について勉強して、マジカルドクターになりたいな。故郷の『日の輝巫女』は魔物だって話だけど、人間の姿をして権力と癒着しているから排除は難しいし、一人じゃとてもね」

 ウィリアムは購入を決めたらしく、店主と相談をはじめている。夜空もこれからの生活のためにジョッキが欲しくなり、また葉兄妹にも花を買っていこうと思って、次第にそわそわしはじめた。ウィリアムは銅貨で支払いをしながらあっさりと言った。

「二人なら?」

 夜空は何の話かが呑み込めず、「えっ?」と素っ頓狂に聞き返した。ウィリアムは燭台を持って諭す。

「君の話によれば、国に残った同世代の若者たちはみな、その魔物を憎んでいるんだろう。この大学で学んで、魔物と伍する力をつけて……討伐が不可能ってことはないんじゃないか」

 思ってもみない計画を語られて、夜空は黙りこくった。あの『日の輝巫女』は、史料によれば百年を生きているはずなのに三十代のうら若い姿を保っている魔物だ。少なくとも夜空はそう教えられて育った。常春殿が裏で飼育していた白蛇の魔物であるという噂は、周囲では常識と信じられていた。

 神殿に木材の供出を命じた伊達氏のお殿様は家臣の眼前で食い殺された。神官長の屋代氏はいつだって護衛代わりに巫女姿のその女を里や村にまで連れ歩いている。

 けれど夜空も実際に彼女が人を殺した瞬間など見たことはなく、ただ老けないという事実だけを、幼い頃からの記憶で確認できるだけだった。

 『日の輝巫女』の魔物伝説とは要するに、地域の神殿支配の強大さを物語るひとつの証左に過ぎない。ウィリアムに正面からけしかけられても、それをしないための言い訳がいくつも浮かんできた。夜空がまごついていると、ウィリアムはふっと微笑み、再度話題を変えて、魔術についての持論を展開しはじめた。

「私は、なるべく魔法を人相手に使いたくない。たとえ回復術であってもだ。それは神から借りている力に過ぎない。魔物に対してのみ振るわれるべき、悪を罰する力だ。そうでなくてはマジシャンが異端者として忌まれるのも当然だから」

 夜空は得心がいかなくてうなった。

「たとえ回復術でも? 君は俺を治療してくれたじゃないか」
「それは君が瀕死だったからだ! 実技試験で死人が出てはどうしようもないだろう。ドクター・ライオネルだって冷たいように思えるが、君と被害者の人命を救うために必死だったんだぞ。君は全てに感謝して、真摯に修行の道を歩むべきだ。ロンシャンの権力を盾に今回のような騒ぎを起こすなら容赦しない。……同じマジシャンとして私が罰する。事情もちなのは分かったが、そう誓ってくれ」

 清らかな春のそよ風に吹かれながら、夜空はきょとんとウィリアムを見た。彼はいっぱしの司教のような顔つきで、その美しい緑の瞳を逸らさない。夜空は少し子供っぽいとも思いつつ、右手を握って小指だけ立てた。

「それは?」

 ウィリアムが柔らかく尋ねてくる。夜空はとぎれとぎれに答える。

「指きり。日ノ本の風習なんだ。分かったよ、俺……実技試験のことを反省する。助けてくれた君に誓う」

 そして、ウィリアムの小指に己のそれをからませて、目をつぶって言った。

「指切りげんまん。嘘ついたら針千本飲ます。指切った、と……」

 ウィリアム・エヴァ・マリーベルは約束が済むと、興味深げに自分の小指を眺めた。そして、しばらく沈鬱な視線を夜空に送った後、別れの言葉もなしに去って行った。

(1-3につづく)