万聖節の夜物語 アルカディア魔法大学逃亡編(1-5)

第二章

17

 翌週、いよいよアルカディア島のランドマーク、ゴント山での早朝実戦訓練が行われた。参加者はマスター・アジャスタガルの元に集った闇属性塔の新入生全員と、ウィリアム・エヴァ・マリーベル、クリストフ・アイフェン・ホルツメーラー、そして休講中のファイアーボルトゼミより先輩のホーソンである。ほぼ一年生のみという面子に危機感を覚えたのか、アジャスタガルだけでなく入学前にひと悶着あったドクター・ライオネルと聖属性塔からシスター・グラジオラスも引率していた。

 登山口に集まった闇塔の新入生たちの装備はチグハグだった。ノエーミはいっぱしに魔法石つきロッドを装備していたが、服装までは気が回らなかったのか、式典用のローブを肩にかけている。ジアースは両手にジャマダハルを装着して防具は皮鎧。傑作なのが夜空であった。ロンシャン軍から支給された軍作業服にハープを携えるといった実技入試以来の奇妙ななりだ。ウィリアムは困惑している。

「夜空、君は吟遊詩人かなにかか?」 「俺もジアースみたいに刀のほうがよかったか。術を操るっていうとこれしかなくってさ……」 「楽器って、遊びじゃないんだぞ。刀があるならそっちのほうが役に立ったよ、お前」 「……だが実技試験では音曲で回復もできたと報告を受けてる。どの程度役立つか計測したい。休息中に弾いてみること」

 新入生に実戦経験を詳しく聞きまわっていたドクター・ライオネルが堅苦しく指示をした。アジャスタガルの隣についているホーソン先輩はパーティの中で最も不安げだ。深刻な顔で作戦を立てはじめる。

「とりあえず、新入生ふたりが前で止めてる間に、俺が最強ファイアーボルトで焼き尽くすってプランでいこう」

 おざなりな戦法に速攻でマスター・アジャスタガルからの罵声が飛ぶ。

「馬鹿ッ! そんなのすぐに蘇生術の出番だろうが! 初手はファイアーチェインで拘束するんだよ、本当にお前は誰に何を教わってると思ってるんだ……」

 盾やロッドを装備しているウィリアムとアイフェンは慣れた風情で申告した。

「私はアンデッド相手ならホーリーライトで浄化できます」 「僕も、初歩の水魔法はもう使える。火系の敵が出てきたら唱えればいいんだよね?」 「オッケー! そうそう、反属性を敵に使ってね。だいたいは見た目で判別できると思うけど……」 「そ、そうか。じゃあ俺は『風の歌』を春夏秋冬、弾きわければいいんだな。だめならマギカと……」 「いや、今からでもカタナ持ってきて前衛しろよ!? ファイアーチェインは僕の手が火傷するんだぞ!?」 「……ホーソン、お前もう帰っていいぞ。今からでも他呼んで来い」

 学生たちの放縦ぶりに、アジャスタガルが目を廻しそうになっている。シスター・グラジオラスも厳しい視線を向けていたが、落ち着いて提案した。

「ですが、アジャスタガル先生。新入生は以下の三点のみ意識できればそれで良しとすべきでは? まずは詠唱の時間を稼ぐ、次に敵ごとに有効な呪文を学ぶ、三点めは魔力量の管理……いいですね? 教員も潤沢に引率しています。遅れは取らないはずです」 「そうだな。よし、じゃあ夜空はマギカのみ使え。アイフェンも水系の初歩、アクアボールだけ。ウィリアムはホーリーライトだけ。一発入れられたらそれ以上は無理するな。後は俺が燃やし尽くしてやる……ジアースはどうする? 今日はホーソンと一緒に前衛だけにするか」 「わかりました」 「げ、結局ボクは前衛になるんスね……はは、ボルト撃ちたいよぉ~~!」

 ホーソンが弱音を叫ぶが、教員は全員取り合わなかった。ドクター・ライオネルがシスター・グラジオラスに気を使った素振りで尋ねる。

「回復は私がしますが?」 「そうですね、今回ばかりは譲りましょう。ウィリアム、魔力を無駄にしないように」 「ノエーミさんは護衛される商人役という設定だ! 新入生も彼女だけは守るように動いていけ! よし、それじゃあ踏破訓練、開始!」

 登山口の柵を乗り越えて、一行はゴント山に入った。麓は森深いが、修行で足を踏み入れる者も多いのか、道は整備されている。下草には朝露が浮き、少し霧立った山道は木々の香りもみずみずしい。後ろから奇襲されないようノエーミを中心に置いて、シスター・グラジオラスを先頭に行軍した。道を曲がりもしないうちに、腰ほどの背丈の小鬼が連れ立って飛び出してくる。

「Fire chain!」

 すかさず先輩のホーソンが両手で一本ずつ炎鎖を操り、二匹を拘束した。ジアースはフリーの一匹と対峙し、ジャマダハルで顔面を切り裂いている。シスター・グラジオラスは強烈な退魔の光で残る一匹を瞬時に浄化せしめた。ウィリアムも続けさま、ジアースの攻撃している一匹に聖なる裁きを与える。夜空も急いでマギカを放ったが、三人で攻撃しているはずなのに魔物はだいぶタフだった。先陣切って敵と戦っているジアースは両手に刃を装備しただけで、盾すら持っていないのだ。夜空はとどめを刺せず内心で焦りはじめる。

 だがジアースの体術は並の兵卒などとは次元が違っていた。軽装の彼は武骨な切り合いなど選ばない。ちょこまか跳ねる小鬼を剣舞で正確に受け流し、残影で翻弄する。後方に回った鋼の刃がざっくり背を切り裂くと、アイフェンのアクアボールによって前からも手ひどく洗われ、小鬼は塵も残さず消滅した。

 ホーソンが様子を見て片方の拘束を解く。すぐにウィリアムの退魔の光、ホーリーライトが襲い掛かり、ジアースはそれを追いかけるように刃を水平に構えて突進した。ホーソンが一方の拘束を強め、空いた左手を天にかざす。

「Double Casting……Fire bolt!」

 とたんに炎の短箭が上空から降り注ぎ、小鬼を熱線で次々と射る。ひるんだところにジアースが喉元に致命の一撃を刺し入れた。最後の一匹は拘束されたまま魔法と剣戟の乱打を浴びてひとたまりもない。ひゅう、と口笛が響いた。

「ジアース、飛ばしすぎるなよ。無理だと思ったらすぐに下がれ」

 高みの見物を決め込んでいたアジャスタガルは新入生の活躍に感心したようだ。暗殺者志望の少年は息すら乱さずに吐き捨てる。

「魔物には容赦なくやってもいいから……かえって楽です」 「いくら切ってもものともしない奴もいるがな。さ、どんどん進むぞ」

 四半刻も行かないうちに次の魔物が襲ってきた。夜な夜な光って空を飛ぶ雑駁な魂、ウィル・オ・ウィスプには斬撃も効かない。山羊面に人身の悪魔クランプスは木の鞭の重い衝撃で肉をえぐってくる。夜空だけではとてもかなわないだろう化け物たちだったが、アジャスタガルが見守っていたのは初戦だけで、シスター・グラジオラスと連携して、素早く焼き尽くしてしまった。先輩のホーソンも拘束すべき敵とそうでない敵を素早く見極め、ファイアーチェインのかたわら色とりどりのボルトを放っている。事前の心配が嘘のように軽快な往路だった。

 やがて、一の断崖にたどり着いた。全部で十二あり、山を頂上までらせん状にとりまく嶺のひとつだ。アジャスタガルは登りを選択せず、一時休憩を宣言した。岩や切株に座り込んでおのおの水筒を傾け、ノエーミが差し入れてくれたドライフルーツをかじる。いまいち活躍のない夜空も『風の歌』の春の調をつま弾いて、皆の疲れをいやした。ドクター・ライオネルはジアースの脈や呼吸数を数えて曲の回復量を計っている。ほがらかな和音に浮かれたか、ホーソン先輩が軽口をたたく。

「いや、かなり楽になりますよコレ! 全体回復かあ、夜空はもうコレだけやってればいいんじゃないかな?」

 夏の朝はいまだ爽やかで、憩いの時はあっと言う間に過ぎていく。シスター・グラジオラスとマリーベル、それにアイフェンは地図を見て残りの道のりを確認している。どうやら今日は麓を一巡りするだけらしい。

 順調だった行軍は後半でほころびを見せた。張り切りがちだったアイフェンが魔力切れを起こしたのだ。術もだましだまし使うしかなくなり、ノエーミとともに商人役に格下げされた。こうなると拘束役の先輩の負担が増え、いきおいジアースの交戦時間も長くなる。斬撃の通じないウィル・オ・ウィスプが彼を取り囲んでちょっかいを出し、小鬼がケタケタ笑いつつ皮鎧を切り裂いた。小鬼の爪は皮膚まで届き、ジアースは胸に血をにじませて体を器用にそらしたが、そこにクランプスの頭突きがうなった。山羊の角が腹を突き、ジアースはよろめいて軽く吐いた。

「いっ痛……、ちょっとごめ、俺、下がる」 「夜空、マギカ連打しろ! ホーソン、ボルトやめ、拘束! シスターと俺で焼き尽くす!」

 アジャスタガルは動じず、短く命ずると大魔法の詠唱をはじめた。蛇、という形容ではもはや生易しい、炎の龍がとぐろを巻き、術師の怒りを表象するかのように地を這って、魔物の群れを全部まとめて舐めあげる。夜空も必死でマギカを掌底から続けさまに発動し、クランプスは咆哮を残して消滅した。夜空は敵の散華を確認しきらないうちに、腹部を突かれて目を廻しているジアースに駆け寄る。

「ジアース! 大丈夫? 俺の『風の歌』で間に合うかな……? そうだ! ウィリアムなら、ジアースを治せる?」

 無邪気にそう問いかけると、ウィリアムは少しだけためらった。シスター・グラジオラスがぬっと顔を出し、彼の肩をつかんで止める。

「この子は過回復。むやみに神の奇跡を代行させられません」

 ジアースと夜空が眉をひそめると、ドクター・ライオネルが白衣のポケットに手を突っ込んでぶっきらぼうに言った。

「医者になりたいんだろう?」 「えっ。は、はい」

 髪を後ろに撫でつけた、峻厳な男が冷たく問う。夜空は少し気おされつつもうなずいた。ドクター・ライオネルは夜空に命じた。

「服を脱ぎなさい」 「服を……? はい、わかりました」

 藪から棒な要求にも夜空は素直に従った。軍服のシャツをはだけて、上半身を見せる。訓練と長旅のおかげで体躯はひきしまり、くっきりと筋が浮いていた。ドクター・ライオネルはジアースを放置してメスで夜空の左胸、心臓の上に複雑な魔法陣を書いた。鋭い刃で皮膚がなめらかに切り裂かれ、赤い血がつぷりと珠になって溢れる。ひりつく痛み。夜空は全身に力をこめて不随意に動かないよう耐えぬいた。ドクターライオネルは仕上げに傷に魔素インクをかけ、詠唱を唱えて体に術式を浸透させた。魔法陣埋込み。高度な魔法で行われる正式な伝授法である。魔法使いの体は、それ自体が魔術書なのだ。

 陣がライオネルの詠唱に反応して赤く光り、やがて体内に取り込まれていった。傷もいつの間にか修復されている。ドクターは夜空の背後に立ち、左手を導いて今度はジアースの傷に正しくあてがう。

「言う通りに唱えてみろ。単純な外傷だからこれで治るはずだ」

 そして、第五元素、先の人の世では存在を否定された錬金術での究極物質、プリマ・マテリアに呼びかける詠唱をはじめた。

「我らが燃やす神秘の炎、知力の命脈たる魔素と、微細なる生へ賛歌を捧げる……塵で作られし下僕への、限りなき祝福と愛において、疵を繕い、停止せぬ歯車となせ! 回復魔法・ディア!」

 導かれたとおりに繰り返すと、ジアースの側に磁石で体が引き付けられる感じがした。己の血を注ぎ込むのに似た一瞬の酩酊があって、柘榴色の閃光がまばゆく散った。ジアースの傷はじわじわと熱を持ち、流し込んだ魔素で患部が作り変えられていく。魔素を使って命の熱を分け与え患部を再編する魔法、果たしてそれがディアであった。

「うっ、痛みは……引いたかな?」

 ジアースが首をかしげながら胸元をたたく。皆が集まり、前衛の様子を気遣う。アジャスタガルは退却の判断をくだした。

「よし、そろそろ街に戻るか」 「ここからだとちょうど学院の裏手に出ますね」

 ジアースは動きにキレも戻り、ダメージなどなかったかのように列の先頭を走った。夜空はぼんやりと自分の左手を見た。ようやく人を傷つける術でなく、癒す光を得た。これはほんの始まりにすぎないのだ。今回はドクター・ライオネルの言うとおり単純な裂傷で、皮鎧のおかげで傷もそこまで深くなかった。

 緊急時の体への触れ方や、慢性の病への薬の処方、それに正しい診断。医者になるのに必要な知識量は途方もない。行く先に思いをはせつつも、夜空はジアースが三角の猫耳をそば立てて歩く姿を感慨深く眺めた。初めての患者だ。この仕事の重大さに比べると、魔物のせん滅などは完全なるよそ事に思われた。

 ふと、ウィリアムが隣に並んでいるのに気付いた。何事かを思い詰めた横顔だ。今まで世話になりっぱなしだった彼のことも支えていけるかもしれない。療治が成功して気が大きくなっており、夜空は気楽に声をかけた。

「ウィリアム。ケガしたらすぐに言ってね」 「……ああ、わかった。君も油断するなよ」

 その笑顔は少しばかり無理しているようにも見える。

18

 演習が終わると、授業開始時刻まで解散となった。ジアースは二度寝、ノエーミも寮に戻って朝食を作るらしい。アイフェンとも別れ、夜空は聖属性塔に戻ろうとするウィリアムの背中を追った。

「ウィリアム! 来てくれて本当にありがとう。すごく助かったよ。活躍してたね」 「ジアースを治療してやれなくてすまなかった。ここの魔物はわりに強いな」 「そのことだけど……シスター・グラジオラスが言ってた『過回復』って何? たくさん回復するんだからいいことじゃないの?」 「……君は知りたがりだな」

 ウィリアムは寂しそうに微笑むと「少し話そうか」と夜空を誘った。聞かれたくない話題のようだ。街はずれには昔の集会場だった遺跡がある。円形劇場を模したそのモニュメントの近くにはラヴァーズ・ポンドと呼ばれる小さな人工の湖があった。古い水道橋から往古のままに水を引き、公園として整備しているのであった。朽ちた石壁が池の半径を多いつくし、地面には薔薇や金雀枝が植え込まれて夏の終わりを咲き誇る。睡蓮が幻影のように水面を彩り、恋人たちの湖には他の人影はなかった。ウィリアムは湖畔に座って、寄せてくる水でばしゃばしゃと顔を洗った。夜空は湿気で濃淡を増した草の匂いを存分に吸って、相好を崩した。

「いいところだね、俺、泳ぎたいよ!」 「まったく、君は……私より年上なのに存外子供っぽいんだな」

 演習で汗をかいていたこともあり、夜空は思い切って軍作業服を脱ぎ、服を岸辺に畳みこむと、半裸になって湖に飛びこんだ。元気のないウィリアムが笑ってくれれば、という目算もあった。

 水草の根をかきわけて湖水を行く。真夏日で水温はぬるく、水深も浅かった。顔を水に突っ込んで膝を抱え、しばらく浮力に身を任せて体重から解放される。演習で火照った肉体が心地よく冷えていって、かすかな波が疲れをほぐす。ざばりと立ち上がって遺跡の隙間から大空を見上げた。切り取られた空は特別仕立ての濃い碧板だ。尾や耳を震わせて、思いっきり水切りをすると、傍観していたウィリアムが苦笑した。

「待て! 私に飛沫がかかるだろう!」 「君も来なよ! 涼しいよ、泳げないなら支えてあげる!」

 マリーベルは誘いには乗らなかった。夜空も強要はせず、岸辺に上がって手拭いで体を拭く。カーゴパンツを履いてシャツだけ羽織り、長い髪も絞ってくつろいだ。爽やかな風に色彩を添えたくて、お気に入りの練習曲をハープでつま弾く。天使の声、と号された甘い響きだ。音楽に誘われたのか、マリーベルは事情を打ち明けはじめた。

「過回復はヒールの特殊体質で、君の言うとおり回復量が通常より多いのが特徴だ。アンデッドを浄化できる一方、対象の老化まで促す可能性がある。シスター・グラジオラスはだから私を疎んじているし、見張ってもいるんだ」 「疎んじるって……君みたいな優等生を?」 「まあ、私は君のため学長にも逆らう男だからな」 「ごめんよ……話しづらかったろうに」

 夜空はそう言ってハープを地面に置き、ウィリアムの手をとった。

「今日、俺は『ディア』を教えてもらった。そっちなら君の体質だって平気なんじゃないか? 今度、ドクター・ライオネルに相談してみようよ」 「そうだな、感謝する」 「どこか怪我してない? 疲れていない? 俺、君のためなら魔力が枯れるまでなんでもしてあげたいと思うよ……」

 ウィリアムは夜空の質問にどこか自嘲するように微笑むと、初対面の時と同じく、冷たい頬にキスをしてきた。小さくついばむような愛らしい感触に、夜空は思わず照れてしまった。

「えへへ……ありがとう」

 ウィリアムは夜空の肩に手を置いたまま、唇を苦笑のかたちに変えた。若干乱雑にわしわしと濡れた頭を撫でてくる。夜空は行儀が悪いとわかっていたが我慢できなくて尻尾を振った。太い尾が揺れて水滴をまき散らす。

「あっ、こいつ。私まで濡れてしまうと言ったろうが!」 「ごめんごめん! わざとじゃないんだよ。君と遊べるのが嬉しくて」 「……まったく、無邪気だな」

 ウィリアムはそう言って何度か顔に短くキスしてくる。頬にそっと手が添えられ、そのぬくもりが心地よい。くすぐるような乾いた感触に、夜空は全力で甘えたくなった。まぶたを閉じてされるがままになっていると、ウィリアムがつぶやいた。

「ずっとこうでいられたらよかったのに」 「どうしたの? 何かあった?」 「……こちらの話だ。しかし君は、私にキスされて嫌じゃないのか」

 指摘されて、夜空は急に恥ずかしくなった。十七を過ぎた男が子供じみたじゃれ合いでキスをしているなんて、ヴェルシーニンやクラウス殿下には絶対にバレたくない。ウィリアムが与えてくれるその行為は、本人が言うには彼なりの祝福らしい。だから素直に受けとめ、慈雨のごとくに味わってきた。しかしそれは天使が沈黙を引き連れて通った程度の、気まぐれにすぎないのかもしれない。尻尾を振って喜んだりして、意地汚いと思われたか。夜空は不安になりつつもウィリアムを褒めたたえる。

「嫌なんてとんでもない。君からのなら、俺は歓迎だよ。でも照れちゃうから……二人だけの時だけにしてね」

 上目遣いであざとく頼み込むと、ウィリアムは呆れつつも微笑みを浮かべた。手をとられ、もう一度、正面から唇にキスをくれる。わざと幼くナイーヴに振舞った夜空もこれには驚いた。押し花のように薄い唇が触れあって、呼吸さえしばらく止まる。ひとときの交歓ののちに、時が緩慢に流れ出した。長い睫毛に縁どられた翠緑の瞳が神秘的にまたたいて蝶が飛び立つように離れていった。深い接触をウィリアムは茶化さない。一息ついて、素面に戻るとしみじみと言った。

「君は驚くほど無防備だな……魔力量も凄いし、秀才ぶりも聞こえてはくるが、ほんとうに心配だ」 「頼りないかなあ」

 夜空も身を乗り出して美しい目を覗き込んだ。距離が近すぎたのか、ウィリアムが頬を赤らめて立ち上がる。

「守ってやる、というのも少し違うか。それにしても、早く服を整えろ。風邪を引いてもヒールできないぞ」 「はは、わかったよ。おじいちゃんになったら困っちゃう」 「そういうことだ。夜空」

 初めてきちんと名前を呼ばれて、夜空はむずかゆい嬉しさを感じた。声はそっけなかったが、ひとつひとつ丁寧に発音されたその名は非常に甘く聞こえる。

「あのさ……俺も、『ウィル』って呼んでいい?」 「親もそうは呼ばないんだがな。構わない。君からなら」

 夜空は高まる鼓動をごまかすように尾を振ってそわそわし始めた。ウィリアムはそんな夜空を見つめて、もう一度名を呼んだ。

「なあに、ウィル」

 ウィリアムは明らかに照れ隠しで夜空の狼耳をわしわしと撫でた。そしてむき出しの素肌を見咎めると、腕を組んで指摘してくる。

「前を閉・め・ろ。はしたない。何を見せびらかしているんだ」 「あっ、ごめん。お見苦しいところを……」

 夜空は慌ててシャツのボタンを閉めはじめた。

19

 十日後、他の授業から少し遅れて、闇属性塔での月魔法授業の召集があった。入寮からすでに二か月たった今では、その授業のマスターはジュリエッタ・ルナ・アルテミウスという、実技試験で夜空の出自を罵った人物である。夜空はその諍いまで遺恨にする気はなかった。むしろ、彼女の側に何かロンシャンと敵対する理由があったのかもしれない。誤解を解くため、葉海英 (イェ・ハイィン) 、そしてジアースとともに三階の実習室を訪れると、真珠のティアラをつけた女性が落ち着かない様子で待っていた。

 実習室には教壇の後ろに一点、生花を模ったタイルが埋め込まれている。女神めいた風貌の彼女がその前に座るとまるでカメオ彫刻のようで絵になっていた。補佐役としてか、シャドウウォーカーの卵と思しき先輩が付き従っている。こちらも、黒膚に白のフードが映える精悍な美男だ。夜空はしゃちほこばって挨拶をした。

「マスター・ジュリエッタ。祈月夜空です。実技試験では口答えをして申し訳ございませんでした」

 ジュリエッタは腕組みをしてうなずき、言葉少なに返事をした。しかし、目を合わせようとはしない。夜空は自分から踏み込んでみることにした。

「ロンシャンに何か思うところがありますか? 俺は貴女については事前に何も知らされておりません。もしよければ、ご相談いただければと思います」 「ああ……まあ、お前は来ると思っていた。名前からしても月魔術に縁がありそうだからな。ロンシャンにはいい思い出はない。何を言っても無駄だろうが……」 「でも、俺や海英 (ハイィン) の師となってくださるなら、ロンシャンの要人もあなたに感謝するはずです。手紙で報告もできるし……」 「うん。そうか。それは……ありがたいのかな。私が気にかかっているのは『アンジェリカ』という男についてだ」 「『アンジェリカ』?」

 夜空は思いいたるところがあって口ぶりを重くした。『アンジェリカ』はロンシャンの筆頭首輪魔術師だ。『サンド・シー』と同じ区分だが、キャラバン護衛の彼とは違って主にグリーク方面の調略を担っている。何よりも、夜空に『マギカ』の魔法陣を埋め込んだ人物である。わざと詠唱を教えなかったが、それは「本を読めば載ってる」からだとうそぶいていた。あくまで職人気質だった『サンド・シー』と比べると、かなり食えない男である。

「『アンジェリカ』があなたに何を? すみません、話したいことではないでしょうが……」 「私がこの地に流れ着くことになった理由が、その『アンジェリカ』なんだ。お前はあの男を知ってるのか? 己を閉じて他人をすべてせせら笑う、世界一偏屈な男……!」

 夜空はいきなり窮地に立たされた。『アンジェリカ』の本名も情報も秘匿だからだ。力になると請け負ったものの、とたんに権威に阻まれる。

「ごめんなさい、俺は『アンジェリカ』についての情報漏洩は許されていません。ただ、マスター・ジュリエッタが故国に帰りたいというなら、ロンシャンに手紙を送って、ゴールドベルク様に訴えてみても構いません」

 頼りない返事にジュリエッタは頬杖をつき、愁眉を曇らせた。

「いや。あのままグリークで神殿の巫女として勤めるのと、こちらに亡命するのと、どちらが良かったかは決着がつかん。だが、佐野先生から聞いたぞ。お前はロンシャン出身ではないのだな。母君にも酷いことを言った。すまなかった」 「ありがとうございます。そのお言葉だけで充分です」

 夜空が礼をとると、傍にいた白フード姿の先輩も話しかけてきた。ジアースよりももっと黒い肌の猿亜種で、フードに隠れてはいるが、ブレイズヘアできめている。

「私の祖父もロンシャンを出た人間だ。一族はロスト・リバティに住んでいる。ナイジェル・カート・レッドストンJr。よろしく」 「ロスト・リバティに……」

 それはかつて自由の国があった地帯だ。『太古炉の大崩壊』のときに集中的に被害にあった大陸で、今や政治組織が成立しない魔界と化していると聞く。ペンタゴンと呼ばれる古の軍事基地を掌握したことで、ゴールドベルク氏が名を上げるきっかけともなった。独立の狼煙が常に消えない火薬庫でもあるが、ロンシャンの人間にとっては遥かなルーツであり、今も郷愁と開拓心をさそわれる場所だった。

 アフロ・アメリカンの先輩が語るその名は異邦人の夜空にとっても漠とした憧れを感じさせた。

 そばで話を聞いていたジアースが夜空の脇をつつく。

「あのさ。この先輩は今年の寮長だよ。えっと……俺はジアースです。ペルージア出身。よろしくお願いします」 「『海陸を越えた君子』、海英 (ハイィン) です! 月魔法が使えるかはまだ分からないけど……頑張ります!」 「今年の闇塔の面子はこんなものか。女子がいないのが気になるな……海英 (ハイィン) 。せめて妹にくらいは声かけしても良かったんじゃないのか?」

 夜空は気まずそうにした海英 (ハイィン) をかばい、生真面目な顔で間に入った。

「そうだな、ソフィアたちにも言っておきます」

 ジュリエッタは深刻そうな口ぶりだ。

「男子ばかりではむさくるしい。……月魔法を使えるかどうかというのも確かに分かれ目だが、受講しなければ可能性自体もわからんぞ」

 教壇を取り巻いて話し合っていると、早速他の属性塔からの客が訪れた。ウィリアム・エヴァ・マリーベルは間違えようがなかったが、連れ立ってきたのは同じく金髪でとろそうな修道服の男子と、驚いたことにシリル・クール・ド・リュミエールであった。シリルは夜空を認めるなり愛くるしい顔をきりりとさせ、にらみつけてきた。

「何これ。どうして汚らわしいマフィアの一員がいるの」

 舌鋒鋭く罵られて、夜空は反論せざるを得なかった。言い合いがはじまる。

「俺はマフィアじゃない。正式なロンシャンからの留学生だ」 「ボクはこんなスパイと同じ授業は受けられません! ヴェルシーニンとクラウス殿下だっていつも距離は保ってるじゃない!」 「前回は俺たちが譲ったんだ。今回は君が帰ればいいじゃないか」 「ボクはどうしたって光学魔術を学ぶ必要があるの。だからこんなところまで足を運んでるっていうのに。先生、選んでください! ボクらをとるか、闇塔をとるか」 「何を言っているんだお前らは……?」

 ジュリエッタは面食らって、紅の引かれた唇を噛んだ。ツンと宙を見つめ、高飛車に言い放つ。

「くだらない諍いは上級生の迷惑だ。一年生は全員、受講拒否。本気なら来年来い」 「ええっ……!? 俺、代わりの授業を探さなきゃいけないんですけど……!」 「知ったことではない。もう決めた。勝手に存分にやりあえ。ナイジェル、後は任せた」

 ジュリエッタは文句をつけたジアースを振り払うと、ひとり実習室を出ていってしまった。全員の視線がシリルに集まる。場所の不利を悟ってか、シリルはわざと椅子を蹴飛ばして不満を訴えつつ逃げだして行った。夜空も盛大に溜息をつき、ウィリアムに文句を言った。

「ウィル。彼は一体何なんだ。同じ授業は受けられないなんてワガママもいいところだ。ヴェルシーニンとクラウス殿下は表立ってはやりあってない。度重なって海英《ハイィン》にだって迷惑だ。闇塔を悪し様に言うのはいいが、それではやっていけないって、自分でも分かってるだろうに」 「ホントあいつには二回も受講を邪魔されてんだよ! なんでお前、あんなのと仲良くしてるわけ? 鞍替えしたくなったんならそれでいいけど、俺たちにももう関わるなよ」 「待て、夜空、ジアース。彼を責めるのは違う。とばっちりだ」

 聞いていたナイジェルが重々しく首を振った。詰められたウィリアムは安堵したようだ。とろそうな金髪の男子も修道士仲間の肩を持った。

「うーん、夜空だっけ? 実技入試のことは聞いてるけど、シリルを攻撃しちゃったことだけはちゃんと謝ったら? 闇塔とか、クラウス殿下とか、難しいことはちょっとよく分かんないけど……」

 おっとりした語り口ではあったが、いかにも朴訥とした少年だ。ウィリアムの同室で、オーウェン・アップルビーと言うらしい。数分前は月魔術を習えると無邪気に顔をほころばせていたのに、今や意気消沈した困り顔だった。ナイジェルは闇塔の面子にゆっくりと確認する。

「夜空たちは、シリルと同じ授業でも構わないな?」

 ジアースと海英 (ハイィン) は顔を見合わせ、しぶしぶながらも同意した。夜空も狼耳を伏せて黙り込む。落ち込みついでにウィリアムを見つめてしょげてみせた。

「ウィルは、俺よりもシリルと仲良くしたいの?」 「……違う、君と彼が争っている現状がよくないと思っているんだ! マスター・ジュリエッタもその状況を正せとおっしゃってるんだろう」 「私もそう思う。先生は前言を翻すような人ではないから、今年はおそらく新入生受け入れはないだろうが、和解自体は必要だぞ。ことあるごとに諍いを繰り返すわけにはいかない」 「……そうだね、シリルには謝らなきゃだめか」 「シリルはな、喧嘩がしたい年頃なんだ。だが夜空はそうではない、ならば同じ土俵で争ってはいけない」 「わかりました、先輩」

 夜空の返事に、白いフードを被ったアフロ・アメリカンの先達は力強くうなずいた。海英 (ハイィン) が思案顔で口火を切る。

「……だけど、悪いようにばかり言い立てられて、肝心のシリルについて私たちは何も知らない。バラデュールによると故郷では色彩魔術師として既に名が売れてるらしいけど……ちょうど時間が空いちゃったし、彼について調べてみない?」 「俺、賛成!」

 ジアースが諸手を上げた。ウィリアムと共に来たアップルビーも「確かに。なんであんなに威張ってるのかは知りたいよね」と同意する。ナイジェルは事の次第を飲みこみ、夜空たちを図書館へと送り出した。

20

 アルカディア魔法大学の図書館は象牙の塔の本拠地である。エントランスホールで来客を出迎えるのは、化石と美術品を並べつくした驚異のコレクション棚だ。板金に刻まれた好事家の名を横目に足を踏み入れると、ラピスラズリの屑石をモザイクで埋め込まれた床石が歩音を大きく反響させる。天窓からの採光は昼でも薄暗く、光量を補うため壁に据え付けられた魔素ランプが時おり燃料切れで明滅した。

 夜空たちはまず大判の参考図書を持ち出してくると、開架席で色彩魔術について調べた。シリルと従姉が誇っていたレクサゴーヌという国の魔術派閥だ。闇塔の同胞であるバラデュールはかの文明国の保養地の出身で、大きな宿屋の一人息子だった。他郷の噂にも詳しく、色彩魔術の神童こと、クール・ド・リュミエールの二人についても海英《ハイィン》に教えたらしい。『魔術派閥全図説』に載っていた情報は以下の通りだった。

「色彩魔術師たちは自らのグループを『魔法の花束』と号している。一人一色を操る最低十二の魔術師で構成されたレクサゴーヌ第八共和国の魔法派閥である。攻撃性をもたない本来の意味の奇術として魔法を発展させようという多彩なイリュージョニストの集まりだ。しかし、過去には大乱もあった。AK1212年、『慰安に過ぎない色彩魔術を軍事利用できる実用的な魔術へ』との方針で過激派の紅派が巴里の闘技場にて穏健派の青派と決闘した。その際の必殺魔法が『レインボウ』。スペクトラムで分離した色彩光波を放って敵に甚大な物理及び魔素ダメージを与える光学魔法で、純粋な美を追及する色彩魔術では禁じ手と言える攻撃術であった。決闘自体は当然紅派が勝利したが周辺環境への被害の大きさを責められ、その後は中道派の紫派が実権を握った。紫派は戒を犯した色彩魔術の復権につとめ魔術ショーを定期開催するだけでなく画材を商ってレクサゴーヌ国内での基盤を固めた。パステル『Le Pastel Musee』は高級ブランド品。汎用系大魔法として現在著名な術は『Lumiaire d’Irise』。」

 夜空は手帳にいくつかのキーワードをメモし、館内図を頼りに魔術師の伝記が置いてある棚に向かった。色彩魔術について、ちょうど内部の人間が書いた暴露本が見つかったので、めくって下見をする。件の決闘は百年ほど前のことで、その時に使われた『レインボウ』は魔術師ギルド『賢人機関』に禁術と認定されたそうだ。ジアースはアップルビーとともにぶらぶらと書架をひやかしていたが、やがて一冊の本に目をとめた。

「『近世説天山史』だってよ。夜空たちの家のことも書いてあるかな?」

 彼が取り出した本はここでは珍しい和綴じで、活字で刷られていたものの表紙は柿色一色で装画などもなかった。夜空は手書きと思しき奥付を確認して首を振る。

「……著者は『神威祥』。刊年はたしかに最近だけど、知らない名前だな……」 「私は読んでみたい」

 ウィリアムはおずおずとその本を手に取り、色彩魔術の調査など放り出して熱心に読みはじめた。海英 (ハイィン) も肩ごしに覗き込み、面白そうに冷やかしを入れる。

「あったぞ、祈月氏! ええと……『第三百十二代厳帝より出づ。嘉徳がその祖なり。嘉徳その人となり柔弱、位を弟永帝に譲り、常春地方に降る。二代目季徳、子飼の者を集め音響術にて季節をも操り、朝廷の臣鷲巣氏と対立す。季徳、父嘉徳が香池室の娘、則ち実妹と契り正徳を生む。罪深き事也。正徳結城を簒奪せんとす。正徳が子、耀は『輝ける太陽の宮』と称さるるも、其実は常春殿の間者也。帝より祈月の姓を賜り、公子用の天船に乗りて天空を駆け、新月紋の小刀にて魔術師を弑す』……」

 祈月の暗部を暴露する内容に夜空は顔面蒼白になった。慌てて二人から和本をかっさらい、目を皿にして漢文を読む。心臓が急を告げてバクバクと鳴った。声を荒げて負け惜しみを言う。

「俺の父、源蔵のことは書いてない……こんな史書、許せないよ! 常春殿にだって俺たちをここまで悪し様に言う神官はいない」 「大麗 (ダイリー) でもこんな話は聞いたことない……私は天山魔法大学でロンシャンへの転送石を借りる際に夜空の父君とも会ったし、結城疾風博士にも挨拶した。それに夜空の弟にも……この作者は、彼らの目が届かないのをいいことに異国で好き勝手な自説を出版してるんじゃないか?」 「じゃあ、夜空の親族はまだ日ノ本にいるんだな? この『耀』というのは……」

 ウィリアムの突っ込んだ問いに夜空は据わった目で答えた。

「一族の恥だ。だけど……俺のおじい様だよ。さくらの夫だ。最後には常春殿に始末された」

 夜空は言い切ってすぐに意気をなくしてしまい、ふらふらと長テーブルにつっぷした。くっついてきていたアップルビーが心配顔で背中をさすってくれる。しおれてしまった夜空は少し活力をもらい、その場をとりつくろって笑った。

「月魔法の授業についてはごめん。でも俺、ちょっと部屋に帰るね」 「わかった夜空ー、気を付けてね!」

 手を振り合って一行と別れた。地面がずれて、自分がまるで斜塔にでもなったような気がした。うまく、まっすぐに、歩けない。

21

 闇属性塔の六階の自室にようやくたどりつくと、夜空は二段ベッドの上に上がり、胎児の姿勢で丸まった。クラウス殿下が戻ってきても、今のままではまともに相手できない。まどろもうにも縦書きの字が一字一句迫ってくる気がして、その悪意に打ちひしがれてしまった。すぐにノックが鳴って、夜空は半身を起こした。ウィリアムが例の和本をたずさえて、寮まで訪ねてきたのだった。ベッドの傍らにかかっている梯子に上ってきて、夜空を覗き込む。

「夜空。大丈夫か?」 「ウィル……いや、ありがとう。あの本、借りてきてしまったのか」 「内容は事実なのか?」

 パンフレットの記述は、初代が弟の永帝に位を譲ったことも二代目が父親の娘と、つまり実妹と契ったことも三代目が結城を乗っ取ろうとしたことも耀が暗殺者であったこともすべて事実で、根も葉もない風説ではなかった。それゆえ、不安は耐えがたかった。大麗 (ダイリー) やロンシャンといった隣国ならまだしも、遠い西の果てまでやってきて出会った悪評はなけなしの誇りを突き崩してしまった。

 先代の判断を謗るわけにはいかない。賜姓も近親婚も簒奪狙いも厳しい状況を生き抜こうとした上での選択だった。音曲を用いた征伐軍の大将としての面目を保つには、子孫には魔力を、それも楽曲を弾いただけで天変地異を起こすくらいの濃い因子を残さなくてはならなかった。

 朝廷からの恩賜に頼らず自立するには乗っ取り狙いと囁かれようと在郷の武士と結ばねばならなかった。どれも苦渋の決断だった。四代目・耀の暗殺業すらそうなのだ。簒奪に失敗し、結城家とは合同できないと三代目・正徳に言い渡された彼は、危険を承知で常春殿の犬となったのだ。

 夜空はウィリアムをしばし見つめ、常にシャツに隠して首から下げている小刀をぞろりと出した。金蒔絵の新月紋は細い線描に過ぎない。夜空は目抜き釘を廻し、柄に据えられた小さな細工窓を開いて見せた。中には紅で同じ紋が描かれている。

「これ、月齢で言えば何に見える?」 「新月。……それとも見方を変えれば満月か?」 「新月だよ。この小窓の中の月は、誰かの血を吸うごとに太り、やがて満月に変わる仕組みだ」

 夜空は声を潜めて言った。ぱちりと小窓を閉じ、目抜き釘をはめ直す。

「細工窓の中身は新月のまま。祈月が暗殺から脚を洗った証拠だ」 「そうか、お父上については何も書いていなかったな」 「父・源蔵は耀の轍を踏まなかった。皇帝付きの魔術審問軍としてではなく、平民たちと同じように武官として仕えて出世し、傾いた家を再興しようとしたんだ」

 傾聴するウィリアムの緑の眼は真剣だ。パンフレットの著者名を指し示し、尋ねてくる。

「この神威という人物に思い当たることは?」 「……もしかしたら、祖父の犠牲になった人の子孫かもしれない。でも俺が暗殺者にさせられないよう、父上もまわりも仔細を隠したし……何もわからないよ」

 夜空はそれだけ語るとウィリアムをぞんざいにどかし、自分もベッドから降りてデスクに向かった。ポールハンガーにかかっていた背嚢から厳重に封をされた書簡を取り出す。

「それは?」

 涼しい顔でウィリアムが聞く。夜空は懐かしいその名を久々に呼んだ。

「夏目雅の遺書だ。俺の守役だった。そのパンフレットに鷲津氏の名前があったろう? ……彼らもこの代で軍閥として成長してね。同盟の際に人質として俺の身柄を欲しがった。父上は拒んでいたんだが、誘拐しようと『三島宙明』という術師を放ってきたんだ。雅も、その子の文香も、従弟の広大も、みんな傍にいてくれた。雅は強かったし、腕っぷしでは負けていなかった。でも、去り際に強い呪言をかけられたんだ。その後雅は病床につき、二度と起き上がらなかった」 「そら恐ろしい話だな。雅という人が気の毒だ」 「本当にそうだよ。雅は、親代わりでもあったし、大切な渚村の『古狼』だった。俺は父上の不在をいいことに、実の息子を押しのけて雅に甘えて……しまいには身替わりにまでしたんだ。この遺書は、十五になったら読めって言いつけられていたものだ。とうに二年も過ぎたのに……直視するのが怖かった。神威という人物について調べるなら、まずこの遺書からだと思う」

 夜空はデスクチェアに腰かけ、悲し気に微笑んだ。

「……ごめん。一人にさせて。雅の死とだけは真剣に向き合いたいんだ」

 その姿は哀れに満ちて、はかなげに見えただろう。立ちつくすウィリアムは親身に手を差し伸べたが、夜空は顔を伏せてやんわりと拒絶した。見上げて小さく頼み込む。

「たぶん、みっともなく泣いちゃうから」

 ウィリアムは何も言わず、浮かない顔で部屋を出ていった。夜空は抜け目なく内鍵をかけ、雅の遺書の封を切った。

(1-6につづく)