万聖節の夜物語 アルカディア魔法大学逃亡編(1-8)
第三章
31
五日後には毎週恒例、マスター・アジャスタガル率いる早朝戦闘訓練が行われた。冬の到来を感じさせる曇り空のその日もまた飛び入り参加があった。
質問状を送り付けてきたジョージ・ヒューゴである。もしやシリルの件での報復かと、夜空たちははじめ身構えたが、彼はさっぱりと笑って否定した。
ウィリアムが朝課の当番で留守にし、アイフェンは何となく寝坊してのサボりではないかと思われる不在だったので、遺恨が解消したとみるや助勢は歓迎された。
剣技を誇り、魔法騎士としての装備も潤沢なジョージは、ジアースとともに前衛を買って出て、その日の訓練は一段とスムーズに進んだ。持久力不足でいつも諦めがちなゴント山の一の断崖を踏破できたほどだ。戦闘の中では助け合いの一幕もあって、ぬか喜びも窮まっていった。学院の背後に位置する裏門まで無事到着すると、アジャスタガルが満足げに解散を告げた。
飛び入りのジョージが、フローレンスの背中を押す。彼女は決意を秘めた顔付きでしずしずと歩み出て言った。
「アジャスタガル先生、すみません。あたし、今日でやめさせてもらいたいんです」
突然の申し出に、アジャスタガルは意外そうに眉尻を上げた。戦闘用に髪をひっつめたノエーミも息をのみ、彼女を親身に引き留めた。
「どうして? フローレンス。私たち、上手くやっていたじゃありませんか。それとも何か困ったことでもあったの? それなら、話してほしいです。ここは『第二の故郷』。同級生は隣人と同じです。悩みは皆でシェアすれば、きっと解決していけると思うんです」
ノエーミは紅一点状態に思うところもあったらしく、フローレンスの訪問を歓迎していたし、年上の余裕で、彼女の生意気も楽しんでいた。同情からではあったがすぐに闇塔に招いて、貞苺《チェンメイ》も含めて自室でメイクアップの研究に興じたり、また趣味の料理の買い出しを手伝わせたりと親しく交際していたから、少なからぬショックを受けた様子だ。品のいい唇をぎゅっと結んで、彼女を正面から抱きしめる。
「それは、いいんだ。我々火塔の新入生の領分だから」
ジョージがすまなそうにノエーミを押し止めた。フローレンスは笑顔でうなずく。
「あたしはシリルが心配だからね」
夜空も困惑し、ノエーミに助勢した。
「五日前の、運命塔演習場での騒ぎについてだろう? シリルは禁術『レインボウ』を使って、施設を半壊させてしまった……あんな技、使っていいの? 色彩魔術はあの路線は捨てたんじゃないのか?」
フローレンスの顔はひびわれたようにこわばる。ジョージが真顔になって叱咤した。
「彼女の気持ちも考えてやれよ!」
夜空は退かなかった。フローレンスを注視し、無言で返事を待つ。彼女はしばらく考え込み、決死の訴えをはじめた。
「アルカディア魔法大学に来てから、シリルは変ってしまったわ。夜空の激光《ジーグン》に魅入られて実技試験に乱入までしたし、その後もともかく強力な攻撃魔法ばかり求めてる。近頃では運命塔に入り浸って、ガラの悪い連中とも付き合いはじめた……そうして敵を油断させて、情報を得たいんですって。ウィリアムがやってる事をまねてみるんだって」
事態は先日見た通り、深刻なようだった。夜空はフローレンスを慰める。
「従弟が過ちを犯したからって、君がこの授業をやめることはないよ。俺も大人げないところはあるんだろう。今度は二人でシリルを説得しないか? 実技入試についても、もっと真剣に謝るから」
その申し出にフローレンスはまた黙りこくる。ジョージも様子を見ていたが、彼女が靡かないのを見て、はっきりと断りを告げた。
「シリルに関しては、もう夜空の出る幕はないと思うぞ。何分、火塔は男子が少なくてな、シリルは今、俺が稽古をつけてやってる。はじめは泣き言ばかりだったが、剣術はみるみるうちに上達した。弟みたいに素直なんだよ……それだけに心配なんだ。刺激しないほうがいい」
「そうよ! シリルは巴里人の愛すべき弟。それは変わっていないはずなの。全て何かの間違いなのよ……!」
フローレンスは両手で顔を覆ったが、すぐに目線を上げて、夜空に告げた。
「シリルがグレたのは、あたしが夜空に馴れ馴れしくしたせいもあるわ。あたしたちは、幼いころからずっと二人で手品師をしてきた。いわば運命の共同体。ここで彼を見放したら、暴走は止まらない」
夜空はそれでも歯切れ悪く引き留めた。
「でも……」
フローレンスはにっこり笑ってダメ押しした。
「みんなの色彩についての誤解も解けただろうし、あたしは夜空よりもシリルが大事。それをハッキリさせたいと思って」
見込みはないと察したか、アジャスタガルが動きだし、ジョージとフローレンスの労をさばさばとねぎらう。
「シリルについては、ちょっと火塔で注意していくか。復帰はいつでも構わないから、そん時は従弟もつれて来い! 俺にとっちゃ優等生も劣等生もない。全員軟弱なひよっこたちだよ。まとめて叱ってやる」
「先生、ご理解下さりありがとうございます!」
ジョージはしゃちほこばって頭を下げ、アジャスタガルは男気溢れる態度で彼と拳を合わせた。ノエーミはまだ納得がいかないらしく、夜空を批判的に見ている。ほんとうにこれで良いのだろうか。フローレンスの勇気も努力も、何もかもが従弟の不祥事で台無しにされたようなものなのに。フローレンスは騎士見習いのジョージを頼もしそうに見上げ、二人は送り出されていこうとしている。鼠色の軍作業服を着て、埃にまみれた没落貴族のわが身が急に恥ずかしく思えてくる。夜空は気おくれしながら花の少女に呼びかけた。
「フローレンス、あの……」
立っているだけで注目に浴してきた美少女に対して、夜空の親切はあまりにも幼かったのだろう。彼女は背を向けたまま言った。
「……シリルからハッキリ聞いた。夜空はあたしに気がないって。ひどいわね、女心が分かってない。スターから言い寄られたんだから、少しは花を持たせるべきよ」
フローレンスの台詞はせいいっぱいに洒落ていたが、夜空は黙りこくってしまった。解散後、ジョージたちは去っていき、闇塔のメンバーは珍しく三人そろって寮へと引き上げた。ノエーミが無念そうにつぶやく。
「……恋愛まで絡んでいるのなら、私に言えることは何もありません」
ジアースも何か言いたげにしたが、ぷいっとそっぽを向いて尾を振った。夜空は自身の未熟を痛感し、とぼとぼと寮までの道を歩いた。
32
その日はソフィアが水汲み当番で、夜空は入寮日の約束どおり、彼女に付き添ってやった。とうに夜は更けている。夜空は井戸のペダルに手を添えて無心で水汲みをした。ソフィアはカンテラを手に持ち、三つ編みをいじりながらフローレンスについて聞いてくる。一連の状況について告げると、ソフィアは励ましてくれた。落ち着かなげにエプロンを払って、にこりと笑う。
「そうなんだ。実はちょっと気になってた。私はジョージみたいなタイプより夜空みたいなナイトのほうがいいんだけどな」
他愛ない好意の告げ方に、夜空は苦笑した。
「そんな、俺なんて故郷で許嫁にフラれた男だよ?」
「許嫁っていうのはね、勝手に振ったり振られたりしちゃいけないものなのよ」
伯爵令嬢は恋に恋する無謀な憧れなどけっして語らなかった。さりげなく現実を示し、それでもすぐに愛らしい文句を続ける。
「だって……ジョージって赤毛だし、汗臭そうだし。夜空のほうがいいよ。肌も白くてキレイだもん」
夜空はジョージの女性ウケの悪さを気の毒に思った。夜空自身は、彼はガタイもいいし快活そうで、そう悪くもないと思うのだが、火属性塔の女子たちは一斉に吊し上げをしていたし、口をきいたこともなさそうなソフィアにここまで言われてしまう始末だ。思春期の女の子にはやはり絵に描いたような細身の美形のほうが受けがいいのだろう。好奇心にかられた夜空は、ウィリアム・エヴァ・マリーベルの名を出してみた。
「女の子みたいな美少年ていうと、彼もだと思うけど」
ソフィアも普段の慎重さはどこへやら、軽口で応じる。自分を棚上げして異性を品評するというのはやはり誰にとっても楽しいようだ。
「あの子はちょっと綺麗すぎるでしょ。夢中になってる人もいるけど、聖職者だよ?」
笑って切り捨てると、真顔になって続けた。
「でもよかった。夜空もフローレンスみたいな派手な娘が好きなのかと思ってた」
答えられずにいると、ソフィアは大きく溜息をつく。
「いいなぁ、あんな風に自由にお洒落ができて。私なんか、服装まで親に厳しく決められてるよ」
その不自由さは何となくわかった。フローレンスのように気軽に街の仕立て屋に誘うというわけにもいかないので、夜空も愛想笑いでごまかす。バケツ三杯を汲みおえて、二人でキッチンへ運ぼうとすると、塔の玄関口の光がさえぎられ、修道服姿の人影が通りにぬっと現れた。夜空はソフィアに水を下ろすように言って、目をこらして警戒する。
現れたのは、ウィリアムのルームメイト、オーウェン・アップルビーだった。沈鬱な顔付きでただならぬ様子だ。不安がって二の足を踏むソフィアを背でかばいつつ近づいて、様子を聞いた。
「どうしたの? アップルビー」
彼は無言で振り向くと、カソックを背中までめくり上げた。ソフィアが息を飲む音が聞こえる。アップルビーの背は、鞭うたれたとおぼしき無数の傷が赤くみみずばれになっていた。触れてみると熱をもっており、見るからに痛々しい。夜空はソフィアとともに井戸まで戻り、アップルビーの傷を洗って冷やしてやった。アップルビーは井戸の縁に腰かけ、だまって治療を受けていたが、やがて意を決したように言った。
「夜空はもう『ディア』を習ってるって聞いた。ウィリアムは過回復だからダメなんだけど、これ治してくれない?」
夜空はソフィアと顔を見合わせた。
「私がヒールしようか?」
「いや、俺にやらせて。少しでも療治の経験を積みたい」
夜空はソフィアが見守る中、『ディア』の詠唱を行ってアップルビーを治した。アップルビーは礼を言った。
「『ヒール』と違って『ディア』は熱いんだね。ありがとう。ソフィア様にも心配かけました」
「一体どうしたの? 喧嘩って感じの傷じゃないみたいだけど……」
「今日、たまたま聖課をサボっちゃって。そしたらシスター・グラジオラスがさ……」
アップルビーはそこまで言って台詞を打ち切ると、夜空を見据えてはっきりと言った。
「あのさ。夜空。ウィリアムをあんまり信用しないほうがいいよ」
突然の忠告に、夜空は面食らった。アップルビーは周囲を見回して声をひそめる。
「ウィリアムはシリルと一緒に夜空のことよく報告してる。僕ら同室なんだけど、シスター・グラジオラスはときどき部屋にまで入ってきて、悪書を読んでいないかって難癖つけてくるんだ……ウィリアムはシスター・グラジオラスの手先のはずなのに、そっちの机の引き出しまで見てる」
「それは厳しいわね、ただ、シスターがどうして男子の部屋にまで入るの? 何か裏がある気もするけど……」
「僕にはあんまり難しい事情はわからないからなあ。将来は教会の仕事につきたいけど、こんなことまでしなきゃならないと思うと嫌になっちゃうよ……闇塔はどう? 先生そこまで厳しくない?」
「闇塔はそこまで厳しい先生はいないかな。俺から佐野先生に報告しておいてあげるよ。あと、アップルビーも聖塔の別の先生に相談してみたら? マロウ神父なんか優しそうじゃない」
アップルビーは悩みを打ち明けて楽になったのか、ようやく笑顔を見せた。
「ありがとう。ウィリアムもフリントもサボりは悪いからってそれだけなんだよね。保健室には付き添ってくれるけど……はぁ。ソフィア様が聖塔だったら僕も仕事頑張るんだけどな」
そう冗談を言って頭をかくだけの余裕も出てきたようだ。ソフィアの表情は曇ったが、夜空はその分頼もしげに笑ってやった。
「気を付けて帰って。また困ったらいつでも来てね」
詳細を聞きたい気持ちもあったが、寮の仕事の途中だった。クラウス殿下との部屋に安易に招き入れるわけにもいかない。アップルビーはそれだけの励ましでも元気をとりもどし、袖の隠しからあの柿渋表紙の和本を取り出してきた。『近世説天山史』だ。
「これ、ウィリアムがよく見てるやつ。シスター・グラジオラスにも要約を渡してたよ。僕も隠れて読んでみたけど、やっぱり海英《ハイィン》が言ってたとおり夜空の家の悪口だった。噂になったりしてもよくないと思う。又貸しになっちゃうけど念のため渡しとくね」
アップルビーはそう言って、何度も立ち止まって手を振りながら隣の聖属性塔へ戻っていった。ソフィアもその姿が見えなくなるまで見守り、うかない顔で瞳を伏せる。
「なんだか怖いね。私たちは精一杯やってるだけなのに、経済や政治や、時にはただの妬みなんかで、どうしても敵対する人がいる」
夜空は胸にかかる不安の雲をぬぐいきれずにつぶやいた。
「俺も帯刀しようかな」
ソフィアの返事は、ウィリアムとは違っていた。
「自分の身は守らないとダメよ。私もそのほうが安心できる」
夜空は顔を上げて北極星を探した。砂漠越えで毎晩探した一等星だ。あの清い星光のように自身を導いてくれる何かがあればいいのにと思う。
ロンシャンではそれは、ゴールドベルク氏の助言だった。朗々とした声の裏には時に恐ろしさもにじんだが、彼は案外純粋に夜空の成長を楽しみ、息子の聡明さも喜んで、短い指針をくれたものだ。誰かの後ろ盾を求める自分は甘いと分かっていたが、戯れにすぎなくても、幼いころから父性に飢えた自分にとっては嬉しかったのだ。セバスチャンを守り、導き、助ける。ふさわしいスコアを取る。ただそれだけの日々には迷いも憂いも多くはなかった。私語は許されていないが、士貴と通信をしようにも、テレパス通信用ピアスはすでに取られてしまっていた。バケツ二杯分の水を運びながら、夜空は思考に沈む。
その夜、夜空はクラウス殿下に断り、長持をあさって、結城であつらえてもらった日本刀を取り出した。アルカディア魔法大学に来てはじめて、刀袋からそれを出す。目釘をぬき、ゆっくりと分解して、打ち粉をまぶして奉書で拭いた。クラウス殿下はまばたきも惜しんで食い入るようにその手順を見つめ、刀身の美しさを褒めたたえた。
「素晴らしい業物じゃない。予ともっと剣術もやっていこうよ。恥を承知で言うけど、ジアース相手だとちょっと、きわどすぎる場面もあるんだよね……」
「彼の太刀筋は独特ですからね。俺でよければお相手します」
「それより、シリルたちとのことは解決したの?」
夜空は嘘もつけず、首を横に振った。フローレンスとは談合できても、シリルにはまったくその気がないのだ。長らく仲をとりもとうとしてくれたウィリアムでさえも匙を投げてしまった。それどころか、呑気もののアップルビーまでが警告を加えてくるしまつだ。
クラウス殿下はその表情から状況を読み取ったのか、仔細は聞かずに小声で告げた。
「月末には万聖節がある。人出が多くなるから、念には念を入れていこう」
夜空はうなずいて刀をしまった。
ウィリアム・エヴァ・マリーベルは学長からの監視役である。シスター・グラジオラスも含めて、彼らは色彩魔術側であり、けっして味方とはいえない。ロンシャンの援護を頼めない身で、敵と馴れ合って寝首をかかれるわけにはいかない。
憂鬱だが、決断せざるを得なかった。問題はいつ切り出すかであった。
33
十月の暦も半ばを越した。もう半袖ではいられなくなり、寒さも日ごとに増していったが、アルカディア魔法大学は学園祭に向けて活気づいていた。
十一月一日は、全ての聖人と殉教者を祝う『万聖節』。古いケルトの正月がクライスト教に取り入れられて大衆化した行事だ。古いといっても、それこそ『大崩壊』以前のホモ・サピエンスの時代ですでに古代の習俗なのだから世界宗教の力というのは途方もない。ロンシャンでは夜空も皆ともに教会へ向かい、祈りを捧げたりパーティの支度をしていたものだ。
前夜祭のハロウィーンはアルカディア魔法大学では『学園祭』と重なり、入学を検討する若人や各国の要人までもが視察に訪れる重大イベントだった。属性塔や研究練はそれぞれ苦心して出し物の制作や研究発表を行う。たとえば、死霊術や悪魔学といった生死の境界線を扱う『魂の郷』では、古い悪霊を動物に移し替え、祓うという古例の再現が行われる予定であった。
闇塔では三年生の主導で後世に大衆化したハロウィーンイベントを行うことになった。といっても、学生たちはみな十五歳を過ぎている。「お菓子をくれなきゃ悪戯するぞ!」と押しかけても可愛げはなく、迷惑であろう。普段世話になっている島民たちへの御礼として、ささやかなプレゼントを仮装で配り歩くキャンディツアーを催す予定だった。
色彩魔術との関係に改善の見込みはなくなったが、浅はかな理由で禁術を披露し、他寮の備品を全壊させたシリルへの批判は高まっていた。夜空はウィリアムとの仲にもケジメをつけられず、問題からは気を逸らすようにハロウィーンの準備に没頭していた。
綿の真っ白いハンカチーフを木枠にぱちんとはさむ。針通しを使って若草色の刺繍糸を通し、糸のよれをしごいて直して、チャコで写し取った図案のとおりに、鎖のステッチで植物の葉を描いていく。一刺し一刺し、焦らないように。大きさがズレたらやりなおす。
「いてっ! わわわ、血が出てきちゃった!」
「海英《ハイィン》! すぐにハンカチを置いて。後は私がやっておくから。血がついちゃったら洗うのが大変」
一年生は空いた時間でサロンに集合して菓子をつつむハンカチーフの刺繍をしていた。針仕事に縁のない海英《ハイィン》は苦戦しており、有能な妹が奪い去って代わりをつとめる。器用なジアースは熱中し、バラデュールは最初こそ指が傷つくとかなんだとかごねていたが、いざ木枠を使って担当分を始めると刺繍糸の色合いに凝り始めた。ピアニスト志望だけあり、ステッチの細かさは中々のものであった。
夜空もあまり得意とは言えない分野だったが、ともかく担当分だけは仕上げる必要があった。何せ寮長のナイジェル先輩まで、無骨な体を縮めてこつこつと取り組んでいるのだ。かぼちゃをくりぬいて提灯を作ったり、サロンの絵画を模様替えしたりと、寮にいれば仕事は腐るほどあった。海英《ハイィン》は針で傷つけた指を押さえつつ、手持ちぶさたになって雑談を始めた。
「あー、ハロウィーンかぁ。みんなはいったい何の仮装をする?」
「大麗《ダイリー》の龍とかどう? 『獅子舞』みたいなノリでさ。俺は『なまはげ』でもやろうかな」
「『なまはげ』って何よ。えっ、包丁を手に持って? 子供を脅す? ……やめたほうがいいと思うけど」
「せっかくだし、花火……上げる? 私、正月用に持ってきてるんだけど」
「万聖節が終わったら、一年生だけでぶっ放そうぜ!」
「ちょうど試験でくさくさするしね、その時まで取っておくか」
万聖節が終わっても浮かれ気分は続く。わずかに授業を挟んだ後、十二月後半から一月上旬にかけてクリスマスと新年の休暇が一か月ほど与えられるのだ。夜空たちはさすがに帰るわけにはいかないが、ソフィア・リーフェンシュタール嬢は父親の伯爵ともにレクサゴーヌを観光する予定だという。学生間でのプレゼントやカードのやりとりもささやかな楽しみであったし、普段は粗末な寮の食事も、その時ばかりは豪華であった。
休暇が過ぎると、一年の店じまいがはじまる。卒業学年は一月十五日の論文締め切りに向けてラストスパートをかけるし、下級生ものんびりはしていられない。二月はじめには試験範囲や課題が発表され、地獄の進級試験がはじまる。
そんな初冬の昼下がり。寒がりのクラウス殿下は安楽椅子を暖炉の前に動かしてまどろみ、近衛兵たちも暇をもてあましていた。平穏を絵に描いたような光景の中、サロンの大扉が開けられ、ウィリアム・エヴァ・マリーベルが佐野教授とともにやってきた。
佐野教授は闇属性塔の所属教師だが、島内の自宅からの通いで、宿直時でもないのにサロンまで降りてくるのは珍しかった。所属ゼミ生が顔を見合わせ、御用聞きにうかがう。教授は首を振り、夜空のもとにはウィリアムが駆けて来た。灰色と白の修道服に、今日はビレタまで被って、しかし変わらずカナリアのように綺羅らかな美貌だ。あさはかだと思いつつも、夜空は恋人に見ほれ、彼との決別を勝手に決めている自身に内心嫌気がさした。ウィリアムは夜空に小さく耳打ちした。
「え……ロンシャンからの使い?」
「ああ。『ゴースト』と名乗ってるそうだ。公職にはついていないらしいが、ゴールドベルク氏の使いだと名乗ってる。夜空に聞けばわかるだろうと……」
佐野教授も多少困り顔だ。
「届け物があるそうだが、『サンド・シー』殿たちとは違って名刺も持っていなくてな。知り合いなのか?」
夜空は面食らって不吉な予感に尾の毛を逆立てた。『ゴースト』はロンシャンでエトランゼタウンを放浪したときに縁のあった女衒で、ゴールドベルク氏に夜空が引き上げられた後も保護者面をし、街娼の元締めすら今だやめていなかった。茶色のスーツ、灰狼亜種の白人、無感動な目にどこか捨て鉢な空気。教授の語る風貌は記憶と一致していた。どんなルートであれ砂漠越えまでしてきたのだ、逢わないわけにはいかないだろう。
「『ゴースト』はロンシャンで世話になっていた男です。海英《ハイィン》たちも見たことあるよね。俺関連の仕事にはたまに顔を出すこともあるんだ」
「私たちもお会いしたほうがいいかな?」
海英《ハイィン》たちは『ゴースト』の素性を知らない。おおかたゴールドベルク氏の使用人だとでも思っているのだろう。そんな行儀のいい人物ではないので、夜空は同席を断り、佐野教授やウィリアムとともに三階の小講義室まで降りて行った。入口には月魔術受講拒否以来のジュリエッタ・ルナ・アルテミウス女史がたたずんでおり、入室する夜空たちを疑り深く注視した。
「『ゴースト』。何か用?」
ロンシャン国外で再会しても『ゴースト』の無機質な印象は変らなかった。昔は観賞用の奴隷だったというが、それだって定かではない。下っ端ではあるが本物の悪党だ。そんな彼がチェックのスーツをぴしりと着込んで一見ビジネスマン然としているのは何か空恐ろしい感じがあった。
『ゴースト』はつまらなそうにウィリアムを見た。
「この子は一体何ですか」
「ああ、ウィリアム・エヴァ・マリーベルと言います。ロンシャンからの入学生に、学長が世話役をつけたがりましてな……同学年の彼は、実技入試試験で儂の攻撃に倒れた夜空くんに治癒魔法をほどこしてくれたんです。以来、乱入したシリル君との仲もとりもとうと尽力し、所属寮の聖属性塔でも評判上々の優等生です」
佐野教授のごまかしに『ゴースト』はとうてい納得がいかないようだった。
「実は『サンド・シー』からの報告は入れ違いで受けています。彼を監視につけることが入学の条件とうかがっていた。実質は世話役じゃないんですよね?」
『ゴースト』がこのようにまともに話をできるものかと、夜空は少々驚いた。『ゴースト』は肩を丸めている夜空に念押しをする。
「そうなんだよな」
「はい、彼は学長が俺につけた目付です」
『ゴースト』などに弱音をはく気はなかったが、夜空は途端に声色を変えて事務的に答えた。『ゴースト』は小さくうなずき、佐野教授に持論を展開しはじめた。
「夜空は刺客ではありませんよ。入試に不正もなかったというのにテレパス通信用ピアスは没収されたまま。葉兄妹に不測の事態でも起こったらどうするんですか。シャドウウォーカーを通じて半年後に知るだなんて、三人とも東洋の貴重なマジシャン候補だというのに非常に無責任だ。それに、国際政治を話し合う場にまでこんな坊主を同席させるだなんて、ロンシャンをあまりにも馬鹿にしていませんか?」
夜空は人間的には佐野教授やウィリアム・エヴァ・マリーベルを尊敬していたが、理は完全に『ゴースト』にあると思えた。佐野教授は首をひねり、譲歩の姿勢を見せた。
「……何というか、一部のウィザードがあのピアスを強硬に警戒しましてな。闇属性塔ではマスター・ジュリエッタだとか。彼女はロンシャンの『アンジェリカ』という首輪魔術師と戦って、こちらに逃れてきたそうなのです……詳細を知りませんか?」
「自分は『アンジェリカ』の任務詳細などに触れられる立場ではありませんよ」
『ゴースト』は巷の女衒だけあって用心深い。夜空はすっかり『ロンシャナー』としての冷血な顔をして、『ゴースト』に同調した。
「機密事項もありますが、ピアスの説明をさせていただきたい。あれに付いているのは生体反応、位置測定、声紋と特殊コードを用いたテレパス通信のみです。盗聴機能まではありません」
「あのピアスは軍から正式に支給された夜空用の装備なのです。首輪魔術師の『首輪』と同じようなものだとお考え下さい。没収されては非常に困る。こんなクイーンズアイランド出身のガキを監視につけられているのも不本意です」
「うむ、ですがそれは学長の意向で……」
「要するに、アルカディア魔法大学は、ロンシャンといまだ敵対中だということですよ」
ウィリアム・エヴァ・マリーベルは胡散臭そうな目で『ゴースト』を見ていた。佐野教授と『ゴースト』の間では押し問答が繰り返され、教授も考え込んでいる。
「……ピアスはたしかに『魔法銃』のような武器ではあるまいし、儂には返したい気持ちがあるんです。ロンシャン軍では夜空のためにバックアップの人員まで割いていらっしゃるというし、うまく使うならこちら側の意向を直接軍に伝えられますからな。ただ、学長が首を縦に振らなくて……」
「学長は夜空が海英《ハイィン》たちの留学を隠れ蓑にした刺客だとまだ信じているんですか?」
佐野教授は苦い表情でうなずいた。『ゴースト』は淡い憐憫の目で教授を見た。夜空も背筋を伸ばし、言うべきことを言った。
「これは『悪魔の証明』ですよ。ロンシャンが学長を弑して一体何の利益があるんですか?」
「大方、積んだ額が色彩魔術のほうが高かったというだけの話の気もするが」
「ほう、ならば、求めているのはシンプルに『ゴールド』だと!」
「儂は違いますよ! 儂は……夜空くんには期待しています。はじめは刺客かとも疑いましたが、そんな考えは雨が上がるように消えた。何というかなあ……」
佐野教授は頭をかかえてごねはじめ、突っ込んだ話ができないのがもどかしいのか、ウィリアムのほうを鬱陶しそうに見た。『ゴースト』もそれで真意を推し量り、夜空たち留学生の身の上に話題を移す。
「一応聞いておくが、生活に不便はないか? 葉兄妹も含めてだぞ」
『ゴースト』はスーツのポケットからメモを取り出した。夜空は報告した。
「物質的な方面については大丈夫だと思います。蓄えもまだあるし……ただ、やはり色彩魔術というか、シリル・クーリール・ド・リュミエールはずっと俺のことをマフィアだと名指しして絡んできてる。『レインボウ』という禁術を使って、脅しまでかけはじめました」
『ゴースト』は夜空の惰弱な訴えについに本性をあらわにした。
「そんな奴、殺せよ」
スラム街の単純な倫理観から導きだされるしごく乱暴な帰結である。絶句していると、『ゴースト』は腹に据えかねたのかいきなり立ち上がって夜空の頬を強く張った。
「街娼からここまで這い上がってきたんだ、やれるだろ」
夜空はまさか自身が罰せられるとは思わずしばらく呆然とした。怒りは湧いてこなかった。ウィリアムが立ち上がって『ゴースト』をにらむ。
「街娼だと!? そんなはずがない! 夜空は日ノ本の王室の末裔で、公式にロンシャンに亡命した貴種のはずだ!」
『ゴースト』はその発言にほくそ笑み、ファイルから一枚の素描を卓に放った。見覚えがある画風に夜空はもはや泣きそうになった。木炭でのデッサンを固定させたそのプロフィール画像は、エトランゼ・タウンのとある画家が描いたものだ。絵の中では幼い夜空が首をかしげている。膝をかかえて、簡素なトーガを着て、白い狼耳と豊かな尻尾はとくに念を入れて強調されていた。黒目から放たれる媚びた視線はまるで助けを求める囚人のようだ。
ウィリアムが思いつめたようにそれを眺める。正しき者は、健全な判断をくだした。
「こんな……ほんの子供じゃないか。いかがわしい仕事などがあったはずがない」
「可愛いと思うか? じゃあ、お前もその口なんだよ」
次に『ゴースト』がのたまったのは、醜悪な世界でもっとも唾棄すべき嗜好であった。世の中には『ペドフィル』という残虐趣味があること。ロンシャンのエトランゼ・タウンでは若かろうが幼かろうが五体満足であれば値はつくこと。夜空のようなアジアンの白狼の初夜にはたくさんの人物が名乗りを上げたこと。その肖像画は娼館で客引き用に使われていた連作の一枚に過ぎないこと。『ゴースト』は笑みまで浮かべて誇らしげに告げた。 「王室の末裔ならそれこそ最高値がつく。お買い上げになったのが我らがボス、ゴールドベルク様だと言うことだ」
それはしがない街娼元締めだった『ゴースト』にとってとっておきの武勇伝なのだろう。本名すら「忘れた」と言う彼が、アルカディア魔法大学の教授と対等に交渉するなど、それこそ夜空を捕まえなければあり得なかった話だ。佐野教授は考え込み、夜空たちに退出を命じた。
「少し詳しい話を聞かせていただきたい。学生が同席する必要はもうないじゃろう。ウィリアム、夜空。ふたりは部屋に戻っていなさい」
34
ウィリアムは『ゴースト』の示した素描をぐしゃりとつかむと、ショックを隠さずに部屋から駆けだしていった。夜空も辛い思いはあったが、絶対に口止めをしなくてはならない。ジュリエッタが出口で呼び止めた。『ゴースト』が監視役の同席を断ったことを告げると、彼女はいら立ちを隠さずつかつかと部屋に入って行った。ウィリアムの背中を追う。
彼も夜空の尾行は承知だった。階段を上がっていき、四階で逸れて自習室の扉を開ける。先客も居心地が悪くなったのか入れ違いで出ていき、二人は本棚や学習用テーブルが並んだ狭い空間の中で対峙した。ウィリアムの申し出はとても首肯しがたいものだった。
「今から学長に洗いざらい話すんだ。後は私が何とかしてやるから」
「いやだ」
夜空はきっぱりと断った。ウィリアムは握りしめていた肖像画を開き、無用の説得をはじめた。
「この絵には君の本質が現れてる。本当にピュアで可愛く見える。庇護を求める子供なんだ。だから力のある者に拠りたがる」
辛辣に欠点を突かれた夜空は先延ばしにしていた答えをついに切り出した。
「ウィル。俺たち……別れよう。ロンシャンはいつだって本気なんだ。『ゴースト』は最低の人間ではあるけど、あれこそボスの本音なんだよ」
ウィリアムは嫌悪感をあらわにした。
「ロンシャンのボスっていうのは一体何なんだよ」
「ヨハネス・ヴォルフガング・ゴールドベルク様だよ! 大統領だ、国を捨てた俺に教育をほどこしてくれた大恩人。分かってるの? シリルと二人で、一体誰にたてついているのか」
ロンシャン本市では誰もが震えあがるその錦の御旗は、ウィリアムには効かなかった。 「君は要するにもうマフィアの一員なんじゃないか。だからそんな発言が出来るんだ。君を愛してる、けれど擁護できない領域だってある」
夜空はマフィア扱いされて冷静さをなくした。『レインボウ』を見て以来、常に腰に下げていた日本刀の鍔に手をかける。
「俺は犯罪歴はクリーンだよ!」
「そのほうが上にとってはまだ都合がいいってだけだ。命令されれば手は汚す、そうなんだろう? だから躊躇なくシリルを攻撃したんだ。フローレンスなんて絡め手を使わないでその勢力ともきっぱり縁を切らなきゃならない。もういい、私にも考えがある。愛してるからこそ君を許せない。刀をよこせ」
「嫌だよ!」
夜空は拒絶し、長い刀身を抜いた。ぬらりと磨かれた刃がウィリアムの相貌を映す。この期に及んでシリル側の肩をもつだなんて、彼のことが信じられなかった。
「俺にも祈月にも手を触れないで。君は最初から、ずっとシリルの味方で、俺のことなんか信じていなかったんだ。そんな人の甘言にたぶらかされたなんて……自分の愚かさに涙が出るよ」
武器まで抜いた脅しにもひるまず、ウィリアムは果敢に反論した。
「じゃああの柄の悪い使いは何だ!? これだから私はどうしてもシリルの肩を持ちたくなるんだ! 汚れた過去を隠ぺいし、私を篭絡しようとした元街娼のマフィアの犬。それが君の正体だ。逆境に咲く誇り高きアイリスなんていなかった。ボスっていうのとも、あの『ゴースト』とだって寝てるんだろう? 私こそ見間違えただけだった。君があまりに凛として……手折られるのが惜しかっただけなんだ!」
その叫びは強い求愛の裏返しだったが、夜空にはもう届かなかった。どんなに好成績を取っても、どんなに行儀よくしても、ずっと『ボスの愛人』だと勘違いされ、陰で笑われてきた。例の壮行会だって誰もがそう思ったに違いない。真っ赤な屈辱が蘇り、夜空は切っ先を震わせた。
「君だって似たようなものじゃないか! 俺のなけなしの誇りを傷つけるなんて。学長のスパイ、大嫌いだ!」
35
すると扉が音もなく開いた。佐野教授との話は終わったのか、『ゴースト』が笑顔すら見せていた。あわや刀傷沙汰という状況にも全く動揺はしていない。
「お楽しみの最中にすまないな。キャンキャン喘ぐのも考え物だぞ、なあ、夜空?」
『ゴースト』は後ろ手に扉を閉めて、噛みたばこを食べ始めた。
「『サンド・シー』からの報告どおりか。さて、ウィリアム・エヴァ・マリーベル。学長がどうしたって?」
夜空は息をのんで、『ゴースト』の前に立ちはだかった。
「だ、ダメだ。ウィル、逃げて」
『ゴースト』は懐から魔法銃を取り出すと、銃底で夜空のこめかみを殴り飛ばした。横倒しになった夜空の腹部に、何度も爪先で蹴りを入れる。
「金髪緑眼……お前もわかりやすいな。鳥族だったら笑い死んだぞ!」
ウィリアムが何事か唱えようとしたが、夜空は内臓を圧迫された苦しみに顔をしかめつつ、『激光《ジーグン》』を呼称詠唱した。普段よりも太い赤光が飛び、ウィリアムの肩をかすめる。ウィリアムはロンシャンでの夜空の立場を確信したようだった。
「夜空、やはり……!」
詠唱を止めたウィリアムを見て、『ゴースト』がニヤリと笑う。
「そうだ、夜空。お前は大統領が作り上げた作品じゃないか。その御恩に報いるためにも、こんなガキにたぶらかされてる場合じゃないぞ。美味しい『飴』でも舐めさせて、夕飯のデザートに献上してやれよ」
夜空は刀を拾い上げ、じりじりと円を描くようにウィリアムに迫った。ウィリアムは壁際の本棚に追い詰められ、それでも強気な姿勢を見せている。ゴーストも銃を構えて牽制した。
「耳と尻尾を削いで羽でも背負えば、一晩遊んでもらえるかもな」
「ウィル。俺の事愛してるなら……従って」
夜空は刀を持ったまま、ウィリアムを左手で抱き寄せた。彼の細い体がびくりと緊張する。夜空はわざと抱擁を強め、彼の犬耳をかるく甘噛みした。本棚に背を押し付け、深いキスまでする。濡れた舌が絡み、ウィリアムが首をひねって逃れようとした。
夜空は強く押さえこみ、ずるずると本棚をすべるように『ゴースト』の近くまで獲物をひきずっていった。こうすれば魔術師の武器である舌を封じられる。単純な力では年長のぶん夜空に分があった。『ゴースト』は銃を構えたままだ。夜空は『ゴースト』の目の前までウィリアムをひきずってくると、いきなり抱擁を解いて、出口際に彼を放り投げた。そして刃物を持ったまま『ゴースト』側に倒れこもうとする。『ゴースト』は今度も発砲せずに銃底で夜空の顔を張り、ウィリアムから寸時、気をそらした。
自由になったウィリアムは今度こそ逃亡を選択してくれた。倒れた夜空は狂ったように日本刀を突き上げ、『ゴースト』の銃口を牽制した。中開きのドアに内鍵の機構はなかった。細身のウィリアムはわずかな隙間から自習室を脱出し、足音高く駆けていった。
夜空が腹ばいになって降参を示すと、『ゴースト』は噛み煙草を顔面に吐き捨ててきた。
「敵なんか殺すしかないってエトランゼで学んだろ?」
夜空は溜息をついて顔をぬぐい、争いを長引かせぬよう『ゴースト』をなだめた。
「ここはロンシャンのスラム街じゃない。分かってくれてる友人もいるのに、暴力沙汰は悪手だよ」
いっぱしの台詞を吐いた夜空を『ゴースト』はせせら笑った。
「ほう。じゃあどうするんだ?」
「とりあえず、地固めしませんか。葉兄妹に滞在費を渡しましょうよ」
「買収か。分かった、お前の案に乗ろう」
昔馴染みであっても二人の間に感情的なつながりはほとんどなかった。今後の方策について話し合っていると、やがて乱暴に扉が開かれた。そこには闇塔きっての女ウィザード、ジュリエッタ・ルナ・アルテミウスが立っていた。彼女は武器を抜いた二人を見て、有無を言わさず月魔法の基本呪文を呼称詠唱した。
「『MoonLight Call』!」
強力な月光が彼女の背後から刺し、二人は影を縫い付けられたように動けなくなった。魔素ダメージも強烈で、脳髄までもが揺さぶられて視界が黒白に明滅する。仁王立ちする魔女の背後からバラバラと職員が走ってくる。夜空たちはなすすべもなく、腕をねじり上げられてしまった。