万聖節の夜物語 アルカディア魔法大学逃亡編(1-7)

第三章

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 アジャスタガル率いる早朝実戦演習には、目付け役としての責任からか、ウィリアムも律儀に参加し続けていた。彼は新顔のフローレンスを見るなり夜空に不審な目を向けた。 「彼女は一体どうしたんだ?」
「ああ、彼女はフローレンス。シリルの従姉だよ。巴里では色彩魔術主催のショーの花形だったんだって。俺の事情も分かってくれたし、彼女の生活や勉学にもこれから協力できればって思ってる。ウィルもよろしく頼むよ」

 当のフローレンスは洒落た乗馬服に身を包んでいた。ショーで用いていたという特別製のタクトを持って、張り切っている。夜空もこの日ばかりは気合を入れて、マギカだけでなく『風の歌』を披露して集団の敵に立ち向かった。フローレンスは眼前で繰り広げられる音曲と魔力攻撃とのコラボレーションに目を見張り、怖れよりも興奮で頬を紅潮させた。ウサギ魚、と呼ばれているキメラが狂暴な本性で襲い掛かってくると、夜空は身をもって体当たりで止め、フローレンスをその牙から守った。

 ウィリアムが苦言を呈す。

「夜空。いいところを見せたいのは分かるが、無謀にもほどがあるぞ!」
「大丈夫。あたしも本気を出すわ……こぼれる百花の彩錦、魔力で作られし花束よ! 人の陽なる願いを現わし、咲き誇りて禍と共に散れ! 色彩魔法『フローリッシュ』!」

 栗色の髪を躍らせて高々と朗詠し、少女の願いに応じた色とりどりの花々が、魔物の臓腑に食い込んで虹色に咲き、やがてはかなく朽ちるとともに存在を霧散させた。夜空、ジアース、ノエーミは魔素の華に見ほれて思わず手を止め、次の瞬間には歓声を送った。アジャスタガルが腕組みして現象を理論立てる。

「これは退魔の王道だな。狙いさえつけられれば、特定の元素に寄ることなく魔物を分解して大気中の魔素に戻しちまう、使い勝手がよさそうな術だ……いいぞ、フローレンス! その調子だ!」

 教官の激励に意気は上がり、夜空とフローレンスはハイタッチして戦勝を喜びあった。マリーベルはその望ましい光景からあえて目をそらしている。

 時は週初めの早朝であった。一課までの時間が空き、物言いたげなマリーベルが島の方へ引き上げていく。夜空はなんとなく気になったが、疲れを知らないフローレンスが駆け寄ってきて街へ誘い、彼の姿はいつの間にか見えなくなった。

 盛り場に下っていき、彼女の散策に付き合う。もともとおしゃべりが好きな夜空は、年頃の少女との会話にも苦労しなかった。共通の授業の情報交換に始まって、食堂の定食のメニュー、闇塔の乙女たちの顔ぶれに、街で話題の菓子店。今までのブランクを取返さんと、フローレンスは熱心に語りかけてくる。しかし二人とも持ち合わせがなく、古物市で愛らしいエッグ・スタンドやガラスペンといった掘り出し物を見つけても、指をくわえて見ているしかなかった。

 足はいきおい、ラヴァーズ・ポンドに向かった。島の中央部、施政器官があつまる街区に、突如古代の機構が現れるが、勝手知ったる土地のことか、不思議と風景にはなじんでいる。円形劇場には今も人が集い、朝から弁士が島政についての訴えを行っていた。水道橋を辿って人工池に着くと、水際にはマリーベルが薔薇の茂みに美少年らしく黄昏ていた。

「あら、奇遇ね。ウィリアム・マリーベル……だっけ。あたしたちもご一緒していい?」

 フローレンスが返事も待たずに彼の隣へ腰を下ろす。夜空は騎士にでもなった気分で立ったまま、緑なす小庭園を望んだ。

 フローレンスが思い切って土に寝転がる。マリーベルはちらりと彼女を見て行儀の悪さを咎める風を吹かせたが、特に何を言うでもない。

「勇気を出すって、大事なことね……」

 青空に吸い込まれていく独り言に、夜空は相槌を打った。

「君のおかげで、万事解決といきそうだよ。フローレンス」
「レクサゴーヌを離れて、巴里を出て。ボーイフレンドも沢山出来た」
「それは何より」

 ウィリアムが短くあしらう。フローレンスは半身を起こして言った。

「あなただってその一人よ? ウィリアム・マリーベル。意外かもしれないけど、あたし、同年代の男の子とは個人的に話したことがなかったの。一座での暮らしはお稽古で忙しいし、会う人も厳しく管理されてた」

 フローレンスは事情を打ち明けると、両膝をかかえてうずくまった。

「ホントは、ここを出たら結婚も決まってるの。だから男子にいくら騒がれても困ってた……あの人とだって幼馴染で、今まで恋したことはないけど。二人はどうなの? 意中の女の子はいる?」
「その質問にホイホイ答えるやつはいないよ、フローレンス」

 夜空があきれてたしなめると、フローレンスはバツが悪そうに笑った。ウィリアムを盗み見ると、彼もまた尻尾は出さず、薔薇の花を嗅いだりしていた。フローレンスは傍観を許さなかった。

「夜空は秘密ね。ウィル・マリーベル、あなたは?」

 彼は苦笑して、夜空に目配せをする。態度はわずかに和らぎ、会話に参加した。

「私は今も修道士のはしくれのつもりだ。女の子と付き合うなんて、それは、妹だけで懲り懲りだ」
「妹さんはさぞ美人なんでしょうね……」

 フローレンスが大きな目を丸くする。ジョージやマルティンに憧れられていた彼女が言うと可笑しいのだが。夜空は笑って思い出話をした。

「俺なんか可笑しいよ、地元で、お姫様に振られちゃった」
「……夜空は本当にその手の話に事欠かないな」
「ど、どうして? あたしだって他人事じゃないかも、まずいわ……」
「でも、大変だったよ。村から誰かが嫁に行く時とか、綺麗だったと褒めたが最後、その娘に気があったんじゃないかとか邪推するし、乳兄妹の女の子のこともずっと文句言ってた。結局あれって何だったのかな。俺には気があったんだか、なかったんだか」
「結論は夜空が多情だってことだ。相手の言い分は聞くに余りある」
「多情って! 俺は男も女もまだクリーンだよ!」
「どうだか。ちゃんと見張るからな」

 ウィリアムは辛口でまとめると、じっと睨んできた。釘を刺されても、浮いた話題は続いていく。フローレンスがごく真面目ぶってオペラの筋立てを批判して現代的な男女関係の理想を導き出すのも何だかおかしかった。

26

 激しい夏は慌ただしく過ぎ去り、時は九月、収穫を控えた葡萄が高く香る頃となった。聖属性塔の大講義室ではシスターグラジオラスの授業が全新入生必修として行われている。クライスト教由来の回復魔法術の授業で、具体的には『ヒール』を中心とした基礎的な治癒魔法を教示していた。夜空はドクター・ライオネルの方に師事したいという希望を持っていたが、これは医学基礎分野のカリキュラムである。授業のスピードについていくために、最前列で必死にノートを取っていた。

「それでは本日はここまでです。来週は客観式のテストをします。神のご加護に本日も感謝を、アーメン」

 シスター・グラジオラスが祈りの定型句を唱え終わる。聖職者の祈りに応じた魔素が聖なる光の恵みを現わし、教壇近くは聖別されてすがすがしい霊気が漂った。尼僧のヴェールをかぶった初老の教師は学生たちをぐるりと見まわしたが、すぐに騒ぎ出す不届き者はいないようだ。表情を変えずにうなずき、規則正しい歩幅で去っていく。

 早朝訓練に帯同してくれたり、ジョージたちとの諍いを見張ったりと、時に険しい存在感を見せる彼女だが、さりとて特別視されているという感覚もまたなかった。入学以来、授業ではことさら夜空を指名してくるヒョウガや佐野教授とは違っている。教場での距離が適切であるともいえる。夜空は勝手ながら恩義すら感じていた。

 黒板の隅に几帳面に置かれたピリオドまで正確に写し終えると、夜空は背もたれに深く身を預けた。その仕草を合図に、院生がさっさと板書を消しはじめてしまった。隣のバラデュールなどは端からノートを諦めている。溜息をつくと、背中に柔らかな感触が覆いかぶさった。

「ハーイ夜空!」

 後ろから軽快に抱き着いてきたのは、フローレンス・クーリール・ド・リュミエールだ。柑橘系のコロンの香りが鼻腔をかすめる。今日は髪を緩く三つ編みに編んで後ろに流し、かかとまでのロングスカートに、ショートブーツを合わせるという小粋な出で立ちだった。夜空が振り向くと、彼女は微笑んで可愛らしく頼み事をした。

「今の授業、ちょっと聞き逃した部分があったの。写させてくれない?」
「分かったよ、俺のノート、持ってっていいから」
「ありがと! またアジャスタガルの朝練でね!」

 後ろの机に腰かけて、夜空のノートを受取ると、フローレンスはウィンクを火花のように飛ばして去っていった。巴里の寵児の名は伊達ではなく、バラデュールが目ざとく騒ぎ始めた。夜空の背を痛いくらいに叩いてジト目で冷やかす。

「すっかり噂だぞ。君たち二人がお熱だってのは……! 色彩とはモメていたと思ったけど彼女の方とはうまくやったんだな!」
「お熱って……みんなその手の話は勘ぐるなぁ」

 女性情報には目がないバラデュールが座ったまま地団駄を踏む。

「サーカスでアイドルだったのはシリルじゃない。魔法の花束の主役はもちろん彼女、フローレンスの方だよ。小さい頃からずっとスターで、手品もとてもうまいんだ。気は強そうだけどキュートだよな~」
「まあ、それは同意するけど」
「一体どうやってお近づきになったんだよ。ああ、嫉妬で人が殺せたら……!」

 夜空は軽薄な勘ぐりには取り合わず、女性の学友を激賞した。

「でも、彼女は凄いよな。華やかなのに飲みこみまで早い。色彩魔術の現状についての問題意識も本質的なものだし、学問への意欲も高い。将来は名実ともに派をしょって立つ魔術師になるんだろう!」

 伊達男を気取る寮友、バラデュールは簡単にはごまかされない。机の天板を鍵盤のように弾くと、猫耳を前のめりに伏せて詰め寄ってきた。

「そんなイイ子ぶった回答じゃなくて、彼女との仲はど・こ・ま・でだって聞いてるんだよ! ソフィアとフローレンス、両手に花なんて許されないぞ!」

 いつの間にか、夜空の周囲をマリーベル、その同室のアップルビー、ジアース、それに見たことのない男子連中までが取り巻いていた。逃げられない雰囲気だ。赤くなって返事に窮していると、ウィリアムが咳払いをした。

「夜空。君に話がある。私に付き合え」
「ひえ~、修道士サマのお説教だ~」

 バラデュールとアップルビーが震えあがって抱き合う。ウィリアムは夜空の獣耳を引っ張って、教室から連れ出していった。

27

 聖属性塔の実態は、単なる聖職者宿舎である。ウィリアムは五階まで上がっていき、クライスト教様に作られたカセラドルを勝手知ったる足取りで横切って、隅に据え付けられた告解室に無理やり夜空を押し込んだ。自身は当然のようにで教父側に坐り、格子ごしに叱りとばす。

「まったく……君は一体何人との恋の噂の的なんだ。あまりにも軽薄だぞ」
「違う、俺は……!」

 夜空ははっきりと否定した。

「在学中は女の子と付き合う気はないよ。それは生殖に繋がっていく。俺はロンシャンには家族はないんだ。連れていけないし、彼女たちの結婚にも有利には働かないだろう」

 言い切ると、ウィリアムは壁の向こうで声を荒げた。

「じゃあ誤解されるような真似は慎め! フローレンスとは和解したかもしれないが、シリルとはまだなんだぞ!?」

 少年らしいテノールに打たれ、夜空はしゅんと尾を伏せた。だが、しだいに可笑しくなってきて、一人席の中でくつろぎ、卓に伏せてくすくすと笑った。

「なんだか、故郷で懐かしい人に叱られてるみたいだ」

 ウィリアムが壁の奥で憤然とする。

「真面目にやれ。君は今、神の代行たる私に誠実なる告白をしているんだぞ……?」
「俺は君にキスしてもらえれば在学中はそれで、充分だよ」

 夜空は少し照れながらのろけた。ウィリアムがごくりと唾を飲む。そして、声を潜めて尋ねてきた。

「夜空、それは……私に恋をしていると、そういうことか」

 さすがの夜空も、ごまかせない問いだと察した。彼の声は少しかすれている。異教徒の放縦でふざけ半分だったが、居住まいを正し、胸に手をあててじっくり考えてみた。

 ……フローレンスやソフィアには好感はもつが、ウィリアムほどひたむきに関わってくれているわけではない。実技試験で過ちを犯した夜空を救おうと駆けてきてくれたのは彼ひとりだ。それに、夜空自身にもキスを無防備に受けるなど、思わせぶりな態度をとっていた自覚があった。ウィリアム・エヴァ・マリーベルはどの女の子よりも特別だ。繊弱な美しさをもちつつも、凛然たる意思を湛えた緑の目の少年。車輪の両軸を備えた彼の善性は、夜空の理想であった。

 自覚すると急激に見通しが暗くなった。ここはロンシャンのように同性愛が容認された世界ではない。狭い告解室の中でとても逃げ場はなかった。いや、煙に巻くなんてありえない。出来るだけ澄んだ声色で、神にも恥じぬ台詞で、伝えるべきであろう。

「気持ち悪いかもしれないけど……俺は君が好きだよ。夜空はウィルを愛してる」

 夜空は物言わぬ格子に向かって告白した。その裏で、彼がどんな反応をしたかは分からない。かえってそれで気が楽だった。今までウィリアムは過ちを犯した夜空のサポートに身を削ってくれていた。学長から付けられた目付だが、お仕着せの義務感だけではなく、出会ってからずっと、友と呼びうる存在だったと思う。恋心を告げるのは、別れの挨拶にも似ていた。これからは彼の友情からのスキンシップにあさましく尻尾を振るわけにはいかないだろう。どんな答えだろうが受け入れるしかない。

 夜空は心の奥でわだかまっていた問題に整理をつけて、ひとり審判を待った。ウィリアムは聖なる祭壇の前で一点の失態も犯さず、静かに格子の向こうで動き、告解室のボックスを出て夜空側の扉を開けた。その顔は今にも泣きだしそうだ。

「……よぞら。部屋に来てくれ」

 うなだれた彼の薄い背中を支えてやりたかったが、こらえて上階へ向かった。宿舎のつくりは闇塔、火塔とそうは変らず、ウィリアムは階段にもっとも近い自室に夜空を招き入れた。鍵をかけ、手を引いて自身のデスクチェアに座らせる。

「ウィリアム」

 呼びかけると、彼は両肩に手をおき、無言で唇を重ねてきた。最後のキスだと分かっていた夜空は目をつぶってその祝福を受けた。親愛のキス。極彩色の常春の島で金糸雀がつむぐ無言歌のたわむれ。耳の奥に愛らしい旋律をかすかに聞いた気さえした。その味は常に子供だましの菓子に似てほの甘い。接吻が終わると、夜空は自分の唇をさわって感触を反芻した。

 彼の台詞は予想もしないものだった。

「……すまない。嫉妬だった」
「え?」

 聞き返した夜空の手を、ウィリアムは両手で包んだ。そして打ちひしがれた態度で告白を重ねる。

「私も……君が好きなんだ。どうしても男しか愛せない。いっそカソリックに改宗したいのはそういう理由もあったんだ。それなら女と性的に関わり合いにならなくていいから……君ももしかして、その口なのか」

 夜空は信じられない事態に宙ぶらりんの心地になったが、なるべく自身の性向をかみ砕いて伝えた。

「俺も……ロンシャンではずっとボスに惹かれてた。息子さんの教育だけじゃなく、世話人の俺にも興味をもって、声をかけてくれてたから。小さい頃は父親不在の反動で、雅に……村の『古狼』に甘えてた。その延長かな。父性を求める節があったんだ」

 ウィリアムは潤んだ瞳で続きを促す。生真面目な彼は自身の性をずっと悩んできたのだろう。夜空はさっぱりと笑って付け加えた。

「ロンシャンでは同性愛はわりと普通だよ」
「ならば……私は、君にこれからも、キスしていいと? 友でなく恋人として」

 夜空はこくりとうなずいた。立ち上がってウィリアムを抱きしめ、勢いでベッドに押し倒す。

「ま、待て! よぞら、早すぎるぞ、そんな……!」

 面食らった彼にめちゃくちゃに頬擦りし、自分からキスを繰り返した。愛を捧げる相手がいるのが嬉しい。故郷では叶わないどころか、立場があるゆえに許されなかっただろう恋。ロンシャンでの仲間たちなどはなからその類には入らない。女子との間にありがちな、じれったい本心の探り合いからも抜け出し、何もかも捧げたいほどの尊い友人と特別な関係になれたのだ。夜空は尾をゆらゆらと振りながら、ウィリアムにじゃれついた。何も知らない者が見たら、単に少年同士のなれ合いだ。ぎゅっと押し抱く。寝技を受けた彼は反射的に離れようとする。今までだったらもう踏み込めなかった。それでもこれからは、捕まえにいったっていいのだ! 夜空は全身全力で求愛し、満面の笑みで宣言した。

「えへへ。俺ね、世界一ウィルを愛するから! たくさん好きって言うからね!」
「ああ……何てことだ、ん、んん、夜空。まったく……愛してる」

 金髪に指で櫛を入れられ、ぬいぐるみのように抱きしめられて、ウィリアムも夜空にキスを返し始めた。ねっとりとした色気すらあって、新鮮な驚きを感じる。好き、の気持ちが身体じゅうであふれて、はじけて飛んですらいきそうだ。人生の重大事に数えられるほどのきわどい触れあいが何度もあって、時など忘れてしまう。

28

 そこからの半月が、二人のハネムーンだった。アジャスタガルの朝練が終わると、ラヴァーズ・ポンドで水浴びする。貞淑なウィリアムは簡単に膚を晒すようなまねはしなかったが、半裸の夜空に苦笑し、たまには靴を脱いで素足を湖水に浸しては、肩を抱き寄せてくれた。夜空は作業服を羽織っただけの姿で背を撫でられ、尾にまで響く期待でふにゃふにゃと溶けそうになった。珊瑚樹の陰に隠れて、キスをする。

 初対面の場だった海岸にも行った。砂浜に腰を下ろしてきらめく海を見つめているだけで、空気までが香しい。穏やかな波のリズムとともに、胸にまで潮騒が満ちてくる。肩に頭をもたれさせても、彼はその美しい瞳でただ見つめてくれるだけだ。市で古物を冷やかすのも楽しかった。ウィリアムは日ノ本の値打ちものだと騙されて古い銅貨を買ってしまった。そんなの向こうでは屑金買いが拾うほどあるよ、と笑いとばせば、怒ってそれを投げつけてくる。銭形平次だ、と昔話のヒーローの名を告げて、きょとんとしている姿がおかしくて、俺は鼠小僧! と叫んで大通りを反れて路地に走りこみ、人目が途絶えたすきに指を絡め合った。

 夜空は天使のようだと決めつけたウィリアムとの恋に溺れた。彼は愛らしく、髭もないし、肌色はきわめて明るく、髪も生糸のよう。まばゆいくらいの見た目なのに、注目を向けてくれるのは夜空ひとりだ。そう思うとどんなことでもしてやりたくなった。食堂で定食をよそってきてやる。インク切れをした彼に無言で自分のを突き出す。闇塔でノエーミに習ってパンケーキを焼き、昼食に差し入れてやる。

 ウィリアムは寮での逢引き計画には首を縦に振らなかった。夜空の同室は何といってもクルシュタルト王子、クラウス殿下であったし、街で宿を借りて生活しているお付きたちが煩いので、彼はあまり自室から出歩かない。かつてジュリエッタ先生の月魔術の授業で世話になった寮長、ナイジェル・カート・レッドストーンJr.も、ちょくちょく様子を見に来た。当直の教師陣や職員も一年男子宿舎を巡回すること頻繁で、真面目な交際ならともかく、端役の夜空が殿下の寝室で恋人といちゃつくなど言語道断に決まっていた。一方、ウィリアムの側なら同室は呑気なアップルビーであったから、示し合わせればプライベートを確保できそうだ。

 だが、聖職者棟宿舎は他と違ってあまり気楽に訪問できる雰囲気はなかった。夜空が入り込むと、アジア系の出自もあってか、仏教の高僧であるハオ老師が念仏に誘ってきてしまう。イスラム教神秘主義のカシュガル・サラ―ル導師は気難しいらしいし、補助魔法学の大家と噂されるマロウ牧師も、なんだか常にシスター・グラジオラスに気おされていたが、ともかく教徒たちと常にカセラドルを掃除している。バチカンからの出向であるクルセイダー・エルヴィンもまた峻厳な性質で、宴会でもめったに笑顔を見せないらしい。規律も闇塔より厳しく、そんな所で愛し合うのはいかにも危険だった。

 抱き合うのもキスも指を絡め合うのも、溶けるほど愉しい。彼の求愛に焼かれると、まるで飴細工のように自分のかたちが崩れてしまった。私室での勉強中に思い出すのは彼の指先の感触だ。夜空の背に食い込むほどいつも強く抱いてくる。そして耳元でささやかれる愛の言葉。ウィリアムの眉は太目で、唯一男性を感じさせる部分だったが、その下にある緑の瞳に夜空はことさら弱かった。机に向かってわけもなく佐野教授のぶあつい研究書などめくりながら、溜息をつく。背中合わせに坐って読書していたクラウス殿下が面白そうに聞く。

「夜空~、何かあったの? 最近、暗い顔してるけど。もしかしてまたシリルのこと?」
「従姉のフローレンスとは和解したから、それは小康状態。何だろう、食べ過ぎかな」

 クラウス殿下は鷹揚に笑う。

「ここの食事を食べ過ぎたなんて、夜空は舌がおかしいよ。寮生活にも慣れてきたけど、予は食事だけは我慢できない。ノエーミの手料理以外は嫌だ」

 何を言えるわけもなく、夜空は愛想笑いで終える。本当は腰の奥が疼くのだ。もっと彼に触れたいし、そう思うと正直に反応まであるし、密かな悩みであった。あんなに可愛いウィル・マリーベルにも性欲ってあるのかな。下世話な疑問すら浮かんでくる。翌日にペンシル波止場まで足を伸ばした時に、こっそり聞いてみた。

 停泊する客船を見に行こう、と誘ってきたウィリアムは予想通り怒った。

「君は本当にそんなことまで私に話して……恥ずかしくはないのか」
「だ、だって俺。君が大好きなんだよ。生理的欲求に結びついちゃった……そりゃあ恥ずかしいけどさあ。男だからちょっと強いのかも。二人ともおんなのこなら良かったのに」  荒唐無稽な想像をはじめた恋人に、ウィリアムはくつくつ笑った。

「あのだな、ああ、夜空……君はほんとに可愛いよ」

 そう言って、前髪を優しく払ってくれる。夜空はその仕草にぼうっとする。

「大丈夫。君への想いはプラトニックだ。汚れた邪欲なんて持ちようがないさ」

 その声は穏やかで、ひたすら慈しみ深かった。それでも夜空は多少残念に思った。

「じゃあ俺たち、身体で結ばれることはないの?」
「肉体関係ってことか。あのな、君は間違ってるぞ。私は神に信仰を誓った身で……」

 くどくどと説教を始めたウィリアムの唇に、夜空は不意打ちでキスした。

「こら! またそうやってふざける! 浜辺に行くぞ。お仕置きだ」
「えへへ……そこで転がったら、いっぱい抱きしめて尻尾撫でてね」

 ふさふさ、と思わせぶりに白い尾を振る。ウィリアムはむっつりと黙って赤面する。尾をもつ人たちの間では、それはセクシャルな隠語でもあった。しっかり意味を分かっていそうな彼が可愛くて、夜空はにやにや笑う。

「あーっ、ウィリアム。何考えてるの?」
「知らない。蓮っ葉なことを言うんじゃない!」
「俺ね、あのね、受けでいいよ。君を犯そうとは思わない」
「ギルティ! そういう話題こそ禁域だ。誘惑したってなにも出ないぞ」

 ウィリアムはぷいと背を向けてさっさと浜辺に向かおうとする。夜空は後ろから駆けて行って、彼の手を引いて急がせる。

 いつの日か佐野教授とともに過ごした浜辺に腰を下ろし、砂で汚れるのもかまわずに、波打ち際まで行って互いに水をかけあって遊んだ。まだ働いている漁師の姿も見えたから、真面目な二人のふざけ合いは多少控えめだった。腕まくりをして水遊びをして、濡れた服を乾かすために、肩を寄せ合って浜に座る。日暮れ時までこうしていられたら、と水平線を見ていると、ウィリアムに声をかける人がいた。

「……ウィリアム、何してるの」

 ぱっと振り向くと、それはシリル・クーリール・ド・リュミエールだった。黒髪の東洋系の男子と一緒にいる。ウィリアムは立ち上がって、砂もはらわずに言った。

「何って……夜空と話していただけだが」
「公私混同っていうんじゃないの、そういうの。キミはボクの側でしょ」

 夜空も立ち上がり、シリルにきちんと向き合おうとした。

「シリル。今までは行き違いばかりだったけど、俺たち何とか話し合えない? 実技入試で君を攻撃したことは反省してる。ロンシャン軍からの命令だったとは言え、怪我までさせたんだから。そのことはごめん。でも、いがみ合っているだけでは何も解決しないと思うんだ」

 ウィリアムも軽く微笑んでうなずいた。

「その通りだ。今ここで二人は和解するべきだ。ちょうどもう一人、証人がいる。それが学生全員に対する信頼につながる」

 シリルと連れ立っていた東洋系の狐亜種の男子は、手のひらをひらひらと振った。

「ここで握手でも成立すれば、いかにもウィリアム好みのシチュエーションだもんな。でも、証人はもっと多いほうがいいんじゃないか? 付いて来いよ」

 ジョージ、マルティンらと比べて信用がおけなさそうな奴だと夜空は直感したが、黙って言う通りにすることにした。彼はレクサゴーヌ共和国の華僑で、フェリックス・チェンと名乗った。路地を抜ける間、全員一言もない。

(1-8につづく)