万聖節の夜物語 アルカディア魔法大学逃亡編(1-9)

第四章

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 交易多層都市ロンシャンの中央帯は垂直積層型の線状都市である。エトランゼ・タウンはその最下層にあった。夜でも空は見えず、闇には時代遅れの燃料ランプだけが輝いていた。廃墟じみた教会のそばには噴水広場が広がっており、人影はまばらだ。夜空は薄汚れたトーガだけの格好で、噴水にもたれて寒さをこらえていた。やがて花かごを持った犬亜種の女性がやってくる。濃い金髪をふんわりと巻いて、垂れ耳の優し気な女だった。

 女はうす汚れた少年のとなりに座り、花かごの底から硬いパンとミルクをくれた。夜空は礼を言って、がつがつと頬張る。その様子をいたわるような視線で見つめながら、女は言った。

「ねえ夜空。もう意地を張るのをやめてシアトル・人魚座に入らない? 綺麗な服も着せてあげられるし、何よりあなた、痛んじゃうわよ」

 夜空は頑強に首を横に振った。

「今晩が無事だって保証は誰もしてあげられないのよ?」

 女が続ける。彼女はのちに『泣きのエリス』とあだ名される、一介の若い娼婦だった。夜空は立膝を抱え込んで、ぶつぶつとつぶやく。

「盗まないし、犯さないし、殺さないんだ……」

 夜空の信条にエリスは共感の表情をみせた。やんわりと現実を諭し始める。

「あなたは体よく捨てられたのよ。叔父さんは博士にまでなったそうだけれど、入れ替わりであなたまではね。市民IDが叔父さんの名義のままだったなんて、そりゃああなたに罪はないかもしれないけど、不法入国には違いない。すべて取り上げられる以外ないわよ。ロンシャンはどこだってそういう陰謀には事欠かないの」

 夜空は鼻を軽くすすってぎゅっと自らを抱きしめた。エリスは優しい口調で残酷な命令をした。

「あきらめて、男娼になりなさい。盗まないし殺さないし犯さない。じゃあ、ましな相手に抱かれるしかないでしょう? 大丈夫。私だって、あなたぐらいの年には踊り子をしたこともある。弟分として大切にしてあげるから」

 エリスはそう言ってマッチをすり、二人はしばらく極小の炎で申し訳程度の暖をとった。すでに教会も門を固く閉じていた。噴水のせせらぎだけが響き、たまに足音が聞こえるとエリスも夜空も疑り深く身をすくめた。夜空は今夜も誘いには乗らなかった。やがてエリスはあきらめ、マッチの燃えさしを地面に捨てると、無言でどこかへ去っていった 。  明日こそ教会に行こうか、という気の迷いが今夜もまた生じた。この異邦人街では教会に祈りにくる者など珍しく、実体はただの孤児院に近かったが、そこに空いた席はなさそうだった。運よく施しを受けられたとしても、ストリート・キッズの仲間に入れば、すぐに悪党どもの使われの身だ。盗みだけならまだしも、殺しまでさせられる。一度その輪に組み入れられたが最後、助かる見込みはなさそうだった。

 どこかに隠れていようかとも思ったが、今日は『ゴースト』の訪問が早かった。彼は教会のいじめられっ子に「誰かと共に夜を明かす権利」を売ったり、画家に「絵を描く権利」を売ったりと、小口取引ですでに街娼として唾つけをしていた。まだ幼かった夜空は、それらが売春の準備だとは気づいておらず、話し相手でもいれば眠気にも勝てるだろうと無邪気に尾まで振った。画家もいっしょだった。

「また、俺の絵をかくの?」

 笑顔を見せた夜空は、バシャリと臭い汁をかけられた。ぷん、と排泄物の匂い。肥溜めの汚物だ。夜空は勘気を起こして立ち上がり、逃げようとした。

「何をするんだ!」

 『ゴースト』は汚れるのも構わずに夜空を羽交い絞めにした。夜空ははかない抵抗をする。尾で『ゴースト』の背を叩き、画家にやみくもに蹴りかかる。『ゴースト』が顎をしゃくり、画家は小さな腹部を強く殴った。口に布を突っ込むと、『ゴースト』は夜空を地面に放り捨てた。背をしたたかに打ち付けて呻くうちに、手足を乱雑に縛り上げられてしまう。

「あまり傷つけると手間だからな。さっさと行くぞ」

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 『シアトル・人魚座』は色あせた造花で飾られた老舗の娼館であった。

 『ゴースト』たちは簀巻きにした夜空をシャワールームに押し込み、着ていたトーガを切り裂いてむしり取っていった。裸を隠そうと身を丸めていると、男娼と思しき少年がやってきた。猿亜種で、非常に美しい切れ長の瞳のアジアンだった。彼は丈の短いパンツと半袖の旅袍を着ており、シャワーを操作して黙々と夜空を洗い始めた。

 同じ境遇の子供だ、と察した夜空は、彼の迷惑を思って抵抗をあきらめた。男娼どころか彼は馮月龍(フェン・ユエルン)といい、大麗(ダイリー)の麻薬密売を牛耳る黒組織の御曹司だったわけだが、その時には分かろうはずもない。天山語で「ありがとう」と言い、その後念のため大麗(ダイリー)語と英語で礼を言った。少年はただうなずいただけだった。

 彼が持ちだしてきた衣装を着るのは非常に恥ずかしかった。きわどい短さの半ズボンで、前はリボンの編み上げだ。すらりとした白い脚は黒のニーハイソックスで包まれ、クリアラバーソウルのスリッポンを履く。上着は袖のないブラウスで、長いシルクの手袋をしなければならない。非常に扇情的な恰好で、自分がどのような身分になったのかを思い知らされた。

 手をつないだまま、甘ったるい趣味の洋館を歩いた。なるほどこれは乞食よりはずいぶんましな待遇に違いない。絨毯敷の狭い廊下を抜けながら、夜空は断頭台に向かう囚人のような心持だった。三階まで階段を上がる。ロココ調の彩色がなされた白い両開きの扉の前で、月龍(ユエルン)は短く言った。

「暴れたら殺す」

 夜空はうなだれた。彼が扉を開け、深々と頭を下げる。夜空も狼耳を伏せて、客を見まいとした。白壁の汚れはタペストリーが覆い隠し、硝子天板のローテーブルと、薔薇色のリネンのかけられたキングサイズのベッドがあった。金髪に緑目をした鳥族の男児が駆けよってくる。その子はまだ幼く、夜空は世の理不尽に憤った。窓際に置かれたソファーに腰かけるシルクのシャツを着た年長の若い男が客なのだろう。この子供にも、同僚の少年にも、あさましい姿を見られてしまうのだろうか。

 生涯で最も幸運なことに、夜空の推測はすべて外れていた。ジャケット姿の男児は、プレゼントの包みでも開けたかのように、ごく楽し気に言った。

「ミヒャエル、これがパーパの言っていた夜空? ジェネラル入学希望なんだって?」

 夜空は目を丸くした。ひとりだけ大人と言える二十歳前後の青年は、無言で夜空に小刀を放った。黒蝋色塗の鞘に輝く紅の新月紋。夜空の目に光が戻る。床に刀が落ちる前に飛びかかって受け止めると、小さな胸に強く抱きしめた。これだけはもう手放すわけにはいかない。弟から奪い去った当主の証なのだ。

 夜空は利発な口調で言った。

「これは祈月の魂、新月刀です」

 ソファーに脚を組んで座ったミヒャエル・ヨハネス・ゴールドベルクはニヤリと笑った。

「本物だな」

 月龍(ユエルン)が強くうなずくと、ジャケット姿の男児は迷いのない手つきで夜空の頭を撫ではじめた。こちらも年に似合わぬ弁舌を披露する。

「僕はヨハネス・ヴォルフガング・ゴールドベルクの息子、セバスチャン。アイゼンローズ共和国のパーパの領地に住んでいたんだけど、先進国のロンシャンで世界最高の教育を受けたいと思っている」

 夜空は驚きながらも黙礼した。彼は肩をすくめて手のひらを返した。

「……でもパーパが一人では危険だって。夜空のことは聞いてる。僕とともにジェネラルに入って、ロンシャンでの生活を助けてくれない?」

 渡りに船の頼みであった。子供たちのやりとりは学芸会にも似た茶番にも見えたろう。年長のミヒャエルはおかしくてたまらないという感じで笑いをこらえると、いよいよ夜空を値踏みしはじめた。

「要するにお付というわけだ。計算はできるか? 文字は書けるか? ロンシャンの言葉も多少は覚えたな? 楽器も返してやる。何でもいいから弾いてみろ」

 夜空はセバスチャンからハープを渡され、『風の歌』を弾いた。アロマが焚かれた室内をすがすがしい風が駆け抜けていき、みな驚嘆した。ミヒャエルが膝を叩いて鷹の羽根をくっきりと開いた。

「分かった、お前を買い取ろう。ゴールドベルクに忠誠を! 『物乞い若宮』は今死んだ!」

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 夜空はクラウス殿下を除いた同級生に向かって自らの汚点を語り終えていた。寮の朝課がはじまるまではあと半刻程度だった。ジアースの一人部屋まで夜明け前に集まってきた闇塔の面々はそれぞれの反応を見せていた

 口火を切ったのはノエーミだった。首都育ちの彼女は下層社会の醜悪な話にも大きく動揺していなかった。

「では、夜空と『ゴースト』はそれ以降の付き合いということなんですね」

 夜空がうなずくと、パジャマ姿のバラデュールが寝ぐせ頭をかきむしった。

「君、マフィアとは無関係ってあれだけシリルに言ってたじゃないか!」

 反論をしないまま、夜空は『ゴースト』がマスター・ヨナを通じて渡してきた金品を葉海英《イエ・ハイィン》に渡した。

「貞苺《チェンメイ》と二人で分けて。君たちの支援は続けたいから……」

 ソフィアが涙を指でぬぐいながら決然と言う。

「そんなの、ゴールドベルク様の配下になったってだけの話じゃない。夜空は何も悪くないよ!」

 助勢はありがたかったが、夜空はもう言い訳をしなかった。空いている側のベッドには既に荷造りがしてある。寮長のナイジェル・レッドストン・Jrが扉を開け、先を促した。貞苺《チェンメイ》とジアースが荷物を手分けして持ってくれた。海英(ハイィン)は金品のくるまれた小包を押し戴いて受け取ると、複雑そうに忠告した。

「路銀をありがとう……たとえシリルとは無理でも、ウィリアムとは仲直りしないとな。君をずっと親身になって支えてくれてたんだから」

 夜空はよそ行きの笑顔を返すと、背嚢を背負い、階段を降りていった。

 暗い階段を苦労して六階分降りていき、闇塔を出る。夜明け前の白々とした空は明るかったが、冷え込みはずいぶん厳しく、息を吐くともう白く染まった。モッズコートにうずもれるようにして、人通りのないメギドオール通りを抜けていく。聖属性塔の前を通ると、暁鐘が学院本部で鳴りひびいた。

 学院の敷地を過ぎると、ようやく貞苺(チェンメイ)は本音を見せた。

「海英(ハイィン)って何考えてるのかしらね。この期に及んでウィリアム・エヴァ・マリーベルと仲良くしろだなんて……冗談じゃないんだけど」

 ジアースは仏頂面でうなずいた。貞苺(チェンメイ)は辞書を片手に不敵に笑った。

「私、さっきみたいなお話好きよ。ただの優等生よりもイイ香りがするじゃない?」

 ジアースは生活用品の入ったトランクをふりまわし、覇気のない声でつぶやく。

「……俺も人の事全然言えない。夜空とどっこいどっこい。万聖節のキャンディツアー、護衛ってんで殿下とペアになったけど……そんなんでいいのかね、本当に」 「でも、『ゴースト』がウィルを襲っちゃったからさ」

 夜空は端的に答えた。これ以上の抗弁は限界だとも思っていた。ゴールドベルク大統領の息子のお付きだと威張ってみても、馮《フェン》家や『ゴースト』などの筋の良くない連中と十把一絡げになっているのは事実なのだ。ロンシャンでは表立って石を投げる者がいなかったというそれだけの話なのである。

 先導していたナイジェルが歯噛みして聞く。

「なぜだ? ウィリアムがロンシャンに何をしたっていうんだ」

 夜空は学長の件について打ち明けた。シスター・グラジオラスとウィリアムはロンシャンに対して疑心暗鬼になった学長の命令で夜空を監視しており、シリルもその輪に加わっている。ロンシャンは学長暗殺の疑惑を明確に否定しているために、その扱いの撤廃を求めていさかいになってしまったのだ。夜空は自暴自棄に笑いながら今回の総括をした。

「『ゴースト』はマフィアっていっても下っ端だし、エトランゼ・タウンの女衒に過ぎないから、低俗な脅ししかできないんだよ。昔から残酷でストリート・キッズにもすごく嫌われてた。俺……そんな奴にすら逆らえなかったんだな」

 大学に友人もできた今、『小口のゴースト』ごときと共倒れする気は夜空にはなかった。『ゴースト』はシャドウウォーカーのルートを通じてアルカディア島にやってきたらしい。寮長・ナイジェルは初対面の時にロンシャン移民の末裔であると名乗っていた。シャドウウォーカーのマスターヨナのゼミ生で、将来はそちらに勤めるつもりらしい。彼は歩みを止めずに、考え込んでいる。

「ゴールドベルク氏……ロスト・リバティでペンタゴンを奪取した中将の一族か。現・ヨハネス氏は軍事行動よりもシャドウウォーカーの拡大や商業活動に精を出していると聞く」

 貞苺《チェンメイ》は片方のうさ耳を折り、この逆境にやる気を見せはじめた。

「ええ。お会いしたけれど、けっこう優しい人だったわ。私たちだってその支援がなかったら、くにに帰れるかどうか怪しいものよ……兄は呑気すぎるの。ウィリアム・エヴァ・マリーベルについては私も気を付けておく。先生方にもかけあってみるわ」

 街に出てもまだ家家は鎧戸を閉ざしていた。霧が立つ石畳の街道を四人は人目を避けつつ抜けていく。

 佐野教授の自宅は島の中央部、役所や砦が集まっている一等地のはずれにあった。小さな庭付き戸建てで、外装は簡素な砂壁だ。玄関ポーチには教授自らが奥方と迎えに出てきていた。荷物を運びこみ、ナイジェルたちとは別れる。

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 奥方の案内で、夜空は教授の家に入っていった。案内された二階の個室は庭に面した窓が大きくせり出し、藤色の壁紙、ターコイズ・ブルーの敷物、ベッドは白木づくりの天蓋つきで、揃いのデザインの華奢な書物机があった。夜空はトランクを片手に瀟洒な部屋におずおずと入っていった。ローテーブルには水晶玉が置かれている。カーテンの閉まった窓の傍にはヒョウガ・アイスバーグ男爵が立っていた。今日はグレーの襟なしスーツで、彼にしては地味な恰好だ。佐野教授はガウン姿で手を揉んでいた。

「ここは嫁に行った娘の部屋でな」

 荷ほどきをする暇すら与えずに、ヒョウガが口火を切る。

「先生、話を済ませてしまいましょう」

 ヒョウガ男爵はデスクチェアに腰を落ち着けた。教授は難しく眉根を寄せて言った。

「ロンシャンマフィアについての話はしない。ウィリアム・エヴァ・マリーベルはかかわりすぎたんじゃ。儂の指示もよくなかった。闇塔の教授陣は幸い、今のところ夜空の退学処分までは考慮しておらん。しかし、今から話すことはここにいる者だけの秘密にしたい」

 ヒョウガは既に話の内容を知っていると見え、深くうなずいた。佐野教授が自身のこめかみを叩きながら話し始める。

「祈月一族についてはかつてこの大学で助手をしていた男が書いた本があってな」
「『神威祥』の書いた『近世説天山史』ですか?」
「そうじゃ。なんだ、もう知っていたか」

 夜空は背嚢の中からアップルビーの渡してくれた和本を取り出して、ローテーブルの上に置いた。佐野教授は中身をぺらぺらとめくり、本物であることを確認した。

「返却手続きをしてあらためてワシの名義で借りだしておこう。この本はいらん憶測を生む」

 夜空は味方の出現に安堵した。ヒョウガは手を組んで本題を進める。

「実は夜空の受験を受け付けた時から、アルカディア大学では祈月氏に対して警戒態勢がとられていたんだ」

 夜空は遺憾の意を示すために大仰に溜息をついた。

「この書の内容を本気にしたんですか? それはひどい。祈月はもう裏稼業からは脚を洗いましたよ。父・源蔵は賊軍討伐で武名著しく、朝廷からも重用される清廉な人間です。一族の悪評、すべて訂正してもらいたい」

 ヒョウガ男爵は長い銀髪をかきあげ、夜空に真向反論した。

「だが耀という人物が暗殺に手を染めていたのは事実なんだろう? 神威先輩はもとは風属性塔でカイザーの助手をなさっていた、犬亜種の天山人だ。御父上は、『祈月耀』に殺された……彼は以前からはっきりそう言っていたぞ」

 夜空は悔し紛れに祖父の最期をヒョウガに教えた。

「でも祖父は最後には常春殿から裏切られ、口封じで始末された! 今から三十一年前、永康七年、父が九歳の折だ! 我が父・源蔵がその逆境からどれだけ苦労して這い上がったと思っているんですか? 本当にやめてください。何の益もない」

 佐野先生もヒョウガを止めた。

「ヒョウガ。場外試合でもするつもりか? それに本題でない。大事なのは泪のことじゃ」

 夜空は多少落ち着き、記憶の端からその名前を掬いだした。

「天河泪《てんがなみだ》のことですね」
「そうじゃ。本当に泪のやつはワシらになにも打ち明けず……!」
「天河家は朝廷からつけられた祈月耀の正式なパートナーですよ。天山には四つの巨大な神殿がある……朝廷を祀る紫天宮。春をつかさどる常春殿。夏の離宮の清涼殿。秋の豊穣を寿ぐ月華寝殿。天河はもとは清涼殿地方に隠居した院の流れをくむ魔術師で、もちろん今はすっぱりカタギだ。被害者からすればやりきれないでしょうけど、当時は朝廷からの正式なお達しだったんだ!」

 滔々とした主張に、ヒョウガ男爵は面食らって頭をかかえた。――実際、この発言を在郷の夜空の弟が聞いたら笑い出しただろう。家宝持ち逃げの凶悪犯が何を言うと。彼は兄よりもさらに周到で、峻烈であった。佐野教授は扉のほうを振り返りながら重要な論点を切り出した。

「まあ、夜空の入学前はよく分からんことも多かったから、神威くんの話を全部真に受けていたがな。マスター・ジュリエッタもロンシャンとは遺恨があるから、祈月は自分に向けられた刺客じゃないかと疑っておった。だが……シリルの件、おかしいと思わないか? いかにあの子が軽率でも、他人の術式がほしいぐらいで、ノコノコ試験場に出ていくか?」

 ヒョウガは机に肘をついて、重い口ぶりで補足をした。

「佐野先生は、この件には泪が絡んでるんじゃないかと疑っておられるんだ」
「天河泪が?」

 ヒョウガは軽くうなずくと、机の上の天秤皿を指で押しながら説明した。

「やつは他人の意識をのっとって、思うがままに操ることができる。『マリオネットコントロール』という術を使えるんだ。私も武者修行時代には世話になったものだ。泪は結城疾風を憎んでいた。犯罪者落ちした今、神威先輩に雇われて祈月氏の入学を阻止しようとしたのかもしれない……」

 佐野教授も真剣な面持ちだ。

「泪は、儂の弟子じゃった。人格破綻者ではあったが、戦闘のセンスはずば抜けておったよ。魔力も豊富な水魔法の術師でな……ヒョウガと組んで注目されておった時代もある。だが、クイーンズアイランドの軍に就職したあと、航海中に逃げだしてしまってな……出頭せず、行方が知れない」

 天河泪の事跡を語り終えると、佐野教授は結論を出した。

「不肖の弟子じゃ。儂らの一派で捕まえねばならない」
「そうでしたか……だけど、祖父以来の因縁なんて馬鹿らしいですよ。耀は死んだ。父上も、暗殺には絶対に手を染めないって思ってる。天河の家だって今は朝廷を辞して、単なる街の楽器屋さんだ。俺だって何も……していませんよ」

 夜空は最後だけ言い淀んでしまった。大学の蘇生措置によりなかったことにされたが、実技入試のときにシリルに手を下したのは自分なのだ。しかし、あの時彼が詠唱しようとしていたのは例の禁術『レインボウ』だったかもしれない。こうして祈月に都合の悪い事実だけが海外で伝わっているのを鑑みると、あんな所で無為に塵に返されるわけにはいかなかった。佐野教授は前のめりになり、腰をさすりながら言った。

「夜空。学生の君に頼むのは悪いとも思うが、泪の捕縛に協力してくれんか? これ以上の悲劇は見過ごしてはおけん。寮のほうだとクラウス殿下やジュリエッタ先生の手前、あまり込み入った話ができんからな。しばらくはこの家で書生として過ごしなさい」

 夜空は了解し、アップルビーがシスター・グラジオラスに厳しい仕置を受けていたことや、彼女がウィリアムの部屋を漁ったりしていることなども告げ口した。佐野先生とヒョウガ男爵は顔を見合わせ、「マロウ牧師に知らせておくか」と示し合わせた。

 夜空は今までのやりとりから浮かんだ当然の疑問を佐野教授に問うか迷った。神威祥はともかく、佐野教授たちが天山を出た理由である。しかしちょうど話が終わった頃合に奥方がドアを開け、朝食の準備ができたと告げた。ヒョウガは断って寮に戻り、夜空たちは言葉少なにブレックファースト・ティー付きの朝食をとった。

40

 その日は禁足を受けた。闇属性寮では夜空の今後について話し合われたようだった。佐野教授の自宅には『ゴースト』からの走り書きが届けられたが、内容は叱責だった。

 自身の問題で大麗《ダイリー》の留学生を危険にさらしている。学長のスパイであるウィリアムを寝返らせていない。ピアス没収へ異議すら唱えていなかったばかりか、学生や教授の名簿すら未作成。ロンシャン密偵として無能の烙印を押されたようなものだ。『単にあとしばらくはここにいられるって言うだけだがな』というラストの脅しはすぐに現実となりそうだった。

 夜空はその手紙を隠す気力すら失い、ベッドに横たわってオーガンジーの天蓋を眺めた。ここは佐野教授の愛娘の部屋。故郷日ノ本の、母の屋敷に似た空気があった。自分が今まで積み上げてきたものはすべて無意味だったのだろうか。振り出しに戻ってきてしまったような、漠とした憂鬱で寒気までした。

 海英《ハイィン》が言ったウィリアムとの和解について、考えてみた。彼を愛しているかで言えば……まだ未練は深い。彼は信心深い潔癖主義だ。お堅い修道士さまという周囲の評価は当たっている。そんな彼が夜空の奔放さに目を細め、ときには遊びにつきあってくれ、叱ったりほだされて鉄面皮がはがれる、そんな瞬間がたまらなく愛しかった。

 だが、いくらなんでも夜空の男娼の過去などを受け入れる風には思えなかった。おそらくすべての障壁がなくても、関係の破綻は近かったろう。夜空は愛した人物との『その先』を強く望んでいたが、ウィリアムは違っていたから。その願いをみじめな過去と結び付けられるのは夜空には耐えがたかった。

 彼が俺を嫌うのは当然だ――夜空は思う。ボスとの関係は実際ひどく微妙だった。娼館からクリスタルウィングの教会に救出されてしばらくたった後、大統領官邸の寝室に呼ばれた。その時は高層のガラス窓から線上都市の明かりを見て、簡単な国の説明を受けたまでだったが……ソファには真紅のシーツが引かれていた。きっと『そういうこと』をする手はずだったのだ。だが、そんな世界があるとつゆ知らなかった夜空はボスと小さな手をつないだまま、申し訳なく思って言った。「きっと俺は、あなたが息子さんに注ぐはずの愛情をかすめ取っているんでしょうね」。それは、日ノ本で傅役の夏目雅とその息子・文香に対して引け目に思っていたことだった。ボスが夜空の手のひらを握る力は、なぜだか弱くなった。以来、息子のセバスチャンも嫌がったために、ボスとの肉体関係はなかった。夜空がお手付きでないのは案外有名な話で、側近の息子たちの間ではボスは獣耳・獣尾のある少年に飽きたのだとまことしやかに囁かれていた。

 ウィリアムの今までの人生はもちろんそんな世界とは隔絶していたに違いない。『ゴースト』の前でしてみせたディープキス。二人の最期の触れあい。

……夜空は汚れている。闇属性で、元・街娼。弟からは新月刀を奪い取り、人殺しで、多情で淫乱。ウィリアム・エヴァ・マリーベルは透き通るように綺麗……。結局夜空のしたことは、ゲイだという彼の人生上の悩みに付け込んで、同次元まで引きずり降ろそうとしたにすぎなかった。

「カナリア……」

 苦々しくつぶやく。彼が藪に捨てられたり、柳の鞭でぶたれるような結末だけは避けたかった。何よりも彼の身を案じて、監視役から外してもらおうと夜空は思った。

 奥方の夕食の下ごしらえを手伝っていると、やがて佐野教授が帰って来た。すでに外は暗くなっていた。教授と奥方は今夜の趣向を示し合わせていたらしく、グラタンを食べ終わると二階のバルコニーへと出て行った。夜空も不思議に思いながら白木の三方を運んだ。

 バルコニーに据え付けられたガーデン・テーブルの上に風呂敷を布いて、三方をそこに置いた。三方の上には小麦粉をゆでた団子が積み上げられ、白地に藍を染めつけた花瓶には金の穂をつけた麦が活けられる。気づいた夜空は笑顔になった。

「これは、お月見ですね」
「もしかしたら、日ノ本で行うクリスマスぐらいにピントがぼけているのかもしれんが」

 その通り、月は大分すでに満月から大分欠けていたし、名月を祀るには二か月ばかり遅かった。しかし、二人が同じ日本人として示してくれた歓迎がありがたかった。奥方も佐野教授もエイジャンで、黒い三角のぴんと立った犬耳をしており、尾もくるりと巻いている。その風貌にはなつかしさしかなかった。

 しばらく酌をしていたが、夜空はやがて申し訳なさに耐えられなくなり、月見も忘れて自分の手元に視線を落とした。

「先生はどのくらいの頃まで日ノ本にいらしたのですか」
「ううむ、十歳くらいまでかな。じゃが、覚えていることもある。中秋の名月はそりゃあ、盛大なものじゃった。紫天宮の五節の祭り。祖父は神官だったんじゃ。ここには、薄が足りないがの」

 朝方、ヒョウガ男爵の態度から推し量った疑念を聞き出す時だと思った。夜空は穏やかな声で尋ねた。

「佐野先生、失礼を承知でお聞きします。今名乗られていらっしゃるのはどなたの姓ですか。実は俺もたまに母方の草笛を名乗ろうかと迷うことがあるんです」

 佐野教授と奥方は、すべて分かっていると言いたげな表情を向けた。

「夜空。遠回りな問い方をしても無駄じゃよ。おそらくワシの祖父も神威くんと同じで、祈月耀に殺されたか、それがらみで国外に追われたかしたんじゃろう。今名乗っているのは君が見抜いた通り母方の姓で、祖父は『秋葉健司』と言う。確かめる宛てはないようじゃがな」

 夜空は静かに微笑んだ。そして部屋にとって返し、奉書紙の手紙を持ちだしてきた。それには血判の封がしてあった。夏目雅の遺書だ。

「それは……?」
「俺の傅役、夏目雅の遺書です。彼は俺の身替わりになって呪い殺された」

 簡略に説明して、文を開いた。そこには常春殿が祖父・耀を裏切った非道への訴えと、彼の暗殺業の標的となったであろう人物のリストがあった。最後には夜空に向けた訓戒があった。『強く生きろ。決して耀さまのように使い捨ての刺客にはなるな。それが、渚村の古狼・雅の願いだ』。読んだときには泣くどころか、全身が凍るような怖気に襲われたものだ――『秋葉健司』の名は、はたしてリストに含まれていた。佐野夫婦は唇を噛んでしばらく黙っていた。夜空は沈黙に耐えた。

 佐野教授は顔を上げ、深々と溜息をついた。

「若いころならともかく今となっては復讐など、馬鹿らしい。自身の努力と才能で、儂は今やこの地位にまで登りつめた。娘は『マギカ』の発明家、メギドオールに嫁がせた。あのメギドオールじゃぞ! ヒョウガをはじめ、高名な弟子も大勢いる」

 奥方は夫の放言にくすりと笑った。夜空には恥ずかしさに消え入るような思いだった。佐野教授は立ち上がると、やおら両手を大きく広げ、月に向かって滔々と吼えた。

「儂はこのとおり、今や人生の終焉にさしかかった老人じゃ。……だが、まだ知性というものは生きていて、真相を知りたいとうずいている。儂が日ノ本を出たのは右も左もわからない頃じゃ。同じような境遇だのに、君のほうが核心に近い。どうして秋葉氏がくにを追われたのか、何か意見をくれ」

 夜空は本来の聡明さを取り戻し、佐野教授の腰のロッドを指さした。

「『紺紫の玉に触れしかば死の眷属となり果てて、水牢はただ騒ぐのみ』……日本に伝わる『滅び唄』の一節です。それは、紫天宮の神官が朝廷とともに守護する魔石、『紺紫玉』ではないのでしょうか」

 佐野教授はぽかんと虚をつかれた顔をして、ロッドを手に取った。

「……確かにこれは父が日ノ本を出るときに携えてきた魔石をロッドに仕立てたものじゃ。そんな言い伝えも、父はまるで教えなんだ……」

 夜空はうなずいて、続きを話した。

「常春殿、清涼殿、そして月華寝殿にも、似たような巨大魔石があります。俺が見たのは常春殿のものだけですが……美しい桜色の浮遊石でした。紺紫玉はまさに帝とともに御所に鎮座する国宝。一介の魔術師が持ちだしているのは、明らかに不審です。単なるあてずっぽうですが、それに関わる事件かと」

 佐野教授はしばらく考え込み、夜空に大それた誘いをかけた。

「夜空。お前、ワシのような大魔導士にならないか?」

 ロッドを固く握りしめ、老人は決然としている。『大魔導士』? そんな物語的な職業は夜空の人生設計のなかには今までなかった。ロンシャンで医官になり、故郷には御礼とともに栄達の連絡を送る……そんな整然とした、詰屈な未来図しかなかったのだ。だが、教授は本気だった。ほんものの『大魔導士』の輪郭は月光をさかしまに受け、艶やかに輝いている。

「神威くんの『近世説天山史』は足りない情報ばかりじゃ。夜空が申し立てた常春殿の魔物、『日の輝巫女』の存在。当時の祈月や朝廷の思惑も、犠牲者の罪状とてわからぬし、その協力者が天河だったということすらも分かっていなかった……これは史書としても片手落ち。儂は残りの人生を、この件の解明に費やそうと思っておる」

 夜空は老教授のまなざしに一瞬、見ほれた。人がおのれの生の意味を運命に向かって問いかけるときに放つ挑戦の光。今までの受け身で弱虫な自分に欠けていた強さそのものだった。佐野教授は仇のはずの夜空をも自らの旅路に招いてくれた。

「ロンシャンで医師になるのもいいかもしれないが、マジシャンは何より、魔物を倒すのが仕事。ここで力をつけて常春殿の非道を暴き、『日の輝巫女』を倒したらどうか。祈月耀は最終的には常春殿に殺されたんじゃろう? 儂の経験からいっても、その前の暗殺業からしてそんな強大な魔物が一枚噛んでいないはずはないぞ」

 佐野教授はそう言って、ロッドを軽く振った。先端に付けられた紺紫の玉は、エメラルドカットを施され、わずかに周囲の時空を歪ませている。

 夜空は顔をあげた。心細いおのが先行きに、高潔な天命が据えられた時であった。友を守ること。傷ついた者を癒すこと。そしてついにはおのが故郷に巣食った魔を調査し、滅すること!

 それは祈月の末裔を名乗るならばやらねばならない仕事であった。ゴールドベルク氏による保護よりももっとありがたい? いや、この出会いをもたらしてくれた全ての偶然に、感謝したくなっていた。

「分かりました、必ずや!」

 夜空はその老いた姿に、故国日ノ本にて失った夏目雅の面影を見ていた。彼の魂は遺書を通じて異国アルカディアにも伝わっただろう。同席していた奥方も安らいだ顔で星天を仰ぐ。

 ――雅、俺、絶対にお前の下へ帰るからね!

 今度こそ、顔を上げて前へと進んでいける。夜空は雅を失って以来はじめて、心の底まで晴れ渡った気分になれたのだった。

(1-10につづく)