万聖節の夜物語 アルカディア魔法大学逃亡編(1-3)

第一章

9

 十日後、最終合格者の名簿と所属寮がアルカディア魔術大学学院本部の掲示板に張り出された。ロンシャンから一緒だった葉海英イェ・ハイィン は六位で、妹の葉貞苺イェ・チェンメイ も十五位という快挙である。夜空は何と総合一位。ロンシャンでのトレーニングのおかげで、どこからも文句の出ない好成績をおさめることができた。

 事前に言い渡された通り、夜空は闇属性塔の寮へ行く予定だったが、便宜を図ってか、葉兄妹も揃って同じ配属になった。六か月前にロンシャンで引き合わされて以来の仲だが、これからも長い付き合いになりそうだ。明日には入寮手続きが行われる予定だった。

 合格を祝って、宿屋『海鳥亭』では食堂を借り切ってささやかな宴会が開かれた。夜空は思い切ってウィリアムも招待することにした。彼ももちろん入試にはパスしており、所属寮は聖属性塔となるらしい。

 入寮を翌日に控え、ウィリアム・エヴァ・マリーベルは妹のユーフォリアと二人連れてやってきた。少女はまだ十三足らずで、兎亜種。兄よりもさらに色素のないアルビノだった。銀髪をおかっぱに切りそろえ、ウィリアムによく似たくっきりと大きい紅の吊り目で、夜空を珍しそうに見つめる。そして肩にひょいと指を伸ばしてきた。

「髪の毛、抜けてる」
「ああ、俺、大分切っていないからな……ごめん、捨ててくるよ」
「いいえ、気にしないで」

 兄のほうはなぜだか少し冷ややかな目線で二人を見ていた。妹に言い寄ってると思われたか、と夜空はいらぬ気をまわし、マリーベル兄妹とは離れて座った。ロンシャン本市からずっと夜空たちの護衛をしてきた首輪魔術師『サンド・シー』は、アルカディア島についてからも大学側との協議にあけくれており、疲れが抜けていない様子だ。

 宿舎『海鳥亭』は、合格者ひとりずつに可憐なブーケを用意してくれた。メインディッシュは薔薇や鳥の菓子があしらわれた立派なケーキと、白身魚のムニエルだ。香辛料をいっぱいに加えた野菜スープとミルク粥が副菜に添えられ、満腹の後もピクルスの酸味が舌を喜ばせる。どれもロンシャンでは口にすることも難しい新鮮な食材を使った料理だった。ソースの小皿の受け渡し、ケーキの切り分けといったこまごまとした給仕で夜空と貞苺チェンメイ は率先して動き、ゲストであるマリーベル兄妹と、太平楽な海英ハイィン は主に食事に集中した。ようやく席に落ち着くと、貞苺チェンメイ は顔を両手でおおっていきなり泣き出した。憂いある美女が急に激情を露わにしたので、マリーベルたちは驚いた様子であった。

「ああ! 私もついに国家からの大役を果たすことができた!」

 兄、海英は椅子に深く沈みこみ、蜂蜜酒をしっぽりとやりながら、背中の羽根をやや開き、ほろ酔い心地でたしなめた。

「まだ早い。落第せずに卒業して、帝へ報告してはじめて旅が終わったと言える」
「でもその後私にあるのは後宮へのお勤めよ。お后やお姫様の護衛官。なんだか、怖いわね」

 ユーフォリア・エヴァ・マリーベルは話についていけないのか困惑顔のままなので、夜空が解説した。葉兄妹は茶葉を扱う商家の出身で、高い魔力と一族の財力が見込まれ、ここアルカディアまで派遣されてきた国家公認の留学生であった。葉海英はすでに科挙に合格してもいたが、貴族政治が強い大麗では破格の抜擢になる。進士の妹、葉貞苺は身を乗り出して大麗の政治情勢について語り始めた。

「大麗ではどこも閥が強くてね……統治は比較的安定していると思われているけど、君子の徳なんてどこへやら。売官も横行してるし、朝廷は放蕩三昧で、麻薬密売の蔓延する楼閣で政治が行われるしまつよ」

 他国にあるせいか、葉貞苺の舌鋒は鋭い。海英は大あくびをして、ケーキにぱくりと食らいついた。夜空はうなずいて同調する。

「それでも戦がないだけいいよ。天山なんて、ここ三十年あまりずっと内乱。父親は賊軍の征伐で官位を上げたし、群雄割拠っていえば聞こえはいいけど、戦争ってやっぱり民を苦しめるよね。その点やっぱり大麗はうらやましいな。国土が広いのに平和なんだもの」
「私は平穏は表向きだけだと思うけどね。軍事的衝突がない分、貧民はそう簡単には這い上がれない。今の大麗って果たして統一された政権と言えるかしら。内乱だってまたいつあるか。ルーシャンだとか智亮 (チリョウ) だとか他国からの侵略だってあるかもしれない。ひとつにまとまって対抗できるとは思わないな。今の平和は爛熟しているだけ。いわば『黄昏の昏睡』に過ぎない……」
「ユーフォリア。よく聞いておけ」

 貞苺は悲観的な政局観を披露し、ウィリアム・エヴァ・マリーベルがケーキに夢中の妹を叱る。ユーフォリアは極東情勢などどうでもいいらしく、仏頂面で今度はワインに手を伸ばした。飲みに入っていた首輪魔術師『サンド・シー』が場をなだめる。

「まあ、若人の活発な議論は入学してから存分にやってくれ。俺はようやく大荷物を三つも降ろして気が抜けたよ。思ったより大変だった、首が飛ぶところだった……」
「実技試験の騒ぎでですか?」

 夜空がすまない気持ちで聞くと、寡黙だった『サンド・シー』は酩酊状態でうなずき、事の次第を振り返りはじめた。

「いったんやり合っちまうと後には引けないからなぁ……肝が冷えた」
「申し訳ございません。俺も周りにゆだねるべきだったのに……」
「だけどあの状況で、あんなガキは刺客だろう。色彩魔術だかなんだか知らないが、『激光』が欲しかった? そんな阿呆みたいな言い訳……ロンシャンならジェネラルの教師に首根っこ掴まれてる年ごろだぞ。レクサゴーヌ共和国のガキってのはそんなに躾がなってないもんかね?」

 『サンド・シー』の目は酔いでうつろだ。夜空はマリーベルたちに彼の素性を説明した。

「『サンド・シー』はマジシャンとしての号で、ロンシャンでは首輪を装着する高位魔術師だよ。重要なキャラバンの護衛や、砂漠に潜む魔物を狩る役目を担ってる。俺たちの旅を護衛してくれた責任者なんだ」
「首輪なんて物騒ね。それは魔力が高いから?」

 テーブルにひじをついたユーフォリアが率直に聞く。果たして、猫亜種の彼の首にも紫の首輪がはまっていた。『サンド・シー』は貞苺から酌を受けると深くため息をつく。

「本名はな、エイドリアンと言う。ここでは秘匿情報だっけか? まあいいや。首輪は仕方ないよ。一定以上だとはめられる。魔力を用いた犯罪の抑止策だ。夜空だってロンシャン内じゃ首輪だよ。あとの機能は機密。ロンシャンでは何でも軍事機密なのさ」
「エイドリアン、あなたもロンシャンの魔法大学出身なんですか?」

 今度は兄のウィリアムからの質問だ。首輪魔術師は口数少なに答えた。

「ナショナルアカデミー、魔法科だ。実技以外の成績はあまりよくなかったがな」

 夜空は『サンド・シー』が素面の警戒心を取り戻したのを感じ、口をはさんだ。

「そういえば君はバチカンの退魔軍志望って言ってなかったか? ロンシャンナショナルアカデミーからそこの医官になる人も多いらしいよ」

 『サンドシー』はここにきてようやくマリーベル少年に注目し、実技試験で夜空を助けたことや、家柄などを詳しく聞いた。そして仕事の顔で言う。

「書面で当局に報告しておく。できればロンシャンに……というか、夜空たちにこれからも協力してくれると嬉しい。就職にも有利になるだろうし」

 ウィリアム・エヴァ・マリーベルはとくに含むところもなさそうに了解した。そしてなぜだか夜空を睨む。

「願ってもない話ではあるけれど……夜空、君次第だからな。これからは人をいたずらに傷つけるな」
「女の子と駆け落ちとか、捨てるとかしないようにね」

 少年の忠告に、貞苺が茶々を入れる。夜空は慌てる。

「そんなの無理だよ、ダメだってば!」
「あれ~? 思い当たる節があるのかなぁ?」

 海英もすかさずイジリに参加し、料理も酒も少なくなってきた宴席にはつかの間の笑いが満ちた。宿が手配した吟遊詩人も到着し、リュートの伴奏で合格祝いが歌われる。海英は鼻高々で酒杯をあおり、気前よくチップを支払った。しっかり者の貞苺は「大尽にでもなったつもり?」と目じりを吊り上げる。やがてワインも蜂蜜酒も一滴残らず干され、食事会はお開きになった。夜空はマリーベル兄妹を送っていくと言い張ったが、『サンド・シー』が引っ張って止めた。ユーフォリアは宿の戸口に立ち止まり、赤い目で夜空を観察する。

「お兄ちゃんにはヒールされたのよね。体はどこもおかしくない?」
「心配してくれてるの? ありがとう、おかげさまで元気だよ」
「フフフ……あなた案外しぶといのね」

 夜空は彼女の楽しげな笑みに居心地の悪さを感じた。

「ユーフォリア! 帰るぞ!」

 兄のウィリアムが遠くから叱り飛ばす。ユーフォリアは幽霊のように白い姿をひるがえし、闇の中へ溶け込むように消えていった。

10

 翌日、入学を待たずして夜空たちはアルカディア魔法大学闇属性塔五階サロンに召集された。サロンには白いテーブルクロスをかけられた十人掛けの長机が整然と並び、アラベスク文様の彫刻がなされた暖炉やスツール、また大きな安楽椅子やグランドピアノが置かれている。北側の大壁には聖ゲオルギウスが悪龍を退治するタペストリーがかかげられ、貴族趣味な大広間の壇上には、ダークメイジのカルリーニ伯爵と実技試験で夜空を罵った女ウィザードの姿があった。

 職員たちの手によって、入学用書類の受付と、式典で着用する制服のための採寸が行われる。それが済むと、カルリーニ伯爵が南のバルコニーに沿った大窓の中心に立ち、演説を始めた。

「新入生諸君! 今日という日を寿げ! 四年間起居を共にし切磋琢磨する学友が集い、しかも俊英ぞろいだ!」

 長机に並んで座った八名の新入生の中では、外ハネの長い金髪をした虎亜種の男子が目立っていた。緋色のマントに、宝石で飾られたサークレットをつけ、鎧をつけた護衛や、学者服を着た侍従が周囲をとりまいている。金髪も虎耳も太いその尾も、はちみつ色に照り輝いている。カルリーニ伯爵は大仰に身振りをつけて礼をとった。

「クラウス・タイガ・ヴァルキリア殿下! 我が闇属性塔は学生とともに貴公を心より歓迎いたします!」

 虎亜種の男子が応じて立ち上がる。顔つきこそまだあどけないが、青年と形容したほうが適当ながっしりした体躯をしていた。彼は鷹揚にうなずき、朗々とした声で話し始めた。

「カルリーニ伯爵、ご挨拶を痛み入ります。皆の者、予はクラウス。ハンガリア王国の第三王子だ。寮では不便もあるだろうが、民と同じ立場で勉学に励むことによって、見えてくるものもあると思う。以降、よろしく頼む」

 王子にしてはずいぶんとさばけた挨拶だった。元は皇族を自認する夜空も本物の皇太子などと対峙したことはなかった。しかし、ロンシャンでは『乞食若宮』とあだ名されていた身だ。人がよさそうだが、気品を失わないクラウス殿下のたたずまいには、早くも好感を抱きはじめていた。カルリーニ伯爵は話を引き取って続ける。

「斯様の通り、クラウス殿下が一学生の立場として正式に入寮される! 殿下はアルカディア魔術大学の『従者禁止』という校則を重んじられ、単身で文武の修行に励まれる。したがって、当闇属性塔はこれから四年間、寮生を厳しく管理する厳戒態勢を布く! 同学年となる諸君は、授業、実習、生活、すべての面で殿下の身の安全を重んじ、不審者あらば撃退する近侍であるべしと心得よ!」

 夜空はロンシャンでもヨハネス大統領の息子、セバスチャンの守役だったので、とくに不都合なく思った。むしろ、実技入試での事件を乗り越え、王子の取り巻きとして信頼してもらえたことが誇らしい。だが全員がそうではないのか、向かい席に座っている浅黒い肌の少年などは、ターバンをしきりに直しながら、露骨に表情を硬くしていた。海英ハイィン も鳥亜種の鷹の羽根を存分に開いて『無』の境地になっている。

 カルリーニ伯爵はそこまで言い切って咳払いをしたのち、人差し指を立ててニヤリと笑った。

「して、お客様気分の君たちに最初の試練を貸す。共同スペースの大掃除である!」

 動揺のすきも与えず、白いフード付きマントを身にまとった女が塔内部の見取り図を差し出してきた。ロンシャン出資の流通組織『シャドウウォーカー』と思しき人間だ。少なくとも、夜空に否やはありえなかった。

 一口に「共同スペース」といっても、アルカディア魔術大学の属性塔は底面三百㎡もあり、十四階建てという大伽藍だ。我関せずで従者たちと話している殿下を尻目に、割り振りを進めることにした。主な受け持ちは現在地の五階以下。塔内部は六階以上が宿舎になっているのだった。宿舎に身を落ち着ける前に、まずは下っ端らしく働けと言うことだろう。

「うーん、共同スペースか。この階段っていうのも入るんだろうか……」

 夜空は開口一番そう言って海英と苦笑いを交わした。カルリーニ伯爵が何食わぬ顔で巡回してきて、「階段は十四階まであるな。全て頼む」と酷薄な命令をしていく。海英ハイィン は困り顔のまま音頭をとろうとしないので、妹の貞苺に振った。彼女は気を入れて見取り図を覗き込み、新入生の顔ぶれを見渡す。

「見取り図によると、二階から四階は教室が中心よね。一階はキッチンと食堂とエントランスホール。力仕事は少ないかもしれないけど不慣れな人は手間どりそう。一階は女子が担当して、男子は階段掃除を済ませたあとに、ラクそうな教室階ってのはどう?」

 中華娘はこういう大人数での作業にはお国柄慣れているのか、あっという間に割り振りを終えてしまった。先ほど不満を表に出していたターバンの猫少年も身を乗り出してくる。

「殿下はどうする? 御付きの人にも手伝ってもらえそうだけど?」
「ここ五階のサロンを担当してもらわない? 高価な調度も多そうだし、男子から誰かひとり付けてさ」
「じゃあ俺、そっちに回る」

 ターバンの猫少年はそれだけ言って押し黙った。結局、夜空と海英、そしてもう一人、栗色の巻き毛をした兎亜種の少年の三人で階段と教室階をすべて担当することになった。ほうきとちりとり、それにモップを携えて、えっちらおっちら最上階まで上がっていく。ジレを羽織った兎亜種の少年は早くも息切れしている。夜空は肩を叩いて励ましてやった。

「ええと、君、大丈夫? 俺、モップ持とうか?」
「おおメルシー。親切なる友よ! お言葉に甘えるよ。僕はスプーンより重いものは不得手なんでね」

 彼は垂れ目のハンサムで、ニコラス・バラデュールと名乗った。音楽魔術を操るらしく、得意楽器はピアノ。くだけた性格のようで、海英とも気負わずに大げさな握手をしはじめた。上りよりは下りのほうが気が楽なもので、三階分くらいは全員が張り切って作業を進めていたが、代わり映えのしない労働に早速気が緩みはじめた。

「はぁ~、ピアニストが掃除だなんて……ここは実家じゃないのになああー-!」
「ホントホント。この私がいきなり下僕扱いで働かせられるなんてねえ。実家でなんてお茶すら出したことないよ」
「え゛っ!? 君は一体どこのお貴族様だよ!? ソファとか箪笥とか運んだことないの!? 枕叩きは? 酒樽の運搬は!?」
「へっ? さっきスプーンより重いものは持ったことないって言ってたような気がするんだけど……!」
「ノンノン! 不得手って言っただけだよ! ああーここでなら指を大事にできると思ったんだけどなぁあー--!」
「こんな序盤で弱音を吐いちゃダメ! まだ十一階分もあるだろ」

 騒ぎ始めるふたりに、夜空はイイ子ぶって強がりを言った。手すりを磨いたり、掃き集めてきた塵をちりとりに集めたり、だらだらと作業をしていると、ターバン姿の猫亜種の少年が音もなくやってきた。

「どうかしたか? 僕らはちょっと疲れて休憩中」

 バラデュールが兎耳を曲げて気さくに声をかけると、少年はいらだちとともに愚痴りはじめた。

「サボってんじゃねーよ! クラウス殿下も御付のやつらも俺に任せて全然働かねーし!」
「あ、自己紹介がまだだね。俺は夜空。こちらは海英ハイィン 。もう一人はバラデュール」

 猫少年はぶつぶつと「俺はジアース……」と名乗ってから、手すりにもたれてぐったりと天を仰ぐ。結局は彼もサボりであった。主な顔ぶれがそろったために、バラデュールがにやついて男子鉄板の話題である女子の品評会をはじめた。

「ねえ、親愛なる同級生諸君。きみたちは女子では一体誰を狙いたい?」
「ノエーミ」

 ジアースは迷いもせずに即答した。バラデュールの笑みはますます深くなり、不吉に声を震わせる。

「ふふふ……実は僕もノエーミさん推しなんだ! フルネームはバールドシュ・ノエーミ。クラウス殿下と同じく、クルシュタルト連合王国の首都、ハンガリア出身らしい! 猫亜種で毛柄はゴージャスなトーティ! 僕らよりは少し年上かな? 事前リサーチによると実家は魔法書専門の書店という美しすぎる女学生さぁ!」
「ああ、あのウェーブヘアの人か。確かに知的な感じがしたな」

 夜空は愛想よく応じる。バラデュールはくるくると雑巾を廻しながら調子づいて続けた。

「お次はこの大麗の紳士! 海英の妹君こと貞苺ちゃーん! オリエンタルの魅力あふれるクールな美少女。シニヨンヘアーに鈴蘭を模した白銀の簪とは、粋な好みだね。彼女は僕と同じ兎亜種。ちょっと声をかけてはみたけど、理想はお高いのかな? 恋に夢見る年ごろだってのに、少々手ごわそうだ!」
「ハハハ……まあ私の妹なので。ひとつお手柔らかに」
「ところで夜空の本命は誰なんだい? ノエーミさんノーマークということは! 貞苺チェンメイ ちゃんかソフィア・リーフェンシュタール嬢だな!? この高望み野郎め!」 「……俺はまだ貞苺以外とは口も聞いてないよ」
「ふふ。イイ子ぶるなよ。ソフィア嬢はね、夜空と同じ白狼亜種で、アイゼンロゼ共和国財閥の娘さんなんだ。それにしては装いが地味だけど、今までは女子修道院に入られていたらしい。清純可憐な令嬢。まさに闇塔の本命ヒロインだ! さあさあ、同じアジアンか、それとも高嶺の花か! 選ぶは~!?」

 バラデュールが口上を盛り上げて夜空に迫る。海英ハイィン は妹が数に入っているせいもあるのか、ちゃっかり他人事だ。答えに窮していると、まさに清楚で柔らかな声が盛り上がりに水を差した。

「あの……みんなここにいたの? ちょっといい? 井戸の場所が分からないんだけど……」

 栗色の髪をみつあみにして、化粧っけのないそばかすの浮いた頬。素朴な容姿に、鳩のようなつつましい瞳をした、白狼亜種の乙女であった。片方のおさげをいじりながら不安そうにこちらを窺っている。着ているのは質素な修道服だ。獣耳も尾もくすみひとつない白毛で、小指にはベビーパールを付けたリングが光っていた。たった今俎上にあげられていたソフィア・リーフェンシュタールその人であった。バラデュールは恐縮してひざまずき、海英も柔和な笑顔で再び両翼を開き、観音のような笑顔で『無』をよそおった。

「あっ、ちょっとそんなのは困る! 私はただ、井戸はどこかなって……」

 令嬢はあわててバラデュールに手をさしのべようとした。夜空は窮する話題から逃れられて安心し、彼女の前に歩み出た。

「井戸の場所ですね? たぶん、サロンにいた先輩に聞けばわかるんじゃないかな」
「そっか、ありがとう……」
「あと、ジアースは殿下が働かないのが不満なんだよね? 今後の生活のこともある、殿下がどういうおつもりなのか、皆で聞きに行ってみない?」
「どうせ何もしやしねーよ」
「譲歩は引き出せるかも。後でもめるよりは先にクリアにしておこう」
「わ、私も行く。一応は貴族だし……!」

 気弱な一声ではあったが、それでも権威の後押しだった。夜空たちは油を売るのをやめ、五階サロンまで降りて行った。そこでは、クラウス殿下が侍従を従えて安楽椅子に座って待っている。掃除をしているのは近衛兵ふたりというありさまである。その人たちも国では相当の高官だろうに、と内心同情した。夜空は気負うこともなく身軽に殿下へと近づいて行った。侍従が高圧的に出てくる。

「何か用か? お前たちは主に階段を掃除すると聞いていたが」
「殿下、最初にはっきりさせておきたいと思うのです」

 夜空は眉を困らせ、膝をついて出方を伺った。

「ん? 何のこと?」

 クラウス殿下は安楽椅子から立ち上がろうとした。夜空のとなりにはソフィアが完璧なカテーシーで控えている。夜空は続けた。

「わたくしたちは身分も性別も、仕える国すら違います。無論、カルリーニ伯爵のおっしゃられたとおり、同級生として親身にお支えするつもりです。しかし、殿下はここではあくまで寮生というお立場。本日以降の暮らしの中、課せられるお役目についてはどのようなお考えを持たれているのでしょうか」
「ええと……予も仕事をしなくちゃダメ?」

 殿下がかみ砕いて聞き返した。侍従が唾を飛ばして叫ぶ。

「とんでもない! 殿下が下賤の者とともにお手を煩わせるなど! そなた、名は何と申す! 事と次第では首が飛ぶのだぞ!?」

 夜空は左胸に手を当てて、名乗りをあげた。

「日ノ本陶春地方出身、祈月夜空と申します。父は従四位の武官。恐れながら、六代前は皇帝です。身分差はあるでしょうが、殿下のお考えを尋ねております。無論、みな部下にさせる、というのもその一つではあるのでしょうが、それでは我々との絆が育まれることはないでしょう。ならば、寮生になるなどお戯れに過ぎず、その意義は薄いのではないでしょうか」

 不遜そのものの意見だったが、クラウス殿下は返答に窮した。夜空や海英の風貌を見て、自国の威光では言いふせられぬやも、と迷ったのかもしれない。

「貴殿は……王者が額に汗して掃除などしている姿を滑稽に思わないのか?」
「上に立って指示するには、手順に通じていなくてはなりません。私の父も戦陣にあることが多いですが、自らの戦支度は自らでなさいますよ。尊敬こそすれ、軽んじるなどあり得ません。ただ休まれていらっしゃるのではなく、多少はご助力をいただけぬでしょうか。無論、こちらも仕事の割り当てには配慮いたします」

 ソフィアも口八丁の夜空に助け船を出す。

「わたくしも家は裕福ですが、修道院におりました! そこでは皆と同じく、お役目を担っていました。神から与えられし職分ですから当然でした。ソフィア・リーフェンシュタールです。お考え下さい」
「士は以て弘毅ならざるべからず。任重くして道遠ければなり……これからお治めになる愚民どもの戯言とでも存じて、どうぞお心安くお願いいたします」

 海英も、『論語』を引用して大事にしないよう気を配った。ジアース、バラデュールは震えつつ頭を上げなかった。クラウス殿下は東方の聖典については疎いと見え、狐につままれたような顔で夜空を見つめた。

「して、予は何をすれば……?」
「本日の大掃除で見極めましょう。王子たる身分の方が働いてよいのはどこまでか。殿下自らの手で行うべきことは何か。我らも王宮の作法など、恥ずかしながら不慣れでありますので、ご教示いただくことも多いはず。そのほうがこれからの暮らしも円滑に動きましょう。ジアース、それでいいよね? お付の方々もよろしくお願いいたします」

 世間知らずの王子は夜空に言いくるめられ、ジアースからはたきを渡されると、近衛兵から掃除についての手ほどきを受けはじめた。学者服の侍従は渋い顔をしていたが、夜空はクラウスの賢明さを讃え、見張り役の先輩に井戸の場所を聞き、ソフィアとともにバケツ片手に階下へと降りて行った。

 長い階段を降りながら、ソフィアが深く溜息をつく。

「さすがに緊張しちゃった。何せ、本物の王族だもん。ちょっと気弱かな? でも、偉ぶるだけの人ではないみたい。良かった」
「でも本来、付き人は禁止なんでしょう? それこそ別に屋敷を借りて、部下の人たちに護衛されながら通ったほうがいいと思うよ。日ノ本の仏教には禅宗っていって、掃除や料理、食事とかの生活すらも修行だっていう考えの寺もある。危険だったりする仕事は考慮してあげたいけど、赤ちゃんじゃあるまいし、自室の片づけぐらいは出来なきゃね」
「あなたってすごいのね。物怖じしないにも程がある。六代前は皇帝って言ってたけど?」

 ソフィアは不安げに瞬きしながら尋ねてきた。夜空は頭をかきかき答える。

「うん、一応……俺から数えて六代前に厳帝っていう白狼亜種の帝がいて、直系のご先祖なんだ。そのご長男が嘉徳よしとく 親王、つまり王子様で、魔力著しく夷敵を平らげることに功があった。でも、無欲で帝位を望まれなかったらしくてさ。そこから皇統は黒狼亜種だった弟君の永帝に移って、明帝、銀帝、また皇統が変わって献帝。そして俺はついにロンシャンに亡命っていう……これだけ聞くと没落ぎみなんだけどね、ははは……」
「ええと……爵位なんて聞いていい? お父上は今、武官として国にお仕えなさっているのよね?」
「そうだよ。爵位というか、貴族としての位階はそれぞれの代で違うけど、祖父までは遺号があって『公』で呼ばれてる。嘉徳公、季徳公、正徳公、求徳公。父はまだ元気だから貰ってないかな」
「公爵?! ……ごめん、私ずっと修道院にいたから、日本についてなんて知らなくて……どうしよう、礼儀とか気にする? あの黒衣の鷹亜種の男子は臣下なの?」

 地階に降りるまで、夜空はソフィアの矢継ぎ早の質問に答え続けた。クラウス殿下もソフィア嬢も、財閥令嬢にしては身分をひけらかさない人柄のようだった。夜空は安堵しつつも、彼等の護衛に責任を感じ、舞い上がっている己を戒めた。

 地階についた。貞苺とノエーミの御用聞きに伺うと、ふたりはまだキッチンにおり、腕まくりしてストーブを磨き、溜まったお皿を洗っていた。クラウス殿について報告し、ホールを出てソフィアと井戸に向かう。令嬢は、バケツ三杯分の水汲みに精を出す夜空を見つつ、爪先で小石を蹴って小さく本音を漏らした。

「井戸の場所がわからなかったのはホントだけど、力仕事だから男手を頼みたかったの。修道院では女だけだったけど、ちょっとくらいは甘えてもいいかなって……クラウス殿下には大きく出たけど、私もあの二人に任せてサボっちゃったな。ゴメン」
「謝る必要ないよ。本当は身分のある方がやるべきことではないよね。危険もあるし。クラウス殿下にしてもあなたにしても、大変な仕事にはちゃんと付き添うようにするから」
「ありがとう。夜空だっけ? これからも宜しく」

 ソフィアは別れ際にほがらかな笑顔を見せてくれた。

 共同スペースの掃除は夕暮れまで続いた。階段の手すりまでぴかぴかに磨き上げ、夜空は密かに得意であった。ジアースも近衛兵や殿下から美術品の扱いについて教えられ、失態はなかったようだ。それからサロンにて夕食兼歓迎会と相成り、一年生にも何か芸をとの言伝てがあったので、バラデュールは定番どころでショパンのノクターンを、夜空はラヴェルのワルツを弾いた。

 会がお開きになると、寮長を名乗ったアフロ・アメリカンの男子が部屋割りを発表した。夜空はクラウス殿下と同室で、海英は気の合っていたバラデュールとペア、そしてジアースは一人部屋だった。お付に監視されながら荷物を部屋に運び入れると、伯爵自らが夜空たちを呼びに来る。

「入寮初日に悪いが、入学式の件で話し合いがある。荷ほどきは後にして、付いてきてくれぬか?」

 夜空はクラウス殿下の近衛兵や侍従たちに付き従い、これからの生活について細々と注意を受けながら、図書館へと連れられて行った。

11

 蝙蝠が月明りに飛びまがう明るい晩だった。学院内の各属性塔や学舎を結ぶメギドオール通りをカンテラ片手に練り歩く。中央学舎に隣接している図書館に到着すると、またも五階分の階段を上ることになった。ちょうど晩鐘が大きな音を立てて鳴りひびく。小会議室に案内されると、クラウス殿下は椅子に腰を落ち着けることもせず、虎の尾を逆立てて怒った。

「アルカディア魔術大学は無礼ではないか?! 我らハンガリアは……パーヴァケック軍事同盟は義を尽くしてきたというのに、よもや宿敵と同席させようとは」

 近衛兵たちも殿下を取り囲み殺気立っている。視線の先には、冷たい目をした灰狼亜種の男がいた。彼は背も高く、きらびやかな金ボタンの紺色の軍服を着て、プラチナブロンドにグレーがかった碧眼。彼もまた、クラウス殿下と同じく、青年として完成された堂々たる骨格をしている。

 怖いものなど何もないのか、カルリーニ伯爵がそっけなく注意する。

「この場で代理戦争をしないようにな」

 クラウス殿下はもとより、御付の侍従がまた目を廻した。

「なんと無礼なことか……殿下の叔父上であらせられるエセル・マルテューク・ヴァルキリア様はあれの父親に討たれたのですよ!? 殿下! 退出いたしましょう!」

 椅子に身を預けている軍服の男は慌て騒ぐクルシュタルト王国側とは対照的にゆるりと構えていた。クラウス殿下のことも、疑り深そうな水色の目で一瞥しただけだった。

 おそらく彼はルーシャン関係の人間だろう。極北国ルーシャンは近年外征に積極的で、近隣国が抵抗のため連合王国化したというのは、遠くロンシャンにて夜空も聞いたニュースであった。

 とすると、自分が呼ばれたのも魔力選抜絡みだろうか。張り出された順位表には、クラウス殿下の名前がなかった。王族への配慮だろう。夜空は二位で、一位はアレクセイ・P・ヴェルシーニンといった。

 すでに着席していたシオン図書館長は緊迫した室内を見回すと改まって注意を始めた。

「早速ですが……アルカディアは中立国家。決闘制度こそ残ってはおりますが、懸命なお二方なら実力行使にでるようなことはありますまい。ここでの諍いは他の学生に迷惑ですからね。仲良くというのは不可能かもしれませんが、気に障るなら入学はご辞退いただいても構いませんよ」

 こちらもずいぶん上からの物言いだ。クラウス殿下は燃える目でシオン図書館長をにらんだ。先導してきたカルリーニ伯爵も、意見は同じらしくとくに場をもたせるわけでもない。夜空はハンガリア側に同情した。シオン図書館はひとかけらのへつらいもせずに本題を切り出した。

「お集まりいただいたのは、入学式での新入生代表宣誓、グランドマスターへの忠誠を誓う、いわゆる『従属宣言』の人選のためです」
「従属宣言は卒業式の答辞と異なり、それぞれの属性寮で輪番となっている。今年は我が闇塔の出番でな」

 カルリーニ伯爵が補足する。シオン図書館長が微笑んでうなずいた。

「本来、身分から言ってクラウス殿下にお願いするべきです。しかし、今年はルーシャン魔法軍大将の家柄であるアレクセイ・ヴェルシーニン君も入学しており、両国は敵同士。入学式でどちらかを代表に推してしまうと、アルカディア魔術大学は二国間のどちらに肩入れするのかといういらぬ勘ぐりが生じ、新入生が真っ二つに割れる可能性があります。ゆえに代案として、魔力選抜・実技試験・筆記試験の入試総合成績が首位である祈月夜空。闇塔所属でもある彼に、ロンシャン代表として挨拶をしてもらいたいのですが宜しいでしょうか?」

 夜空は思っても見ない展開に絶句した。自分が無謀を好む人間だという自覚はある。気取り屋でもあり、ヨハネス大統領やセバスチャン相手に演説をぶつのは好きだった。寛容な彼等は夜空を笑いこそすれ、なぜだか決して咎めなかった。ともかく、ロンシャン代表となると責任は大きい。相談相手になりそうな『サンド・シー』も本日昼間に島を発っていた。こういう場合はたしか、三度辞退するのが礼儀であった気もする。

「……私は実技試験で諍いを起こした身です。慶事の大役にはふさわしくありません。まして立場のあるお二人をさしおいては非常に恐縮です」
「そうか……ならば予が行うのが適任だろう」

 クラウス殿下はやる気があるようだ。夜空は緊張しつつ成り行きを見守った。すると、扉がゆっくりと開けられ、恰幅がよい老人が姿を現した。樫の木でできた太いワンドを歩行杖の代りにし、壮年の修道女になかば支えられている。夜空はマントの襟に金糸の縫い取りがあるのを見て、入試のときシオン図書館長に付き添われていた学長ではないかと推測した。

「遅れました。シスター・グラジオラスです。グランドマスターが到着なさいました。皆、起立なさい」

 全員がシスター・グラジオラスの言に倣い、グランドマスターことダルス・”予言の”・アイヴィス氏がゆっくりと注意深く奥まで進んでいく。会議は一時中断となった。老人が着席すると、シオン図書館長が何事かささやく。学長のよく太った顔には怒りが刻み込まれた。ほとんど焦点の見えない粘土のような視線が夜空に注がれ、首がゆったり左右に振られる。

「夜空は闇医者に、シリルは聖騎士にといった未来が見える。彼の入学は拒否。従属宣言は輪番を入れ替え、聖属性塔のウィリアム・エヴァ・マリーベルか火属性塔のシリル・クーリール・ド・リュミエールにしなさい」

 シオン図書館長は負けずにいら立ちを露わにした。

「今更予言ごときで決定事項を覆しますか。色彩魔術からいくらもらったのかは聞きませんが。夜空の入学に関しては監視役にウィリアム・エヴァ・マリーベルをつけるということで同意なさったではないですか」

 カルリーニ伯爵も鼻白んだように円卓に肘をついている。どうやらこの会議の実権はほぼ、シオン図書館長にあるようだった。

 きしんだ空気の中、勇気ある少年の声が場を打った。

「予定説には感心しません、私は彼の今後を信じたい」

 凛と澄んだ艶のあるテノール。ウィリアム・エヴァ・マリーベルだった。シスターに続けて入室してきた彼の姿はまさに福音の名に相応しく輝いて見えた。夜空はしゃしゃり出る気はなかったが、いよいよ新入生代表の座になど何の興味ももてなくなってしまった。この天使のような少年は自身を治癒してくれただけでなく、今度は権威にも堂々とものを言って味方をしてくれたのである。頬が紅潮するくらいに嬉しいできごとだった。許されるならもろ手を振って彼を推薦したい。

 だが、もう一人の少年がすぐに後から追いかけてきた。

「何を言ってるんだよウィリアム! 君にだって分かってるだろ、ロンシャンから来た刺客、それが彼だ! そんなのが代表だなんてあまりにもひどい。みんなも反対するよ。従属宣言はボクが行います」

 変声期を迎えて間もないかすれ声。実技試験でひと悶着あった、シリル・クーリール・ド・リュミエールである。話し合われていた政治的文脈のどれも無視してはいたが、入学生の生の意見でもあるだろう。とは言え、ロンシャンはアルカディア側に刺客など送っていない。誤解を正さなければと夜空が口を開く前に、ウィリアムがシリルを𠮟りつけた。

「実技試験にふざけた理由で乱入したのは君の方じゃないか!」

 呆気に取られていると、クラウス殿下がすかさず割り込もうとした。

「もめているようだし、予で……」

 すると、今まで沈黙を守ってきたルーシャン魔法軍将の息子、アレクセイ・パーブロヴィチ・ヴェルシーニンがつまらなそうに言った。

「同志のユーリから実技入試の妨害事件はすでに聞き及んでいる。私はたかが挨拶のために水塔から移住して権威を誇示するつもりはない。祈月殿がやってはいかがか」

 夜空は初めてヴェルシーニンを正面から見た。暗い印象こそあれ、眼光は鋭い。ライヴァルであるクラウス殿下を挑発する一語でもあった。それは決定の言葉となり、シオン図書館長もカルリーニ伯爵もグランドマスターを無視して代表を夜空に決めてしまった。散会のあと、シオン図書館長は自身の案を後押ししたヴェルシーニンと談笑していた。遠巻きにそれを眺めていると、グランドマスターがたるんだ顔をこちらに向け、じろりと睨んでくる。夜空はいたたまれずに、そそくさと退場した。

 クラウス殿下とともに闇塔に帰ると、掃除のときにも見張りをしていたシャドウウォーカーの女性がサロンで待機しており、「マスター・ヨナという」と短く自己紹介してきた。主に戦闘補助の闇属性魔法を実戦的に教えているらしい。マスター・ヨナは手持ちのファイルから、以前の従属宣言の記録を見せてくれた。

 十四年前の例は、美辞麗句を駆使した技術ある文言だったが、締めはこうなっていた。

『本日入学するすべての友を闇の眷属として捧げ、新入生一同、従属いたします!』

 カルリーニ伯爵が苦笑する。

「吾輩の専門である『Night』という呪文の詠唱を取り入れてみた。これで良いと思ったのだが、聖属性塔からは物議を醸してな……新入生全員を悪魔あつかいするのかと物凄い剣幕であった。吾輩の見解では、闇の眷属と悪魔とは異なるのだが……」

 夜空にとっても、おののく最後であった。マスター・ヨナが無表情で七年前、直近の例を廻してくる。締めはこうなっていた。

『魔術はこんなにも万能で、文明崩壊のその後も我々を支えてくれる実に素晴らしい天啓です! 僕は本日から魔術の徒のはしくれとなるこの幸運に全力で感動しています! みなさんも、理想郷、ここアルカディアで、夢幻の饗宴をいつまでも続けようではありませんか! 魔術万歳! 新入生一同、従属いたします!』

 カルリーニ伯爵はごく真面目な顔で言う。

「気持ちはわかるが、魔術万能主義は『賢人機関』に危険思想だとみなされるからな。シオン図書館長は堅物だ……とてもこの内容を笑覧するとは思えん!」
「ともかく優等生的に、無難に頼む」

 マスター・ヨナがフードの陰から深刻に頼み込んできた。名文をと言われれば気負う部分もあったが、注文はさほど無茶ぶりではない。夜空はやや落ち着いて、部屋に引き上げもせず、深夜までサロンで草稿作成にいそしんだ。

12

 それから一か月以上が経った七月の初日、熱波に似た颶風をはらむ晴天の日に、アルカディア魔術大学の入学式は行われた。新入生たちは採寸に合わせて仕立てられた真新しい制服に身を包んだ。お仕着せのジャケットとスラックス、スカートに、学生の身分を示すフード付きのケープを羽織り、所属塔を示す色のクラヴァットやリボンタイを結ぶ。夜空たち闇塔は紫色であった。皆初々しい顔つきで活気に満ち、魔術師としての第一歩を踏み出そうとしている。

 アルカディア島の中央に位置する『アペリオン・ホール』全五百五十二席を、学部生四百人足らずと教職員及び来賓が埋め尽くす。式の皮切りに、夜空の従属宣言があった。

 静粛の中、闇塔きってのダークメイジ、アントン・”ヴラド”・カルリーニ伯爵により夜空の姓名が呼ばわれる。期待、批判、詮索、好奇……多数の思惑が咳払いをはさんで交錯する。

 ステージにかけられた階段の前に立ちつくし、夜空はひとりホールのキューポラを見上げた。天地創造時の地球を描いたグリザイユの図像を中心に、悪魔と天使と人と動物とが競演する。聖邪、善悪、雅俗をちりばめた極彩色の万華鏡。夜空はその色彩の生々しさに寸時、吞まれたが、乾く目をゆっくりと閉じ、きしりをあげる木の段を足裏全体で踏みしめた。観客五百名につき二つずつ、計一千以上の刺しつくす値踏みの視線を背に受けて、グランドマスターに最敬礼を行う。深緑のマントに着ぶくれた老人は仏頂面だ。夜空は悠然と微笑み、挨拶を始める。憂いのある声で紡がれる礼辞は色気にも似た饒舌であった。

「今も稼働する炉の導きと、脈々と流れる魔素の恵みにより、拝謁の機会を賜ったことを本日も幸福に思います。私たちは今だ、偶然に魔術を扱うことができた一人の民に過ぎません」

 そこで一拍休符が置かれた。夜空の胸裏にはグランドマスターではなく、遠きロンシャンのヨハネス大統領へ向けての思慕があった。佐野教授に教わった『マギカ』の詠唱を引用した宣誓句をクレッシェンドで言いぬく。

「魔術師としての資格を認めていただくために、日夜学問に熱中し、修行を実践し、魔を滅し、そしてともに過ごす仲間たちとの絆を保つために、守り、癒し、語り合う努力を惜しみません。深淵を垣間見る時もあることでしょう。苦痛に喘ぐ不休の夜も。願わくばここアルカディア魔法大学が第二、第三の心の故郷となり、求道の果てには真理の光との邂逅があらんことを! グランドマスターの賢明さを常に畏敬し、心よりの思慕を捧げ、新入生一同、従属いたします。闇属性塔を代表して、アルカディア歴二千六百六十九代新入生、祈月夜空」

 優等生的に、無難に、という身もふたもないオーダーで仕上げた原稿ではあったが、いざ本番となると、故郷・日ノ本で遊んだ友の顔ぶれが次々と思い出された。人懐こさの中にも品を残す父の面影もその中のひとつだった。彼は魔術師総本山において、祈月の名を継ぐものが新入生代表という栄誉に浴したことを知りもしない。ロンシャンの仲間たちは今、何をしているだろうか? ボスことヨハネス大統領にこの報は届くだろうか。そして苦難を述べる箇所では、砂漠の夜の染み入る寒さや、砂塵に沈む足取りの重さがありありとよみがえってきた。締めに至っては、瞼裏にかすかな星光まで見えた気がした。ほんのわずかな宣言の間に、夜空は過日の旅路を早回しで見たのである。

 観客やグランドマスターの反応など何も気にかからなかった。にじんだ涙を悟られぬよう、深く息を吸って顔を下げる。分厚い拍手が鳴り渡った。それはロンシャンを発つ前に浴びせられた壮行会の熱狂とは違っていたが、かえって夜空本人への偽りなき励ましであると感じられた。

 式が終わると、闇塔の仲間たちは、クラウス殿下までも含め、代表の責を労わってくれた。ホール内部のロビーに出て、高揚にまかせて海英と歓談していると、シリル・クーリール・ド・リュミエールがその従姉、フローレンス・クーリール・ド・リュミエールを引き連れて、つかつかと歩み寄ってきた。彼は肩までの金髪を一つにくくり、見た目だけならもう一人の『カナリアのような美少年』である。二人は火の色のタイをしていた。シリルは開口一番言い放った。

「キミの従属宣言、全然賛成できなかった。ボクもフローレンスも魔法は素人じゃない。見料までとれる色彩魔術のれっきとしたプロだよ」
「ここアルカディア大学の入学生にも同じようなエリートは多いんじゃないかしら。偶然魔術を扱えた程度の素人とは一緒にしないで」

 シリルの従姉は、くっきりとした吊り目にアイラインを利かして、先ほどの献辞を鼻で笑った。夜空は虚心に述べるしかなかった。

「……少なくとも俺は、これから弟子入りする身で、すでに道に達しているだなんて壮語は叩けない」
「論語学而編第十六。『子曰く、人の己を知らざるを患えず。人を知らざるを患う』」

 海英も古典の要だけ告げて背の翼をいっぱいに広げ、日干しをしてのらくらしている。馬鹿にされた雰囲気を感じ取ったのか、シリル少年は一歩も引かない。

「入学初日から一体何の諍いをしているんですか」

 助けに入ったのは通りがかった図書館長だった。カルリーニ伯爵と連れ立っており、フードを被って羽ペンのブローチを胸に飾った正装である。図書館長は眉をひそめ、声を荒げもせずに、シリルの方を残酷な評価で切り捨てた。

「シリル。負け惜しみはおやめなさい。夜空の入試得点はあなたと比べて三百点は勝っていましたよ。悔しければ入学以後は座学にも励むことです」

 彼はあまり優しい人物ではないのだろう。夜空にも笑みでなく真顔を向けた。

「従属宣言は闇塔の先例と異なり、オーソドックスで良かったと思います。ロンシャンからの学生代表としてこれからも恥ずかしくないように過ごしてください」

 夜空たちは争いが長引くのを恐れ、激励への返礼もそこそこに、逃げるように駆け出した。海英が翼をばさばさ羽ばたかせつつ心配そうに漏らす。

「うーん、前途多難だなぁ……」

 それはほかならぬ夜空自身の内心でもあった。

(1-4につづく)