Entries

Icon of admin
あおうま
#鬼の研究 #読書

§二章 鬼を見た人びとの証言

1 鬼に喰われた人びと

◎阿用の一つ目鬼『出雲国風土記』「大原郡阿用郷」
・日本の書物にはじめて「鬼」が登場。阿用郷は現在の島根県大原郡大東町。八岐大蛇で有名な斐伊川に合流する赤川と阿用川の流域。モリブデンを産する大東鉱山などがある。
古翁の伝へていへらく、昔或人、此処に山田を佃りて守りき。その時目一つの鬼来りて、佃る人の男を食ひき。その時、男の父母(かぞいろ)、竹原(たかはら)の中に隠りて居りし時に、竹の葉動(あよ)げり。その時、食はるる男、動(あよ)、動(あよ)といひき。故、阿欲といふ。

『倭人伝』などに記された卑弥呼のように〈鬼道〉に仕える巫女の権勢が一地方を風靡する傾向のなかで、神儀にえらばれたしるしとして片目をつぶされた一つ目の男が、ある時よこしまな暴力をもってふいに民衆の収穫を奪い去ることは考えられぬことではない。阿用郷の事件は抵抗した若い農民が殺されてしまった惨劇であるとの想像も可能である。阿用の鬼は神への供物として一つ目にさせられた一眼の人であった。神に付随するものとして、類似の力を発揮することが許され、人びとは神への敬虔な畏れからのみこの横暴を黙視し、このような者を〈おに〉と呼んだ。『日本書紀』には素戔嗚が姉の田をねたみ「秋は捶籤(くしざ)し馬伏す」と書かれている。「捶籤」とは所有権を主張して他人の田に串をさすことで、この阿用の目一つの鬼も、かつては神にささげられ、神串に突かれた一眼者であり、神田を主張して農夫の田に神串をさしに来たのだと考えられる。やがて村落の発展とともに、目一つの鬼をふくむ〈おにびと〉たちは神祠の拠点をもつ山間に孤立化していく。

・〈一つ目小僧〉に関する柳田国男の調査 『一目小僧』
一目小僧は多くの『おばけ』と同じく、本拠を離れ系統を失つた昔の小さい神である。見た人が次第に少なくなつて、文字通りの一目にかくやうになつたが、実は一方の目を潰された神である。大昔いつの代にか、神様の眷属にするつもりで、神様の祭りの日に人を殺す風習があつた。恐らくは最初は逃げても捉まるやうに、その候補者の片目を潰し足を一本折つておいた。さうして非常にその人を優遇し且つ尊敬した。犠牲者の方でも、死んだら神になるといふ確信がその心を高尚にし、能く神託予言を宣明することを得たので勢力を生じ、しかも多分は本能のしからしむる所、殺すには及ばぬといふ託宣をしたかもしれぬ。兎に角何時の間にかそれが罷んで、ただ目を潰す式だけがのこり、栗の毬や松の葉、さては箭に矧(は)いで左の目を射た麻胡麻その他の草木に忌が掛かり、これを神聖にして手触るべからざるものと考へた。目を一つにする手続もおひおひ無用とする時代は来たが、人以外の動物に向かつては大分後代までなほ行はれ、一方にはまた以前の御霊の片目であつたことを永く記憶するので、その神が主神の統御を離れてしまつて、山野道路を漂泊するこおになると恐ろしいことこの上なしとせざるを得なかつたのである。

◎初夜の床に喰われた女 「女人悪鬼に點(けが)されて食噉(は)まるる縁(えに)」(『日本霊異記』『今昔物語』)

大和国十市郡菴知(あむち)村の東、鏡作造の娘、名を万(よろず)の子と呼ばれた女が犠牲者。容貌は端正で、「高姓の人(身分のよい家柄の人)」に請われたが、断って年月が経っていた。そのことが評判となり、「汝(なれ)をぞ嫁に 欲しと誰。あむちのこむちの万の子。南無南無や。仙さかもさかも持ちすすり。法(のり)申し山の知識。誠に誠に」と童謡にまで謳われるようになった。万の子は多くの男の申し出を断ったが、やがて「彩(しみ)の帛(きぬ)三つの車」という染帛の財を贈られた。父母は富裕に引かれ、その人へ娘をやることにした。初夜の夜半、閨から「痛きかな」という叫びが三度に渡って聞こえたが、親は「いまだ効(なら)はずして痛きなり」と語り合って寝てしまった。女はその夜、鬼に喰われてしまい、閨には小さな白い指が一つと、頭が喰いのこされていた。その上、彩の帛は獣骨となり、車は茱萸の木となって投げ出されていた。親たちは女の頭を高価な「韓筥(からはこ)」に納めて仏事をいとなんだ。人々は「神怪」ともいい「鬼啖」とも評した。

・不吉な童謡「お前を嫁にと いうは誰。あむちのこむちの万の子。南無や危いそのようす。仙さかもさかも持ちすすり。法を申すは山ひじり。まことにまことにご愁傷」というような意味。童謡にはもともと呪的な不明な部分がふくまれているのが普通。叛乱の前兆として謳われた記録もある。
-『日本書紀』「岩の上に 小猿米焼く 米だにも 食げて通らせ 山羊(かましし)の老翁(をじ)」(山背大兄王の「ふふき」たる頭髪の類似から暗示した警告)
「法申し山の知識」とは、仏事を営むような結末を見通した加害通告ともみられ、また、山の聖自身がこの事件にかかわっていたことの傍証であるとも疑える。
高姓の地方豪族のプライドと、中央直轄の伴造の矜持、それにばくぜんたる村落全体の男たちの憧憬と憎しみ、そして験力をもった山の聖、そうした雰囲気に醸し出された凶悪事件を〈鬼啖なり〉と結論して丁重に葬り去った集団の力。目一つの鬼であった神領の男の例にもはやく表れているが、人々は鬼というものが、因不明の怪であるとしても、けっしてまったくの神意であるなどと思っていたのではない。〈鬼〉とはおおかた、このような、理由のつけられぬ、あるいは理由をいうことがはばかられるような場合に口にされた〈理解の符牒〉であり、いったん人びとによって〈鬼〉の行為と評されたことがらには、被害者の反論が許されぬような重みがあった。

◎あぜ倉に喰われた業平の思い人 『伊勢物語』第六話

業平は年経て思いわたった二条后高子(たかいこ)(その頃はまだ年若くただ人で、いとこの染殿の后明子(あきらけいこ)のもとに同居していた)を盗み出し、芥川を渡ってはるばると行ったが、夜も更け、雨も降り、雷さえ鳴りはじめたので、女を蔵のなかに入れて守っていた。夜の明け行くほの明かりに見ると、女はすでに鬼に喰われて形もなかった。

・『伊勢物語』「御兄堀河の大臣、太郎国経の大納言、まだ下らふにて内へまゐり給ふに、いみじく泣く人あるをききつけて、とどめてとりかへし給うてけり。それをかく鬼とはいふなり」公の力としての鬼。〈みやび〉の秘事となって伝授されるようになる。

Cf.唐木順三『無用者の系譜』「この懸相に己がいのちをかけることもできる。いのちをかけても勝利のよろこびを味わへないことはここでは既にわかつてゐる。高子には高子を守る鬼どもがついてゐるのである」

高貴の血筋にありながら、「体貌閑麗、放縦にして拘せず。略才学無し、善く稚を作る」(『三代実録』)人物であった業平の為した〈みやび〉の道は、優柔なものではんく、せいいっぱいの抵抗に支えられた反社会的なものであった。業平は「用なき」身の者だけがなしうるきわめて人間的な抵抗として、政治のために存在する高貴の女としての高子を盗み出し、禁忌を犯すのである。政治的危機と、それゆえに盛り上がる情緒、そして敗北ののちに訪れる長い失意の時を思えば、業平は超自然的とまで言える圧倒的な政治力の持ち主を基経・国経という実名のもとに認めることは苦痛であったろう。「それをかく鬼とはいふなり」という結語には、惟喬親王の悲運に殉じた挿話をひくまでもなく、和歌を楯としてそうした政治権力に抵抗した業平自身の情感がこもっている。

・『今昔物語』たんなる猟奇的事件として簡潔に記される。場所も北山科の山庄のあぜ倉となり、女の遺骸は頭ひとつが残っていた。(頭部に魂が戻るという考えが広まり、体の中でも神聖な部位と考えられた。)「されば雷電霹靂にはあらずして、倉に住みける鬼のしけるにやありけむ」(雷電の跳梁が、結果的にみて鬼であった=山の雷神を想定するあり方)近藤喜博氏(『日本の鬼』)の説では、土俗的信仰のなかに生まれた自然への畏怖が業平伝説に付会された水辺説話の型を保つ説話と考えられた。河水渡渉地点が古代生活における重要地点をなしていたことから、芥川の渡渉地点でで大切な女を犠牲にとられたことは、水と生活とのかかわりのなかで自然の威力たる雷を畏れる説話の系譜に入る。

◎武徳殿松原に喰われた女 仁和三年〔八八七〕の怪奇譚(『三代実録』『扶桑略記』『今昔物語』『古今著聞集』)

仁和三年八月十七日(八八七年、光孝天皇代)、月のたいそう明るい夜に、午後十時ごろ、武徳殿の東の松原を、みめよき女房が三人うち連れだって歩いていた。松の木陰からみめよき男がひとり現れて、女房のうちひとりの女の手をとって話しかけ、女も色よく応じたので、ほかの二人はしばらくへだたったところで待っていた。時間のたつほどに話し声もしなくなってしまい、不審に思って行ってみると、先の女房の手足だけが地に落ちていた。驚いた二人は右衛門の陣に走ってこのことを告げた。陣の者がかけつけて見ても死骸は見つからず、男の姿もなく、人々はこれを鬼の仕業と考えた。

・この事件は特別視され『三代実録』『扶桑略記』に記録された。仁和三年八月という月にはこの種の陰惨な鬼の事件が三十六種類の大きにおよんで人口にのぼっていた。この武徳殿松原の女房惨殺事件は、それら一連の鬼の噂に止めをさすべく、人心不安の解消の手立ての一つとして、ことにも手厚く、敏速に供養された。

・仁和二年には、陸奥・出羽・上総・下総・安房などの俘囚(帰順させられたへき地の反抗者)叛乱が起き、鎮圧のため治安強化策がとられていた。食糧の徴発がきびしくなる一方で、国司は名誉と利益だけを私有化して任地にもおもむかず、納税すらしないという社会的混迷があった。翌三年には国司の俸給を減らす政策がとられている。地方には地方の事情にあった自衛の力が生まれようとし、それは中央政治への不信につながるものであった。この時代の鬼はいずれも内裏近辺に出没し、あるいは内裏に侵入の気配さえみせている。内裏近い武徳殿松原の月明りを散策する若い女房とはすなわち、為政者の心ゆるびを象徴するものである。『今昔物語』『古今著聞集』などに記された原因不明の怪異はほとんどこの時代の前後のものであり、例外なく内裏近辺を舞台とした単発的示威行為として突発している。

◎官の朝庁で喰われた弁官 「官の朝庁(あさまつりごと)に参る弁鬼のために噉はるるものがたり」(『今昔物語』巻27第9話 清和天皇年間)

今は昔、宮の司には朝庁(あさまつりごと)というものが行われていた。早朝の政務で、火を灯す仕事で午前五時ごろから正午ごろまで務めたらしい。太政官の弁は文官で三等官、史(さかん)はその下役である。遅刻した史が上司の弁を恐れつつ参入すると、弁はただひとり惨殺されており、鬼に喰われるにいたった事の次第が扇に書き残されていた。

・鬼に喰われた<ことのしだい>は伝わっていない(テキストには書かれていない)→「弁と史との名の部分だけを、かっきり削って空白にしているこのものがたりは、政治的にも重要な意味をもっていた朝庁の場においての殺害事件であり、藤原体制醸成期の暗黒部を象徴する事件の一つであったといえる」。※一つの社会不安の幻影としての鬼の出現。刹那的に「加害者の喜び」を共有した。

2 鬼の幻影

◎幽霊と鬼

・幽霊と鬼のちがい:危害を加えるか否か。死者は、祀られていようが遺棄されていようがおそろしいものではなく、生きた人間に危害を加えるものではないと信じられており、単なる哀れなる対象にすぎなかった。⇔<鬼>は、「現実に生きて行動する何かが必要でありながら、決して実体を人前に晒してはならないという鉄則があった」。いちど実体を明らかにすれば、それは超人間的な力を持ち、時には油断に乗じて、あるいは驕慢を憎んで現実に反抗した何かではなくなり、ただのみじめな犯罪者となり下がる故である。

-『今昔物語』二十九巻十八話「羅城門ノ上層ニ登リテ死人ヲ見タル盗人ノ語」・「盗人これを見るに心も得ねば、これはもし鬼には有らむ」と思て怖けれども、「もし死人にてもぞある。恐して試みむ」と思て……」

◎鬼の足跡と衣冠の幻

・醍醐・朱雀二天皇の治世(八九八~九四五)…いわゆる<今昔時代>の前駆で、記録に鬼の幻影が散見される
-柳田国男「天狗の話」「我国には一時非常に怪奇な物語を喜び、利口な人が集つては、所謂空虚を談ずるといふ一種デカダン気風の盛な時代があつた。この時代を我々は仮に今昔時代といふ」

・延長七年〔九二九〕四月二十五日…『扶桑略記』『古今著聞集』
延長七年四月廿五日夜、宮中に鬼のあとありけり。玄輝門の内外、桂芳坊のほとり、中宮庁、常寧殿のうちなどにぞありける。大きなる牛の跡にぞ似たりける。そのひづめのあと、あをくあかき色をまじへたりけり。一二日の間に次第にうせけり。北陣の衛士が見けるには、大きなる熊、陣中にいりてすなはちみえず。其鬼のあとの中に、をさなきものの跡まじりたりけりとぞ。おそろしかりけることかな。

-cf.柳田国男「赤子塚の話」赤子の足跡は、建造物の犠牲となった幼児のものともされ、三輪明神の子であるなど、特別な神聖さをもってみられることもあった。近世に至ってもしばしば語られ、河童の足跡などとも呼ばれる。

・延長八年〔九三〇〕七月五日
右近陣につとめる下野長用という人が殷富門より入り武徳殿まで来かかると、太刀を帯びた黒衣のものが人を捕えてゆく。誰だろうと思ってついて行ってみると、じろっと振り返ったその人は白い笏をもった官人であった。右近の陣までついて行ってみると、内より三位のもの(近衛大将相当)が出迎え、さらに誰かのおいでを待つらしく控えている。松明をもった者もりっぱな摺衣などを着ていた。長用は不安に耐えず、思わず殷富門まで走り返ったが、みると百ばかりある火がぼうっと点っていて、久しくしてからふっと消えた。
・醍醐治世の頃
仁寿殿の台代の御燈油(みあかしあぶら)を夜々に来て奪い去るものがあった。源公忠は三月の霖雨(りんう・ながあめ)の暗闇にまぎれ、夜半に南殿の北の脇戸に立ち窺っていると、丑の刻におよんで御燈油が点ったまま宙に浮かんで奪われていった。公忠は走りかかって激しく蹴り上げたが、足音は南に走り去った。夜が明けてみると、ものの血は南殿の塗籠におよんで流れ止まっていたが、すでに何者も潜んではいなかった。

-源公忠(天暦二年〔九四八〕没。放鷹にすぐれ、和歌にも秀でていた。従四位下・右大弁・近江守)「兵の家なんどにはあらねども、心賢く思量(おもひはかり)ありて、物恐ぢせぬ人になむありける」(『今昔物語』)

・承平元年〔九三一〕六月二十八日
弘徽殿の東の欄に変化の物があらわれる。六月二十八日の夜半に、衣冠をつけた一丈あまりの鬼神はしばらくあって消滅したが、前後十日ばかりは暁ごとに八省院と中務省の東道との間に人馬の声が多く聞こえた。

・天慶八年〔九四五〕八月五日
宣陽・建秋両門の間に、おびただしい馬の音がして内裏に数刻を経て引き入れ終わる気配だった。百人ほどの人声と万を超すかとも思う群馬の音は左近衛付近の人の耳には焼き付いているのだが、実際には何事もなかった。

・天慶八年〔九四五〕八月十日朝
紫宸殿前の桜の木より永安門までの間に、鬼の足跡、馬の足跡などが多く乱れついていた。

一、出没地はいずれも内裏に近く、弘徽殿や仁寿門まで侵入してきており、出入りできないところはないといわんばかりの跳梁をみせている。
二、群馬の音、群牛の跡などと共に必ず衣冠の人の幻が行動している。
→地下者の個人的私怨や、民衆の思い付きの犯行ではないことの強調。

-cf.近藤喜博『日本の鬼』油と妖怪の怪異端

◎征矢の調伏

・「桃園の柱の穴より児の手を差し出して人を招くものがたり」『今昔物語』二十七巻
世尊寺(藤原行成邸)がまだ寺院にならず、西宮左大臣源高明が住んでいた頃のこと。寝殿の母屋の柱の木節の穴から、幼児の手が差し出されておいでおいでをした。人々は恐れつつしんで、成仏できぬいたいけな魂の仕業だと、仏の絵像や経巻を柱に結び付けてみたがいっこうに止まなかった。そこである者が思い切って、一本の矢を突きこんでみたところ、ぴたりと招くのが止んだ。

征箭…魔除けに特効。鳴弦の儀など。

「もともと日本の鬼は、民俗的な古い<鬼>の信仰とはべつに、摂関政治の興隆繁栄とともに形象化をとげていった一面があり、それが鬼の性格の一要素になっていることは前にも述べた。そして、この話は一本の矢の威力という魔除けの信仰が、支配力や、その安定を守る力と一体化されるなかで、鬼や妖怪の制圧に一役買って出てくるそしてそれが成功するごく最初のものであろうと思われる」

・藤原氏一門の他を圧倒した台頭と繁栄とその裏にあった隠然たる怨念→藤原一族の鬼との邂逅譚。征箭と仏教に守られた貴族の全盛期、それを是とできない人々の心。

-西三条殿の若君・忠行が百鬼夜行に遭った話「西三条殿の若君、百鬼夜行に遇ふ事」(『古本説話集』など)

-その甥・太政大臣忠平が鬼に太刀のしりをつかまれた話
九三〇年代、醍醐・朱雀の世移りの前後のころ、宣旨を賜った忠平は左近陣のほうへ歩んでいた。その途中、南殿の御帳のうしろを通ろうとすると、もののけはいがして太刀の石突が何者かにつかまれた。さわってみると「毛はむくむくとおひたる手の、爪ながく刀の刃のやうなるに、鬼なりけりといと恐しく思したれども」平静をよそおって毅然と問うた。「おほやけの勅宣承りてさだめにまゐる人捉ふるは何者ぞ。ゆるさずばあしかりなむ」すると、手は慌てだし、丑寅の隅に逃げ去ってしまった。

「基経の四郎君である忠平にとって、姉穏子は醍醐の后であり、朱雀は穏子の腹に生まれた甥に当るということになれば、いわば『おほやけ』とは自分みずからをさす以外の何者でもない」→藤原氏権力の強大化とともにそのアンチとして具体性をもって造形される「幻影の鬼」
cf.水尾比呂志『邪鬼の性』法隆寺講堂の四天王邪鬼など、このころの仏像彫刻にみられる邪鬼の姿勢(しだいに高姿勢に変化)
「踏鬼の形をとっていても、その性質には、実は四天王を無視する不遜な性が育ってきた。不遜な性は反抗の姿勢となって表立ってくる。この傾向は、藤原時代にはさらに強まったと思われる。」http://www.horyuji.or.jp/garan/kondo/det... 踏みつけられている邪鬼に注目

-その子師輔が百鬼夜行に遭った話

3 百鬼夜行を見た人びと

◎一条桟敷鬼のこと

・『宇治拾遺物語』臆病の幻影?
ある男が一条大路に面した桟敷屋に女と泊まっていると、夜半ばかりに風が吹きはじめ、ひどい嵐になってきた。その音にもまぎれず「諸行無常」と唱えつつ大路を行く者があるので怪しみ、蔀を押し上げて見て驚いた。蔀の前に、桟敷作りの家の高い軒をも圧するほどの大男で、馬面をしているのが一人立ちはだかっていたのである。それは馬の顔をしている鬼だった。男は恐ろしさのあまり蔀を下すと奥に逃げ込んだが、馬頭鬼はやおら格子を押し上げ、野太い声で言った。「よくごらんじつるな。よくごらんじつるな」男は太刀を抜き、女をかばっていると、馬頭鬼は「よくよくごらんぜよ」と長い顔をさらに体ごとさしこむようにして、たちまち雨夜の闇に去って行った。男は「百鬼夜行だ」と怖れをなして、二度と一条桟敷には泊まらなかった。

◎百鬼夜行とは

<百鬼夜行>の信仰…もともとは大乗仏教の思想的副産物で、草木国土悉皆成仏の裏側として仏教思想が俗化して生じた生命の幻影。動物はおろか植物まで、または家具什器、さらには人間の欲望や憎悪の情念という抽象的なものまでが、すべて生命をもちうるという考え方のなかに百鬼を生む根源がある。物質が鬼となるためには年月が必要であったことが特色的条件といえる。「人間の老人が尊敬されるように、古いということ、永く存在した強さということがひとつの権威感を生む」(阿部主計『妖怪学入門』)
cf.『礼記』「鬼は老物の精也」
→もう一つの夜行グループである地獄鬼のイメージ(生命の危機)「こうした夜行の鬼を見たものは、この世ならぬ世界を見たものとして、魂をあのよに導かれやすいと考えたのである。」畳む
Icon of admin
あおうま
#鬼の研究 #読書

馬場あき子『鬼の研究』ノートです。とりあえず「序章」と「一章」を本文の表記を尊重しつつまとめたもの。空読みしてしまうので作成していきます。

§序章 鬼とは何か

「鬼は帰ナリ」と説明された中国の鬼は、死者の魂の帰ってきた形と考えられているが、この〈鬼〉の字を〈おに〉と訓じたとき、中国の〈鬼〉と日本の〈おに〉の微妙な混淆がはじまったと考えられる。

以上のような、鬼の原像追及のなかに民俗学の一分野を見ることは、今日ではすでに常識となったようであるが、これにたいして、日本の鬼が土俗的束縛を脱し、その哲学を付与されたのは、中世において鬼女〈般若〉が創造されたことをもってはじめとしてよい、と考える。

中世における〈鬼の哲学〉…『今昔物語』二十七巻、「狂言」『御伽草紙』の鬼
中世における〈鬼の哲学〉の成立は、過去の時代に跳梁跋扈し、またつぎつぎに消滅・誅戮の運命に服した鬼どもへの深甚なる哀悼追慕の挽歌であったともいえるのである。

鬼とは…王朝繁栄の暗黒部に生きた人びとであり、反体制的破滅者ともいうべき人びと
王朝期とは、このような人間的な鬼と土俗的な鬼と、仏教的な鬼とが同居した時代であり、数限りない妖怪譚と呪術合戦を生むにいたった時代でもあった。

鬼の原像
(1)日本民俗学上の鬼(祝福にくる祖霊や地霊)を最古の原像 「神道系」
(2)(1)の系譜につらなる山人系の人びとが道教や仏教をとり入れて修験道を創成したとき、組織的にも巨大な発達をとげてゆく山伏系の鬼、天狗 「修験道系」
(3)仏教系の邪鬼、夜叉、羅刹の出没、地獄卒、牛頭、馬頭鬼の跋扈 「仏教系」
(4)放浪者、賤民、盗賊など。人生体験の後にみずから鬼となったもの 「人鬼系」
(5)怨恨・憤怒・雪辱などの情念をエネルギーとして復讐をとげるために鬼となることを選んだもの 「変身譚系」

近世にいたって鬼は滅びた。苛酷な封建幕藩体制は、鬼の出現をさえ許さなかったのである。そこでは、鬼は放逐される運命を負うことによってのみ農耕行事の祭りに行き、折服され、誅殺されることによってのみ舞台芸術の世界に存在が許された。

§一章 鬼の誕生

1 鬼と女とは人に見えぬぞよき (女と鬼の共通項)

・「虫めづる姫君」…平安末期『堤中納言物語』「鬼と女とは人に見えぬぞよき」
価値観の破壊と転換への積極的な自問の姿・爛熟しつつある王朝耐性の片隅に生き耐えている無用者の美観。〈虫めづる〉姫君が、さすがに「人に見えぬ」という女の掟を破り得なかったところに、〈羞恥〉の伝統の堅牢さがある。良俗に反して生きるという、背水の地に立つ姫君の防衛本能が、無名の鬼として生きるものの韜晦(とう‐かい〔タウクワイ〕【×韜×晦】 の解説[名](スル)1 自分の本心や才能・地位などをつつみ隠すこと。)本能と重なる。隠士鬼谷(世をしのぶ隠士の中国での通称)による作である本書は、女と鬼との反世間的抵抗を二重うつしとして、その生きがたさを領ち合っている。
・『大和物語』五十八話「みちのくの安達ケ原の黒塚に鬼こもれりと聞くはまことか」…平兼盛が源重之の妹たちの美貌に心を動かされて贈った歌。貞元親王の孫にあたり、父兼信のとき(天暦四年〔九五〇〕『歌仙伝』、『皇胤紹運録』などとは異なる)源姓を受けて臣籍降下し、重之は三十六歌仙に数えられた。平兼盛も父・篤行の時、臣籍降下した一族で、三十六歌仙のひとり。兼盛は同様の運命にさすらうものの共鳴と、こころ懐かしさの情から歌を送った。二人の仲は娘の年が若すぎるという反対を受けて終わったが、その〈黒塚の女〉は夫を得て京に上り、兼盛が別れに贈った「はなざかりすぎもやすると蛙なく井出の山吹うしろめたしも」という歌を「みちのくの土産」と称して兼盛自身に届け、不実をなじったとされる。源重之と平兼盛は「尊貴の系譜につらなる血の重さを、天賦の歌才のみによって生き耐えねばならぬ」という苦しさという点で共通していた。両者に可能な実力は、せいぜい和歌をもって世にまじわり、女とのみやびに心をなぐさめることであり、あるいは流離物語の生きざまを、みずから生きてみせる以外にはなかったのではなかろうか。「春ごとに忘られにける埋木は花の都を思ひこそやれ 重之」(春つかさめしを思ひやる)。貧寒たる現実に侵されず保っている血の誇り、塔のように屹立する反世俗の矜持、流離のうちにも保ってきたそれら魂の美しさを〈鬼〉と呼ぶことは、ほのかな自嘲をまじえた合ことばでもあり、互いの生きざまを照応しあうときの無上の賛辞でもある。
・『藤原基俊家集』「仏供養し奉りしに四条院の筑前の君、忍びて聴聞すと聞きて車ひいひいれ侍りける 唯一つ門の外にはたてれども鬼こもりたる車なりけり」…後冷泉洗脳永承七年(末法第一年)。摂政藤原頼通の娘、皇后寛子は寵幸を得て「四条宮」と称されていた。その女房である一流のみやびめ「筑前の君」に関しての歌。身分をかくすように打ちやつして立っている牛車は、一見心やすげに見えながら、乗っているのはなかなか手ごわい名流の女房で、矜持も高く、うっかり手出しはできませんという一首。女を「鬼」と呼んで反応をみようという挑発的な気分もふくまれている。
末法の世の魂の救済を求める欲求は低きにも高きにも仏事をさかんに営ませる風潮をなしつつあった。頼通は翌年、宇治の別荘を寺院とし、「平等院」と名付けている。基俊の家でも仏供養が行われ、説法聴聞の人々が集まった。「筑前の君」の姉・大姫は常陸の豪族多気太夫に見初められ、盗み出されて東に下った。「筑前の君」がその後一時常陸守の妻になったときに姉の忘れ形見の姫に体面したが、「筑前の君」の帰京には二百頭の荷駄と二十頭の駿馬を贈ったという。
・二例どちらも〈埋もれ隠れ得べくもない女〉が世間を忍んでいる姿への呼びかけであり、「虫めづる姫君」の場合は〈女〉と〈鬼〉とが〈羞恥〉と〈反世間〉というそれぞれの属性によって「人に見えぬぞよき」という共通項をもっていたことによる表現。

◎「倭名類聚抄」の見解(王朝期の〈鬼〉の概念)
・源順『倭名類聚抄』(承平年間〔九三〇〕年代)…わが国最初の字書。「鬼(異体字)魅類第十七」和名は「於爾」、「於」は「隠」が訛って発音されたという説も。「鬼ハ物ニ隠レテ顕ハルルコトヲ欲セザル故ニ、俗ニ呼ビテ隠ト云フナリ」。

?中国の「鬼」字と、和名の「於爾」とが、いつ頃、どのように結びつき、一体化していったのか。

2 〈おに〉と鬼の出会い
◎鬼・神同義説
・折口信夫「信太妻の話」https://www.aozora.gr.jp/cards/000933/fi...「一体おにといふ語はいろいろな説明が、いろいろな人で試みられたけれども、得心のゆく考へはない。今勢力を持って居る『陰』『隠』などの転音だとする漢音語源説はとりわけこなれない考えである。聖徳太子の母君の名を、神隈とも鬼隈とも伝へて居る。漢字としての意義は近くとも、国訓の上には、鬼をかみとした例はない。ものとおににきまってゐる。してみれば、此は二様にお名を言うた、と見る外はない。此名は、地名から出たものなるは確かである。其地は、畏るべきところとして、半固有名詞風に、おにくまともかみくまとも言うて居たのだろう」
・聖徳太子の母の名…穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)(『日本書紀』その他より)穴穂部は安康天皇の名代として雄略天皇十九年におかれた。間人皇女は欽明天皇の皇女で、「欽明紀」には泥部穴穂部皇女(はしひとのあなほべのひめみこ)とある。穴穂という呼称は穴太ともかかれ、この皇女の墓は大和平群の地を占めて築かれているので、穴穂は山沿いの洞穴の多い地形の名であったとも考えられる。その異母妹、磐隈皇女は伊勢大神祠で、「夢皇女(ゆめひめみこ)」の別称。
・折口信夫『鬼と山人と』「おにの居る処は古塚、洞穴などであるらしい。死の国との通い路に立つ塚穴である。――鬼隈の皇女などといふ名も巌穴、洞穴にかんけいありさうだ」(穴と鬼との連想)
・「おに」という語が、中国産の「鬼」(『説文解字』や『設問通訓定声』)とは全く別個に、独自の土俗的信仰や、生活実感として存在していた。

◎鬼と日本の〈おに〉
・「鬼」字登用のはじめ:「出雲国風土記」(元明天皇和同六年)大原群阿用郷(おおはらぐんあよのさと)の名称起源説「昔或人、此処に山田を佃りて守りき。その時目一つの鬼来りて佃る人の男を食ひき」。「斉明紀」(『日本書紀』)「朝倉山の上から〈鬼〉が笠を着て斉明天皇の喪の儀(よそおい)を見ていたという記事もあるので、六百年後半ごろから〈おに〉と〈鬼〉の一体化がすすみつつあった。
・いろいろな鬼:『倭名類聚抄』餓鬼・瘧鬼(えやみのかみ)・邪鬼(あしきもの)・窮鬼(いきすだま/生身を離れて霊のみが浮遊する)・魍魅(すだま、こだま/老物の精、年を経た木石に精霊が宿るという考え)・魍魎(みづは/水精)・醜女・天探女(あまのさぐめ)⇔『箋注倭名類聚抄』(棭斎狩谷望之、文政十年)「窮鬼は人をこらしめるものだが、いきすだまとは源氏物語の葵巻などに見える生霊のことで、帰するところのない魂である窮鬼を、これにあてて考えるのはまちがいである」「『あしきもの』『もののけ』の〈もの〉は『日本書紀』の「邪鬼」という表記にあたる」折口信夫「よるべのない魂は〈もの〉であり、〈たま〉はたんに浮遊しているだけのもの」
・『日本書紀』邪鬼(「神代紀」高皇産霊(たかみむすび)が瓊瓊杵を葦原国に派遣しようとした時の国情観察)「彼(そ)の国に、多(さは)に蛍火の光(かかや)く神、及び蠅声(さばへ)なす邪(あ)しき神あり。復(また)、草木咸(ことごとく)に能(よ)く言語(ものいふこと)あり。――吾れ葦原の邪(あ)しき鬼(もの)を拂(はら)ひ平(む)けしむと欲(おも)ふ」…ここで「もの」とよまれている「鬼」とは、「蛍火の光く神」や「蠅声なす邪しき神」「咸に能く言語」がある草木など「よろずの、まがまがしき諸現象の源をなすもの」の総称。〈鬼〉の概念に近いもの。畏るべきものであり、慎むべき不安でもあった根源の力。

>>天照大神之子正哉吾勝勝速日天忍穗耳尊、娶高皇産靈尊之女𣑥幡千千姬、生天津彥彥火瓊瓊杵尊。故、皇祖高皇産靈尊、特鍾憐愛、以崇養焉、遂欲立皇孫天津彥彥火瓊瓊杵尊、以爲葦原中國之主。然、彼地多有螢火光神及蠅聲邪神、復有草木咸能言語。故、高皇産靈尊、召集八十諸神而問之曰「吾、欲令撥平葦原中國之邪鬼。當遣誰者宜也。惟爾諸神、勿隱所知。」僉曰「天穗日命、是神之傑也。可不試歟。」於是、俯順衆言、卽以天穗日命往平之、然此神侫媚於大己貴神、比及三年、尚不報聞。故、仍遣其子大背飯三熊之大人大人、此云于志、亦名武三熊之大人。此亦還順其父、遂不報聞。(「神代記」下 http://www.seisaku.bz/nihonshoki/shoki_0...

・他の『日本書紀』の「鬼」字について(⇔『古事記』がまったくこの文字を捨てている)「強い民族意識を表だてつつ、討伐の記事にみちている『日本書紀』が、誅されるべき運命に対して結果論的に〈鬼〉字をあてたことは、日本に定着せしめられつつあった初期的な鬼の概念をものがたるものでもある。」
-「山に邪しき神あり、郊(のち)に姦(かだま)しき鬼あり」(「景行紀」)鬼は邪神と対を為す同系のもの。
-「諸(もろもろ)の順(まつろ)はぬ鬼神(かみ)を誅(つみな)ひ」「かみ」は先住者の国つ神たちだが、邪神と「おに」は近似したものと考えられていたためまとめて訓じられた。
-「十二月に、越国(こしのくに)言さく、佐渡嶋の北の御名部の碕岸(さき)に、粛慎人(みしはせのひと)有りて、一船舶(ひとふな)に乗りて淹留(とどま)る。春夏捕魚(すなどり)して食(くらひもの)に充(あ)つ。彼(そ)の嶋の人、人に非ずと言す。亦鬼魅(おに)なりと言して、敢て近づかず」(欽明天皇五年)→阿部比羅夫の北方遠征(粛慎人の討伐)アイヌとも、ツングースであるとも推測され、虜囚の異風から受ける印象や、比羅夫の報告話などによって獰猛果敢な蛮族の印象が定着していた。忌避すべき鬼のイメージは、辺境異風の蛮族としての側面を加えつつあった。
-「朝倉山の上に、鬼有りて、大笠を着て、喪の儀(よそほひ)を臨み視る」(「斉明紀」斉明朝の政治そのものへの危惧や疑問、躊躇などの負の心性が影響。
>>秋七月甲午朔丁巳、天皇崩于朝倉宮。八月甲子朔、皇太子奉徙天皇喪、還至磐瀬宮。是夕於朝倉山上有鬼、着大笠臨視喪儀、衆皆嗟怪。

・『万葉集』の「鬼」
-「大夫(ますらを)や片恋せむと嘆けども鬼(しこ)の益らをなほ恋ひにけり」(『萬葉集』巻二、一一七番歌)鬼の面貌が「醜」(「予母都志許売/古事記」「泉津醜女/日本書紀」)につながることが、一般的な訓を導き出しており、中国的な〈鬼〉の概念がすでに広く流入していたことを思わせる。
-「生録未だ半ならず、鬼の為に枉殺せられ、顔色壮年にして病の為に横困せらるるをや」(『萬葉集』山上憶良「痾(あ)に沈みて自ら哀ぶ文」)抗すべからざる死病の苦しみに鬼の力を感じている

・早期の日本文学(上代文学)にあらわれた鬼の六例:(1)異形のもの(醜なるもの・体の部分のそこなわれたもの)(2)形をなさぬ感覚的な存在や力(〈もの〉と呼ばれた力)(3)神と対をなす力をもつもの(邪しき神、姦しき鬼)(4)辺上異邦の人(異風の蝦夷や粛慎人、荒々しい性格と体躯のちがい等)(5)笠に隠れて視るもの(朝倉山より喪を視る鬼)(6)死の国へみちびく力(鬼のために枉殺せられ)←中国の「鬼」とは?

◎鬼の面貌
・「鬼」字はまさにみにくい面貌に関する象形文字であるという説(cf.貝塚茂樹『神々の誕生』、永沢要二『鬼の正体』)
-『説文解字』(許慎/後漢和帝永元十二年、AD100)の象形文字説
「鬼」字は「人」「甶」「ム」の三つからなる。
「ム」「金文」には字がないために、後世になって付け足された音を示す符号である。
「甶」鬼頭の象徴である。鬼頭とは、貝塚説では「のっぺらぼうの、目鼻もないようなもの」であり、加藤常賢説では「死者の頭部に似せて長毛をつけ、さらに臂(ひじ)をつけた形」である。「子」の籀文の意の一つ。
「儿」鬼頭を蒙(こうむ)った子どもが足をまげて坐っている姿とも人が跔っている姿とも言われている。鬼頭は招魂の儀の主役として坐した少年の蒙る死者の面で、それに魂が寄り来ることが「帰」。cf.朱駿声『説文通訓定声』「人帰ストコロ鬼トナス」「鬼ハ帰ナリ」
-加藤常賢『漢字の起源』形声文字説
「ム」は「シ」の音をもち「賊害」の意をもっている。この部のない字は「甶」のシ音を持つ声符を併せた形声文字。「儿」は「仁人」、句僂(くる)人のことだが、それに似せた祭祀の中の人)のこと。「甶」は唐韻で「フツ」といい、神頭のことを言う音借字。「鬼」の唐音は「キ」だが、古音は「シ」であった。字義は、人が死者の鬼頭を蒙って、しゃがんで神の座にいる意味。鬼頭は死者の東部なので、死者をも「鬼」というようになった。
=「鬼」字は招魂によって帰ってくる死者の魂。「シ」(「死」「漸」風葬によって白骨になった「水つきる」状態)を迎えた人物の「魂」(「云」は「雲」)は上昇してうしなわれ、「魄」(「白」は「晒された状態」)のみがのこった躯となる。この躯は、いつの日かふたたびもどってきた「魂」のよりどころとして祭祀をうける。「魄」を祀られぬ魂が、永遠に場所をうしなってさすらう様に悲怨の鬼が想定されていく。

◎西行人を造る 高野の西行に、真言密教の秘儀を付会した、中国の招魂の原型を残す話。
・『撰集抄』「西行高野奥に於いて人を造る事」…招魂の儀がさらに進められた密教的反魂の術の秘話。西行は花月の情をわきまえた友を欲するばかりに、昔聞いた荒野の鬼が人を骨から復元するという話をたよりに人を造ることにした。月明りをたよりに死人の骨を集め、頭から手足まで元通りに並べ、砒霜という薬を塗る。苺とはこべの葉をもみ合わせた汁を与え、藤づる、糸などで骨をつなぎ合わせる。それから骨骸を何度も水で清め、髪の生えるべきところにはさいかしの葉とむくげの葉を焼いて取り付ける。土の上に新しい畳ござを敷き、風雨を避けて動かぬように半月おく。そして沈香を焚き、反魂術を行う。術は失敗し、西行はそれを遺棄して己の浅はかさを悔いた。

3 造形化のなかの鬼

◎〈おに〉の訓を得た〈鬼〉字

・「鬼」字の訓は「もの」「かみ」「しこ」「おに」など様々で、「おに」に落ち着くまでは時間がかかった。平安末におよぶまで「もの」「おに」と二様に読まれていた。
-『日本霊異記』「若汝記鬼耶」(もし、汝ものにくるへるか)
-『今昔物語』「もし鬼(もの)のつきたるか」

・「もの」明瞭な形をともなわぬ感覚的な霊の世界の呼び名。「もののけ」「ものおそろし」「ものすごし」。深層心理に眠る原始的な不安や畏怖感に導き出された幻影。
「おに」目に見えなくとも実在感のある、実体の感じられる対象に向けての呼び名。しだいに形象化され、憎悪と不安のなかに、なぜか不思議な期待を持たれつつ成長し「かみ」と「おに」の体系の分離が行われていく。

・大笠に身を隠した鬼のイメージ(古い民俗学の鬼の形)。なお神性の名残がある。
cf.折口信夫『夏の祭』「此の群行の神は皆蓑を来て、笠に顔を隠していた。謂はば昔考へたおにの姿なのである」(蓑笠による体の隠蔽が鬼にも神にも共通の条件であった)
-『躬恒集』「師走のつごもりのよるの鬼を 鬼すらも都の内と蓑笠をぬぎてや今宵人にみゆらん」〈まれびと〉的祖霊であり、三番叟(さんばそう)的地霊に対応する翁的役割の祖霊のすがたである。後年の「追儺の鬼」とは異なる。

◎造形化される鬼…兇悪な威嚇の表情をもちはじめる所以
・語呂合わせ的俗説「鬼門(艮)に居坐するため」
陰陽道では艮の隅(東北)を魔神の出入りする方向とする。畏敬や祭祀の対象となり得ない死者の魂のゆきどころである。これは鬼星のある方向で、〈鬼北〉と称する風の吹く方向である。この艮の方向を、牛と虎の要素から造形されてゆく鬼の塑像の原因にあてた。祀られぬ魂が存在する方角については二論ある。
-艮(うしとら)すなわち東北の方にあつまっていると考える東方説
-西北天 西にむかって招魂するので西北にいると考える西方説
cf.阿部主計『妖怪学入門』太陽神崇拝の思想から考えると、陽気を育てる春の太陽は東から昇り、これと争う地霊は西の海へ追落される。江戸時代まで季節の分かれ目に行われた厄払いも、すべて西の海へさらりと払う唄をもっていた。
cf.『歳時記』「鬼市」「務本坊西門鬼市、或風雨曛晦(ケンカイ)、皆聞其嘯聚(ショウジュ)之声」
・角つきの獣皮をまとう者が持つ圧倒的な力への空想
『山海経』には獣皮をまとった山の主神がかぎりなくあらわれる。これは山の主神としての威厳を保った扮装であった。(Cf.貝塚茂樹『神々の誕生』)山に棲んでいる獣と神との区別が形の上から明瞭でなく、祭祀は主神の好む獣の毛色をえらんで供するのがその礼であった。
-『応神紀』諸県君牛(もろがたのきみうし)の逸話(角つきの鹿皮を来た部下と船で海に出る)

◎『山海経』の影響
・『山海経』の神がみ…「西山経」地方の山やまで、崑崙山を中心とした異郷思想があらわれている。竜蛇・鳥・牛・馬・未・虎・豹・豕(いのこ)、それに角を戴くという扮装を組み合わせたもの。
-簡潔に記されたもの。「竜身鳥首」「人面蛇身」「馬身人面」「馬身竜首」など。
-不自由な神状。「人面牛身四足而一臂(ひじ)操杖以行」
-槐江之山の天神。「其状如牛而八足二首馬尾其音如勃皇」
-崑崙の丘の神。「虎身而八尾人面而虎爪」
-西王母。玉の髪飾りをしている。「其状如人豹尾歯而嘯蓬髪戴勝」
-天山の渾敦。「六足四翼」「無面目」←面貌のそこなわれていること。
-剛山の夔(き)。「獣身一足一手」
そこなわれた面貌や、不具な体に、苦渋にみちた底知れない神の力と知恵を感じ、敬虔な想いを広げていった精神史の一端。鬼や神は「容姿端正(かほかたちきらきらし)」きことと、「醜(しこ)」なることとが、表裏一体をなす条件として考えられた。
-魃(ばつ)黄帝の逆臣蚩尤(しゆう)が叛いて兵を催したとき、風伯・雨師を招いて大暴風雨をおこしたので、青衣の女人・魃に命じてそれを止めさせ、討伐を完了した。しかし魃は天上に帰れなくなり、大旱して人々を逆に苦しめることになったため、叔均という賢臣が奏上して、僻地赤水の北方に置くことになった。(「大荒北経」)
・鬼は群聚するものではない←祀られず慰められなかった死者の心は飢えており、それが怨みや憤りに転化した。鬼は常に孤独であり、時には孤高ですらある。
-百鬼夜行 天台密教の汎仏思想に誘発されたもの畳む